第11話 10、ダンス競技会
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1月2週目の水曜日、イスマイルは自動車で青石薫の学生寮に行った。
青石薫は玄関の内側で待っており、自動車が着くとすぐさま出てきて分厚いドアを開けて助手席に乗り込んだ。
「ありがとう、イスマイル君。それにしてもこの車はドアの音がいいわね。『パタン』じゃあなくて『ドバム』よりも重そうな『ズン』ね。シートベルトはどこ。」
「前席にシートベルトはないんだ。後席には付いているけどね。この車はVIP専用車だよ。」
「何はともあれ安全運転で行ってね。」
「了解。」
イスマイルはダンス教習所の近くのコインパーキングに入れた。
イスマイルの車は幾分大きかったが何とか枠内に収まることができた。
「ギリギリね。なんか申し訳ないみたい。」
「まあね。でも、ここが一番近い駐車場だよ。」
「いたずらされるんじゃあないの。」
「そんなの気にしないよ。相手の気持ちもわかるし。」
「イスマイル君はおおらかなのね。」
「僕はお金持ちだから。」
「了解。」
ダンス教習所は蒲田という40歳代の男性教師と年齢不詳の晶子(あきこ)という女性教師で運営されていた。
二人はダンスのペアでプロのダンス大会にもまだ出場していた。
ファイナルに残ったことも一度だけあったということだった。
この教習所は東大ダン研が指定している教習所でダン研の先輩達はこの教習所で腕を上げた。
ダン研のペアは教師が一般人にダンスを教えている時にも教習所のフロアーで邪魔にならないように踊ることが許されていた。
教師にしてもその動きを見てペアの欠点を見つけ出すことができ短時間で欠点を矯正することができる。
教習所は前払いのチケット制でダン研のペアが切り取られるチケットの枚数は使った時間とはほとんど無関係だ。
たった数分踊っただけで2枚もチケットを切られる時もあるとのことだった。
要するにアドバイスには価値の違いがあるということだ。
「君たちが東大ダン研イスマイル・イルマズ君と青石薫さんだね。良く来てくれた。さっそく踊ってみてくれないか。お客がいないから自由に踊っていいよ。どの程度か見て見たい。」
「何を踊りましょうか。」
「適当に音楽を流すからかかった曲を踊ってみて。」
「分かりました。」
イルマズ青石ペアはモダン4曲とラテン2曲を踊った。
もちろん一曲全部を踊るわけではなく教師は程度がわかると次の種目の曲に変えた。
踊り終わると教師は二人に言った。
「OK。だいたい分かった。イルマズ君だったか。君の筋肉は強いな。プロ並みだよ。それ以上かも知れん。それから青石さんか。君の筋肉は弱いな。フニャフニャだよ。おもしろいペアになるんじゃないかな。おい、晶子。イルマズ君と踊ってくれんか。イルマズ君の動きに抵抗してもいい。イルマズ君、晶子の動きと君の動きが合わないところが君の欠点だ。今日はどこが合わないのかを知るだけでいい。それから青石さんは僕と踊る。イルマズ君よりずっと踊りやすいと感じるはずだ。君は僕の肋骨を感じながら付いてくるだけでいい。それがいい動きなのだと感じればいい。筋肉なんてなかなか強くなるものではない。そのうち強くなるがいまはホールドとボディーアップを保って肋骨を感じながらリーダーについていくだけでいい。晶子、ワルツからだ。」
ダンスの教習は1時間ほどで終わった。
二人は教習所を出てからずっと感想を話した。
「やっぱりプロって凄いわね。お腹を釣り上げられて勝手に踊らされたわ。」
「どういうことだい。」
「蒲田先生の肋骨の先端が私のみぞおちの真ん中に突き出てくるの。先生の肋骨ってきっと釣り針のように外に曲がっているのよ。その釣り針で体が持ち上がり勝手に振り回されて踊らされるの。自分でステップを踏んでいるとは思えなかったわ。」
「凄いな。僕の方は『晶子先生は君とは全然違う』ってことが分かった。晶子先生の体の中には弾力のある細い鋼鉄の棒が入っているような気がした。腕を押すと足の先までその力が伝わるような気がした。もちろんカカシのように体全体が硬いってことではない。弾力があるんだ。そうだな。蒲田先生の肋骨が君を持ち上げる釣り針だとしたら、言ってみれば晶子先生は釣竿の先端みたいかな。押したり引いたりすれば撓(たわ)むが、力がなくなると元に戻る。針にかかった魚みたいで逃げようがない。」
