第16話 15、ペアの解消
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朝、イスマイルが室に入ると吾郷麻子は椅子を後ろに下げてイスマイルに笑顔で挨拶した。
「おはよう、イスマイル君。」
「あっ、おはようございます。」
「イスマイル君は最近はマンションに帰っているのね。」
「はい、最近はダンスに力を注いでいます。汗だくで練習を終えてそのままマンションに行ってシャワーを取るとそのまま自宅で過ごしてしまうんです。」
「物事に打ち込めるのが学生ってものよ。ダン研は楽しいの。」
「はい。無事に2年目になりました。ダン研での存在感が少し増したようです。」
「ということはダンスが上手くなったのね。」
「自慢ですが、アマチュアA級になりました。」
「アマチュアA級か。響きがいいわね。アマチュアB級よりずっといいわ。」
「まだなりたてでA級の実績はありません。」
「ダン研って何人もA級がいるの。」
「4年目がいなくなったので僕を含めて3カップルです。」
「少ないわね。」
「競技ダンスの世界は横綱がいないプロ相撲と同じだと思います。成績が悪ければ降格されます。ダン研にはA級から落ちた先輩もおります。」
「プロ相撲ではなく大相撲って言うの。要するにA級の枠が決まっているのね。」
「枠はありませんが自然と一定の人数になります。・・・そうだ、SA級っていう横綱もいますね。まだ詳しい規則は知りません。」
「そうだ、イスマイル君に査読してもらった2報目の論文が出たわ。イスマイル君には感謝よ。そのままアクセプトだった。」
「吾郷さんはもう立派な研究者ですね。」
「その響きもいいわね。ところで今年も8月のダン研の合宿に行くの。」
「はい。1年目の面倒を見なければなりません。」
「楽しい学生生活ね。」
「堪能しております。」
この世、予測と違うことが起こる。
6月に入るとイスマイルと青石薫は3年目の大向武部長から例会が終わった後に残ってくれと言われた。
大向武はイスマイルと青石薫に対面して言った。
「すまん。今日はダン研の部長としてお前たちに伝えなければならないことがある。」
「どんなことでしょうか。」
イスマイルが聞いた。
「申し訳ないがカップルを解消してくれ。二人が頑張ってA級になったことは知っている。通常はうまくいっているカップルを解消させるなんて絶対にしない。ましてやイルマズ・青石ペアは東大ダン研の3組のA級カップルの一つだ。だがイスマイルは7月に行われる全日本学生選抜競技ダンス選手権大会には出場できない。夏全もそうだが12月に行われる冬全、全日本学生競技ダンス選手権大会にも出場できない。東京大学は夏全でも冬全でも団体の上位を取り続けている。今年もそうしたい。4年目の大顎淳(おおあごあつし)先輩のパートナーが5月に辞めてしまった。理由は不明だ。大顎淳先輩はA級からB級に降格したが、それが原因かもしれないし、うまくいかなかったので降格したのかもしれない。ダン研の部長としては青石さんを大顎先輩のパートナーにするつもりだ。A級の青石さんなら大顎先輩のリードに的確に反応できるはずだ。夏全でも冬全でもいい成績を残すはずだ。未熟な今の1年目からパートナーを選ぶことは考えていない。どうだ。そうしてくれんか。」
「私はいや。イスマイル君と離れるのはいや。」
青石薫は目を釣り上げて大声で言った。
「そうだろうな。イスマイルはどうだ。」
「残念ですがカップルの解消を受け入れます。ダン研の部長としては当然の決断だと思います。」
「そうか。解消してくれるか。イスマイルのA級は変わらない。ダンスはリーダー中心で動くからな。」
「イスマイル君はそれでいいの。」
青石薫はイスマイルに言った。
「良くはない。でも大向武部長は考えた末に決断したのだと思う。それが部長の仕事だよ。」
「イスマイル君がそう言うのならそうするわ。」
青石薫は涙を浮かべながらそう言った。
青石薫は帰りの車の中でも涙を流し、寮の前に車が停まると「おやすみなさい」と言ってからドアを閉め、振り返らないで寮の中に入って行った。
イスマイルは一人になってしまった。
火曜日と金曜日のダン研では一人でシャドウをしたし、教習所でも晶子先生と踊るだけだった。
「イルマズ君、君は晶子と踊ることでダンスはどんどん上達しているんだが、やはりパートナーがいた方がいいな。誰かあてがあるか。なければ探してやってもいい。」
「やはりパートナーが必要ですか・・・。分かりました。新しいパートナーを見つけてきます。」
「大丈夫か。お前についてこれるパートナーは難しいぞ。」
「頼めば何とかなると思います。」
イスマイルは研究所に帰ると大鈴井乙女に内線電話をかけた。
「大鈴井です。」
「イスマイルです。今、電話してもいいですか。」
「もちろんいいわ。一人よ。」
「乙女さん、頼みがあるのだけどいいかい。」
「なあに。」
「僕のダンスのパートナーになってほしい。ダン研の4年目のパートナーがいなくなって青石さんがパートナーになった。4年目は夏全も冬全も出場するから青石さんとのパートナーは当分なくなる。今の1年目はまだ無理だ。蒲田先生もパートナーを見つけろって言っている。僕は君と踊りたい。」
「まあ、突然ね。でもOKよ。喜んでイスマイルさんのパートナーにならせてもらうわ。」
「ありがたい。練習は教習所だけになる。乙女さんがダン研に入るのは不自然だ。それでいいかい。」
「もちろん、それでいいわ。当然よ。」
「気を悪くしないでほしいが教習所のチケットは僕が全額持つよ。ドレスもシューズもだ。僕は大金持ちだからね。感謝の気持ちだ。」
