第7話 6、ダン研の合宿

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 ダン研は8月の夏休みには合宿をする。

比較的涼しい地方の小学校の体育館を数日間借りて1日中ダンスの練習をするのだ。

ダンスはCDプレイヤー以外の用具がないので合宿の準備は容易だ。

この頃までダン研に残っている1年目は競技ダンスを目指している者と見なされる。

合宿に参加する者はダン研に残る蓋然性が高い。

 東京大学の社交ダンス研究会には毎年比較的多くの1年目が入って来るそうだ。

東京大学の男女比率は学部によって違うが、およそ4:1であり、研究会の維持には女性の参加が必須であった。

1年目の女性には大鈴井乙女のような東大生もいたが、東京都内の短大生や女子大生が大多数であった。

 もともと、東京大学のクラブにおけるダン研の規模は小さかった。

東京大学の入学者数はおよそ3000人程度で、ある割合の学生がクラブに参加する。

毎年、ダン研に入って来る東大生は10人程度だそうだ。

300人の学生のうちたった一人が競技ダンスに興味を持ったということになる。

入学生の少ない単科大学ではダンス研究会は維持できない。

ましてや、女性だけの大学ではほとんど不可能だ。

 東京大学の社交ダンス研究会は女性に人気がある。

ダン研の男性は全て東大生であり、結婚の相手の学歴としてはそれほど悪くはない。

男子学生は一流企業に就職できるだろうし、結婚後の生活はそれほど苦しくはならないだろう。

ましてや互いに好きあっていれば申し分ない。

 イスマイルは合宿に参加した。

この時期までに残っていた1年目の男性はイスマイルを含めて4名で、医学部の3年生と理類の1年生が二人だった。

1年目の女性は10名で理類の一人と他の大学の9名だった。

医学部3年生の御手洗清が1年目の中ではリーダー的な存在だった。

 2年目は10人で5ペアができている。

3年目は6人の3ペアで構成されており、部長の武川武蔵がいる。

4年目は2ペアの4人だけだ。

4年目は時々例会に出席して1年目の指導をする。

例会ではほとんど練習をすることはない。

この連中が練習するのは教習所であり、踊るのは公式の競技会だ。

 ダン研ではダンスの基礎を教えるが、学生にはそれ以上を教えることができる実力はなく、2年目からはダンスの教習所に通ってプロからダンスを学ぶ。

競技会に出て、成績によってアマチュアダンスの級が決まる。

 東大ダン研の競技会における成績はいいらしい。

ダンスを踊り始めて実質2年半で頑張ればアマチュアA級になるという。

それというのも、1年目のトレーニングで体が鍛えられているからだそうだ。

街のダンス教習所ではそんなトレーニングをさせることはできない。

ダンス教習所は普通のダンスを教えるところであり、競技ダンスを教えるところではないのだ。

 「イスマイル。おまえの筋肉はどうしてそんなに強いんだ。トウライズをつま先でできるようになっている。それも片足バランスでもつま先で立っていることができる。人種的なものかね。」

武川部長が夕食の時にたまたま横に座ったイスマイルに言った。

「一生懸命練習したからだと思います。私には日本人の血が半分入っております。ハイブリッドは優秀なのかもしれません。」

「なるほど。ガソリンエンジンとモーター付きか。お前の燃費もいいようだな。お前はあまり汗をかかないし、練習をしても疲れたように見えない。」

 「でもまだ首の骨を後ろに伸ばすことができないし、上体も動いてしまいます。」

「そうだな。だが、だいぶ良くなっている。・・・よし、明日は特別メニューを加えよう。3年目の実力を1年目に見せてやろう。たまには3年目の連中に緊張感を持たせるのもいいかもしれん。」

「どんなメニューでしょうか。」

「CDの空のケースを頭の上に載せて4曲をルーチンステップで動く。ワルツとスローフォックストロットとタンゴとクイックのシャドウだ。まあ最初のワルツとスローフォックストロットでは落さないだろうがタンゴでは落とす者もいるかもしれんし、クイックではケースが吹き飛ばされてしまう者もでるだろうな。」

 「1年目もそれをするのですか。」

「当たり前だ。どれだけ上体を安定させているかのテストだ。A級はそれができる。おれは大鈴井先輩がそれをしたのを見ている。4曲を連続して踊っても頭の上のケースは落ちなかった。タンゴの時なんて素早く頭を反転してもケースは回転もしないでピクとも動かなかった。」

