第6話 5、社交ダンス研究会
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イスマイルは研究に没頭した。
一週間の6日は研究所に泊まり込んだ。
ビニール製の折りたたみのビーチベッドを買って一番遠い工作機械がある実験室の片隅に立てかけておいた。
もちろん寝具はない。
実験室は寝具の埃(ほこり)を嫌う。
イスマイルの睡眠時間は短く、3時間も眠ることができれば困ることはなかった。
「イスマイル君、連日泊まっているようね。大丈夫なの。」
吾郷麻子が椅子を後ろに下げてイスマイルに言った。
「はい、実験が面白いのです。時々マンションに戻ってシャワーを取っていますが、臭(くさ)いですか。」
「ううん。不快な匂いはないわ。イスマイル君の体を心配しているの。」
「ありがとうございます。でもこれまでずっとこんな生活をしてきましたから慣れています。」
「そう、大丈夫ならいいのだけど。・・・イスマイル君。世の中って楽しいのよ。色々な人がいて色々なことが起こるの。イスマイル君は体が小さかったのでこれまで世の中にあまり出ることが出来なかったのでしょ。会社を作るのもきっと代理の人を使ったのだと思う。でも今のイスマイル君は完全な大人の若者よ。街の中に出て世の中を知ったら。」
「どうすればいいのでしょう。」
「そうね。自主的に外に出るのは続けるのが難しいから、外に出る必然を作ったらいいわ。」
「具体的には何をしたらいいのでしょう。例をあげてくれませんか。」
「そうねえ。ジョギングはいいけど、行きたくない時は行かなくなってしまう。必然ではないから。大学の運動クラブに入っても圧倒的な運動能力があったらうまく行かないわね。それに運動クラブの練習は毎日だろうから負担になると。・・・社交界に出る準備をしたらどうかしら。」
「社交界って。まだそんな大人の姿ではないですよ。」
「社交界って社交ダンスが嗜(たしな)みなんでしょ。この大学の学生の社交ダンスのクラブに入ったらどうかしら。イスマイル君はすぐに上手になるだろうけどダンスは一人ではできないわ。高校を出たばかりの素人の女の子がパートナーになると思う。イスマイル君は大学のサークルに入った経験がないんでしょ。今しかないわ。今なら一年目としてクラブに入ることができるはずよ。高校を出たての若者のように見えるから。」
「社交ダンスですか。・・・考えさせてください。」
「つなぎは私がしてあげる。ダンスクラブの部長だった同級生を知っているから。」
「嫌だったら辞めてもいいのですか。」
「もちろんいいわ。クラブに入った新入生なんてどんどん辞めていくわ。それが大学一年生の特権。クラブもそんなことは知っているわ。確か例会は火曜日と金曜日の午後6時から8時までだったかな。外に出る必然ができるでしょ。クラブが嫌になったら例会に出なければ自然と除籍されるから。」
「分かりました。つなぎをお願いします。ダンスの一つもおぼえておくのもいいですね。」
「OK。連絡が取れたら伝えるわ。」
数日後、イスマイルは社交ダンス研究会が練習に使っている場所に6時少し前に行った。
そこは学生のクラブのために使われている2階建の古びたビルの一室で、ダンスができる広い部屋だった。
社交ダンス研究会はその場所を週2回借りていた。
イスマイルが到着した時はその前にその部屋を使っていたクラブの部員が退出し、社交ダンス研究会の部員とみられる男女がCDプレイヤーを机の上に設置している時だった。
部屋に入ってきたイスマイルを見つけて一人の学生がイスマイルに近づいてきて言った。
「トルコ人の留学生のイスマイル君かい。」
「そうです。」
「ダン研の部長の武川だ。黒川さんから連絡を受けている。理学部の研究所の留学生だって。年齢は何歳だい。」
「若そうにみえますが少し歳をとっております。でも高校を卒業したての年齢だと思ってください。」
「分かった。年齢が何歳であろうと入部したての者は一年目だ。それでいいか。」
「それで結構です。」
「分かった。練習が始まる前に簡単にみんなに紹介する。君はすぐさま今日から1年目の練習に加わってくれ。練習は重要だがつまらない。」
「わかりました。」
その日の『ダン研』の1年目の最初の練習は『ホールド』という練習だった。
両手を逆ハの字に上げてその状態を10分間以上保つものだった。
ダンスをするには一曲の4分間、ずっと腕を上げていなくてはならない。
まず腕の筋力をつけなければならないのだ。
「肩を下げて、腕の関節を伸ばして」と上級生の指示がとんだ。
練習では『ホールド』のまま『ボディーライズ』と指示された。
上体を伸ばせという指示だった。
イスマイルは一生懸命上体を伸ばそうとしたが上体が伸びているようには思えなかった。
