第12話 11、トルコのイスマイル
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日本国では3月下旬から4月上旬は年度が変わるので忙しい。
ダン研も入学式では新しい部員の募集活動をする。
大学での講義も休みになり、色々な学会で学会発表がなされる。
固体物性講座の大学院生も発表する。
吾郷麻子は修士課程を終えて博士課程に入ることになった。
飯島澄孝教授がそれを認めたからだ。
博士課程に入るということは学位を与えることができそうだと教授が認めたことを意味する。
伊藤郁夫はDC2となり伊能忠敬は残念ながらODとなった。
イスマイル・イルマズは2週間の予定でトルコに戻ることにした。
リチウム包摂カーボンナノチューブ結晶の物理的物性を測るためだった。
イスマイルは武川部長と青石薫にトルコへの旅行を伝えた。
青石薫は「必ず戻って来てね」とイスマイルに言った。
イスマイルは車をトルコ大使館に置かせてもらった。
トルコ大使はイスマイルの帰国に3等秘書官を付けてくれた。
外交官がいれば通関の手続きは容易になり、手荷物も検査されない。
イスマイルはそのお礼にファーストクラスの座席を取ってあげた。
3等秘書官はゼーラ・アイディン(Zehra輝くAydin明るい)という若い女性だった。
「イルマズ様、ゼーラ・アイディンと申します。よろしくお願いいたします。」
空港に向かう自動車の中で娘はイスマイルに挨拶した。」
「こちらこそよろしくね、アイディンさん。トルコには二週間の滞在予定です。その間はアイディンさんはトルコで羽を伸ばしてくつろいでください。」
「はい、ありがとうございます。イルマズ様はイルマズ様の会社に行かれるのですか。」
「そうです。少し調べたいことがあります。」
「イルマズ様の日本でのお暮らしはいかがですか。」
「すこぶる爽快です。知っているかもしれませんが僕は社交ダンスを始めました。この前の初心者のダンス競技会では優勝しました。今では立派なアマチュアC級です。」
「まあ、パートナーは一般の方ですか。」
「僕は東京大学の社交ダンス研究会という大学生のクラブに入りました。パートナーは1年目の大学生です。クラブの部長がお情けで一番下手なパートナーを付けてくれました。」
「まあ、そのお方は幸運でしたね。イルマズ様のパートナーになれるなんて名誉なことです。」
「アイディンさんはダンスが踊れるのですか。」
「まったくダメでございます。」
「そうですか、それは残念。アイディンさん、ダンスっていいですよ。第一、姿勢が良くなります。背骨の一番上の骨と首に続く骨は内側に曲がってから延髄になっていくでしょ。ダンスではその内側に曲がった首の骨を真っ直ぐにするように努力します。もちろんすぐには真っ直ぐになりません。でもA級クラスになると真っ直ぐになるみたいです。首が背中の方に伸びるのですよ。」
「ダンスをする方の姿勢は美しいと思います。イルマズ様の大学でのご研究はいかがですか。」
「楽しいですね。アメリカでの経験が役にたっています。」
「イルマズ様はトルコの産業の発展に貢献していると聞いております。イルマズ様の会社は世界的にも少ない特殊な会社で、全てイルマズ様がお創りになったと聞いております。私には信じられないことです。」
「まあ、見た目が若者ですからね。もし僕が車椅子の老人なら納得できるでしょ。」
「はい。でもイルマズ様は私よりずっと若いように見えます。私の弟と同じくらいの若さです。」
「一生懸命美味しいものを食べて、ようやくこんな体になったのですよ。」
「まあ。」
イスマイルはトルコ共和国に着くと造船所の研究室に行った。
研究室では既に実験の準備が出来ていた。
イスマイルはリチウム包摂カーボンナノファイバー結晶を慎重に切断し、一部を劈開面に沿って割り、いくつかの同じ大きさの小さな6角柱単結晶を作り、すぐに実験を開始した。
磁場方向と重力遮断力の関係はすぐに分かった。
磁場の方向がN極からS極に向かうものとすれば磁場方向が下から上に向かう磁場の中では重力を遮断する単結晶と遮断しない単結晶があった。
重力を遮断しなかった単結晶の軸方向を反対にするとその単結晶は重力を遮断した。
単結晶には結晶軸に方向性があることが分かった。
磁場の強さと重力遮断の力はほぼ比例することが分かった。
静的な磁場の中では重力に比例する抗力が生じたが、交番磁場を静磁場に重ねると単結晶は重力に逆らって上昇した。
重力遮断にはその作用に慣性力があることが分かった。
重力遮断力の限界に関する実験結果は興味深かった。
浮遊している小さな単結晶に巨大なプレス機で力を加えてゆくと、ある時点で重力遮断力は突然消えて、単結晶の入っているアンプルは落下した。
アンプルの中に入っている単結晶の形は変わらなかった。
しかしながらその単結晶は二度と重力遮断力を示さなかった。
