第79話 78、停戦交渉

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 その夜、イスマイルはタワーマンションの居間でシークレットの報告を受けた。

乙女はイスマイルの横に座っていた。

「シークレット、ご苦労だったね。どうなった。」

「はい、イスマイル様。録音してありますからお聞きください。長くはありません。」

シークレットはそう言ってポシェットから録音機を取り出して再生した。

 再生が終わるとイスマイルは言った。

「シークレットがヘブライ語を話すことができるとは知らなかった。僕はペルシャ語とアラビア語は話せるがヘブライ語は分からない。トルコの近くにイスラエルは無かったからね。乙女も分からない。外交官の父がヘブライ語を流暢に話せたことは知っているんだが、僕は父と同じような語学の才能がないんだ。通訳してくれないか。」

「はい、イスマイル様。」

そう言ってシークレットは会談の内容を日本語に変えて話した。

 「心優しい美人交渉人とは恐れ入ったな。シークレット、内容は分かった。これでいい。イスラエルは近々こちらの提案に応えるだろう。」

「シークレットさんがロボットだとは気がつかなかったみたいね」と乙女が言った。

「乙女奥様、それはやがて分かると思います。北鮮では重装甲ロボット兵が作戦に加わっております。その映像は世界に配信されております。装甲部分を除けばその体格は私の体格になります。装甲ロボット兵は飛翔できますからその兵士が人間とは違ってロボットだと推察できます。私がロボットであろうと推論することは容易です。さらに南シナ海での戦闘機の維持にはロボットが使われております。そのロボットは私と同じ顔立ちをしており女性の姿をしております。現在の偵察衛星は人間の顔を識別できます。その面からも私がロボットであると推論できます。」

「なるほど。そうね。そしてもっと驚くわけね。人間とそっくりだから。」

「ありがとうございます、奥様。」

 イスマイルは急に思いついたように言った。

「乙女さん、ここから引越ししようか。」

「えっ、なぜ。」

「ここは危険だよ。イスラエルは国土に執着している。人間はだれでもそうなんだろうけどイスラエルは特にね。このマンションはそのままにして川本研究所に移ろう。乙女さんは研究所から東大の研究室に通ってほしい。」

「まあそれでも問題は生じないわね。いいわ。そうしましょう。いつから。」

 「今からだ。乙女さんはとりあえず必要なものを準備して。細かいものはおいおい運べばいい。」

「了解。明日着るものだけを持っていくわ。最近は研究所に行ってないけど冷凍庫に食材はあるわね。」

「ぎっちり詰まっている。」

「了解、それじゃあ夜逃げしましょうか。」

「コソコソとね。」

「楽しそうね。」

「同感。」

 乙女は手早く自分とイスマイルの服をまとめ、いつも使っている旅行用トランクの代わりに引き出しの奥から大判の風呂敷を取り出し、大昔の夜逃げのように風呂敷に衣服を包んだ。

イスマイルと乙女は風呂敷を抱え、無言で辺りを気にしながら忍び足で地下駐車場のワンボックス車に向かった。

シークレットは楽しそうに笑顔で二人を先導した。

ワンボックス車が海上に出ると二人は我慢できなくなって爆発的な大笑いをした。

その夜、イスマイルと乙女は楽しい時を過ごした。

 翌朝はシークレットが乙女をワンボックス車で大学に送って行った。

乙女は4月から多倍体細胞生物講座の教授になっていた。

定年で退官する欧陽菲菲教授の後釜だ。

43歳の乙女はこれから22年間を教授として過ごすことになる。

その間の乙女の仕事の中には多倍体細胞生物講座の後継者を育てることが入っているらしい。

乙女は欧陽菲菲教授から頼まれたとイスマイルに言った。

講座開講120周年を祝うことは乙女の仕事になる。

 1週間後、イスマイルは日本国の外務省から電話連絡を受けた。

連絡には川本研究所の固定電話が使われ、留守録の途中でイスマイルが受けた。

イスマイルは外務省がイスマイルの携帯電話の番号を知っていることは知っていたが、外務省はイスマイルへの連絡に携帯電話を使わなかった。

イスマイルの知人以外がその番号を使うとイスマイルを敵にまわすとブラックリストのイスマイルの欄に注釈が付いていたのかもしれなかった。

 「もしもし、川本研究所でしょうか。私、外務省の大橋弥(おおはしわたる)次官の秘書の馬渕春子と申します。以前お電話したことがあります。」

「川本研究所のイルマズです。馬淵さんの声は覚えておりますよ。本当に川本研究所のイルマズで宜しいのですね。」

「失礼しました。できればアクアサンク海底国大使のイルマズ様に変わっていただけませんでしょうか。」

「変わりました。何ですか。」

「ありがとうございます。次官の大橋にかわります。」

 「・・・次官の大橋弥です。イスラエル大使館から仲介の要請を受けました。アロン・バーンシュタイン大使はアクアサンク海底国大使と面談したいそうです。お受けになりますか。」