イスマイルはすぐに『ボディーライズ』とはお腹を引っ込めることで達成できることに気がついた。
その日の一年目の練習は『ホールド』と『ボディーライズ』と『トウライズ』だった。
『トウライズ』とは両足を開いて爪先立ちになることだ。
爪先立ちになれば体はバランスを崩しやすく必死にバランスを保たねばならない。
1年目のトウライズはつま先の指の付け根で立つことしかできない。
上手になってくると両足の親指の先端で立つことができるようになる。
もっと上手になると片足の親指の先端で立ってバランスを取ることができるそうだ。
世界チャンピオンクラスはそれが楽々とできるらしい。
一年目の新入生にとっては『ホールド』して『ボディーライズ』して『トウライズ』を続けるのは難しいことなのだが、それができなければダンスを美しく踊ることができない。
一般人がダンスの教習所で習う時にはそんな辛(つら)い練習は省(はぶ)かれる。
そんなことをしたらお客は去っていくからだ。
東京大学のダンス研究会は競技ダンスを目指すクラブだった。
イスマイルはダンスを習うことにした。
難しそうだったからだ。
翌日、イスマイルはダンス研究会御用達の靴屋でダンスシューズを注文した。
足の形を測ってそれに合わせて作ってくれる。
イスマイルのダンスシューズは黒のエナメルのシューズだった。
ダン研の上級生のシューズが黒のエナメルだったからだ。
次の例会でも1年目は『ホールド』と『ボディーライズ』と『トウライズ』の練習だった。
上級生が広間でダンスのルーティンを踊っているのを壁際で眺めながら『ホールド』と『ボディーライズ』と『トウライズ』を続けた。
そうしながら上級生のダンスを見ていると自然と基本のステップを覚えることができる。
6月を過ぎる頃になって1年目はようやくダンスのステップを教えてもらった。
練習場をうまく使って基本となるステップを全て含むような組み合わせになっているルーティンステップで、ダン研の伝統のステップだった。
一年目の十数人は一斉にシャドウで踊る。
シャドウとは一人でダンスを踊ることだ。
一人で踊ることができなければ相手に負担をかけることになる。
1年目がペアを組んで踊ることができるのは10月になってからだそうだ。
その間に、1年目の部員の数はどんどん減っていく。
8月初旬のダン研の練習に一人の先輩が出席した。
卒業した先輩はときどき飲み物などのお土産を持って例会に参加する。
その日に出席した先輩は昨年卒業した大鈴井乙女だった。
大鈴井乙女は新しい1年目の初々しい練習を眺めていたがイスマイルを見つけると驚いた。
イスマイルも大鈴井乙女を見つけてシャドウの途中であったが乙女の方を向いてあげていた腕の手首を折り曲げて挨拶した。
例会が終わると大鈴井乙女はイスマイルに近づいて言った。
「イスマイルさんはダン研に入ったのですか。驚きました。」
「私も乙女さんがダン研の先輩だと知って驚きました。」
「イスマイルさんはどうしてダン研に入ったのですか。」
「私が何日も研究所に泊まり込んで実験しているのを心配してくれた先輩が外に出る必然を作るべきだと考えて私をダン研に紹介してくれました。」
「そうですか。いい先輩がおられるのですね。」
「はい。乙女さんは大学の1年生の時からダン研に入られたのですか。」
「ええ。運動神経が少し良かったので勧誘されるままに入ってしまいました。」
大鈴井乙女の後ろに控えていた武川部長が言った。
「大鈴井先輩は凄いんだぞ。A級だし黒川さんと組んで全国大会でも優勝している。」
「黒川さんの実力よ。イスマイルさん、競技ダンスって男性のリーダーが上手なら優勝できるものなの。」
「イスマイル、先輩に逆らうようだけどそれは違うぞ。大鈴井先輩がいたからこそ黒川大鈴井ペアは優勝できた。」
「まあいいわ。武川君、今日はみんなと話すよりイスマイルさんと話をしたいわ。私がイスマイルさんと知り合いだと他の1年目は不安になるでしょ。今日は別行動。それでいい。」
「もちろんです。1年目の連中にはイスマイルは理学部での知り合いだったと言っておきます。イスマイルが理学部の研究所の留学生であることは皆んな知っておりますから。」
「ありがとう。そうして。イスマイルさん、それでいい。」
「ふふっ。この場では先輩がそうしたいのならそうしなければならないですね。大学のクラブは年齢ではなく先輩と後輩が重要だそうですから。先輩、よろしくお願いします。」
「分かった。皆んなとは別の喫茶店に行きましょう。先輩がおごるわ。」
「よろしくお願いします。」
二人は練習場から大学の外に出てイスマイルの研究所の方向に少し進んでから喫茶店に入った。
「イスマイルさんは何にする。」
大鈴井は奥のソファにイスマイルと対座するとイスマイルに聞いた。
「乙女さんと同じ物にしてください。乙女さんの好みを知りたいと思います。」
