第17話 16、ダン研の夏合宿

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 合宿は去年と同じ場所で行われた。

そして去年と同じようなメニューで1年目の強化が図(はか)られた。

イスマイルは全日本学生選抜競技ダンス選手権大会が終わった後で大向武部長に大鈴井乙女をパートナーにしたこととラテンのC級になったことを報告していた。

 大向部長はいスマイルに言った。

「いいことだ。イスマイルにはずっと申し訳ないと思っていたが、少しだけ気が休まる。長い目で見ればこれが良かったのかもしれん。ダン研の部員の大部分は卒業と同時に競技ダンスをやめる。ダン研でのダンスは学生時代での力を注いだ事の記憶になるだけだ。長い人生におけるたったの4年間だ。だが、イルマズ大鈴井ペアはずっとダンスを続けることができる。お前はとてつもない筋力とバランスを持っている。世界チャンピオンになれるかもしれない。・・・それからダン研は辞めないでくれ。あとたったの2年間だ。4年目の卒業ダンスを踊ってくれ。パートナーは自由だ。大鈴井先輩と踊ればいい。大鈴井先輩に言ってくれんか。今度の夏の合宿にオブザーバーと言うか補助で出席してほしい。A級のお前がシャドウする姿を見たくないからな。お前が踊る時だけパートナーで踊ってくれればいい。その他はお客様待遇だ。1年目にもA級の凄いダンスを見てもらいたい。」

「了解。ありがとうございます。そう伝えます。」

 イスマイルは自動車に合宿の荷物を積んで大鈴井乙女と夏の合宿に参加した。

大鈴井乙女は楽しそうだった。

イスマイルのパートナーとしてダン研に認められ、ダン研の夏の合宿にも参加できた。

大鈴井乙女は4年目と3年目にとっては大先輩であり、1年目にとっては新顔だった。

大鈴井乙女はイスマイルら2年目が1年目を指導する時には実演しても見せた。

 「見てて。練習すれば親指の先だけでバランスを取ることができるようになるの。」

そう言って大鈴井乙女は右足を浮かせ、左足の親指の爪の先で立ってホールドしながら10秒ほどトウライズをした。

「これができると一歩の幅が9センチくらい長くなるの。ボールの端から爪の先までが9センチだから9センチ。たった9センチだけど、この違いが意外と大きいの。爪先まで使うためには見た通り足首を伸ばさなければならないでしょ。だから一歩はもっと大きくなるの。こうすると大きな踊りができるようになるのよ。」

 それを見ていた上級生のパートナー達は少しあせった。

だれもそんなことは出来なかったからだ。

4年目のリーダー達はそれほど焦らなかった。

自分たちは少なくとも両足でならそれができたからだ。

 イスマイルが練習する時には大鈴井乙女はイスマイルのパートナーとして踊った。

イスマイルはスタンダードでは皆に合わせ、力を抑制して踊った。

大鈴井乙女もそれが分かっていた。

イスマイルはラテンでは全力を出して踊った。

やっとC級になったばかりだからだ。

大鈴井乙女はその時には華麗に舞った。

 4年目の武川武蔵はイスマイルが一人の時に言った。

「イスマイル、お前のラテンはまだまだって感じだが大鈴井先輩は凄いな。昔の先輩よりも上手くなっているように感じた。何というか艶(なまめ)かしいんだな。動きも切れているしプロのファイナリストの踊りを見ているようだった。」

「乙女さんのおかげでC級になれました。」

「それは間違いない。お前はラテンに気を入れていないからな。」

「分かりますか。」

「あたりまえだ。4年目の観察眼をなめるんじゃあないぞ。」

 4年目の大顎淳のパートナーになった青石薫は合宿の間、イスマイルに近づいてこなかった。

2年目が1年目を指導する時も離れて指導していたし、食事の時には大顎先輩の横に座って甲斐甲斐しく世話をしていた。

偶然に廊下で出会った時、イスマイルは青石薫に言った。

 「青石さん、元気そうだね。夏全でも頑張っていた。新しいパートナーはどうだい。」

青石薫はイスマイルを見つめると顔を崩し、目には涙が溢(あふ)れて来た。

「どうしたんだい。僕が何か悪いことを言ったのかい。そうなら謝る。」

青石薫は涙を拭ってから落ち着きを取り戻してイスマイルに言った。

「ううん。イスマイル君が優しい言葉を言ってくれたから。私、イスマイル君にはずっと申し訳ないと思っていた。イスマイル君が他のカップルに混ざって一人でシャドウをするのを見るのが辛(つら)かった。」

