第5話 4、大鈴井乙女

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 歓迎会の数日後、伊能忠敬がイスマイルの席に来て言った。

「イスマイル君、川本五郎は超人的な筋力を持っていたそうだが君も超人的な力を持っているのかい。」

「持っております。」

「そうか。それは残念だったな。」

「どういうことでしょうか。」

 「うん。毎年化学科の院生の新入生で他の学科の新入生とソフトボールの試合が開かれているんだ。君が普通の筋肉を持っていたら参加してもらおうと思ったが、超人的な力を見せたらだめだろ。川本五郎と結びつくものは暫(しばら)く秘密にしておかなければならないからな。」

吾郷麻子が椅子を下げて言った。

「あら、去年もあったわね。私は参加したいって言ったんだけど参加させてもらえなかった。」

「まあ君は非力な女性だったからね。学科対抗だからいくぶん真剣勝負的な要素が入っているんだ。化学科内の親睦試合だったら参加してもらっていたよ。」

 「あの、伊能さん。私の筋肉は制御できます。普通よりほんの少しだけいい筋力にすることは容易です。」

「そうか。高校生の時に野球部に在籍していた程度で出てくれんか。」

「了解。どうすればいいのでしょう。」

「うむ。試合は次の日曜日だ。ユニフォームなんてないから運動ができる服を着て運動靴を履いて野球帽をかぶって朝の8時に大学の野球場のネット裏の受付に行って氏名を言えばいい。野球道具はボロい伝統の用具が揃っている。数だけは十分にある。適当な物を使えばいい。君の名前は僕から開催本部に伝えておくよ。」

「了解しました。」

「私も応援にいくわ。」

吾郷麻子が言った。

 当日、イスマイルが大学野球場のネット裏に行くと吾郷麻子が受付の前に立って待っていた。

「イスマイル君、ここよ。」

吾郷麻子は嬉しそうな顔をして手を振って合図した。

「おはようございます、吾郷さん。遅れましたか。」

「ううん。そんなことはないわ。おはよう、イスマイル君。」

 吾郷麻子は受付の大学院生に向かって言った。

「設楽君、この男性が今年うちに入ったトルコから来たイスマイル・イルマズ君よ。」

「そうか、吾郷さんは去年は出られなくて泣いたそうだが今年は応援かい。」

「そうよ、設楽君。イスマイル君はきっと君より運動神経があると思うわ。」

「ほー、そうかい。イスマイル君、君のポジションはどこがいい。日本語はできるな。」

 「おはようございます、設楽さん。イスマイル・イルマズです。最初のうちはどこでもいいです。試合が負けそうになったらピッチャーにさせてください。以後の出塁はさせません。勝ちそうならそのままでいいです。」

