第2話 1、謎の留学生
(起承転結の起:長い成長期)
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その日、一人の留学生が日本国の東京大学に来た。
「今日からこの講座の一員となる留学生のイスマイル・イルマズ君だ。トルコ共和国から来た。年齢は見た目だそうだ。イルマズ君、自己紹介をしてくれたまえ。」
東京大学理学部化学科附置研究所固体物性講座教授の飯島澄孝は少し迷惑そうに講座の面々に若者を紹介した。
「トルコ人のイスマイル・イルマズです。私はこの講座で包摂化合物の物性を学ぶために来日しました。どうぞよろしくお願いします。質問をお受けします。何かありますでしょうか。」
大学院生の伊藤郁夫が言った。
「D1の伊藤郁夫です。高校生の時はどんなクラブに入っていたのですか。」
「どんなクラブにも入っておりませんでした。高等学校には在学しておりませんでした。高校はおろか中学校も小学校も卒業しておりません。大学は資格試験を通ってアンカラ大学になんとか入れてもらえましたがどんなクラブにも入っておりませんでした。」
大学院生の吾郷麻子が言った。
「M2の吾郷麻子です。アンカラ大学では何を専攻しましたか。」
「アンカラ大学では最初は医学部に在籍し、生理学を専攻しました。一応、医者ですが実績はほとんどありません。それから工学部に在籍し、冶金学を専攻しました。アンカラ大学ではそれだけです。」
「アンカラ大学ではそれだけですと聞こえましたが、他の大学にも在籍したこともあるのですか。」
「いくつかの大学に在籍しておりました。」
「まあ、そんな歳には見えません。まるで高校を卒業したての大学1年生の若者みたいに見えます。」
「私は発育遅延症だと思っております。早老症の逆ですね。体の発育が遅いのです。ようやく一人前の若者らしい姿になることができました。それで履歴書に年齢は『見た目』と書かせてもらいました。」
「驚いた。」
飯島澄孝教授が言った。
「履歴書によればイスマイル・イルマズ君の業績は凄いものだ。八つの大学で大学院を卒業し博士の学位を取っている。筆頭論文数はこの講座ができてからの論文数の数倍だ。スーパーマンだよ。」
「飯島先生、子供の姿で大人の社会生活を送るのは難しいものでした。ようやく若者の姿になることができて喜んでおります。」
吾郷麻子が言った。
「とても信じられませんがイスマイル・イルマズさんの年齢は何歳なのですか。」
「よく覚えておりませんが、おそらく108歳、生まれてから少なくとも百年は経っていると思います。でも生理年齢は18歳程度だと思います。履歴書に年齢を記入する理由は色々あると思います。年齢を百歳と記載すれば履歴書を見る方はほとんど動けない老人だと想像します。私は十分に体力がある若者の体を持っております。それで年齢を『見た目』と記載しました。」
「驚いた」と吾郷麻子が再び言った。
大学院生の伊能忠敬が言った。
「D3の伊能忠敬です。そんな凄い経歴を持っている方がどうしてこの講座を選んだのでしょうか。」
「どうしても包摂化合物の物性を学ぶ必要性があると感じたからです。それから私には敬語は不要です。イルマズ君とかイスマイル君とか呼んでください。イスマイル君がいいですね。いい笑顔。いいスマイルです。私はこの講座では大学を卒業したての留学生の立場です。」
「了解。よろしくな、イスマイル君。」
「イスマイル君、この講座の大学院生はこの3人だ。他に事務員の岡田冴子君と講師の中島美雪君がいる。生活に不便があったら岡田君に相談してくれ。実験に関しては中島君に相談してくれ。二人とも今日は休みだ。それから君の席は大学院生の部屋だ。この講座の領地の居住区は少ないんでな。吾郷君の横に机と書棚を入れておいた。中島君の部屋に入れることもできたが、僕としては君の研究に対する姿勢を大学院生に見せたいと思ってそうした。」