 「青石さんは全く悪くない。運命だよ。悪いのは、・・・そうだな。強いて言えば大顎先輩がパートナーをしっかり掴んでいなかったってことかな。大顎先輩はどうだい。」

「イスマイル君よりずっと下手。・・・だと思う。一生懸命教えてくれるのだけど、どこか違うの。イスマイル君のようにどの場面でもがっしりと安定しているってのがないの。ときどきふらつく。それからある地点からある地点までの動きが勢いにまかせている。コントロールされていないの。イスマイル君は動きの途中でもいつでも止めることができるように動く。そうねえ、たとえれば、イスマイル君は忍び足で大顎さんは片足ずつのケンケンかな。」

 「それだけ分析できていればうまくいくよ。」

「とにかく少し楽になったわ。イスマイル君が優しい言葉をかけてくれた。イスマイル君と普通に話すことができるようになった。今でも大好きよ、イスマイル君。」

そう言って青石薫は小走りにイスマイルから離れて行った。

 今年の夏の合宿では諜報員の姿はなかった。

もうイスマイルを見張るのは止めたのかもしれなかった。

その替わりに今年は体育館から運動場を挟んで向かい側の小学校の土俵でどこかの大学の相撲部が合宿をしていた。

力強い気合いの声が運動場の向こうから時々聞こえてくる。

 合宿二日目、ダン研恒例の朝のマラソンを終えて部員達が戻ってくると校門の横に停めてあったイスマイルの車の周りに数人の男達が集まっており、前を走りすぎるダン研の娘達に卑猥な言葉を投げかけた。

ダン研の皆は無視して通り過ぎた。

相手は見るからに強そうな大男達だったからだ。

 「不届きな男達ですね。懲(こ)らしめて来ましょうか。」

ダン研の皆が食堂に集まった時、イスマイルは大向部長に言った。

「あの連中は相撲の合宿をしているどこかの相撲部の連中だな。強そうな連中だぞ。」

「昨年の拳銃を持った諜報員より弱いと思います。」

「だが諜報員より頭が悪いからな。始末におえんぞ。」

 「ああいう連中は痛めつけるのが一番効くと思います。」

「痛めつけるってイスマイルがか。」

「はい。簡単です。ちょっと顔を出して来ます。朝食の前には戻って来ますから。」

そう言ってイスマイルは食堂を出て行った。

大鈴井乙女はイスマイルを心配して後をつけて行った。

何かあったら警察を呼べばいいと考えたからかもしれなかった。

 イスマイルは運動場を横切って真っ直ぐ土俵のある櫓(やぐら)に向かって歩いて行った。

イスマイルは土俵の周りでイスマイルが真っ直ぐ近づいてくるのを怪訝(けげん)に見ていた男達に向かって言った。

「僕の名前はイスマイルと言います。向こうの体育館で合宿している者です。皆さんのリーダーはおりますか。話があります。」

 「おれが主将の大東だ。話って何だ。」

一人のがっしりした大男が乱暴に皆を退(ど)けて前に進んで言った。

「大東さんですか。あなた達の何人かが我々の女性に卑猥な言葉を投げつけました。私はあなた方を代わりに投げつけようとここに来ました。まあ、ていのいい殴り込みですね。私が皆さんよりも圧倒的に強いことを証明できれば以後の下品な行為はなされないと考えました。どうでしょう、私と相撲の試合をしていただけませんか。土俵回しは持っておりませんが皆さんの体格なら問題にならないと思います。」