「アクアサンク海底国大使と言ったのですか。」

「そう言いました。」

「アクアサンク海底国はテロリスト集団からを国家に格上げされたと言うことですかね。・・・いいですよ。お会いしましょう。日本国は関わらない方がいいですね。明日の午後、アクアサンク海底国大使館でお会いするとお伝えください。正午にイスラエル大使館に車でお迎えに行くと伝えてください。」

 「そう伝えます。会談の内容を私が知ることは可能でしょうか。」

「日本国にはお手数をおかけしました。後日、秘書のシークレットに内容を伝えさせます。」

「ありがとうございます。早速イスラエル大使と調整します。それでは失礼します。」

外務省からの電話は1時間後にあり、明日の会談は川本研究所で行われることになった。

 翌日、シークレットは乙女を大学に送った後で研究所に戻り、ガラステラスに面する広い縁側に椅子とテーブルを出し、コーヒーの準備をしてから東京のイスラエル大使館にワンボックス車で行った。

ワンボックス車を正午にイスラエル大使館の前の路上に止めて助手席の窓を開けて門衛に日本語で言った。

「アクアサンク海底国からお迎えに来ました。アロン・バーンシュタイン大使はおいでですか。」

 門衛が中に伝える前に大使館の扉が開き大使が数人の護衛と共に出て来た。

アロン・バーンシュタイン大使はワンボックス車に近寄り、運転席のシークレットを見て安心したようにヘブライ語で言った。

「シークレットさん。今日は交渉人ではなく運転手ですか。」

「こんにちわ、バーンシュタイン閣下。どうぞサイドドアからお入りください。通訳の方の同行は認めます。その他の方達はついてこられたらどうぞ。」

 大使と護衛兼通訳の男性がワンボックス車に入り、男性がサイドドアを閉めた。

「閣下、この車にはシートベルトはありませんが、安全運転で行きます。ご安心ください。」

「よろしくお願いします、シークレットさん。ところでこの車のバンパーはすごいですね。色々な国の外交官ナンバープレートが着いております。」

「新婚旅行でイスマイル様がお着けになったと聞いております。それでは出発します。少しスピードを出しますから20分ほどで到着する予定です。」

 シークレットはワンボックス車を真上に1000mまで上昇させ、西南西に向けてワンボックス車としては高速で進めた。

もちろん、大使の護衛達が乗っていた車はついてくることができなかった。

 「シークレットさん、この車も空中を飛べるのですか。」

「はい、閣下。アクアサンク海底国の戦闘機と同じ原理で重力遮断をしております。イスラエル国はそれを知っているはずです。」

「そうでしたな。知っていることと実際に体験することは違うものですね。」

「私もそう思います。体験は重要です。」

 ワンボックス車は川本研究所の真上で止まり、降下して川本研究所のガラステラスの入り口の前に着地した。

日常は上空を警備して居た重装甲ロボット兵は視界から消えていた。

シークレットは運転席から降り、ワンボックス車のサイドドアを開いて言った。

「ようこそアクアサンク海底国大使館に、閣下。」

「静岡の川本研究所ですね、シークレットさん。」

「はいそうです、閣下。ここは新しく造った研究所だそうです。以前の研究所は爆破され、中華人民共和国に建て替えてもらったそうです。」

「存じております。19年も前のことですね。その前の研究所では川本五郎氏が遺憾砲をお作りになったと聞いております。100年前のことです。」

 シークレットは大使達をガラステラスの中に導き、イスマイルが待っている縁側の椅子に座らせた。

「よくいらっしゃいました、アロン・バーンシュタインイスラエル国大使。アクアサンク海底国大使のイスマイル・イルマズです。私はヘブライ語はダメなので英語でいいですか。」

イスマイルは英語でそう言って椅子から立ち上がり、右手を差し出した。

「会談をお受けいただきありがとうございます。アロン・バーンシュタインです。」

バーンシュタイン大使も立ち上がり右手を差し出して握手した。

 シークレットがコーヒーを淹れるためにいなくなるとバーンシュタイン大使が言った。

「シークレットさんはお綺麗な方ですね。お若いのにヘブライ語まで堪能です。」

「そうですね。私もシークレットが何ヶ国語を話せるのか知らないのです。」

「以前、ここにお住まいだった川本五郎氏は数十ヶ国語を流暢に話すことができたそうですね。」

「はい、私も川本五郎の伝記を読みました。外国語を学ぶためには音も含めた写真的記憶力が必要なようですね。」

 「そのようですね。イスラエル国は川本五郎氏には海よりも深い恩を受けております。イスラエル国が朝鮮半島に移国できたのは川本五郎氏のご尽力があったためです。」

 その時、シークレットがお盆にコーヒーとポットを載せて戻って来た。

「さて、心優しい美人交渉人が来たようです。停戦交渉に入りましょうか。」

『心優しい美人交渉人』の言葉はイスマイルが前回の会談の内容を聞いているという意味だった。

 「はい、シークレットさんの提案を本国と相談しました。現状ではイスラエル国はグリーン戦闘機隊の兵糧攻めには手も足も出せない状況です。大統領も首相も空腹には耐えきれないようでした。今では餓死者が出ても埋葬しようとする者もいないそうです。互いに相手が死ぬのを待っているのです。筋肉のなくなった死者を解体し、わずかに残った人肉を食べるのです。大脳は人気のようです。野草を採って空腹を満たそうとしても、それさえ緑の戦闘機は許してくれません。水は井戸があるので大丈夫のようです。」