「分かったわ」と言って大鈴井乙女は紅茶を注文した。
「さてっと。驚いたわね。イスマイルさんが競技ダンスとは。」
「私も驚きました。奇遇ですね。」
「私ね、イスマイルさんのことが不思議だったの。この大学に来る前にMITにいたと聞いたので何を研究していたのかなと思って検索して見たの。そしたらイスマイル・イルマズの文献が山のようにヒットしたわ。100年ほど前からずっと続いていた。イスマイルさんの家って同姓同名が多いの。」
「イルマズ家ではイスマイルは一人です。世界で同性同名の人がいたのかもしれませんが、おそらくそれらの論文の大部分は私の論文です。」
「でもどうして。何十年も前の論文もあるのよ。」
「長く色々な分野を研究してきましたから。私の年齢は108歳だと思います。」
「そんな。・・・イスマイルさんは不死なの。」
「不死かどうかは生きている間は分からないと思います。私は言ってみれば発育遅延症です。早老症の逆ですね。知能は人並みに発達したようですが体の発達が遅れるのです。」
「そんなことってあるの。」
「こんなに長く生きているのは珍しいと思いますが、無いとも断定はできません。」
「驚いた。まるで西洋の伝説に出てくるの長寿のエルフみたい。競技ダンスの驚きどころではないわね。」
「乙女さん。このことはできたら秘密にしておいて下さいませんか。ダン研のメンバーが知ったら面倒になると思います。」
「そうね。秘密にするわ。私とイスマイルさんの秘密ね。うれしいわ。」
「あのー、私の年齢はうちの講座の全員が知っております。私の履歴書を見れば分かることですから。」
「そう、残念。・・・イスマイルさんはカリオタイピングとオーラのことを言っていたわね。その方面の研究をイスマイルさんは長い研究生活の中で研究したことがあるのですか。」
「はい。70年ほど前にイギリスのオックスフォード大学で6年間ほど生物学を学びました。でも当時の姿は6歳くらいの子供でしたからひっそりと研究を続けました。あそこは変なシステムの大学だったのでコネでもぐり込むことができたようです。乙女さんと同じように多倍体細胞生物学を学びました。」
「まあ。そしたら研究の大先輩じゃあない。私ってそんな先輩を前にして説明したのね。恥ずかしいわ。」
「私は多倍体とオーラの関係が知りたかったのです。私は当時からオーラを見ることができましたし、偶然に母の肖像画から川本五郎がオーラを見ることができたということも知りました。川本五郎が私の父です。その頃、丁寧先生の多倍体細胞生物学の研究が有名になりましたので私も多倍体細胞を研究しようと思ったのです。でも、丁寧先生もそうでしたが、オーラのことは研究論文には書いておりません。推測でしたし、他の人が見えないものを書くことはできませんから。」
「イスマイルさんは私にはまだまだ謎の人ね。」
「私は当時は小さかったし、医学部は出ていたのですが丁寧先生の多倍体細胞生物学に関しては初心者でした。それで一生懸命勉強はしたのですが自分の倍数性を調べることには考えが及びませんでした。川本五郎の回顧録を読んでようやく自分が見えるようになりました。今度機会があったら私は自分のカリオタイプを調べてみようと思います。でも急ぐ必要はありません。どうにもなりませんからね。」
「私なら自分のカリオタイプもイスマイルさんのカリオタイプも調べることができます。」
「そうだと思います。でも今はそのままにしておきます。自分のカリオタイプ は自分で調べたいし、今のままでもいいですから。」
「了解。イスマイルさんは固体物性講座で今は何を研究しているのですか。」
「カーボンナノチューブのリチウム包摂化合物の単結晶を作ろうとしています。」
「単結晶はもちろん知っているわ。カーボンチューブも知っている。包摂化合物ね。カーボンナノチューブの中にリチウム原子が入ったものですか。」
「そうです。」
「うちの講座の先輩から聞いたのだけど、理学部って世の中の役に立つことを自分の親に簡単に説明できる研究をする講座もあるし、どんな役に立つかを親に説明しづらい講座もあるのですって。イスマイルさんの研究ってどちらなの。」
「そうですね。どちらかと言えば後者です。包摂化合物の物性を調べやすくすることが世の中の役に立つのかどうかは分からないですね。でも研究って色々な副産物を出しますから役に立つ事も出るかも知れませんね。」
「そうよね。」
二人の話は1時間も続いた。
イスマイルは大鈴井乙女を理学部まで送った。
大鈴井にはもう少しやる仕事があったからだ。
イスマイルは理学部に隣接する研究所に帰った。
その日はいつものように研究所に泊まる予定だった。
シャワーと着替えは明け方にマンションに帰ってすればいい。
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