第9話 8、内閣情報調査室員
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「イスマイル君、ダン研はどう。例会には欠かさず出席しているみたいね。」
吾郷麻子は椅子を後ろに下げてイスマイルを覗き込んで言った。
「けっこう面白いと思います。色々な人と出会いますから。」
「それが世間というものよ。ダン研では女の子とダンスをしているの。」
「いいえ。1年目がパートナーと組んで踊ることができるのは10月過ぎだそうです。今は一人で踊るシャドウというものをしています。」
「まだ一度も女の子と踊ったことはないの。」
「一度もありません。」
「まあ、けっこうサディスティックなクラブなのね。」
「ダン研は競技ダンスのクラブです。目標は学生の全国大会で優勝することだそうです。」
「だから新入部員は期待はずれでポロポロいなくなってゆくのね。・・・それで実験の方はどうなの。」
「まだまだ先は長いですね。一応リチウム包摂カーボンファイバーはできたのですが長さが不揃いみたいです。単結晶には不向きですね。でもデーターを溜め込むのは良くないので『化合物が出来た』って言うことでまとめて論文を投稿しておきました。結果は一月後です。」
「もう論文を出してしまったの。」
「はい、単結晶ができるようになった時には今の実験データーはおそらく不要になります。埋もれさせてしまったらデーターが可哀想ですから論文にしておきました。」
「ふーん。そう言う風に考えるんだ。」
「私はそうです。実験データーを溜めると便秘になります。古いデーターは今やっている実験と比べると陳腐に見えます。実験を続けていると今やっている実験が一番重要でかっこよく見えるものです。古いデーターは二度と使われません。その実験を行っていた時には重要だと思っていたんですがね。だから一つの物語を作ることができるのなら論文にまとめて出しておくべきだと思います。便秘は体に毒ですから。それにそういうやり方をすれば第1報のデーターを利用する時は『何々は何々だ』って断定して文献一つ付けるだけで済むので便利です。」
「分かったわ。これまでのデーターをまとめて1報と、その後のデーターで1報ってのもいいわね。二つをまとめて簡単な修士論文にすれば格好がいいわ。美雪先生と相談してみる。」
「それがいいですね。できそうですか。」
「大車輪で回っているわ。かよわい細腕が遠心力でちぎれそうよ。鉄棒から落ちそうになったら助けてね。」
「了解。」
そんな中でイスマイルは藤井という男からアポイントメントの電話を受け、会うことにした。
面会場所を個体物性講座に指定したので、イスマイルの部屋に入ってきた男は3人の院生にその姿を晒(さら)すことになった。
イスマイルは折りたたみの椅子を広げて自分の椅子の横に並べて「お座りください」と言った。
「あの、できれば二人で話したいのですが、できますでしょうか。」
藤井は自己紹介の前にイスマイルに言った。
「いいですよ。一番離れた工作室でいいですか。」
「二人であればどこでも結構です。」
「了解。」
イスマイルは折りたたみ椅子を持って藤井を工作室に案内した。
「トルコ人のイスマイル・イルマズです。」
「内閣情報調査室の藤井不死也と申します。」
イスマイルは差し出された名刺を見て言った。
「格好がいいお名前ですね。初めて聞いた名前です。」
「恐縮です。」
「どのようなご用でしょう。」
「上司から貴方のことを調べるように命令されました。貴方はアメリカの諜報機関から四六時中見張られているそうですね。私は貴方のことを調べましたが、なかなか納得できる結果が得られませんでしたので直接お聞きした方が早いと思い面会を申し出ました。」
「どんな調査結果でしたか。」
「イルマズさんは来日する前はアメリカのMITに6年間在籍しておりました。その前を調べようとしてもよく分かりません。アメリカの身元の証明書はどうも偽造されたようでした。でもこの大学に提出されたイルマズさんの履歴書を拝見して驚きました。年齢不詳で研究業績は100年近くに亘って書かれておりました。納得などとてもできませんでした。」
「この大学に提出した私の履歴書は正しいと思ってください。私の年齢は108歳です。おそらく発育遅延症だと思います。貴方の名前のような不死ではないと思います。少しずつ歳をとっておりますから。」
「驚きました。よく生きて来ることが出来ましたね。」
「私の母は絶大な力を持っておりましたから僕は手厚く保護され、生き残ることができました。」
「お母様のお名前をお聞きしてもいいですか。」
「エミン・イルマズです。」
「知っております。40年間もトルコ共和国の大統領だった方ですね。でもずっと独身だったと聞いております。」
「はい、母は未婚の母でした。それで私はずっと一人で秘密裏に育てられたのです。」
「そうでしょうね。トルコは戒律が厳しい国でしたから。」
「私は母に感謝しております。」
