チャイナ・シンドローム
依頼を受諾した日本の無線局主任、野沢隊員は、さっそくセルゲイ教授が指名したメンバーを召喚した。その間、教授は医務室で準備を整えていた。
セルゲイの客人たちはまずはそこに招待されて、防菌用の袋に包まれた枯れたポトスとシベリアン・ハスキーの死骸、フランス人隊員の遺体と、隔離病室のベッドに横たわるハンスに対面することになった。それから、セルゲイが手早く編集したという映像や画像をスクリーンに投影したものを交えた講義を静聴させられたのだった。
一時間ほど後には、数人の白衣や軍服の人物たちが会議室に招集され、イヤホンマイクを嵌めて大きなテーブルを囲み、席に着いていた。セルゲイ博士を中心に、ベルト大佐にアネリ博士、エッカート、野沢、そして五つの国の管理棟司令官である。
しかし誰もが、しばらくは沈痛な面持ちで口を閉ざしたままだった。
「……そんなわけないわ!」あるとき、ついに耐え切れなくなったようにリサ・アネリがわめき、テーブルを拳で叩いた。「B-46が動物と植物の両方に感染する新種の病原体だなんて、わたしが調べたときには間違いなく無害だったはずです!」
「コッホの原則は満たしたと論究したはずです」
B-46に病原性があると首唱したセルゲイの反論に、リサは唇を噛んだ。
アメリカのリサ・アネリ博士が発見したばかりのこのバクテリアは、まだ他国の研究機関には資料しか渡っておらず、地上にあるはずのないものなのだ。
「おそらく病原性のB-46は、最近生まれたものでしょう」セルゲイは、正面にある資料映像投影用のスクリーンの前で明言した。「こうした微生物は、紫外線でも照射されれば突然変異しますから」
「厳重に管理していたはずじゃないのか」
すぐ近くに座るベルト大佐が、疑問の声を上げた。
セルゲイからは最も離れたところにいるドイツ人が、身体を畏縮させる。この垂れ眉の男は、ハンスと一緒にB-46を運搬したエッカートだった。セルゲイはそれを視界の端に意識しながら、ベルトに対向した。
「南極にはオゾンホールがあります。B-46は、数千メートルの氷の下で百万年前の環境に暮らしていたバクテリアだ。宇宙から降り注ぐ大量の紫外線を浴びたら、危険なものに変異してもおかしくありません」
成層圏のオゾン層は、太陽からの有害な紫外線の多くを吸収し、生態系を保護する役割を果たしているが、極地方で濃度が減少することがある。南極上空に顕著な現象、オゾンホールだ。
フロンやハロンがこうした環境破壊を促進すると提唱されてから人類はそれらの排出を制限していたが、未だホールの規模は年々拡大していた。
セルゲイは続ける。
「実はわたしは偶然、隊員がB-46を表で運搬し、転んで落とすところを目撃したのです。この件がわかってから気になって貯蔵庫を点検してみたのですが、アンプルにはひびが入っていました」
言いながらセルゲイがエッカートへと視線を浴びせると、みなもそちらに集中した。
「なんだと」エッカートの隣りにいたちょび髭の小兵が、不甲斐ない部下に怒りをぶつけた。「あれほど連結通路で運べと言ったのに。しかも黙っていたのか!」
彼はドイツの管理棟司令官だった。エッカートは青ざめて小さくなり、懺悔した。
「すみません、こんな事態になるとは……」
「責めても仕方ありません、半分は事故だ。B-46の変化など誰にも予測できなかったでしょう」
そうセルゲイはたしなめたが、エッカートへの環視の目は冷たかった。
室内の様子を尻目に、セルゲイは語った。
「おそらくB-46は、体液を介して飛沫感染するのでしょう。まずはアンプルを拾ったハンス氏が感染。彼は犬たちとよく遊んでいて舐められたりしていたそうです。死亡したアンリ隊員は犬に嫌われており、昨日噛まれていました。植物のほうは、もともとハンス氏が趣味で栽培していた観葉植物でした。かつて彼は誤って鉢を割ってしまい、葉を傷つけており、そこから細菌が入ったものと想像できます。その植物は、本日の朝になって彼を見舞いにいったわたしに、お礼としてハンス氏がくれたものでした。彼が病気を移すことを警戒して遠くにいてくれたためか、幸い、わたしは感染していませんでしたが」
