第8話 7、諜報員
<< 7、諜報員 >>
ダン研の合宿では朝食前にマラソンをする。
マラソンと言ってもたった1㎞を走るだけだ。
ダンスの競技では1曲の長さは4分間で、ダンスの速さはおよそ時速10㎞だそうだ。
6分間では1㎞の距離になる。
だから余裕を持って1㎞を走るのだと武川部長は説明していた。
武川部長も含めダン研の部員はダンスで2曲の8分間を踊るのは苦にならないがマラソンは好きでなさそうだった。
それでも全員が1㎞を走った。
朝食の時、話題になったことがあった。
「今日も黒い車が止まっていたな。変な車だ。」
「知ってる。校門を出るときは左側に止まっているが、一周回ってくると校門の右側に止まっている。昨日も今日もいた。車の中にいるのは大人の男が二人だ。」
「きみが悪いわね、イスマイル君。」
イスマイルの向かいに座っていた青石薫が言った。
「皆んなは気にする事はないよ。あれはどこかの国のスパイで、僕を見張っているんだ。」
「イスマイル君を。なぜなの。」
「僕は要注意人物らしいんだ。悪い虫が近づかないようにずっと見張っているらしい。暇人が多いようだね。」
「なぜイスマイル君が要注意人物なの。」
「僕の頭が良すぎるからだと思う。でもダン研の合宿先にまで足を伸ばすのはやりすぎだな。少し注意してこようか。」
「そんなことができるの。危険じゃない。相手はプロのスパイよ。」
「大丈夫だと思う。僕を見張るのは僕が大切だからだ。僕を傷つけようとはしない。」
「なにはともあれ気をつけてね。」
「OK。」
食事を終わって午前の練習に入る前にイスマイルは外出を申し出て「見学者を二人連れて来たい」と言った。
武川部長は事情をよく解らなかったが許可した。
イスマイルの知り合いがダン研の練習を見たいのだろうと思ったらしい。
イスマイルは校門を出て校門の右側、学校の敷地の端に止まってこちら側に頭を向けている自動車を見つめた。
自動車の運転手が突然下を向き、助手席側の男も突然下を向いた。
男たちの呼吸が止まったのだ。
気管支が収縮し空気を十分に吸うことができなくなったのだ。
イスマイルはこれまで離れた人間の呼吸を止める事はできなかった。
川本五郎の回顧録の伝記を読み、ひょっとするとできるのではないかと考え、伝記に書かれたように動物で試し、それが成功すると見知らぬ人でほんのちょっと試した事があった。
もちろんその人の発作はすぐさま回復した。
二人の大人を本格的に攻撃したのは今回が初めてだった。
1分ほど待ってからイスマイルは車に近づき運転席側の窓をノックした。
中の二人は顔を少し上げ、上目遣いでイスマイルを見て驚いた顔をした。
イスマイルは窓越しに大きな声で日本語で言った。
「どうしました。」
男たちはイスマイルを無視したが呼吸はますます辛くなるようだった。
ドアはロックされていると思ったがイスマイルはドアの取っ手を引いてみた。
ドアは簡単に開いた。
「どうしました。」
イスマイルはもう一度日本語で尋ねた。
日本で仕事をするのだから日本語は話すことが出来ると思ったからだ。
男たちはますます苦しそうな様子をし、手足が引きつったような痙攣を始めていた。
イスマイルはドアの横にしゃがみ込んで状態を観測していたが静かに英語で言った。
「僕は医者です。あなた方は急性アズマ(喘息)の典型的な症状です。もう少し続けばブレインアノキシア(脳無酸素症)になります。そうなったら手遅れです。廃人になり一生植物人間として生きなければなりません。あと10分くらいですね。その間はかなり苦しいですよ。体は必死で空気を求めますから。脂汗を流し始めたら危ないですね。」
「・・・助けてくれ。」
運転席の男が貴重な空気を使って呻くように英語で言った。
「僕も急性喘息発作は時々起こりますから気管支拡張剤のメプチンを常に持っています。今もポケットに入っています。急性喘息にきく即効薬はメプチンしかないと思います。今日1日だけ僕の言うことを聞いてくれるのならメプチン噴霧器を貸して上げます。どうします。」