「答えなくてもいいですが、お父上をご存知ですか。」
「知っております。川本五郎です。母から聞きました。母の遺品の中に川本五郎がトルコの保養地ベレクで描いた母の肖像画が残っておりました。母にはたった一つの宝物だったようです。」
「その事は知っております。川本五郎氏が書き残した回顧録にも書かれておりました。確か、テロリストを捕まえたご褒美にムスタファ・イルマズ大統領からゴルフに招待されたのでしたね。大統領の孫娘がお母様のエミン・イルマズさんで、一緒に楽しい時を過ごした様でした。」
「私も最近その本を読ませてもらいました。母は死ぬまで川本五郎を愛していたようです。」
「納得できました。川本五郎の子供ならイルマズさんが108歳の若者であっても不思議はありません。」
「どうしてですか。」
「うろ覚えで間違っているかもしれませんが、川本五郎氏は川本五郎氏の父上が作った5倍体人間だったはずです。2倍体ES細胞を倍数化させていって安定な5倍体細胞を作ったはずです。多倍体細胞では分化を妨げる遺伝子が発現されており、川本五郎氏の父上はその遺伝子の発現を抑制させて5倍体ES細胞を胚盤胞に入れて人間の借り腹を使って川本五郎氏を生んだはずです。そうだとすれば川本五郎氏の子供は分化を抑制する遺伝子が復活されてしまう可能性があるはずです。もしもイルマズさんの中で未分化遺伝子が発現しているとしたら成長は遅くなるのではないでしょうか。どうでしょう。イルマズさんは傷の治りが早いのではないですか。」
「傷は比較的早く治癒します。」
「そうでしたか。2つの可能性がありました。一つは未分化遺伝子の発現が強ければ傷の治りは遅くがん化の可能性が出てきます。未分化遺伝子の発現が弱ければ母上由来の遺伝子が相対的に強くなり、分化指向が強まり傷は早く治癒されると思います。」
「なるほど、尤(もっとも)らしい説明ですね。傷の治癒までは考えたことがありませんでした。藤井さんは生物学方面に造詣がお深いのですか。」
「スパイみたいな仕事をしておりますが一応医者です。」
「父の回顧録をお読みなら父のオーラを見ることができる能力をご存知ですね。」
「はい。知っております。奥様のアン・シャーリーさんと東京大学に就職の世話をした中国人の丁寧さんもオーラが見えたそうですね。」
「僕もオーラを見ることができます。」
「そうだとしたらイルマズさんは3倍体以上なのですね。アン・シャーリーさんも丁寧さんも正常な両親から生まれた3倍体以上の方でした。川本五郎氏の回顧録では3倍体以上がオーラを見ることができる条件だろうと書かれておりました。」
「僕はまだ自分のカリオタイプ を調べたことはありませんがおそらくそうだと思います。僕がオーラの話を出したのは日本の遺憾砲を心配したからです。どんな生体組織も100年も経れば老化します。日本の遺憾砲の威力は衰えていませんか。父のiPS細胞は保存されているのでしょうがどの様にして脳まで分化させたのかは記録にありません。父は5年もかけて遺憾砲を作ったみたいですが、分化された脳のセレクションには父のオーラを見ることができることが必要でした。私には遺憾砲の再生に協力する気持ちを持っております。」
「とんでもない方向に話が進んでおりますね。その辺りは何度も読み返しました。奥様の何気ない一言で遺憾砲の作り方に気がつかれたようです。」
「私も読みました。私は父を誇りに思っております。」
「イルマズさん。イルマズさんはこの数分間の話は秘密にしてください。明らかになれば世界の各国はイルマズさんの命を狙うようになります。行動を諜報機関から見張られていることから命を狙われる立場になります。とても生き残ることはできません。世界各国の首脳にとって日本の遺憾砲は目の上のタンコブです。遺憾砲があったら何もできません。早く無くなることを願っているのです。装置の老化を期待してじっと時が経つのを待っているのです。新しい遺憾砲ができるなんてとんでもないことです。全力を上げて阻止に動きます。」
「了解。とにかく私の意向はそういうことです。覚えておいて下さい。」
「了解。日本国はイルマズさんに感謝すると思います。話を戻してもよろしいでしょうか。イルマズさんはどうして諜報機関から見張られているのですか。」
「アメリカのMITでの研究のせいだと思います。MITではガンマー線に紫外光を乗せる研究をしておりました。ガンマー線レーザーを作って紫外光を乗せました。そうすると金属でも石でも瞬時に切断できるのです。この講座の学生は分子分解砲だと言っております。大型にすれば飛行機でも戦艦でも切断できるはずです。強力な兵器ですね。ですからアメリカは私に変な虫が近づくのを恐れて見張っているのだと思います。」
「いやはや、恐れ入りました。父が遺憾砲でその子供は分子分解砲ですか。イルマズさんはますます危険な立場になっていますね。アメリカならイルマズさんの知識が他国に渡るくらいならイルマズさんを殺しますよ。失敗しましたね。私がここに来たことはもう知られております。」