 「昔から兵糧攻めは地獄だそうですね。」

「このまま続けばイスラエル国の住民は数週間で大部分が死に、数年経てば全員が死ぬことになります。イスラエル国はシークレットさんのご提案をお受けしようと思います。どうでしょうか。」

「いいですよ。そうしましょう。明日の0時から国道1号線の封鎖を一方通行の条件で解除させます。乗用車を使ってもOKです。それでいいですか。」

「ありがとうございます。それで十分です。賠償金はいかほどご用意したらいいでしょうか。」

 「賠償金ですか。・・・シークレット、どうしたらいいかな。僕は外交官ではないからね。」

「イスマイル様の思う通りになされたらいいと思います。」

「・・・大使、賠償金は2002円です。アクアサンク海底国の銀行口座を開きますからそこに振り込んでください。」

「あのー、たったの2002円ですか。」

「そうです。今回働いたのはグリーン大隊で司令官は一人、兵士は2001人です。グリーン大隊は傭兵大隊ですから報酬が必要だと思いました。また、賠償金無しではかえって問題が生じます。2002円の賠償金をいただきます。」

「分かりました。口座ができましたらお知らせください。お振り込みいたします。」

 「これで停戦交渉は一応終了ですね。」

「あのー、残った北鮮の土地はどうなるのでしょうか」

「無人のままになると思います。買い手が見つかるまでこのままです。『売物件、お気軽にお問い合わせ下さい。連絡先:アクアサンク海底国』って書いた看板を境界に立てておきましょう。」

「アクアサンク海底国の領地になるのですか。」

 「そうです。でもアクアサンク海底国はその土地を使用しません。管理するだけです。アロン・バーンシュタイン大使、この地球で一つの国を作ることができるほどの広さの空き地があることは便利なことだと思いませんか。200年前、イスラエル国がアラブ諸国からの核攻撃で破滅寸前になった時、イスラエル国にとっては幸運なことに核攻撃されて人が居なくなった朝鮮民主主義人民共和国があったのです。僥倖でした。空き地があったから移国できたのです。世界には空き地が必要なのかもしれません。・・・アロン・バーンシュタイン大使、イスラエル国はこれで借りを返したとも言えます。南鮮を併合したことはイスラエル国の努力策謀の結晶です。大韓民国国民は同意してイスラエル国になりました。それを機会にしてこれまで一時的に借りて居た北鮮を世界にお返ししたと発想転換することはどうでしょうか。」

 「なるほど、合理的な考えですね。一時的に借りて居た土地を返すのですね。」

「そう考えればイスラエル国の怒りは少し和らぐと思います。」

「怒りの緩和よりも世界に名分が立つということが重要だと思います。アクアサンク海底国の武力に屈服して国土を奪われたと言うのより、これまで無償で借りて居た北鮮の土地を世界に返したと言えることが重要だと思います。プライド、自尊心の問題です。」

「そうですね。返した土地は陸上の土地に興味を持たないアクアサンク海底国に管理をまかせたと言うわけですね。」

「その通りです。」

 「分かりました。アクアサンク海底国はこれまで通り何のコメントも発表しません。北鮮からの住民の移動が完了したらイスラエル国はコメントを発表してください。『借りて居た土地を返すことにした』です。」

「了解しました。」

「大使、停戦交渉終了です。・・・シークレット、大使達をお送りしてくれ。大使、これで失礼します。」

イスマイルはそう言って母屋の中に入って行ってしまった。

シークレットは大使達をワンボックス車に乗せ、東京のイスラエル大使館に送った。

 「アロン・バーンシュタイン閣下、交渉が進んで良かったですね。」

シークレットは車を運転しながら大使にヘブライ語で声をかけた。

「シークレットさんのおかげですよ。それにしてもイルマズ大使はお若く見えますね。」

「そう見えます。でもイスマイル様はもうすぐ140歳におなりになります。肉体的にはまだ23歳のお体です。」

「知っておりましたが、お会いして実感しました。」

「世の中には普通の人間とは違う人間がいるものですよ、閣下。異端の子ですね。」

「シークレットさんもその一人ですか。」

「そう言う人間だったら幸せですね。」


アクアサンク海底国哨戒範囲の図。

カクヨムでは表示できません。申し訳ありません。「みてみん」で「藤山千本」を検索して下さい。

表題は「戦闘機の哨戒範囲」でコードは以下です。

https://27752.mitemin.net/i437108/

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