「凄いですね。」

「A級だからな。」

 武川部長は小さな食堂の皆に大声で言った。

「皆んな、食べながら聞いてくれ。明日の練習では特別メニューを入れる。CDの空のケースを頭の上に載せて4曲をルーチンステップで動く。ワルツとスローフォックストロットとタンゴとクイックステップのシャドウだ。ケースを落とした者から脱落する。最後まで落とさなかった者は合格だ。景品は、そうだな・・・その日の夕食にアイスクリームを付ける。部費から支出する。わかったな。以上。」

部員はどよめいた。

上級生にとっては面子がかかっているのだ。

 翌日の午前中の練習が終わってからCDケース競技会が行われた。

「先輩、お手本を最初にお願いします」と武川部長は4年目に言った。

「武川。おまえ、少し皮肉っぽくなったな」と前部長が言った。

4年目は二人の女性が3曲目のタンゴで落とし一人の男性が最後のクイックステップで風にあおられてCDケースを落とした。

前部長の秋山先輩はケースを落とさないで4曲を踊り終え、4年目としての面目を保った。

 3年目の6人は最後のクイックステップで5人が一斉に脱落し、武川部長だけがケースを落とさないで4曲を踊り終えた。

4年目と3年目の差はなくなっているのだ。

2年目の10人は女性が2曲目のスローフォックストロットで脱落し、男性は3曲目のタンゴで全滅した。

3年目と2年目のダンス技術の優劣は明白だった。

 1年目の14人はイスマイルを除く13人が最初の曲のワルツで脱落した。

最初のナチュラルターンで落とした者もいた。

イスマイルは頭の上のCDケースを考えないで踊ろうとしたが、考えないことはなかなか難しかった。

イスマイルはいつもよりも歩幅を少し小さくして、練習の時のような無理をしないで自分の体の制御がきく範囲で踊った。

イスマイルは4曲を一人で踊りきった。

 イスマイルが踊りきると周囲の皆んなは拍手してイスマイルを迎えてくれた。

武川部長が言った。

「イスマイル、よかったぞ。練習の時よりずっと動きが滑らかだった。そんな動きをすれば競技会でも優勝できるぞ。」

「ありがとうございます。ケースを落とさないように動きをセーブして踊りました。」

「それでいい。練習で無理をするのはさらに上に行くためだ。試合では少し落として余裕を持って踊らなければだめだ。だが練習で余裕を持って動いてはだめだ。そこで止まってしまうからな。」

「わかりました。」

 夕食でイスマイルの食膳にはご褒美のアイスクリームが載っていた。

4人がけのテーブルでイスマイルの横に座ったのは1年目の青石薫だった。

「イスマイル君はダンスが上手なのね。ケースを落とさなかった人はこのクラブで3人だけよ。」

「実はね、少しズルをしたんだ。頭の髪の毛にしっかりケースを掴んでいろって命令したんだ。髪の毛はケースが落ちそうになってもしっかり掴んでいたらしい。」

「まあ、便利な髪の毛ね。」

 「青石さん、よかったらこのアイスクリームを食べないかい。これを食べれば君の黒髪は君の命令に従うようになるかもしれないよ。」

「まあ、そうなればいいわね。いただくわ。私、アイスクリームは大好きなの。」

「どうぞ、食べてみて。ダンスも上手(うま)くなるかもしれない。」

「そうなればもっといいわね。イスマイル君の家はトルコのどこにあるの。」

「首都のアンカラの郊外にある。アンカラは高地にあるから東京よりずっと涼しくて快適だよ。」

 「イスマイル君は日本語が上手ね。英語も話せるの。」

「英語も話せる。英語は国外で生活するには必需品だからね。」

「いいわね。世界中の言葉が一つになればいいのにね。そうすれば外国語を勉強しなくてもすむわ。」

「同感です。それに世界の争いも少なくなると思います。青石さんの出身はどこですか。」

 「私は静岡県の静岡市よ。正確に言うと静岡市の清水区っていうところ。百年以上も前は清水市だったところよ。お茶やミカンが育つ温暖な気候の場所。冬は晴れて暖かいの。温暖すぎてそこで育った人間は甘くなるって言われているわ。」

「いい場所ですね。」

「私は清水が大好き。」

「清水の産業って何ですか。」

 「何かしら。良くわからないけど昔から裕福な地域だったわ。今なら当たり前だけど昔から山の際まで道路が舗装されていたそうよ。そうねえ、昔は石油の精油会社とかアルミの精錬会社とか造船所もあったそうよ。今は無くなっている。そう言う意味では静かな街ね。」