「えらい自信だな。吾郷さん、信用していいのか。」

「信用していいわ。」

「OK。君のポジションはセンターだ。打順は1番にする。負けそうになったらピッチャーにするよ。」

「了解しました。」

 化学科は先攻だった。

相手は生物学科で投手はスタイルのいい色白の女性だった。

1番打者のイスマイルが打席に入ってバットを構えると相手の女性ピッチャーは幾分驚いてから最初の球を投げた。

イスマイル・イルマズはバットを肩に立ててボールをじっと眺めていた。

ボールのスピードは早く、内角の低めで、回転はボールが下に曲がるような縦方向だった。

国際試合に出しても通用するボールだった。

おそらく化学科の院生は打てないし、試合は不利になるだろうとイスマイルは思った。

 2球目は外角のボールコースの速球だったが、イスマイルは腕を伸ばして軽く合わせてレフト前に落とした。

素人集団のソフトボールではレフト前に運べばヒットになる。

レフトから1塁までは遠いからだ。

イスマイルは一塁ベースの上に立って女性投手に微笑んだ。

 化学科の攻撃は続かなかった。

相手投手は続く3人を全て三振でしとめた。

化学科の投手は打たせて取るという投球であった。

正確なコントロールで山なりの遅球を投げ、打たなければ三振になるし打てばボールの芯を捉えにくかった。

それでも遅いボールに強振のバットが当たるのだから外野にまでボールは飛び、2点が入ってしまった。

 4回の表にイスマイルの打席が回って来た。

イスマイルは内角のボールを再びレフトの前に運んだ。

落下点は前のヒットの落下点と同じに見えた。

イスマイルは一塁ベースの上に立って再び女性投手に微笑んだ。

女性投手はイスマイルを見て口の端を少し上げた。

化学科の後続は三振で討ち取られた。

 4回の裏からイスマイルはピッチャーになった。

イスマイルはキャッチャーの大学院生に言った。

「ミットに向けて投げます。ボールコントロールは正確ですからミットはほとんど動かさなくていいと思います。速い球も時々投げます。全員を三振にする予定です。」

「了解。信用する。」

 イスマイルはそうした。

初球は豪速球のストライクであった。

2球目も豪速球でストライクだった。

3球目も豪速球でストライクだった。

打者は3球目にバットを振ったが三振となった。

ボロボロのミットからボールの吸い込まれる音が鳴り響いた。

次の打者には速球の変化球を投げ、全てを空振りにしてしとめた。

 3人目は女性のピッチャーだった。

イスマイルは微笑んでからど真ん中の豪速球を投げた。

1球目は見送るだろうと思ったからだ。

女性は黙ってボールを見ていた。

 イスマイルは幾分不安になってキャッチャーにミットを上げるようにサインを送ってから2球目を投げた。

ボールは地面を這うような豪速球だったが重力を考えれば明らかに地面に落ちるコースだった。

女性はバットを振らなかったが、投げられたボールは浮き上がりキャッチャーの肩の位置に構えられたミットに音を立てて吸い込まれた。

 3球目は同じコースだったが少しだけ高い球だった。

球は浮き上がってキャッチャーの頭の位置でミットに吸い込まれた。

バッターは球の移動に合わせるようにバットを移動させたが、下方への移動は容易だが上方への修正は難しかったようで三振した。

 その後の5回、6回、7回の化学科の攻撃では点数は入らなかった。

イスマイルの打席は7回の最後に回って来た。

たとえホームランを打ったとしても化学科の敗北は後続が打たない限り濃厚だった。

生物学科の女性ピッチャーはイスマイルの打席ではイスマイルと同じくらいの豪速球を投げたのだがイスマイルはボールをレフト前の同じ場所付近に運んだ。

化学科の後続は討ち取られ、化学科は無得点で敗北した。

 ソフトボール試合の数日後、イスマイルが学生食堂で食事しているとイスマイルの向かいの席に生物学科の女性ピッチャーが「ここ、よろしいですか」と言ってイスマイルの答えを待たずにフラスチックでできた四角のお盆を置いた。

イスマイルは女性を見上げて言った。

「こんにちは、どうぞ。先日のピッチャーの方ですね。ソフトボールがお上手なのですね。」

 女性は言った。

「ありがとうございます。でもあなたの方がずっと上手だと感じました。」

「固体物性講座のイスマイル・イルマズです。トルコからの留学生です。」

「多倍体細胞生物講座の大鈴井乙女です。留学生でしたか。どうりで記憶にありませんでした。」

「大鈴井乙女さんはずっとこの大学ですか。」

「はいそうです。イスマイル・イルマズさんはトルコの大学からいらっしゃったのですか。」

 「いいえ、昨年はアメリカのマサチューセッツ工科大学におりました。その大学で6年間過ごしました。トルコからと言うのは形式的なものです。トルコ人ですから。」

「そんな風には見えませんでした。留学生と聞いた時にはトルコの高校を出てから日本に留学したのだろうと推測しておりました。」

「私は若作りなのです。大鈴井さんの講座名は珍しい名前ですね。」

「でも90年以上も続いている講座です。この前、90周年記念をしましたから。」

「そうでしたか。普通は教授が変われば講座名も変わる場合もあります。後継者がいる根付いた学問分野なのですね。すっかり話が先になってしまいました。食事をしながら話をしましょう。」

