第18話 17、イスマイルのマンション
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二日目の昼食の席で大向部長は皆に言った。
「食べながら聞いてくれ。今年も昨年行われたCDケース競技を午後の前半の練習が終わった後に行うことにする。1年目は知らないだろうから説明する。頭の上に空のCDケースを載せてワルツ、スローフォックストロット、タンゴ、クイックステップのルーチンシャドウを踊る。途中でケースを落とした者は失格だ。邪魔にならないようにケースを拾って壁に着け。今年は少し甘くしてやる。一曲が終わったらケースの位置を変えてもいい。ケースを最後まで落とさなかった者は合格だ。褒美は昨年と同じく夕食にアイスクリームを付ける。これは上体と首がふらつくかどうかのチェックになる。1年目にとっては自己チェックに便利だ。」
1年目には動揺が広がったが2年目以上は落ち着いていた。
当然するだろうと予想していたからだ。
イスマイルの横に座っていた大鈴井乙女はイスマイルに言った。
「面白い企画ね。去年の合格者はだれだったの。」
「4年目の秋山先輩と3年目の武川先輩と僕だった。」
「イスマイルさんはその頃から上手だったのね。」
「少し慎重に動いたんだ。」
「私もするのかしら。」
「当然、そうなると思う。」
「緊張するわね。」
午後の前半の練習が終わるとCDケース競技会が行われた。
大向部長は「武川先輩、昨年通り4年目からお手本をお願いします」と言った。
「去年、俺も同じことを秋山先輩に言ったが先輩から『皮肉っぽくなった』と言われたよ。OK、恥をかかないように頑張るか。」
4年目のペアは3組で、2組はペアが4年目同士であり1組が4年目の大顎淳と2年目の青石薫だった。
4年目のリーダー二人は最後までCDケースを落とさなかったが大顎淳はクイックステップで落としてしまった。
二人のパートナーはタンゴで落とし、青石薫は2曲目のスローフォックストロットで落としてしまった。
3年目のペアは5組で、3組のリーダーは最後のクイックステップで落としてしまったが大向部長ともう一人のリーダーは合格した。
3年目のパートナーは全員がタンゴで落としてしまった。
全員が同じ場所、顔の方向を反転させる時に落としてしまったのだ。
2年目のペアは4組で、イスマイルを除く3組のリーダーは3曲目のタンゴで落としてしまった。
大鈴井乙女を除く2年目のパートナーは青石薫と同じように2曲目のスローフォックストロットで落としてしまった。
イスマイルと大鈴井乙女は合格した。
1年目は最初の曲のワルツで全員がケースを落としてしまった。
結局、4年目の2名、3年目の2名、2年目の1名が合格したことになった。
大鈴井乙女は合格から除外された。
大鈴井乙女は部員ではなかったからだった。
イスマイルは夕食でご褒美のアイスクリームを大鈴井乙女にあげた。
他の合格者もアイスクリームを自分のパートナーにあげていた。
夕食後のひと時、イスマイルと乙女は校門の横に停めてあったイスマイルの自動車の後部トランクに腰掛けて夕焼けを見た。
防弾防爆仕様の自動車の頑丈な後部トランクは大きく平らで後部のバンパーが広いので足を乗せるのに便利だった。
しかもトランクは夕焼けの方向を向いていた。
「きれいね、イスマイルさん。」
「そうだね、乙女さん。」
「イスマイルさんの望みは何なの。」
「この空の上に行くことだよ。宇宙から地球を見ることが望みだ。」
「他人が作ったロケットに乗って見るのではなく自分の作ったロケットで見るのね。」
「そうだ。もうすぐ実現する。」
「動力は何なの。」
「そうだね。直接的には電気だけど考え方によって動力は変わるんだ。」
「考え方を変えてみてくれない。」
「いいよ。おおもとはウラン原子かな。原子炉で発電して電気を作る。電気は結晶を通して時間を変える。時間の変化は加速度を生じさせて宇宙船を動かす。だから動力はウラニウムであり電気であり時間なんだ。」
「後半が今研究していることと関係するのね。」
