第2話 記憶と日常
これまでに、人が光りに包まれる光景を見たのは2回だけだ。小学校に入って間もなくのころ、母方の祖母に亡くなる前に会ったときだった。彼女はとても美しく光っていた。錯覚かと思ったりもして、そのまま忘れてしまっていた。祖母が私に看護師が向いていると言ってくれていたことを思い出した。何でこのことを忘れていたのだろう。
一番強烈に心に残っている人は、大学生時代にゼミと卒論論文でお世話になった荒木教授だ。過去形になってしまうのは、すでに逝去されているからである。専門学校を卒業し看護師として5年ほど働いてから社会人枠で受験した大学では文学部心理学科を専攻した。看護師を続けるかどうか、それとも進路を変更して臨床心理士になるかどうか悩んでいたからである。
実際の大学での講義では、臨床心理学が如何に曖昧な学問であるかを痛感することが多く、遂には臨床心理士になることを断念してしまって現在に至るのであるが、その原因の一つがこの教授の逝去であった。
スクールカウンセラーとしても尊敬していた荒木教授がもし元気でおられたら、私は大学院に進学し臨床心理士を目指していたかもしれない。看護師としての今後の進路に悩み、患者の心理を理解する一助となればと思って学んだ学問であったが、入学して早々に人の気持ちなどそんなに簡単に理解できるものではないという点だけは納得出来た。ならばいっそ看護師を辞めて、臨床心理学を極めて臨床心理士になるという道もあるかと思いもした。
そんな折に前評判だけを聞いて講義を一度も聴講したこともないまま選択必修のゼミを荒木教授に決めたのは、3年生になる前の春だった。同じ頃、広い大学の校舎と校舎の間にある小道で私は二人と偶然すれ違った。
荒木教授と桜井寛人君だった。春の心地よい風と光に二人は包まれていて、輝いて見えた。荒木教授から発する光の輝きは、身体の内側から発光しているのではないかと思うくらい眩かった。
3年生になってからの選択必修ゼミも演習も講義も、本当に楽しかった。講義にはその方の人柄が現れると常日頃思うのだが、荒木教授の教育の骨幹には、相手の気持ちに丁寧に関わる優しさと繊細な感性、大人の判断と子どもの無邪気な探求心があった。高名な教授に対して気が合うという言い方は不遜であるが、この時確かにそう感じた。
卒論を誰に担当してもらうかについては、荒木教授しか思い浮かばなかった。私の卒論は社会人らしい突飛な疑問を根底にした質問紙調査であったが、荒木教授は微笑を浮かべ「面白そうだね。いいと思うよ。」と賛同してくれた。私は粛々とアンケート調査とその統計処理を行い、いよいよ結論から考察をと悩んでいるときに、荒木教授が体調を崩して長期休暇を取られたことを他の教授から伺った。人が光り輝いて見えるときの意味が何となく分かったような気がした。
その光りの記憶とともに私の将来を決めた荒木教授の言葉が残っている。教授が休む数日前だった。
「私の娘が看護師になりたいって今年大学を受験するのですよ。卒業したら、貴方と同じ看護師さんになるのだなって思うと何だか嬉しくてね。」
光り輝く荒木教授がこう話して下さっている姿を見て、私はやはり看護師に戻ろうと思った。
私の子どもは3人とも桜井君の子どもだ。同じように社会人で大学生だった桜井君と出会ったのは、入学して間もなくであったが、当初の印象は薄く、あまり関わりを持つことはなかった。深い話をするようになったのは3年生の選択必修科目として取った荒木教授のゼミからであった。
グループ学習をする中で、10歳以上も下の現役学生と関わるよりも、社会人経験もある同年代の人と話すほうが気楽でもあり、研究する分野の方向性が近いこともあり、話題に欠くことがなかった。荒木教授が桜井君をよく褒めているのも気になった理由の一つかもしれない。
何度となくお互いの家を行き来し、いつの間にか同棲を始めていた私たちは大学の卒業とともに入籍し、翌年に初めての子どもを授かった。私が30歳、彼は32歳だった。
それまでに付き合った男性は何人かいたが、結婚を意識した人は桜井君が初めてだった。彼との子どもが欲しいと考えた夜に、リアルな夢を見たことを覚えている。幼い子ども3人と私たち夫婦が仲良く手をつないで並木道を歩いて…。
「お母さん、危ないよ。包丁…。ほら」
高校2年生の長女が隣で私の手に触れている。日勤の勤務を終えて、自宅で夕飯を作りながら『光る人』のことを考えて、手元が疎かになってしまっていた。いつも手伝いをしてくれる光莉が怪訝そうな表情で私を見つめている。豚肉を焼き加減を気にしつつ、豆腐と薄あげが入った味噌汁用の鍋に味噌を溶かしながら少し笑っている。その脇には、ワカメが刻まれて鍋が少し沸騰するのを待っている。
「今日のお母さん、少し変よ。何だかボーっと考え事をしていて…。職場で何か問題でもあったの?」
「あったといえばあったけど、聞きたい?」
「事故とか怪我とかの怖い話じゃなきゃ、聞くけど…。」