 大鈴井乙女は目の前のカレーライスを少し口に含んでから急いで嚥下して話を続けた。

食べるより話を続けたかったみたいだった。

「私の講座は川本五郎と関係しているのですよ。」

「日本の遺憾砲を作った川本五郎ですか。」

イスマイルはとぼけた。

「そう。世界の秩序を変えたスーパー外交官の川本五郎よ。」

「どんな関連があるのですか。」

 「うちの講座を開いたのは中華人民共和国の丁寧先生なの。北京が核戦争で廃墟になって丁寧先生は川本五郎に就職をお願いして生物学科の実験助手にしてもらったの。丁寧先生の研究能力は圧倒的に優れていたみたいで、あっという間に講師から教授になってこの講座を開いたの。丁寧先生がこの講座につけた『多倍体細胞生物学』という名前は川本五郎のお父様が最初につけた名前よ。うちの講座では公然の秘密なんだけど、川本五郎はお父様が造った5倍体人間だったの。だから長男なのに五郎。川本五郎の能力は知っての通りよ。怪物的。うちの講座は第2の川本五郎を造ろうとしているの。五倍体人間は子供を作ることができないから。丁寧先生も多倍体人間だったようよ。子供はできなかったわ。」

 イスマイルは話しを深めることにした。

「興味ある話です。大鈴井さんはソフトボールの試合で僕を見て少し驚いていました。どうして驚いたのですか。」

「分かりましたか。じつは私は人間のオーラが見えるのです。イスマイル・イルマズさんのオーラはとても大きかったのです。それで驚きました。」

「何色でしたか。」

「まあ、信じてくれるのですか。透き通った黄金色でした。」

「そうでしたか。あなたのオーラは透き通った紫色ですよ。」

 「まあ、イルマズさんもオーラが見えるのですか。」

「秘密でしたが、私も見ることができます。大鈴井さんが秘密を明かしてくれましたから私も秘密を明かしました。」

「ありがとうございます。仲間ができたような気がします。」

「最近、川本五郎の伝記を読みました。著者は晩年の川本五郎本人でしたから回顧録というような本でしたね。川本五郎はオーラが見えたそうです。奥様もオーラが見えたそうです。丁寧先生のことも最後の方に記されておりました。丁寧先生もオーラを見ることができたそうです。奥様のプロゴルファーだったアン・シャーリーさんも丁寧先生も共通するのは通常の2倍体人間ではないということだったそうです。正常な両親から生まれた異数倍数体人間だったそうです。大鈴井さんも私もそうかもしれませんね。」

 「自分の倍数性はまだ調べておりませんでした。そうでしたか。多倍体を研究しようとしているのにだめですね。」

「たいていの人間は自分の染色体数を知らないで死んでいきます。当然2倍体だと思っておりますから自分のカリオタイピングをしないで亡くなります。それにいまだにカリオタイピングは面倒ですからね。遺伝子調査はお金を出せば簡単にできますが遺伝子調査ではカリオタイプは分かりません。大鈴井さんは若いし、知らなくても当然です。まだ始まったばかりですから。それに個人のカリオタイプは変えることができませんから。ありのままを受け入れるしかありません。大鈴井さんのご両親は普通の方でしたか。」

「私の両親は普通の人間です。もちろん今も生きております。イルマズさんのご両親はどうですか。」

「母は未婚の母でしたが普通の人間だったと思います。30年以上も前に死んでおります。」

 「そうでしたか。聞いて申し訳ありませんでした。」

「どういたしまして。食事を終えてから話すことにしませんか。大鈴井さんのカレーライスはほとんど減っておりません。」

「そうですね。食事を終えても話を続けることができますか。」

「自動販売機から飲み物を買ってから話すことにしましよう。」

「うれしいわ。」

 二人は無言で食事を続けた。

時々、顔を上げて互いの顔を見てから微笑み、再び食事を続けた。

食べながら目前の相手に関して色々思案をめぐらし、合間に顔を上げて互いに微笑んでから再び食事を続けた。

食事を終えて二人で自動販売機から飲み物を取り出す頃には二人は友達になっていた。

イスマイルはイスマイルと呼ぶように伝え、大鈴井乙女は乙女と呼ぶように伝えた。

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