「研究所での研究は終わったよ。リチウム包摂カーボンナノチューブ単結晶は重力を遮断して加速度も生じさせた。青石薫さんが合宿でしているペンダントがそれだよ。丸い台座に5つの小さな単結晶が埋められている。トルコの職工に作らせてプレゼントしたものだ。あのペンダントは裏返すと浮くんだ。人間が乗っても絶対に下がらない。斜め上に持ち上げれば重力遮断は消えるからペンダントになる。もっと大きな単結晶のペンダントはうちの講座の中島美雪先生にプレゼントした。おそらく浮かぶペンダントは世界でその二つだよ。」
「イスマイルさんは優しいのね。大発見をペンダントにしてプレゼントするなんて。」
「構造は単純で原理も単純だ。いずれ誰かが考えて作るよ。そんなものがなければできるのはずっと先だろうけど、実際に浮くことができる現物があれば誰かが考える。考えればすぐできる。そんなものだよ。だから最初であることが賞賛される。」
「イスマイルさんはトルコで重力遮断装置を量産しているのね。」
「そうだ。重力遮断パネルだ。たくさん集まったら船に貼り付けて宇宙に行く。」
「宇宙にも行ける船っていうことは機密性が高い潜水艦ね。」
「潜水艦は浮き上がらなければならないから耐圧装甲は薄い。僕の造船所で作っている船は1万メートルまで潜れる原子力深海調査船だよ。装甲は昔の戦艦の最厚の装甲と同じで60センチもある。だから重すぎて浮き上がることはなかなかできなかった。重力遮断パネルを装甲壁に埋め込めば重量を遮断できるから水中を自在に動ける。パネルはうまくコントロールすれば加速度も出すんだ。自在に動ける。水中だけではなく空中も動けるし宇宙でも重力があれば動くことができるはずだ。それに乗って宇宙から地球を眺めるんだ。」
「いいわね。ひとつお願いがあるんだけど。」
「何だい。」
「その深海調査船には十分な無線装置をつけてね。海からそんなものが浮き上がって宇宙にまで上がったとするでしょ。当然発見されるわね。UFOだと思われて戦闘機が飛び出して『お前はだれだ』って無線で誰何するでしょ。無線に答えなかったらミサイルで撃ち落とされるわよ。」
「そうだね。高性能の無線装置はつけよう。でも戦闘機のミサイルなんて問題ないよ。当たってもびくともしない。工事用の鉄球の直径は70センチだ。あれにミサイルが当たっても何ともないと思うだろう。あれくらいの厚みの鉄で全てが装甲されているんだ。核弾頭だと危ういけどね。そんな時は宇宙空間に逃げるか海の底に逃げることにするよ。」
「宇宙に逃げたって人工衛星から大きなミサイルが飛んでくるんじゃあないの。海に逃げたって潜水艦から魚雷を打たれるでしょ。」
「乙女さんはこの方面の知識が少ないことが分かった。人工衛星からのミサイルは小さいし遠くからは狙えない。自分は秒速8キロで動いていて相手の船は止まっている。あっという間に通り過ぎてしまう。それに宇宙を飛ぶことができる調査船には分子分解砲を付けるつもりだ。ミサイルでも人工衛星でも半切できる。それから魚雷は500mより深くでは使えない。1000mも潜れば安全だよ。」
「分かった。己の無知を確認。でもその分子分解砲って何。SFで出てきそうな物ね。」
「日本にくる前のアメリカのMITで作ったんだ。X線より透過力を持つガンマー線のレーザーに変調波を乗せることで分子の結合を切断できる。分厚い鉄でも大石でもスパって切断できる。乙女さんは知らないだろうけど去年のダン研の合宿はアメリカの諜報員に見張られていた。2年目以上はそれを知っているよ。それくらいアメリカが恐れている強力な武器なんだ。」
「イスマイルさんて素敵ね。ますます謎が深まるわ。」
「そろそろ暗くなる。宿舎に戻ろう。それで乙女さんの望みは何だい。」
「ふふっ。そ、れ、は、ヒ、ミ、ツ。」
「まっ、いいか。そのうち聞かせて。」
「了解。」
二人はトランクから滑り降りて宿舎に向かった。
大鈴井乙女は右手でイスマイルの左手を探し出し、手を握って宿舎に戻った。
大鈴井の手の感触はホールドで握る手の感触とは少し違った。
翌日、ダン研は午前中の練習と午後前半の練習を終え、午後の3時に現地解散となった。
イスマイルはダン研のCDプレイヤーなどの荷物を積んで大鈴井乙女と一緒に大学に帰った。
ダン研の練習場のロッカーに荷物を運び込んで施錠した。
これでイスマイルにとってのダン研夏季合宿は終わった。