光莉は、看護師の仕事というか救急外来の仕事内容を聞くのが好きじゃない。怪我とか血とかが怖いのである。将来は絶対医療とは関係ない仕事に就きたいと常日頃から言っている。イラストを描くのが好きなので、その方向に行くのかと思っていたが本人曰く「一生を捧げるほどの才能も意欲もない」程度なのだそうだ。クリエイティブな職業も面白そうだと思うのだが、安定していないのがだめらしい。国家公務員を本気で目指しているようだ。大学から大学院へ進み、どこかの安定した国家公務員になりたいらしい。
「今日ね、職場にとっても格好いい男性が来たのよ。それを思い出していて…。ほんとスタイルが良くて、顔も整っていて、眼福でした。」
「いいなあ。高校には格好いい人なんていないし…。」
かっこいい人の定義を女性目線で考えると、どういう結論となるかを談義してから、話題を変えた。
「…光莉は、人が『光り輝いて』見えたことって、あの時だけだっけ?」
「…。小さい頃のことだし、あんまり覚えていないけど。お父さんが事故に合う前に見えたのだけだよ。お母さん、最近見えたの?」
「お父さんの時って、どんな『光り』だったっけ?」
「うーん。何度も話したけど、一度も見たことがない『光り』だったのよね。内側から『光』るっていうか、『光り輝く』っていうか…。お父さんが電球を飲み込んだのではないかって本気で思って、何度も口の中を覗いたのも覚えているよ。不思議だったな。お母さん、何か見たの?」
光莉に何と言って返してよいか分からなかった。看護師として働く私は、事故や病気によって死を迎える方に関わる仕事であるがゆえに、普通の人よりも『人の死』に近い環境にいる。しかし、病院に来られた患者さんたちの中で、身体の内側から『光り輝く』ような人にお会いしたことは、これまでにはなかった。それなのに、どうして今日は見たのだろう。あの人は誰だったのだろう。
夕飯の準備が終わる頃、長男の滉一と次男の捷人が一緒に帰宅した。滉一は公立の医学部2年生に進級したばかり、捷人は高校生になったところで、最近特に仲が良い。滉一は、大学に入ってからの2年間は演習や病院実習がない分、バイトに精を出し自分の小遣いを欲しいだけ稼いでいる。捷人はバイトができないため、滉一からお小遣いを少し融通してもらっているようだ。見返りはなんだろう、見当がつかない。
夕飯は家族4人でできるだけ一緒に食べるようにしている。朝食や昼食はそれぞれの起床時間や学校等の関係から調整が難しいが、夕飯だけは私が夜勤をしていても3人でできるだけ一緒に食べているらしい。
「それでは、皆さんご一緒に!いただきます。」
4人で手を合わせて合掌してから食事を始める。この挨拶は、子どもたちが保育園に入ったときに覚えてきてから、ずっと我が家では続けている。
「お兄ちゃん、きょうは学校どうだった?」
「ふつう。いつものおもろい人はおもろいし、単位落としそうな人はやっぱり勉強してないね。夏休みは、バイト増やそうかな…。」
「そんな感じで大丈夫なの?単位とか落として留年とか、ないよね?…。」
「医学生が勉強漬けなんて、幻想だよ。みんな手を抜きたいって思っている。でも留年も恥ずいから、落とさない程度にはやるよ。」
「ま、同じ医療者としては、患者を殺さない程度には知識は蓄えておいて欲しいものですが。」
「それは当たり前じゃない?人の命に対しては真摯でありたいと思っているよ。例えどんな人であってもね。よく、殺人犯を助けるかどうかって話題になるけど、やっぱりその時に医師としてその現場にいたら、助けるって俺は思うよ。それが医師でしょ?」
熱く語るが、すぐに話題を変えてしまう。
「今、生物やっているのだけど、難しいね。全文英語なんだよね。生命の誕生について、読み進んでいるけど、女性の身体の中で、何万回も細胞分裂して成長して人間になっていくんだよね。すごいよね。それを外から全部見てみたいな。」
「何?人工子宮って感じなの?」
「イメージとしてはね。だって子ども産む人減っているでしょう?いい案だと思うんだ。ほら、出産って女性にとっては、とても負担でしょ?子育ても大変だけど、産むまでお腹に置いて、仕事とか生活全般が大変になるじゃない。だから、妊娠から出産までは医療で補助するっていうもありかと思うんだ。出産が管理されれば、育児状況の把握も簡単だし、ネグレクトとか育児放棄にもすぐに対応できるんじゃない?」」
「少子高齢化への対応策ですか?」
「今は、子どもは生まれないのに、老人ばかりが増えていく。」
「いや、戦後と違って昭和終盤の世代は長生きしないかもよ。不摂生な生活をする人が多いし。」
「お母さんには長生きして欲しいと思っているよ。」
「ま、出来る限り善処致しますが、こればっかりはね。そうそう、今日のご飯の豚肉は光莉の味付けだったのだけど、どうかな?」
話が長くなりそうだから、無理やり話題を変えて夕飯を済ませた。
子ども達にははっきり言っていないが、私は長生きしないという予感がある。自分の両親に対しても『あまり長生きはしないだろう』と感じていた。
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