第10話 9、重力を遮断する単結晶

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 10月の半ば、ダン研の武川武蔵部長は新しいカップルを発表した。

ペアの決定権はダン研部長だけにあり、それが強い権力となっている。

部長の選出は2年目以上の合議で選ばれるから公平な人間が選ばれる。

人間性が豊かな人間でなければ安心して部長に従うことはできない。

 1年目の女性はこの時には9名になっており1年目の男性は4名だった。

2年目の5ペアのうち3人の女性がいなくなっていた。

色々な理由があったのだろうが、教習所に通わなければならないという金銭的な問題も入っていたのかもしれなかった。

3年目の3ペアでは一人の女性がいなくなっていた。

4年目は変わらなかったが4年目はすでに役割を終えていた。

ダン研の目的である7月初旬に行われる「全日本学生競技ダンス選手権大会」には卒業しているので出場出来ないからだ。

 パートナーがいなくなった4人の男性リーダーには1年目の女性4人が割り当てられた。

リーダーは自分のパートナーを必死に教える。

上級生のパートナーになった1年目の女性はすぐに上手になるそうである。

 イスマイルは4年目と同じ様に戦力外であった。

イスマイルは学生ではないので全日本学生競技ダンス選手権大会には出場することができないのだ。

武川部長は1年目の女性の『ダンスのうまさ』の順位表を作り、上手な1年目の女性から順番に3年目、2年目、1年目のペアを作っていった。

だれが見ても公平にだ。

 畢竟(ひっきょう)、一番下手な1年目の女性2名が残り、そのうちの一人がイスマイルのパートナーに割り当てられた。

イスマイルのパートナーは青石薫だった。

後で聞いたところによれば青石薫はイスマイルのパートナーになることを武川部長に直訴したらしい。

残った1年目の女性一人は予備軍として残ることになった。

例会では前部長の秋山先輩がリーダーとなってペアを組んで踊る。

A級の秋山先輩と踊ればその女性はすぐに上手になるはずだ。

 その日、新しいペアは初めて組んで踊った。

「イスマイル君、よろしくね。」

青山薫はイスマイルと組む前に微笑んで言った。

イスマイルは「こちらこそよろしくお願いします、青石さん」と言ってから青山薫の右手を握ってから右手を青石薫の背中に回してそっとホールドした。

柔らかく小さく冷たい手だった。

青石薫の背中に接する右手の人差し指の左側は青石薫の背中の暖かさを感じた。

 おそらく誰だって初めてペアを組んで踊るときはぎこちない。

一年目同士のペアはそうなる。

しかし、ダン研の1年目はステップを知っており、シャドウで踊ることができるようになっている。

ペアを組んでも互いに勝手にシャドウを踊れば何とかなる。

ダン研はリードの仕方なんて教えてくれなかった。

そのうちできるようになると先輩達は言っていた。

 イスマイルは自動車を持つことにした。

1月になれば1年目は教習所に通わなければならない。

女学生にとって教習所に通うことはかなりの負担になるはずだった。

交通費もバカにならないし、帰宅は夜になってしまう。

長続きするためにイスマイルは自分のパートナーを自動車で送り迎えをすることにしたのだ。

自動車は研究所の駐車場に停めておくことができる。

 12月のダン研の最後の例会にイスマイルは自動車に乗って参加した。

「青石さん、今日は自動車で来た。帰りは送って行くよ。青石さんの住居を知らなければならないからね。教習所には車で送り迎えしてやるつもりだよ。雨の日は便利だ。」

「ありがとう。教習所は結構遠いし、どうしようかと思案していたの。」

「僕の大事なお姫様はカボチャの馬車ではなくゴムタイヤの着いた鉄の箱で送り向かえをいたします。」

 「イスマイル君は前から自動車を持っていたの。合宿には乗ってこなかったけど。」

「数日前に手に入れたんだ。昨日と一昨日は洗車と掃除と調整に忙しかった。」

「ということは中古の自動車ね。今時の自動車なら調整なんて必要ないから。」

「だいぶ古い車だよ。ガソリンエンジンで走るんだ。」

「えー、ガソリン車なの。プレミアものじゃあない。もったいなくない。高く売れるわよ。」

「トルコの自宅にはまだ数台あるから。保存状態も比較的いいしね。自動車は動くうちに使ったほうがいい。」