「言うことをきく。貸してくれ。」
「OK、あなたにはお貸しします。もう一人の方はどうします。」
「言うことをきく。貸してくれ。」
イスマイルはズボンのポケットからメプチンの噴霧器を取り出してから言った。
「いいですか、いま貴方達の気管支はほとんど閉じておりますから空気は吸えないと思いますが、それでも噴霧器を口にくわえて一回だけボンベを押しながら空気を吸おうとしてください。気管支は少し拡張します。30秒ほど経ったらもう一回吸入してください。そうすれば薬剤は肺に入ることができて気管支は拡張します。いいですね。」
「わがった。ばやくして。」
イスマイルはメプチンの噴霧器を運転席の男に渡した。
男は大急ぎで噴霧器を口に咥(くわ)えてボンベを押した。
シュッという音と共に薬剤が出て、男は少し安心した。
劇的な変化が気管支で起こっているのであろう。
男は落ち着きを取り戻し、2回目の吸入をしてから噴霧器を同僚に渡した。
先ずは自分が大切なのだ。
二人の男が正常に戻ると運転席の男は噴霧器をイスマイルに「サンクス」と言いながら返した。
イスマイルは噴霧器をポケットにしまってから言った。
「医学は偉大ですね。喘息の即効薬はこれしかないのですよ。私もお世話になっています。私の周りの人は時々喘息の発作を起こします。不思議ですね。私は発作の原因菌を出しているのかもしれません。・・・さて、約束を思い出してください。今日1日だけです。いいですか。」
「分かった。どうすればいい。」
「先ず、武器を持っているなら車のダッシュボードにしまってください。車から出て車に鍵をかけてから私と一緒に体育館に来てください。ダン研の皆んなに紹介します。ダン研の皆んなはあなた方を不安に思っているのです。あなた達は午前の練習を見学してください。午前の練習を見学したらそれで終わりです。車で帰ってください。それだけです。できますか。」
「分かった。約束だ。そうする。」
「それから、体育館に入るときは靴を脱いで下さい。体育館内は内履き専用です。」
「分かった。」
イスマイルは二人を連れて武川部長の前に来て言った。
「武川部長、ダン研の練習を見学したい二人を連れて来ました。午前中の練習を見学させてください。」
「いいだろう。イスマイルの友達か。」
「いいえ、今日初めて会った知り合いです。どこかの国の諜報員だと思います。」
「諜報員だって。ほんとかよ。」
「ファチュアナショナリティ」とイスマイルが英語で言うと二人は「シクレット」といやいや答えた。
「国籍は秘密だそうです。」
「まあいい。午前中だけだな。」
「練習を見学したら二人は我々の前からいなくなると思います。」
「よし、許可する。」
その日のダン研の午前中の練習は少し異常だった。
部員達は壁の際に立っている外国人をちらちらと盗み見した。
二人とも室内でもサングラスをかけて背が高くがっしりしており、頭を動かすこともなく仏頂面をして前を見ていた。
午前中の練習が終わると、男達は何の挨拶もせずに黙って靴を履いて車で去って行った。
昼食の前に武川部長はイスマイルにきいた。
「イスマイル、あの二人は何だったんだ。えらく強そうだったな。」
「分かりません。でも体格から見ると観察をする人間ではなく戦いをする人間だったみたいですね。拳銃を脇に釣っておりましたから。」
「そんな人間がなぜイスマイルの言うことを聞くのだ。いやいや従っているって様子だったが。」
「二人の命を助けるかわりに今日1日従うように約束させましたから。」
「イスマイルはあの二人を殺そうとしたのか。」
「いいえ、植物人間の廃人になるところを助けて上げました。」
「分かったイスマイル。お前は凄い力を持っているみたいだな。」
「力はダンスの向上に使いたいと思います。」