「飯島先生、ありがとうございます。楽しい研究生活を過ごせそうです。」
「君の歓迎会は全員が揃ってから行うことにしよう。今日は適当に過ごしてくれ。」
3人の大学院生は大学院生の居室にイスマイルを連れてイスマイルを自分の席につかせてから周りを囲んだ。
最上級生の伊能忠敬が言った。
「ここが君の席だよ。一応パソコンとレーザープリンターは支給品だ。他に必要な物があれば岡田さんに言えば揃えてくれると思う。まあ、狭い部屋だから大きな物は入らないけどね。それから飲み物はさっきのデータールームに湯沸かし器とインスタントコーヒーがある。いくら飲んでも無料だよ。湯沸かし器の水は3段蒸留水相当の高級品を使っている。実験で使う18メグオームの水だ。研究者のささやかな役得というものだな。君が最初にすることの一つは飲み物用のマグカップを用意することだ。」
「了解、伊能先輩。皆さんは昼食をどのようにしているのでしょうか。この近くに学生食堂はありますか。」
「昼食は学生食堂で取っている。伊藤君なんて朝食も学生食堂を利用している。学生食堂はこの建物の向かいにある。朝の8時から夕方の6時まで営業している。午後の2時から4時までは休みだ。土曜日も平日と同じだ。日曜日は営業していない。」
「そうですか。まさに学生用ですね。お世話になりそうです。」
「イスマイル君はどこに住んでいるんだい。」
「今は原宿のトルコ大使館に居候させてもらっておりますが、そのうちこの近くに住もうと思っております。」
「そうか、それがいいな。なんと言っても自宅は近い方が実験には便利だ。」
「そう思います。」
「東京は物価が結構高いがイスマイル君はお金持ちなのかい。」
「お金持ちです。何年も生きてきましたから。いくつかの会社も持っております。もちろん経営には関与しておりません。」
「そうか、考えてみたら当たり前だな。どんな会社なんだい。」
「そうですね、小さな銀行と小さな造船所とその関連の会社です。」
「儲かっているのかい。」
「どうでしょう。儲けるな、大きくなるなと命令してありますから。」
「なぜだい。普通は儲けが大きい方がいいし、大きな会社の方がいいと思うが。」
「儲けが大きくなると会社は傲慢になります。会社が大きくなると動きが重くなくなります。私の会社には他の会社では作れない物を作るように命じてあります。需要は少なくても他では作れないものを作っていると何とか生き残ることができるようです。」
伊藤郁夫が言った。
「例えばどんな物だい。」
「造船所では深海調査船を造っております。1万メートルまで潜ることができ海底を自力走行できます。」
「1万メートルと言うと1000気圧だな。1平方センチメートル当たり1トンか。丈夫な耐圧殻が必要だ。」
「丈夫な耐圧殻を作ることはそれほど難しくはありません。でも丈夫に作ると重くなって浮き上がることができません。」
「そうか。潜水艦のように海水を押し出しても浮上できなくなるわけだ。この研究室にある窒素ボンベは150気圧だ。1500mの水圧と同じだ。10000mでそれを解放しても体積は6分の1になってしまう。炭酸ガスなら液化して体積は無きに等しい。うーむ。難しいな。機械的に海水を全部押し出しても得られる浮力増加はたいしたものではない。戦車に浮き輪を何個つけても浮き上がらないのと同じだな。それでどうしている。」