 例会が終わってイスマイルと青石薫が練習場の建物から外に出ると入り口近くに大きなセダン型の乗用車が停まっていた。

イスマイルは青石薫をその自動車に案内し、助手席のドアを開けて言った。

「どうぞお乗りくださいませ、お姫さま。」

「見たことがないほど古い車ね。ほんとに大丈夫。」

「大丈夫だった。一発でエンジンがかかった。整備をしてから送ってくれたようだ。」

「送ってってトルコから送って来たの。」

「そうだよ。」

 その時、武川部長が自分のパートナーと入り口から出て来てイスマイルの車を見つけ、近づいて来てから言った。

「イスマイルの車か。超古典的な車だな。・・・ベンツじゃあないか。だがちょっと変だな。これ、ひょっとして特別仕様車じゃあないか。」

「はい、防弾防爆仕様になっております。バカ重くて燃費はガックリするほど悪い車です。」

「よく手に入ったな。50年以上も前の車だぞ。暗くて良くわからんが塗装もしっかりしているようだ。」

「大切に保存されていたようでした。」

「いい車だ。いつか運転させてくれ。」

「了解。」

 青石薫の住居は東大生の女子寮で大学からはそれほど遠くなかった。

「この車ってすごくいいわね。振動もないしエンジンの音もほとんど聞こえないし外の音もほとんど聞こえない。乗り心地は満点よ。」

青石薫は車を降りるときに言った。

「1月の2週目の水曜日の午後6時にこの自動車でここに迎えにくる。一緒に教習所に行こう。」

「了解。ありがとう。おやすみなさい。」

「じゃあね、青石さん。良い新年を。」

 イスマイルにとり年末年始は自由に実験ができる環境だった。

誰もいない、よけいな振動がない実験室で心ゆくまで実験ができた。

年が明けて数日後の夜明け前、イスマイルはリチウム包摂カーボンナノチューブの小さな結晶を得ることができた。

それは青く透明な長さが違う6角柱が林立した美しい結晶だった。

 イスマイルが最初にしたことは結晶の重さを測ることだった。

結晶の塊から飛び出していた5㎜ほどの小さな6角柱を丁寧に折り取り、両端面に保護用のシールを貼り付け上皿天秤で重さを測った。

6角柱の横方向の重さは6方向で同じだった。

6角柱の縦方向の重さも2方向で同じようにみえた。

 次にイスマイルは結晶を脱脂綿で包んで円筒形の小さなプラスチックのアンプル容器に結晶軸が縦になるように入れた。

天秤に厚紙を敷いてその上に2極のネオジウム磁石を置き、その上に厚紙を置いてから結晶の入ったプラスチック容器を横に置いた。

重さを記録してからプラスチック容器を縦にして置こうとしたが容器をつまむピンセットからの小さな力の変化を感じた。

イスマイルは微笑んだ。

重力遮断物質ができたと感じた。

イスマイルは実験台に置いてあった冷めたインスタントコーヒーを飲み干して息を吐き出した。

 イスマイルは確信を持って3本指でプラスチック容器をつまみ、天秤の上からゆっくりと下げていった。

天秤の上の磁石の5㎝まで下げるとプラスチック容器は浮いた。

3本指を少し広げるとプラスチック容器は指の囲みの中で浮かんで歳差運動をした。

プラスチック容器の中の小さな青い結晶は脱脂綿を少し上に押し付けていた。

天秤のデジタル数字はプラスチック容器を近づける前と全く変わらなかった。

天秤の上で浮かんでいるプラスチック容器は天秤の磁石になんの力も及ぼしていないことになる。

透明な青い小さな結晶は周囲に力を及ぼすことなく重力に逆らって浮かんでいることになる。

 イスマイルは次に出来上がった青い単結晶の写真を撮った。

撮影台の上に白いフェルトの布を敷いて単結晶をいろいろな方向に向けてカメラで撮影した。

黒いフェルト布を敷いて同じように単結晶をカメラで撮影した。

この種の実験ではできた時にはすぐさまデーターを取っておくことが重要だ。

例え、同じことをすればできると思ってもそうすべきだ。

同じことをして同じものができるとは限らない。

 イスマイルは青い単結晶を脱脂綿を敷いた透明なプラスチック容器に入れて蓋を閉じ、自分の机の引き出しの中にしまって鍵をかけた。

単結晶の物性を調べる実験はアンプルに入れられた5ミリ程の単結晶で調べることができる。

しかしながら通常の物性測定の他に磁力と重力遮断力の関係、磁場方向と重力遮断力との関係、重力遮断力の限界、そして結晶の軸方向の物理的力に対する抵抗力など、重力遮断に関する実際の応用に向けた実験をしなければならない。