 「お前が我々と相撲の試合をするんだって。そんな貧弱な体でか。」

「私は皆さんより素早く動けるし、筋力も皆さんより強いと思います。」

「お前が負けたらどうするんだ。」

「もう一度出直して来ます。」

「怪我をするかもしれんぞ。」

「私の怪我の回復は早いですから。」

「いい度胸だ。何人と対決する。」

「大東さんが『もう止めてくれ』って言うか僕が『参った』って言うまでで結構です。」

 「面白い。朝飯前の運動にもならんかもしれんがな。」

「申し訳ありませんがダンスシューズで土俵に上がることをお許しください。僕にとってはこれが素足ですから。」

「いいだろう。重い方がいいかな。岩隈、お前が相手をしろ。大怪我をさせてはだめだぞ。軽い突っ張りはしてもいい。」

「押忍(おす)。」

 土俵に上がった岩隈は120㎏ほどの坊主頭の大男だった。

土俵に上がったイスマイルは岩隈の目の辺りの背丈だった。

「岩隈さん、僕は相撲を知らないので開始の合図は僕がしていいですか。1、2、3って言いますから3で開始です。」

「どんと来い。」

 岩隈は土俵の仕切り線で四つん這いになって構えたが、イスマイルは土俵の際に半腰で立って言った。

「始めますよ、岩隈さん。1、2、3。」

イスマイルは3と同時に岩隈に真っ直ぐ突っ込み、岩隈は右手を前に突き出した。

イスマイルは岩隈の前で土俵を横に蹴り岩隈の右に出てから再び土俵を蹴って岩隈の後ろに回ると岩隈の土俵回しを右手一本で掴んで真上に持ち上げた。

岩隈は空中で足をばたつかせてなんとか体を反転しようとしたがイスマイルはまわしの横を掴み反転を阻止した。

 「さて、岩隈さん少し痛いですよ。頭からは落としません。土俵の外にも落としません。このまま土俵に落としますから受け身をとってくださいね。」

そう言ってイスマイルは両手を離して跳び下がった。

岩隈は背中から土俵に落ちた。

岩隈は呻いたが気は失わなかった。

 「大東さん、次をお願いします。」

「岩隈を片手で持ち上げただと。信じがたい。よし次は大竿だ。大竿、相手は早いぞ。注意していけ。掴(つか)まえろ。」

「大竿さん、合図は同じです。1、2、3で試合開始です。いいですか。」

「押忍。」

大竿もイスマイルの動きには着いていけなかった。

あっという間に後ろに回られ、頭の上に持ち上げられ、動きを封じられた。

「大竿さん、大竿さんは岩隈さんみたいに重くはないのでこのまま投げ飛ばします。土俵の下の皆さんは大竿さんを受け止めてくださいね。主将の後ろまで投げます。そこで受け止めてください。いいですか失敗すると大怪我になりますからね。」

そう言ってイスマイルは大竿を振り回してハンマー投げの要領で大東主将の後ろまで投げ飛ばした。

大竿を受け止めた3人は大竿の勢いで尻餅をついた。

 「大東さん、次をお願いします。」

「もう止めてくれ。だれを出してもお前に勝てるとは思えない。ここからもはっきり見えないほどのスピードを持っていて120キロを片手で軽々と持ち上げることができる。そんな人間と相撲ができるか。我々は子供と同じだ。いいようにあしらわれている。分かった。もう絶対に下品な行為はさせない。すまなかった。」

 「了解。大学生ですか。」

「そうだ。大国大学の相撲部だ。あなた方はどなたですか」

「東大の社交ダンス研究会です。まあ大学生どうし、仲良くやりましょう。」

そう言ってイスマイルは土俵を下りて体育館の方に向かって歩いて行った。

運動場の真ん中で見ていた大鈴井乙女が途中からイスマイルの後に従った。

 「話をつけて来ました。以後は卑猥な言葉を聞くことはないと思います。」

イスマイルは食堂で部長の大向に言った。

「遠くからだが見ていた。イスマイルはものすごく強いな。大男を片手で持ち上げ、放り投げていた。」

「僕はダンスで鍛えていますから。」

「ダンスはA級だが格闘技は特A級だな。」

 イスマイルが少し遅くなった食卓に着くと大鈴井乙女はイスマイルの横に座って一緒に朝食をとった。

「イスマイルさんはとても強いのね。あんな大男達にびくともしなかった。尊敬するわ。」

「ありがとう。でも、乙女さんは僕と同じくらい強いと思う。僕が危うくなったら助けるつもりで見に来たんだろ。乙女さんはあんな大男達とどんな方法で戦うつもりだったんだい。」

 「あら、私はか弱い女よ。戦うなんてことはしないわ。」

「でも勝てるんだろ。」

「まあね。イスマイルさんのお父様と同じ方法。」

「分かった。目潰しだね。」

「お父様の伝記を読んで一番効率がいい方法だと思ったの。私はイスマイルさんのお父様と同じくらい早く腕を動かすことができるみたい。本を離してもう一度掴む間に両腕を左右に動かすことができたわ。か弱い乙女が暴漢から身を守るには最適の方法でしょ。血もほとんど出ないし、拳も指も痛めない。」

 「確かに。女性なら過剰防衛にもならないしね。・・・不思議なのだけどフィンガースナップの指の動きはどんなに注意してみても動いている途中は見えない。見えるのは最初と最後だけだ。なぜだろうね。」

「バカにされる答えだけど早いからでしょ。」

「どうして早いと見えないんだい。」

「どうしてでしょう。見えるためには同じ形が続く時間が必要なのかしら。とにかく朝食を早く食べて午前中の練習に参加しましょう。」

「OK。」

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