「いい街ですね。」

 「まあ、活気はないけどね。・・・あっ、そう。清水には重要な物があるの。私の高校のすぐ近くに川本五郎の研究所があるわ。周囲が厳重に見張られているの。川本五郎の研究所には日本の遺憾砲があるって噂よ。」

「日本の最重要施設ではないですか。遺憾砲があるから世界では大きな戦争が起きていない。」

「そうよ。でも、日本が攻撃されるときは最初に攻撃される場所とも言えるわね。」

「そう言えばそうですね。」

 「イスマイル君は理学部の研究所で何を研究しているの。」

「簡単に言うと炭素原子でできた筒の結晶化をしようと頑張っている。けっこう大変なんだ。」

「カーボンナノチューブの結晶化ね。でも結晶化はもうできているのじゃあなかったかしら。よく覚えていないけどネットで見たことがあるわ。」

「確かにできている。電子顕微鏡のレベルではね。僕はもっと大きな単結晶を作ろうとしているんだ。」

 「そう。高校の時に硫酸銅の再結晶の実験をしたことがあったわ。綺麗な青い結晶だった。イスマイル君、少し難しいことを聞いてもいい。」

「何だい。」

「どうして結晶はきれいなの。」

「むむむーっ。難しい質問だね。どうして結晶は綺麗なんだろう。形が揃っているだけでもないし、透明性があるだけとは限らないし、色が綺麗なだけでもないし、形が人間の想像を超えているというだけでもないし。どうしてだろう。わからないよ、青石さん。青石さんはどうしてだと思う。」

 「私ね、結晶が綺麗なのは同じ物が集まった集団だからと思っているの。同じものだから純粋な色を持ち、集団独特の形を作り、集団全体で透明感を出しているのだと思うわ。ダンスで言えば皆んなでやるフォーメーションね。マスゲームも綺麗ね。」

「不純物を含まない集団の美しさか。そうかもしれない。結晶の色に関しては人間の生理的な応答も含まれているのかもしれない。」

 「生理的ってどういうこと。」

「うん。結晶の色は純粋な光だ。夕焼けはきれいだろ。空の色も厳かで感動する。虹の色を見ても綺麗だと感じる。レーザーの色も純粋で美しいと思う。そう感じるのはそれらが単色光だからだと思う。僕らの周りの色は色々な色の混合物だ。茶色と同じだ。人間はその光を目で見て色々な波長の色に分解して脳に伝える。脳ではその情報からこういう色だと認識するんだ。夕焼けや虹やレーザーの光は部分部分を見れば単色光だ。脳がその情報を受け取ると単一波長だからいつものような認識過程が不要になってしまう。そうなると脳は困ってしまうだろ。いつもの仕事が不要だってことになる。だから脳は異常を感知して感動の感情を持つのだと思う。」

「いいことを聞いたわ。友達に会ったら『どうして虹は綺麗だと感じるの』って聞いてみるわ。まあ私の友達だったら『綺麗だと思うから綺麗と感じるのに決まっているでしょ』って答えるかもしれないけどね。」

 青石薫の向かいに座っていた1年目で医学部3年生の御手洗清が二人の会話に口を挟んできた。

「イスマイル、どうしてそんなに生理学に詳しいんだ。さっき話していた事はおれがちょっと前に勉強したことだぞ。」

「あの程度は常識だよ。それに僕は小さい時から優秀だったからね。僕は小さい時に医学を学んだんだ。」

「子供の時に医学を学んだのだって。」

「トルコは小さくても勉強できるんだ。僕はトルコでは一応医者だよ。国家試験に通っている。医学博士の学位も持っている。疑うなら今度、日本の医師国家試験の試験問題を数題持ってきてみ。昔からの問題ならおそらく正解できると思う。」

「ほんとかよ。」

「本当だ。」

 青石薫が言った。

「イスマイル君が医者で医学博士だとは驚いたわね。でも私も興味があるから御手洗君は去年の国試の試験問題集を持ってきて。解答付きの解説書ね。私が二人に同じ問題を出して判定してあげる。」

「僕はまだ3年生だ。国試の問題が解けるわけがない。」

「一般問題もあるでしょ。一般2問と専門2問を出してあげる。解答付きだから簡単。今度の例会に持ってきて。医学部ならどこにでもあるでしょ。図書館から借りてもいいし。おもしろそうね。」

「少し解答を暗記してから持ってこなければならないな。そうしないと恥をかく。」

「まあ、それでもいいわ。」

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