「二人はプロなのね。」
「同感だ。」
イスマイルが青石薫を学生寮に送って研究所に戻ったのは午後の8時前だった。
ダン研の例会より早く家に戻れることが分かった。
イルマズ青石ペアは火曜日と金曜日をダン研の例会で練習し、水曜日の教習所で悪いところを矯正され、急速にダンスの腕を上げて行った。
そしてとうとうイルマズ青石ペアは競技ダンス界にデビューの機会を持つことになった。
アマチュアのダンス競技会が2月の最後の日曜日に行われ、イルマズ青石ペアはダンス大会のD級戦に出場することになったのだ。
教習所の蒲田先生が「出てみろ」と言って出場の手続きをしてくれたのだ。
もちろんそれは異例のことではない。
ダン研の1年目の3ペアもD級で出場し、2年目はC級で出場し、3年目はB級で、4年目はA級で出場する。
良い成績を取れば昇級するし、そこそこの成績をとればその級に留まる。
ダン研の1年目にとっては初めてのテールコートとドレスを着た大会だった。
イスマイルは蒲田先生に言った。
「先生、僕たちはまだペアを組んで3ヶ月しかならず、ここでは1ヶ月くらいしか練習しておりません。ダン研の練習はベーシックだけの練習です。バリエーションは教えてもらっていません。この教習所でもベーシックだけです。そんな状態でも出場してもいいのですか。」
「問題ない。審査員は形と動きだけで判断する。バリエーションというのは注目してくれってアッピールするためと休むための手段だ。見た目は格好がいいのかもしれんが評価の対象としては小さい。君達はまだ初心者だしベーシックしか知らないならベーシックだけでアッピールすればいい。」
「了解。恥をかいて来ます。」
「まあ、それほど恥をかくことにはならんだろう。」
イスマイルはダンスの衣装を用意しなければならなかったが、それは容易だった。
ダン研の例会にダンス衣装専門の洋服屋が来て1年目の寸法を測り衣装の注文を取っていった。
ダン研はお得意様なのだ。
イスマイルは皆んなと同じような紺色のテールコートを注文した。
青石薫は明るい黄色のドレスを注文した。
イスマイル達はワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ、ウインナワルツから構成されるスタンダード種目の他にチャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレからなるラテン種目にも出場することになった。
イスマイル青石ペアはスタンダード種目用の衣装でラテン種目を踊る。
お金のないダン研の他の1年目のペアと同じだ。
D級の競技では全種目を踊るわけではなくスタンダード種目から2種目が選ばれラテン種目から2種目が選ばれる。
今回の競技会ではスタンダード種目はワルツとタンゴでラテン種目はチャチャチャとサンバだった。
2種目に限定される理由はアマチュアダンス大会のD級は出場人数が多いからかもしれないし、このクラスのダンスレベルの判定は2種目だけで十分なのかもしれない。
大会当日、イスマイルは車で青石薫を迎えに行った。
女性は荷物が多いのだ。
ドレスの他に化粧道具や何やらを持っていかねばならない。
イスマイルはテールコートとズボンが入ったスーツケースとダンスシューズが入ったスポーツバッグ一つだけだった。
会場の入り口で青石薫と荷物を降ろし、車は近くの駐車場に入れた。
その日の大会では最初にスタンダードの競技が行われ、その後ラテンの競技がおこなわれる。
スタンダードのD級の出場者は100ペア近くあり、いくつかのヒートに分けられ、本戦に出場できるペアが成績順に決められてゆく。
その日、イルマズ青石ペアはベーシックだけで踊った。
イスマイルは空のCDケースを頭の上に乗せて踊った時のように少し動きをセーブして踊った。
青石薫はイスマイルの動く通りに素直に従った。
イルマズ青石組はファイナリストが選ばれる12組のグループに残った。
ダン研1年目の3組もその中に入っていた。
ダン研はレベルが高いのかもしれない。
最終的に選ばれるファイナリスト6組は12組が一斉に踊るセミファイナルで選ばれる。
選ばれなかったペアは7位から12位ということになる。
イスマイルの踊りは予選と同じ踊りであったがファイナリスト6組に入った。
ダン研1年目の3組はファイナリストにはなれなかったが、12位以内に入賞できたのだからD級と即日認定された。
ファイナルダンスを踊り終えたペアはダンス会場に残ってその場で結果を聞く。
結果は3位から発表されていく。
自分たちの名前が呼ばれるのは嬉しいことだが、それは優勝できなかったということを意味する。
2位のペアは特にそう感じたことだろう。
イルマズ青石組は最後に呼ばれた。
優勝したのだった。
イスマイルはどうすればいいのか分からなかったのですぐに頭を下げてお辞儀をした。
会場からは失笑が漏れた。
青石薫は落ち着いてイスマイルの手を取って二歩ほどゆっくり前に出てから片膝を曲げて開いた片手でドレスをつまみ優雅にお辞儀をした。
イスマイルはそれに続いて二度目のお辞儀をした。
会場からは拍手が起こった。
イスマイル達の午前の試合はこれで終わった。
会場ではこれから上級の競技が行われる。
あとは午後にラテンの競技がある。
競技は昼食休憩の直後に行われるので早めに昼食を取っておく必要があった。
ドレスを着て外に行くわけにはいかない。
「青石さん、昼食はどうする。着替えてから早めに食べに行くかい。」
「ううん。着替えないでこのままでいるわ。2曲しか踊ってないのに汗だくなの。一旦着替えたらまた着る時に冷たくて気持ち悪いからね。昼食の心配はないわ。私が我がリーダーのために昼食を用意してきたの。一緒に食べよ。」
「気がきくね。いただくよ。」
「それにしても、私達ってよく優勝できたわね。思ってもいなかった。」
「そうだね。ベーシックだけで会場を動いていただけだ。優勝できるとは思わなかった。」
「年季の入っているペアもたくさんいたのにね。予選の時にそんなダンスを見て、とてもセミファイナルには行けないと思っていたわ。」
「まあ蒲田先生がD級は形と動きだけで判断するって言っていたけど、それに救われたのかもしれないね。これからは少しずつバリエーションのステップを覚えなくてはいけないだろうな。A級のダンスを見たけど我々とは格が違うよ。」
「同感。イスマイル君、午後はラテンよ。チャチャとサンバ。どうする。」
「どうするって言われてもね。僕はあまりラテンが好きでないんだ。ラテンの踊りはノーブルさ、高貴さがないと思っている。社交界ではラテンは踊られないよ。」
「それも同感。ラテンは自分が好きで踊るダンスでなく人に見せるダンスね。セクシャルアッピールを含めてね。」
「『モテン』でもいいかなあ。」
「なあにそれ。『モテン』ってなに。」
「モダン的ラテンダンス。僕が今作った言葉だ。頭の高さを変えないでほとんど立っているダンス。青石さんがほとんど全部踊るダンス。」
「もちろんステップは正しくつま先からでしょ。」
「それはもちろんだ。ステップは正しくする。腰も正しく外す。ただ僕が動く距離が少なくなるようなステップに青石さんをリードする。」
「了解。イスマイル君は休んでいて。私が一人で踊るわ。その方がおもしろそう。」
「助かるよ。」
「男性も動かなければならないパソドブレが競技種目に入らなくて良かったわね。」
「同感だ。」
午後のラテンの競技でイスマイルはそれでもテールコートを脱いで白のYシャツに黒のサスペンダーというラテンダンスのリーダーらしい出で立ちで踊った。
イスマイルは『モテン』で踊ったのだがイルマズ青石組は予選を突破した。
しかしながらファイナル6組には残ることができなかった。
ダン研の3組の1年目ペアも予選を突破したが、ファイナルには残ることができなかった。
セミファイナルまで残ったダン研の1年目の4ペアはラテンのD級に認定されることになった。
スタンダード部門で優勝したイルマズ青石ペアはスタンダードC級に即日認定された。
青石薫を寮に送り届けた時、青石薫は「今日はありがとう、イスマイル君」と言って車を降りた。
イスマイルは研究所の駐車場に一旦戻ったが、研究室に行かずにマンションに戻った。
イスマイルは珍しく疲れを感じていたのだ。
イスマイルはマンションの駐車場に苦労して車を停め、風呂に入ってから本物のベッドで眠った。
夕食は取らなかった。
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