その単結晶を元素分析すると包摂されていたリチウム原子の割合が少なくなっており、リチウムの他にわずかなヘリウムが観測された。
その結果を見てイスマイルは涙が出るほど喜んだ。
周囲の技術者達はイスマイルの喜び方にあっけにとられた。
その結果はイスマイルの仮説が正しかったことを暗示していた。
カーボンナノファイバーに入っていたリチウム原子の最外殻電子は過剰な重力遮断で自身の時間を早め、核に落下して陽子と結合して中性子になったと説明できたのだ。
リチウムと同じ質量のヘリウムだ。
リチウム包摂カーボンナノファイバー結晶に使われているリチウムは天然存在比から質量が7の7Liだ。
7Liの最外殻電子が陽子と合わされば7Heができる。
7Heは非常に不安定ですぐに6Heに崩壊する。
6Heはβ崩壊して安定な6Liになる。
どんな核変化が実際に起こっているかは不明である。
しかしリチウム核に変化が起きていることは明らかだった。
重力遮断に過負荷を与えれば核変化が誘導された。
こんな発表はこれまでなかった。
それにカーボンファイバーに入っているリチウムは最初のリチウムとは違って電子が少なくなっているのかもしれないのだ。
結晶の軸方向の物理的力に対する抵抗力の実験は当然ながら少し残念な結果になった。
5㎜ほどの6角柱の単結晶は2トンの力をかけた時に崩壊してより小さな結晶になった。
もちろん、小さな結晶になった結晶はなお重力遮断の力を有していた。
イスマイルはこれらの実験結果を知ってから自宅に戻った。
イスマイルの自宅はアンカラの郊外にあり、外観は昔と同じだった。
イスマイルの自動車が自宅の玄関前に止まると玄関には使用人が整列して迎えてくれた。
「イスマイル様、おかえりなさいませ。」
使用人の中央に立っていた背の高い初老の男がイスマイルに言った。
「ハサン、ただいま。変わりはないかい。」
イスマイルは歩きながらハサンに言った。
「はい、イスマイル様。私の歳が増えた以外は変わりございません。」
「それは良かった。二週間、アンカラにいる。うまいトルコ料理を食べさせてくれ。」
「かしこまりました。イスマイル様の好みは変わりませんでしょうか。」
「変わっていないと思う。だが日本で食べた餅はうまかったな。」
「さっそく餅を取り寄せます。どのように調理したらよろしいのでしょうか。」
「焼いて醤油をつけてチーズを載せて海苔で巻くんだ。後で詳しく話すよ。設計室に行く。コーヒーを持ってきてくれないか。1時間毎でいい。」
「かしこまりました。」
イスマイルは自宅の設計室に閉じこもってプラントの設計図を描き始めた。
最初に描き終わったのは分子分解銃にも転用できる大型硬質物質切断装置の生産プラントだった。
次に描き終えたのはガンマー線レーザーの核心部品のロッドを作成するプラントだった。
大型硬質物質切断装置はガンマー線レーザーロッドを購入して初めて作動する。
3番目に設計図を描いたのはリチウム包摂カーボンナノチューブ単結晶を作るプラントの設計図だった。
少量ずつだが連続的に単結晶が作り出されるプラントの設計図だった。
4番目に設計図を描いたのは重力制御パネルの作成を行うプラントの設計図だった。
このプラントでは大きさが揃えられた単結晶が金属格子に樹脂と共に埋め込まれ、磁場を制御することでパネルの重力遮断の力と方向を制御できるようになっていた。
もちろん、このパネルが働くためにはリチウム包摂カーボンナノファイバー単結晶の供給が必要だった。
5番目の設計図は新しい原子力深海調査船の設計図だった。
新しい原子力深海調査船ではキャタピラによる移動手段は取り外され、その代わりにまだできてはいない分子分解砲が取り付けられるようになっていた。
そして新しい原子力深海調査船には船の操縦装置がある司令室が設置されていた。
6番目の設計図は構想図といえるもので新しい造船所の構築だった。
これまでの造船所での難関点は巨大な重い鉄を扱うことだった。
新しい造船所は鉄の重さはほとんどないことを前提として造船作業をするようになっていた。
一週間ほどかけてイスマイルはプラントの設計図を描き上げた。
天蓋付きの立派なベッドで目を覚ましたイスマイルは早朝ではあったがハサンを呼んだ。
「おはようございます、イスマイル様。ご用でしょうか。」
「うん、ベラットはまだ生きているかい。まだ働いているなら呼んでほしい。」
「まだ生きて働いております。さっそく呼び寄せます。運が良ければ午前中には来られると思います。」
「頼む。それから昨日3番目にコーヒーを運んできた女の子は何て言うんだい。」
「3人目はアスヤ・サヒンと申します。」
「そうか、あの子は退職金を払ってこの家から出してくれ。」
「分かりました。そういたします。理由をお聞きできますか。」
「僕の感だ。あの子は複雑な心を持っている。簡単に言えばスパイだな。誰かにこの家の動静を見張るように頼まれたのだろう。若いからお金で心が動いたのかもしれない。」