「2つの方法を採っております。一つは海上の船からワイヤーで繋ぐ普通の方法で浅海の時に使います。もちろん深海用の潜水艇ではありません。深海用の潜水艇では海の底で気体を作って気球で釣り上げて浮力を得る方法です。1万メートルの深海でもポリエチレンのレジ袋は潰れません。その中に水素を入れれば体積は千分の1になり密度は1000倍になりますが膨れてなんとか浮力が得られます。空気の泡では浮力は得られません。1000気圧での空気の密度は単純計算で1293㎏/㎥です。深海での海水の密度は浅海と変わらず1030㎏/㎥くらいですから空気の泡では浮力は得られません。深海での空気は水より重いのです。1000気圧での水素の密度は89㎏/㎥です。だから水素の泡なら浮力が得られます。問題は深海で大量の水素を作ることです。海上から持って行くことは先輩がおっしゃったように愚かです。深海用の潜水艇には小型の原子炉が入っており豊富な電力を得ることができます。海水を真水にして電気分解すれば浮力用の水素ガスと生存のための酸素が得られます。炭酸ガスの除去は容易です。窒素は減りません。時間はかかりますが潜水艇を海上まで浮き上げることができます。」
「それじゃあまるで原子力潜水艦じゃあないか。」
「原子力深海調査船です。原子力潜水艦よりずっと丈夫です。潜水艦の耐圧装甲は重さを減らすために2センチ程度の厚さだと思いますが、うちの深海調査船の耐圧壁は60センチです。80mの長さの普通の潜水艦の重さは排水量から分かるように4000トンくらいですが、うちの深海調査船は20mの長さで4000トンです。潜水艦と正面衝突しても戦艦大和の主砲で撃たれても大丈夫です。もちろん中の人間はシートベルトが必要ですね。とにかくそんな耐圧壁を持っているから重すぎて浮き上がらないのです。昔はそんな装甲をする造船技術はあったのですが、今ではそんな厚い鉄を扱える会社はほとんどないと思います。需要がありませんから。」
「つまり、他では作れないものなんだ。」伊能忠敬がポツンと言った。
「その通りです。」
伊藤郁夫が言った。
「原子力深海調査船って核シェルターにも最高の防御施設にもなると思う。食料さえあれば何日も生活できそうだし、どんな魚雷も爆雷も1000mより深くでは使えない。実戦では500m以浅だ。核爆雷ではどうなるかは分からないけどね。だいたい鉄砲の銃身内の圧力はおよそ1300気圧だ。高性能の空気銃では200気圧、競技用の空気銃なんてたったの50気圧だ。1000気圧の深海での火薬の爆発なんてショボいもんだ。」
「こんな話は面白いですね。伊藤さん、今ある原子力深海調査船の体積はおよそ5m角で長さが20mですから体積は500立方メートルです。これを浮かすためには鉄の比重が7.85ですから余力を持たせて8とすると4000立方メートルの気球が必要となります。円周率を3とすれば半径10mの球形です。この気球をひっくり返せば泡は海面近くでは体積は1000倍になりますから半径が100mの泡になります。泡の真上にいた船は200m落下して泡の底の海面に真っ逆さまです。でもおそらくそうはなりません。どうなると思いますか。」
「おそらく泡は上がってゆく過程で細かく別れると思う。この研究室は8階にあるけど窓から水を落とすと2階辺りで細かい水滴になってしまう。海水の粘性も関係していると思うけど細かく別れるのではないだろうか。それでも船は落下して頭から海水を被(かぶ)るだろうな。」
「やったことはありませんが私もそう思います。」
「でも、途中に潜水艦がいたら惨めだろうな。大きな泡の中に入ったら海水の浮力から水素ガスの浮力になるわけだから真っ逆さまだ。潜水艦の乗組員は200mの高さから潜水艦の床の鉄板の上に落ちたと同じ状態になる。」
「まあ一回きりの攻撃ですね。半径100mの球形分の水素を作ることは大変ですから。」
「でも時間は十分にあるんだからあらかじめ何個も気球を作っておけばいいだろ。」
「そうですね。」
吾郷麻子が自分の椅子を後ろにずらしてイスマイル・イルマズの方を向いて言った。
「要するに調査船って自分と同じの直径の泡を持って水底を歩く長細い虫ね。面白い形だわ。ところでイスマイル君は結婚しているの。」
「もちろん、結婚はしておりません。私の見かけ年齢は二十歳前ですし、私と結婚する女性は不幸になると思います。自分はどんどん老(ふ)けて行くのに夫はなかなか老けないからです。これまでの経験から私は6年間で見かけ年齢が一つ増えるようです。」
「あら、ものは考えようだわ。イスマイル君の奥さんはいつまでも若い夫と生活を共にすることができるし自分が死ぬのも看取ってくれるでしょ。安心できるわ。」
伊能忠敬が言った。
「それを言うなら、イスマイル君のようになかなか歳をとらない女性がいたら最高だよ。気が合ったら是非とも結婚したいね。いつまでも若い女房なんて最高だ。」
伊藤郁夫が言った。
「僕はそれは我々のような普通人間のエゴだと思う。イスマイル君はイスマイル君と同じようになかなか歳をとらない女性と結婚すべきだと思う。」
吾郷麻子が言った。
「そうね。エゴだった。ところでイスマイル君のようになかなか歳をとらない人間っているの。私はこの方面の知識はほとんどないの。すぐに歳をとるのは早老症として有名だけど。」
イスマイルが言った。
「自分の事なのでじっくり調べてみました。私と同じようにゆっくりと100年以上も成長するという事例は発見できませんでした。居たのかもしれませんが症例としての報告はありませんでした。人間が自分より寿命の長い生物を研究することは困難なのです。そんなものを研究しても研究者本人が先に死んでしまって結論は出ませんから。それに私と同じような人間が居たとしても、その人は世間からはじき出されて隠遁生活をしているのかもしれません。発育が遅延して20歳で死んだ女性の幼児についての報告はありました。赤ん坊の時から少しずつ成長し、20年間生きていたのです。死んだ時は幼女の姿でした。理屈がわからなかったからでしょうけど、X症候群とは名付けられましたが、このケースも20年で死んだからニュースになったのだと思います。」
「そう思うわ。イスマイル君はいい環境で育ったので生き残ることができたのね。」
「そう思います。赤子の外見年齢の子供に高校までの教育をしてくれた母に感謝しております。3歳の姿の子供が大学の医学部に入ることができ、5歳の姿の子供が医学博士の学位を取れたのも母の力があったからだと思います。普通では3歳の子供の姿で大学に入ることはできないと思います。」
「イスマイル君のお母様ってどんな方だったの。」
「もう死にましたが、長い間トルコ共和国の大統領でした。30歳前に大統領になり、2期10年を務め、休みを取ってから再び2期10年を大統領として務め、もう一回休みを取って10年間大統領になりました。それを繰り返し、結局40年間を大統領として務めました。大統領を辞めた時にはもう70歳を超えておりました。」
「知っているわ。エミン・イルマズ大統領ね。長い間オスマン連合の議長でもあった方。中学校の教科書に写真が載っていたわ。だからトルコ大使館に居候(いそうろう)ができたのね。」
「そう思います。」
「お父様はどんな方なの。」
「母は一生未婚の母でした。母はもちろん父を知っておりました。私も誰が父であるのかを知っております。でも父は死ぬまで私の存在を知らなかったと思います。母は死ぬまで父を愛しておりましたから。」
「ロマンチックね。」
「私は母を誇りに思っております。」
「イスマイル君のお父様はもうお亡くなりになっていると思うけど、お子さんはいらっしゃったの。」
「いいえ。父にはもともと親戚がありませんでしたし、親兄弟も居ませんでした。父が死に、しばらく経ってから奥様もお亡くなりになりました。子供はおりません。家系は絶えております。」
「不思議なお父様だったのね。」
「日本のスーパー外交官でした。」
「誰か分かったわ。日本の遺憾砲を作った方ね。世界に連合体を作って、世界秩序を変えた方。お父様の写真は高校の時の教科書で拝見したわ。イスマイル君には日本人の血が半分入っているのね。」
「そう思います。」
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