それらの正確な測定には特殊な補助器具が必要であり、現在のこの講座にはそれがない。

 イスマイルはすぐさま再現性の実験に取り掛かった。

新しい実験器具を使い、新しい試薬を使い、新たに最初からカーボンナノチューブの再結晶の作成に取り掛かった。

講座の皆んなが出勤してくる1日前に新しい単結晶ができた。

前よりも少し大きな単結晶だったが前と同様な6角柱の寄り集まった構造をしていた。

 イスマイルは実験台をきれいに片付けてから出来上がった単結晶を布に包んでポケットに入れ、久しぶりに自宅のマンションに歩いて戻った。

自宅のマンションの駐車場にイスマイルの大型自動車を入れるのは難しいからだ。

途中で白と緑の餅を買った。

マンションで餅に醤油をつけてチーズを添えて海苔を巻いて正月を食べて風呂に入って眠るつもりだった。

 正月休みが終わり研究室の皆んなが出勤してくるとイスマイルは中島美雪の部屋を訪問した。

「イスマイル君、明けましておめでとう。いい正月だった。」

「中島美雪先生、明けましておめでとうございます。いい正月だったと思います。」

「それは良かったわね。何をして過ごしたの。」

「研究室に泊まって一日中実験をしておりました。」

 「イスマイル君のその様子では単結晶ができたようね。どんな結晶だった。」

「青い透明な6角柱の結晶でした。」

そう言ってイスマイルは実験着のポケットから透明なプラスチック容器を取り出して中島美雪に手渡した。

「綺麗な大きな単結晶ができたわね。結構重い。6方晶系だったのか。宝石にもなりそう。物性は測ったの。」

「まだ測っておりません。」

 「物性を簡単に測ってさっさと論文にまとめて出してしまったらいいわ。この種の実験はね、他人が実験を真似して結晶を作ろうとしてもできないものなの。実験部分に記述された通りにやっても失敗する。実験部分で記述されているのは間違いではないのだけれど細かいノウハウは論文には記述されていない。紙面の無駄だからね。例えば『濃度が何々の何とか溶液の温度を順次下げて単結晶を成長させた』と記述されていたとしてもそんなことは当たり前でしょ。だれでも考えるわ。読者が知りたいのは、とにかくリチウム包摂カーボンナノチューブは結晶化することができて、それが青い透明な6方晶系だったということなの。」

 「分かりました、美雪先生。そうします。」

「それがいいわね。それでイスマイル君の夢には近づいたの。」

「近づいたと思います。美雪先生のご示唆の通り磁場を加えると結晶は浮遊しました。」

「おめでとう。良かったわね。今日は2回も『おめでとう』って言ったわね。・・・重力に関する物性はこの研究室では測定できないわ。測定のあてがあるの。」

「機会を見て一度、トルコに戻ろうと思います。私の造船所では何万トンものプレス機があります。磁力と重力遮断力の関係、磁場方向と重力遮断力との関係、重力遮断力の限界、そして結晶の軸方向の物理的力に対する抵抗力などを測定することができると思います。」

 「造船所って便利ね。」

「はい、工作機械の会社もあります。トルコに戻りましたら結晶を研磨して小さなペンダントを作ろうと思います。もちろん割れなければの話ですが。金の鎖をつけてから美雪先生にプレゼントします。世界に二つと無い空中に浮かぶペンダントです。」

「まあ、ありがとう。期待しているわ。でもイスマイル君の自信を見ていると何か別のものを考えているわね。何。」

 「分かりましたか。空中で踊ることができるダンスシューズです。僕はダン研に入っております。バランスを取ることは得意です。体重の移動もできます。重力遮断ダンスシューズを履いて空中でワルツを踊ろうと思います。」

「イスマイル君はとんでもないことを考えるわね。」

「もちろん、床に安全ネットを張らなければ危険ですね。」

「一緒に踊ってくれるパートナーがいればいいわね。」

「それが問題です。」

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