「分かった。そうしてくれ。」
昼食時、青石薫はイスマイルの近くに待機していてイスマイルが食卓に着くと素早く隣の席に座った。
イスマイルに尋ねたくてウズウズしていたのだ。
「イスマイル君、あれが本物の諜報員なの。」
「分からないよ。聞かなかったから。」
「きっとアメリカね。それらしい雰囲気だった。」
「おそらくね。今日みたいに露骨ではなかったけどアメリカにいる時から時々見かけたよ。」
「ふーん。イスマイル君は日本に来る前はトルコではなくアメリカにいたんだ。イスマイル君はアメリカでCIAに目を付けられるようなことをしたの。」
「悪いことはしていないよ。大学で研究していただけだ。」
「だったらその研究が問題だったのね。だって考えて見て。一人のトルコの若者を見張るのに屈強な二人の諜報員を日本にまで派遣したのよ。人件費もかかるし、CIAもそんなに暇ではないでしょ。」
「アメリカは僕を過大評価しているのさ。」
「どんな研究をしていたの。」
「レーザーの研究だよ。」
「やっぱりそうか。おそらくそれって殺人レーザーでしょっ。それならCIAが見張る理由が納得できるわ。」
「青石さんは空想しすぎだよ。」
「それにしても無能なのは日本ね。アメリカのCIAが注目しているイスマイル君に日本の諜報機関は全く興味を示していない。アホな日本の諜報機関ってどこなの。」
「僕は日本の諜報機関なんて知らないよ。」
「それは内閣情報調査室だ。」
青石薫の向かいに座っていた2年目の大向武が言った。
「大向、それは違うぞ。確かに内閣情報調査室は日本のCIAと言われたがっているが日本の情報機関は分散されているんだ。まあ縦割り行政の弊害だな。」
大向武の横に座っていた3年目の横山泰が言った。
「内閣情報調査室ですか。いずれにしてもそれほど優秀ではなさそうですね、先輩。」
青石薫が断言した。
大向はようやく話の穂を見つけてイスマイルに言った。
「それにしてもイスマイル。お前はどうやってあんな強そうな諜報員を従わせることができたんだ。あの二人はイヤイヤ練習を見学していた。悔しそうな表情をしながらな。」
「これを使いました。」
そう言ってイスマイルはズボンのポケットからメプチンの噴霧器を取り出した。
「なんだそれは。痴漢撃退用のスプレーか。」
「これはメプチン噴霧器と言って喘息用の治療薬です。口に咥(くわ)えて空気とともに吸い込むと気管支が拡張します。気管支喘息のサッカー選手の映画が大昔にありましたね。サッカーが上手なのに気管支喘息で、試合前に治療薬を吸わないと試合では動けません。敵意を持つ同僚に試合前にボンベを壊されて期待外れになってしまうストーリーでした。僕は時々喘息になるので常時携帯しております。僕の周りの人も時々喘息発作が起こります。不思議ですがそうなんです。あの二人も急性喘息になったのでメプチン噴霧器を使わせてあげる条件で今日1日私に従うように約束させました。まあ悪徳医師が特効薬を使って威張るみたいものですね。だから悔しそうな顔をしていたのだと思います。」
「そうか。おれもお前の近くにいるのだから常備しておいてもいいな。」
「それがいいと思います。病院に行って『喘息だからメプチンを欲しい』って言えばすぐに処方してくれると思います。危険な薬ではないし、急性喘息発作にはこの薬以外に有効な薬はありませんから。」
「そうか。有効期限はあるのか。」
「あると思いますが、僕の経験では15年前の薬でも効きました。」
「分かった。東京に戻ったら病院に行って薬をもらってくる。」
「私もそうするわ。」
青石薫も言った。
その日、ダン研は午後の3時で練習を終え、全員で体育館の大掃除をしてから午後4時半に東京に向かって帰って行った。
ダン研の夏の合宿は無事に終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます