第3話 2、イスマイルの研究課題
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翌日、講師の中島美雪と事務員の岡田冴子が出勤してきた。
中島美雪は興味津々で自室にイスマイル・イルマズを呼んだ。
イスマイルを小さな低いソファに腰掛けさせ、自分は対面の同じようなソファに深々と腰掛けて言った。
「私はこの講座の講師で中島美雪。みんなの実験を指導しているわ。よろしくね。」
「トルコから来た留学生のイスマイル・イルマズです。よろしくお願い致します。どうぞイスマイル君と呼んでください。」
「日本語が上手ね、イスマイル君。英語もできるわね。」
「はい、できます。」
「飯島先生から聞いたわ。包摂化合物を学ぶためにこの講座に来たのね。」
「はい、そうです。」
「どんな包摂化合物を研究したいの。」
「一列に原子が配列されている包摂化合物を作りたいと思っております。」
「この講座では炭素のボール状の籠(かご)に原子を入れた包摂化合物と炭素のナノチューブに原子を入れた包摂化合物を研究しているわ。一列に配列されたものを作りたいのならカーボンナノチューブの包摂化合物を研究したいのね。」
「求めている包摂化合物は方向性を持った包摂化合物です。ナノチューブの先端に鉄のような重金属の入ったボールをマーカーとして着けたいと思っております。」
「えらく具体的な構想を持っているのね。それならナノチューブに入れたい原子も決まっているの。」
「はい。理想的にはリチウムだと思います。」
「リチウムなら入ると思うけどそれだけではなさそうね。」
「はい、そうです。ナノチューブ内のリチウムは一方向を向いて離れて並ぶ必要があります。」
「でも、リチウム原子は等方性よ。方向性はないわ。等方性の原子に方向性を持たせることはできないわ。」
「私もそう思いました。それでこの講座にお邪魔しました。うまい方法が見つかるかもしれないと思いましたから。」
「イスマイル君。イスマイル君は私が逆立ちしてもかなわない知識量を持っていることは教授から聞いたわ。なんでそんな包摂化合物を作りたいの。秘密かもしれないけどそっとお姉さんに教えてくれない。」
「中島美雪先生。私は宇宙から地球を眺めてみたいと思っております。その思いを実現するためにそんな包摂化合物を作りたいのです。」
「驚いた。簡単には関連を想像できない答えね。ちょっと待ってね。・・・そんなばかなね。でもそれしかないわね。・・・イスマイル君。イスマイル君は重力を制御しようとしているのね。」
「はい、そうです。」
「やはりそうなの。原理は想像できないけど。」
「原理は簡単です。『世界はそのままでいたい』という原理です。」
「まだ想像できないわ。」
「世界には目に見える色々な物理量があります。分かりやすいように物理量を3つに分けます。最初は圧力と温度で、それらは分子運動として説明されています。2番目は磁力とクーロン力でそれは電子の動きとして説明されています。3番目の物理量としては時間と引力がありますがそれはまだ説明されておりません。『世界はそのままでいたい』という原理で説明できる1番目の物理量に関してはルシャトリエの法則があります。化学平衡反応で圧力が増える化学反応では容器の圧力をかければ反応は反対方向に向かうし温度が増える化学反応では容器内の温度を上げれば反応は反対方向に向かいます。理解はしやすいのですが機構はよくわかりません。2番目の物理量に関してはレンツの法則があります。コイルに磁石を近づけると近づけないような磁力が発生するようにコイルには電流が流れます。でも磁石を近づけても磁石を止めれば電流は流れません。この法則も理解はしやすいのですが機構はわかりません。3番目の物理量に関しての法則はまだありません。でも知られている事実があります。加速度が変われば時間の進み方が変わるという事実です。これは時間と加速度は互いに関係しているということを意味します。ではどういう法則が考えられるのでしょうか。私は『加速度が変わればそれを打ち消す加速度が生ずるように時間速度は変化する』になると考えました。」
「ふーん。もしそうなら時間速度を変えようとしたらそれを打ち消すように加速度が生じるんだ。」
「中島美雪先生。良いことを言ってくれました。そこまでは考えておりませんでした。私は重力遮断だけに目が行っておりました。うまくすれば加速度を得ることもできますね。」
「でも、時間ってそんなに簡単に変わるの。」