イスマイルは練習場から自動車に乗り込んでから大鈴井乙女に言った。
「乙女さん、乙女さんが合宿に参加してくれたお礼をしたいんだが、どこかの喫茶店で何か飲んでから一緒に夕食を食べないかい。」
「誘ってくれてありがとう。でも今は練習の後だから汗をかいているわ。イスマイルさんもそうでしょ。イスマイルさんのマンションでシャワーを貸してくれない。合宿の帰りだから着替えは用意してあるわ。着替えてから食事に誘ってくれない。お化粧も直したいし。」
「いいけど、いいのかい。」
「いいわ。」
「分かった。そうしよう。僕も着替える。」
イスマイルと大鈴乙女は練習場から理学部前を通り抜けてから門を出て自宅のマンションに向かった。
マンションは大学の近くなのですぐに着き、イスマイルは慎重に大型自動車をマンションの駐車場に駐めた。
「大きなマンションなのね。イスマイルさんの部屋は何階なの。」
「50階だよ。でも非常に古いマンションだ。倒壊寸前かもしれない。」
「50階ってひょっとしてお父様の川本五郎さんと奥さんのアン・シャーリーさんが住んでいたタワーマンションじゃあないの。伝記に書いてあったあのマンション。」
「僕も父の伝記を読んでそうじゃあないかなって思うようになった。でも部屋を契約する時はそんなことは知らなかった。大学の近くで、周囲と人付き合いをしなくてよくて、セキュリティーがしっかりしたマンションって探したらここが推薦された。古いマンションなのに賃貸料は馬鹿高かった。長い間、使われていなかったそうだ。賃貸料が高かったので維持はしっかりされていたみたいだった。そうしなければ誰も借りないからね。」
「ワクワクするわね。」
イスマイルは大鈴井乙女を連れて駐車場のエレベーターに乗り、50階で降りた。
ドアはエレベーターホールに隣接していた。
「伝記とそっくり。横の大きなエレベーターは荷物用で向かいは非常階段ね。」
「良く知ってるね。」
「何度も読んだから。中は大きな居間と大きな寝室が二つじゃあないの。」
「まあ、入って。自分で確かめたらいい。」
部屋に入ると内部は綺麗になっていた。
イスマイルの入居にあたって内装が更新されたのかもしれなかった。
「綺麗じゃないの。とても古い部屋だとは思えないわ。」
「まあ、高い賃料だからね。きっと改装してくれたんだ。」
内部は伝記に書かれていた通りだった。
大きな居間があった。
「この居間が横が12mで奥行きが7mの居間ね。書かれてあった通り。部屋の総面積は、えーと、確か250㎡ね。」
そう言って大鈴井乙女は全面ガラスの窓際に立って下界を眺めた。
「そんな数字まで覚えているのかい。驚いたな。」
「イスマイルさんには言ってなかったけど私はどうもお父様のような写真的記憶ってのができるみたいなの。」
「僕はその能力はそれほど強くないみたいだ。記憶力はいいんだけど場面を記憶してそれを描画するなんてできないよ。」
「5倍体のお父様は何でもお出来になったようね。でもイスマイルさんのような発育遅延の能力はなかった。」
「それは能力ではないと思う。正常な2倍体の母と5倍体の父との間で出来てしまった子供なので抑えられていた分化阻止遺伝子が発現してしまったのだと思う。」
「そうかもしれないわね。普通なら絶対に子供なんてできるとは思えないゲノム構造の組み合わせだものね。自然って偉大ね。人間の薄っぺらな想像を超えることを実行する。お父様と奥さまの間にはお子さまはできなかった。その事実だけで多倍体人間は子孫を残せないと結論してしまう。その結論を覆(くつがえ)したのがイスマイルさんね。」
「そう思う。乙女さん、話すのは後でゆっくりしよう。コーヒーを淹れるよ。コーヒーを飲んでから浴室でシャワーを取るといい。僕も乙女さんが出たらシャワーを浴びる。」
イスマイルは食器棚からコーヒーカップを取り出し、コーヒーメーカーにコーヒーパックを入れてスイッチを押した。
大鈴井乙女はコーヒーを飲んでから自分のスポーツバックを持ってバスルームに行った。
大鈴井乙女はまるで我が家のようにバスルームの位置を知っていた。
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