「……危険性はどのくらいだ?」
不吉な予感を抱きながら、目付きが鋭い長身の年配男性が尋ねた。アメリカの管理棟司令官、プランケット提督である。
セルゲイ博士は深刻な表情で総括を述べた。
「病原菌が発生したと推定される時刻から、感染者は二十四時間以内に死亡しており、ラットならもっと早い。ハンス氏は無事ですが、それでも一日は経っておらず、病状は芳しくありません。現時点でリスクグループ4、レベル4のバイオハザードでしょう。短期間での突然変異は持続している模様で、被害は拡大するかもしれない」
「まだ変異を?」
「そこがB-46の極めて稀な特徴です。もはや進化だ」
プランケット提督が衝撃を受けて言葉を失うと、提督と対面する位置にいる鼻の横にイボのある巨漢が言った。
「そんなに凄いのか」
ロシア管理棟司令官だった。セルゲイは上官に向かって頷いた。
「はい、おそらくオゾンホールによる紫外線だけが要因ではないでしょう。百万年前の、隔離された湖で生存していた微生物です、地上に出ただけで、多大な影響を受けているのではないかと。さらに悪いことにこの真正細菌は、伝染して世代を経るごとに危険性を増しているようです。個人差もあるでしょうが、最初の感染者であろうハンス氏がまだ存命なのは、このためかもしれません。数世代を経たB-46を注射されたラットが直後に死んだのは、資料映像でご覧になられたでしょう」
「だが宿主をすぐに殺すのは、病原菌にとっても不利益になるはず」
「確かに、初期に殺傷力が強かった病原菌でも、年月を経ると症状を穏やかにしていくことはありますが、B-46は異なる方法で問題を解決しているようです。あの実験でも、ケース内にいたラットはバクテリアを注入されたもの以外も、ごく短い間に死滅しました」
日本管理棟司令官である、眼鏡を掛けた猫背の男が口を開いた。
「ひょっとして、感染力も……」
「そうです」セルゲイは両手を胸元で組んで、祈るようなポーズをした。「あれはもはや飛沫感染ではありません。接触感染、もしくは空気感染でしょう。B-46は猛毒で宿主をすぐに殺してしまう欠点を補うため、感染力も強化しているようです」
会議参加者たちは怯えたように空間を見回し、口や鼻に手を当てる者までいた。
「心配はありません」取り繕った明るさで、セルゲイは言った。「現状特定されている自然に感染した者は、全て飛沫感染の段階です。感染経路が変化したのは、ラットの実験による数段階あとのものですから。また、病原体自体や感染者は病室ごと隔離しました。抗菌も万全かと思われますが、見過ごしているものもあるかもしれません。メガラニア全域は調査しきれませんので、速やかに大々的な検査と、滅菌作業を実行するべきだと提案します」
カルビン・ベルト大佐は息を呑んだ。暖房があるものの極寒の地においては想定もしていなかったほどの汗が、膝の上で握り締めた彼の拳を濡らしていた。
重役たちがざわめきだすと、大佐はセルゲイへと囁いた。
「原子力発電棟における臨界事故の避難訓練に従って、退避命令を出すべきだと提言しておいてくれ。わたしは少々席をはずさせてもらう、考えたいんだ」
「……はい」
ロシアの教授が返事をすると、ベルト大佐はプランケット提督にも承諾を得て、重たい足取りで座を外した。
扉を出たカルビン・ベルトは、室内よりやや寒い廊下に踏み出すと、後ろ手にドアを閉めた。これからのことについて議論する人々の声が、微かな雑音となる。
それから彼はウェアラブル機器の無線機で、特定人物にのみ繋がる
「こちらカルビン・ベルト。〝チャイナ・シンドローム警報〟を発令する」
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