「それも喜んで頂戴するわ。とても助かる。」
「練習はダン研の皆んなと出会わない昼にしたい。学生は講義があるから昼には教習所には来ない。早めの昼食を取ってから教習所に行き、1時間練習してから大学に戻る。昼休みを長く取るようなものだ。」
「それもOKよ。院生の生活は夜が主体だから問題は生じないわ。」
「感謝するよ。明日の11時30分に学生食堂で会おう。簡単な食事をしてから教習所に行こう。それでいいかい。」
「了解。それでパートナーに逃げられた4年目って誰。」
「大顎淳先輩です。」
「大顎君か。少しだらしなかったわね。」
翌日、イスマイルは学生食堂で乙女と出会い、量の少ない定食を食べてから教習所に自動車で行った。
「物凄い車ね。最新型の乗用車と正面衝突しても凹むのは相手の車だけのようね。」
「重さだけは重く8トン。ガソリンは垂れ流し。」
「トルコから運んできたの。」
「家にはこんな車が何台もあります。一番小さい車を送ってもらいました。」
「分かった。大統領専用車ね。」
「そうです。」
二人が教習所に入ると蒲田先生が言った。
「イルマズ君、すごいパートナーを見つけてきたな。大鈴井君も久しぶりだ。ダンスをまたしたくなったのかな。」
「はい、よろしくお願いします。」
「そうか、組むのは今日が初めてなのか。」
「そうです。」
「そうか、まず二人で踊ってみてくれ。雰囲気を知りたい。」
曲が流れ始めると二人は互いに頭を下げて挨拶してから踊り始めた。
イスマイルは慎重にリードして踊った。
乙女は素直にイスマイルに従った。
イスマイルは大鈴井乙女が青石薫とは全く違うことをすぐに感じた。
大鈴井乙女は晶子先生のような弾力性を持っていたが晶子先生よりもずっと軽かった。
応答が早く、まるで薄衣(うすぎぬ)を相手に踊っているようだった。
二人が8曲を踊り終えると蒲田先生は言った。
「二人ともうまいな。スタンダードに関してはアマチュアとしては最高クラスだ。イルマズ君、大鈴井君は踊りやすかったろう。」
「はい、一人で踊っているように感じました。」
「大鈴井君の腕は全く落ちていない。そんなことは普通は信じ難いがな。だがそうだった。落ちていない。」
「昨日、イスマイルさんからパートナーの申し込みを受けてから少し練習しました。」
「そうか。イルマズ君のラテンはダメだな。D級レベルだ。C級かもしれんがとてもA級ではない。」
「すみません。」
「謝ることはないさ。まだ実際にD級なんだから当然だ。ラテンはパートナー主体のダンスだから動かなければ誤魔化せるかもしれん。まあ審査員はそう甘くはないがな。大鈴井君のラテンはA級だよ。間違いない。」
その日、二人はA級戦に必要なベニーズ(ウインナ)ワルツとジャイブを練習した。
教習所の練習が終わって車の中でイスマイルは言った。
「乙女さん、パートナーになってくれて本当にありがとうございます。今後もよろしくお願いします。」
「こちらこそ。私を選んでくれて嬉しいわ。よろしくね。」
イスマイルは研究所の駐車場に車を停め、イスマイルは研究所に戻り、大鈴井は隣接する理学部に戻っていった。
全日本学生選抜競技ダンス選手権大会が開かれる直前、アマチュアのD級ダンス競技会があった。
東大ダン研の2年目ペアは直後の選手権大会のために出場しなかった。
イルマズ大鈴井ペアはラテンの部に出場した。
いい成績を取ってイスマイルがC級になることが目的だった。
スタンダードがA級でもラテンがD級では格好がつかないと蒲田先生が競技への申し込みをしたのだった。
競技ダンスは男性のリーダーが中心になっている。
スタンダードA級のイスマイルはスタンダードD級の競技にはもちろん出場できない。
スタンダードとラテンのA級だった大鈴井はD級の競技に出場できる。
たとえ大鈴井が現在もラテンのA級であったとしても出場できる。
出場できるか否かはリーダーの級で決まるのだ。
それがA級の数を一定にさせるために考え出された方法だった。
そうしなければペアを次々と変えればA級の数はどんどん増えることになってしまう。
競技種目はルンバとパソドブレだった。
イスマイルは一生懸命練習して何とか形を作った。
D級の競技会はいつものように100組以上の出場者があった。
イルマズ大鈴井ペアは予選を通過してセミファイナルに進出した。
大鈴井乙女のダンスは光っていた。
パートナーが活躍するルンバでは他のペアを圧倒していたし、パソドブレではイスマイルに合わせてペアの一体感を出した。
イルマズ大鈴井ペアはファイナルに出場し、そして優勝した。
審査員の大多数は大鈴井乙女を知っていた。
そして大鈴井乙女のダンスがA級時代と変わっていないことを確認した。
イスマイルは大鈴井のおかげでC級になれたとも言えた。
帰りの車の中でイスマイルは乙女にお礼を言った。
「ありがとう、乙女さん。おかげでC級になることができた。」
「イスマイルさんの実力よ。審査員はそんなに甘くはないわ。しっかりリーダーの動きを観察していた。私は久々の競技会に出れて楽しかったわ。試合っていいわね。勝てば嬉しいし負ければ悔しい。冷静に考えればたいしたことではないのにね。」
「僕たちは人間だからね。」
「人間の証明ね。」
一週間後に行われた全日本学生選抜競技ダンス選手権大会(夏全)で東京大学は総合で上位に入ることができた。
新しくペアを組んだ大顎青石ペアは総合点に貢献した。
武川武蔵元部長はスタンダード部門で優勝した。
そんな状況でダン研は夏の合宿に入った。
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