「身辺を注意することにします。ところでどうして私を調査するように命令されたのですか。」
「なにかイルマズさんのサークルの合宿で諜報員2名が見学をしたそうですね。そのことが家族に話されて、アメリカがイルマズさんに注目しているのに日本はそれを知らない。日本の防諜機関は無能だと家族に話されたそうです。その子の親は政府の要職だったようで室長に文句を言ったみたいです。まあその通りでしたね。内閣情報調査室は無能でした。イルマズさんがこんなに重要な方だとは知りませんでしたから。」
「その学生の姓は何ですか。」
「青石です。」
「青石薫さんか。これからは迂闊なことを話せませんね。」
「アメリカのMITで分子分解砲を作ったイルマズさんはこの研究室でどのような研究をなされているのでしょう。分子分解砲よりもっと強力な兵器ではないですよね。この研究室は兵器に転用できる研究をしている要注意研究室には入っておりません。」
「リチウム包摂カーボンナノチューブの研究をしております。化合物自体を作ることは容易です。数日前に最初の論文を出しましたから数ヶ月後には公開されるはずです。もちろん論文がアクセプトされればですがね。研究の中心はその化合物の単結晶を作ることです。飯島教授から頼まれました。ガンマー線レーザーのロッドを作るときのノウハウが役に立つだろうと思われたようでした。もちろん兵器には転用できそうもないですね。」
「私はイルマズさんの経歴をじっくり見させていただきました。イルマズさんは小さな時から何か大望をもって行動して来たと感じました。最初のうちはそうではないかもしれません。でも経済学を学んで銀行を設立し、工学部に入って工作機械の会社を作り、再び工学部に入って原子力発電を学び船舶用小型原子炉の会社を立ち上げました。さらに再び工学部に入って造船の設計を学んで造船所を作りました。その途中でも大学に入ってから造船に関連する会社を作りました。小さな製鉄所もお創りになっております。それを考えるとMITでの研究は造船で使う鉄の切断を目的としているような気がしました。イルマズさんがお創りになった造船所は原子力深海調査船を作っております。10000mの深海はだれも手を出せない場所です。そこで生活する限り完全に安全です。そのような経歴を考えますとこの研究室での研究も深海調査船が切実に求めている何かを研究なさっている様に思えます。というか、深海調査船自体がイルマズさんの目的のために作られたような気がします。」
「藤井さんは恐ろしい方みたいですね。分析力というか推理力というか洞察力というか全体を見ることができる方のような気がします。内閣情報調査室には必要な資質ですね。だから医者なのにスパイになられたのですね。医者でおられたら素晴らしい名医になっただろうと推察します。これから話すことはしばらく秘密にしてくれますか。いずれ論文で発表しますがそれまで秘密にしておいて下さい。いいですか。」
「論文が発表されるまでは秘密にします。上司にも報告しません。でもそれに対処する方法を考えておくことは許可して下さい。」
「許可します。・・・深海調査船は小さいくせに重いんです。1000気圧に耐えられるように60㎝厚の鋼鉄の装甲を持っております。もちろんそれは深海調査船としては過剰な装甲です。戦艦の主砲で撃たれても壊れません。そんなわけで深海調査船の重さは4000トンもあります。海上に出るには海底をキャタピラでゆっくりよじ登っていくか巨大な水素の気球で浮き上がります。ですから深海調査船は行動力がほとんどありません。この研究室での研究は深海調査船に行動力を与えるためのものです。具体的には重力制御です。重い鉄の塊である深海調査船を水中で自由に動かすことができ、おそらく空中も移動できるはずです。地球の引力圏内であれば宇宙にも出ることができると思います。深海調査船は気密性が高いですから。僕はこの目で宇宙から地球全体を眺めたいのです。」
「理解できました。長生きできるって素晴らしいことですね。たかだか100年の寿命を持つ普通の個人ではとてもできないことです。ミサイルも効かない分厚い装甲を持つ、宇宙から1万メートルの深海まで移動できる原子力船で、分子分解砲を装備している強力な戦艦ですね。しかもそれがすぐにも出来ようとしている。」
「そうなります。でもそれもこれもここでの研究の成否にかかっているのです。」
「日本政府もイルマズさんの会社から原子力深海調査船を買いたいものですね。遺憾砲の設置場所としては1万メートルの深海は最適だと思います。今まで秘密だった設置場所を公表してもいいですね。場所がわかってもその場所はだれも手が出せない場所ですから。日本への直接の攻撃の危険性は低くなると思います。」
「いつでもお売りしますよ。社主がお約束します。」
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