「変わるというより、この世界は色々な時間速度を持つ物質で構成されていると思っております。」
「ふーん。ちょっと待ってね。・・・分かった。原子ね。原子核は陽子と中性子の交換で反発する暇がないからその場に留まる。だから時間速度は変わらない。電子は核の周りを人工衛星よりも早く廻っているので遠心加速度で時間速度は遅くなる。それで世界は色々な時間速度を持つ物質で構成される。こう言うことね。」
「その通りです、中島美雪先生。核を廻る電子の動きは早いので電子の位置は電子の存在確率として表されております。どうでしょう、先生。電子の時間速度はどれくらいでしょう。」
「ふふふっ。イスマイル君は非常に遅いと言いたいわけね。この部屋の時計の時間の進みかたと比べれば時が止まっているようだと言いたいわけね。私たちの時間から見れば永遠の時が経っても電子は原子核に落ちないわけだ。それで我々の世界は安泰。原子の電子はβ線や蛍光灯の電子のように加速度が小さい電子の時間とは全く違うのね。」
「私はそう信じております。」
「分かったわ。イスマイル君。協力してあげる。イスマイル君はカーボンナノチューブの中のリチウムの電子の時間を早めればリチウムに変化を与えようとしている重力に反発する加速度が得られると考えているのね。・・・違った。リチウムの電子に重力がかかれば電子は自動的に重力に逆らう加速度が得られるように自分の速度を遅くして対応しようとするというわけね。」
「そう信じております。」
「問題はどこが前かがわからないリチウムを炭素筒の中に同じ方向を向かせて行儀よく並ばせることね。一列には並んでいても色々な方向を向いていては同じ力は出ないから。」
「はいそうです、先生。」
「ふーむ。・・・イスマイル君。しばらく考えていて。紅茶を入れてあげる。」
中島美雪は食器棚から白地に赤い線で縁取りされたお客様用のカップを取り出し、自分のカップとイスマイルのカップにティーパックを入れてお湯を注ぎ、じっと見つめてからイスマイルのカップからティーパックを取り出してゴミ箱に投げ入れ、しばらくしてから自分の大きなマグカップからティーパックを取り出してゴミ箱に投げ入れた。
中島美雪はお客用のカップをイスマイルの前の低いテーブルに置いて言った。
「どう、分かった。」
「分かりません。」
「そう。・・・私たちは原子についていろいろ知っているつもりでいるけど、実際、原子がどんな応答をするかを予測できないこともあるの。でも原子レベルの話は完全に解明されているだろうと考えて深い研究はしないの。未知のもっと小さい核とか素粒子の探求に研究を向けたがるの。その方が格好がいいでしょ。最終は分からなくても小出しにすれば立派な研究者になれるしね。・・・これは私のぐち。聞き流して。・・・それで、顔の方向が分からないリチウムならリチウム自身に顔の向きを決めてもらえばいいと思うの。リチウム包摂カーボンナノチューブを作る過程でナノチューブの軸方向に強力な磁場をかけたらどうかしら。静磁場がいいのか交番磁場がいいのかは分からないけどレンツの法則があるのだからリチウムの電子は磁場を打ち消すように方向を変えるでしょ。だから全てのリチウム原子は自然と同じ方向を向くことになる。顔のないリチウム原子に顔ができるのね。」
「そうです。先生。磁場をかければいいんだ。そうか。そうだったのか。私はリチウムの方向性を出すのに遠心加速度を考えておりましたが、それではだめだとも思っておりました。」
「そうね。加速度を使っても位置はそのままで電子の時間速度の変化で補償してしまうかもしれないわね。でもイスマイル君、磁場でもだめかもしれない。磁場を無くしたら元に戻ってしまう可能性が高いわ。とりあえずリチウムの方向性は無視したらどうかしら。私は子供の頃に空飛ぶ円盤の絵を見たわ。円盤が着陸した場所は強い磁気を帯びていたんですって。子供の私は空飛ぶ円盤は磁力で動くと信じていたわ。空飛ぶ円盤は磁力を使って重力を遮断していたのね。どう、ぴったり合うでしょ。」
「ピッタリ合います、先生。磁場をかけたらリチウムは同じ方向を向いて重力に対抗する加速度を出す。磁場を止めたらその力は無くなる。磁力で自由に重力を制御できます。」
「今日の所はここまでね。イスマイル君はとりあえずリチウムの入ったナノチューブを作ってみて。頭で考えたことと実験結果は違うものなの。結果を見てまた考えましょう。」
「了解しました、中島美雪先生。私は私の途方も無い考えを先生が真摯に考えてくださった事に感謝します。」