「分かりました。今日中に退職させます。」
午前中にベラット・ゼンキン(許可・金持)が来た。
「ゼンキン、久しぶりだな。元気か。」
「はい、イスマイル様。ご用でしょうか。」
「会社を作ろうと思う。社長を見つけてくれ。」
「どのような会社でしょうか、イスマイル様。」
「最初の会社はリチウム包摂カーボンナノチューブの単結晶を作る小さな会社だ。プラントの設計図は描いてある。設計図に従ってプラントを組み立てて単結晶の在庫を増やすことが仕事だ。当面、利益は全くでないがそれでいい。売り込み先は次に作る会社だ。資金は全額僕が出す。会社は振動がない静かな場所に作れ。できそうか。」
「できると思います。アンカラ大学から適当な人間を引き抜けばいいと思います。」
「実行してくれ。」
「了解しました、イスマイル様。」
「単結晶が順調に生産できるようになったら次の会社を作れ。丈夫なパネルを作る会社だ。パネルには前の会社で作ったリチウム包摂カーボンナノチューブの単結晶が埋め込められる。プラントの設計図通りに作ればパネルが生産できるはずだ。そのパネルは重力を遮断できる。」
「重力遮断ですか。大発明ですね。」
「そう思う。最近発見した。だが重力遮断ができると言うのは秘密だ。『重力遮断』という言葉も発してはならない。出来上がったパネルはそのままでは重力遮断はできない。制御機構は簡単だからどこか別の会社で作ってもらう。当面、パネルの売り出しはしない。在庫を増やせ。多量のパネルが必要だ。在庫管理は特に厳密にしろ。秘密工場にした方がいい。資金は全額僕が出す。」
「了解しました、イスマイル様。」
「他にいくつかの会社を作りたいがとりあえずここまでだ。新しく立ち上げる会社の目処(めど)が立ったら新しい造船所を創るから適当な場所を探しておいてくれ。新しい造船所の場所は海に面している必要はないんだが、それだとおかしいからやはり海に面した場所がいい。交通の便が悪い場所がいい。・・・いや、やはり今ある造船所の近くがいい。第2造船所だ。すぐ近くにある必要はない。人家がない場所に土地を確保しておいてくれ。」
「了解致しました、イスマイル様。おもしろい展開になりそうですね。」
イスマイルは分子分解砲を作る会社は立ち上げなかった。
アメリカ合衆国の諜報機関の目はどこにでもある。
それに一つや二つの分子分解砲なら手作りでもできる。
そんな物を作るなら誰も近づけない深海の底で作ればいい。
まず、移動可能な原子力深海調査船を作ることが必要だった。
イスマイルはトルコでの仕事が一段落するとハサンに腕のいいペンダントの装飾職人を屋敷に呼ばせた。
「ペンダント一つをこの屋敷で作ってほしいが頼めるか。」
「どのようなペンダントでしょうか。」
「できれば水晶のような6角柱の結晶を寄せ集め表面を磨いて小さなペンダントを作ってほしい。それが難しいなら大きな単結晶を磨いて作ってもいい。」
「どのような結晶でしょうか。」
「実物を見せる。これが結晶だ。」
そう言ってイスマイルは小粒のリチウム包摂カーボンナノファイバー結晶をみせた。
「見たことがない結晶ですな。硬いのでしょうか。」
「簡単に劈開(へきかい)するからそんなに硬くはない。」
「寄せ集めの宝石と単体の宝石では価値が違います。大きな単結晶はございますか。」
「今はこれしかないのだ。貴重品だ。」
そう言ってイスマイルは引き出しの中から半切された大きな単結晶を取り出して職人に渡した。
「これはこれは、なかなか美しい結晶ですね。どのように切り取ってもよろしいのでしょうか。」
「結晶軸と直角に切り取らなければならない。赤い印がある方が上だ。底面は平らにして上面は丸みを持たしてもいい。枠は丈夫なステンレスだ。底面もステンレスだが宝石と底板の間に極薄のネオジ磁石を入れてほしい。磁石と宝石の間には文字を入れたい。」
「水を使ってもよろしいのでしょうか。」
「水ならいい。結晶は水には溶けない。」
「分かりました。作れると思います。切断面から1センチメートルだけいただけますか。」
「切り取ってもいい。」
「それから提案ですがよろしいでしょうか。」
「なんだい。」
「宝石に透明な保護膜を塗装してもよろしいでしょうか。お聞きしていると結晶の強度が弱そうです。むき出しの表面は傷つきやすいものです。しかも宝石の上側は劈開方向です。表面をコーティングした方が安心です。それにその方が深みが出ると思います。」
「そうしてくれ。数日でできるか。」
「道具を運び込めれば1日で作れると思います。」
「そうか。そうしてくれ。詳しいことはハサンに言え。望み通りにしてくれる。」
「了解しました。」
「それから小さい結晶でペンダントを一つ作ってくれ。作り方は同じだ。」
「了解致しました。」
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