「どういたしまして。またね。」
イスマイルが院生の部屋の自席に戻ると吾郷麻子は椅子を後ろに下げてイスマイルを見て言った。
「美雪先生との話はどうだった。」
「真摯に私の話を聞いていただき、今後の実験の方針を示してくださりました。」
「良かったわね。美雪先生は厳しい先生なの。美人なのにね。」
「そうでしたか。厳しい方のようには見えませんでした。」
「イスマイル君は優秀なので厳しくする必要がなかったのね。」
「吾郷先輩はどんな研究をなされているのですか。」
「あのね、イスマイル君。私には吾郷先輩ではなく吾郷さんって呼んでくれない。私はまだ十分に若いと思っているわ。まだ23歳よ。そんな可憐な乙女が100歳以上のイスマイル君から先輩って呼ばれたら立つ瀬がないでしょ。」
「了解しました、吾郷さん。」
「それでいいわ。私の研究課題は『複数個の原子を含むフラーレン型炭素球に関する研究』よ。あと半年も実験すれば何とか論文は書けるかもしれない。」
「そうですか。良かったですね。」
「ねえ、イスマイル君。イスマイル君は百報以上の論文を書いているのでしょ。論文ってどう書けばいいの。」
「私の経験でいいですか。」
「もちろんいいわ。」
「私の最初の頃の論文とその後の論文は違っていました。最初の論文はそれまでやってきた実験をできるだけたくさん盛り込み、いろいろな切り方で考察を書きました。レフリーから厳しく批判されて大幅な修正を求められました。修正した論文では単一の目的に沿って最小限に必要な実験結果を記載して考察も大幅に省きました。その論文は結局もう一回修正を要請されてから通りました。それ以後の論文は単一目的の論文を出すようになりました。そうですねえ。吾郷さんに助言することとしては『考察(DISCUSSION)』では実験結果を説明しない方がいいですね。実験者は自分の実験を知っておりますが読む方はもう一度実験部分を見なければなりません。それに実験の説明を2回することになります。繰り返しはいけません。必要最小限です。『同じ文章が記述されている』とレフリーから指摘されたこともありました。実験結果の説明とその結果の意味することの説明には実験結果を『結果(RESULTS)』で記述し、その文章の後にsuggesting thatとかmeaning thatとかimplying thatとかを入れて実験結果の意味することを先に説明しておくと便利です。そうすれば『考察』で説明する必要がありませんから。」
「参考にするわ。いろいろな論文を読んでもいろいろな書き方があるので悩んでいたの。」
「だれしも悩むことですから。みんな自分の経験しかありません。ただ言えるのは、論文は読む人がいると言うことです。書く人はやったことをいろいろと自慢したいのでしょうが読む人は結果を知りたいのです。」
「わかったわ。論文が出来上がったら見てね。」
「了解。」
「ところでイスマイル君の住居は決まりそう。」
「はい、昨日の帰りにこの近くの不動産屋に行って来ました。私の場合にはほとんど家に帰らないでしょうから町内会とか自治会とかがないセキュリティーがしっかりしたマンションにしました。」
「良かったわね。この大学の近くなの。」
「徒歩で行き来ができます。地下鉄の一駅以下です。自転車かバイクでも買って通ったらいいですね。」
「つかぬ事を聞いてもいいかしら。」
「何でしょう。」
「自動車の免許のことなのだけど、イスマイル君の自動車運転免許は国際免許なのでしょ。自動車の免許の最初はトルコだったの。」
「いいえ。トルコでは自動車の免許は取れませんでした。体が小さいので自動車に乗っても足が届かなかったのです。日本に来る前はアメリカ合衆国にいましたからそこで免許を取りました。アメリカは免許の取得が比較的楽ですから。」
「年齢はどうしたの。」
「トルコ大使館で身分証を偽造してもらいました。ですから私が持っている国際免許証の年齢は実際とは違います。でもその方がトラブルを起こしませんから。」
「それはそうよね。日本では100歳以上の人が自動車免許を持つことはほとんど不可能よ。」
「年齢は見た目ですから。」
「そしたらマンションの契約でもその年齢を使ったの。」
「はい、私の保証人はトルコ大使館でしたから問題なく契約することができました。」
「大使館って便利ね。」
「特権階級ですから。」
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