12話 ”本気”




 その縄を解いた瞬間、ルークの頭の中で警鐘けいしょうが鳴り響いた。


 反射的に全力で飛びずさる。何か目論見や意図があったわけでも、目の前の青年が動いたわけでもない。


 ただただ湧き上がる焦燥と、アキホから離れなければいけないという警鐘の赴くままに一足で可能な限り後退。瞬く間に80マトルほどに距離を広げる。


 油断は捨てたつもりだった。剣戟を交わし、彼の強さを垣間見たつもりでいた。


 未だ互いに様子を見ていた事は十分承知だ。彼はまだ魔術を使ってすらおらず、自分も簡易的な呪文の範疇でしか魔術を行使していない。彼の訴えた全力とは程遠い探り合いを交わし、これからが本番だと覚悟もしている。




 だがどうしようもないほどに自らの心の内が叫んでいる。その認識はまだ足りないのではないか。お前は未だにあの青年を甘く見ているのではないか、と。




 ふと、授業開始前の教室での一幕を思い出す。自らの問いに答えた際に覗かせた背筋の凍るような迫力を。


 今のアキホから感じているのはそれだ。国の全てを斬ると告げた時の、底知れぬを彼は今から見せようとしている。約束通り全力すべてを以てルークを打倒して見せると、全身でこちらに告げている。


 ならば他に答えは無い。こちらも全力を以て応じる他は無いと、再び青眼に構え油断なく相手を見据える。


 その様子と見て取ったアキホはゆっくりと腰を落とした。封を解いた刀の鞘を腰に戻し、先ほどまでの自然体ではなくルークも耳にしたことはある東方の剣術、居合の構えを見せて遠くに佇むルークに相対する。


 そして、再び二人の世界から雑音が消える。向かい合ったお互いしか目に入らない静謐せいひつの世界にて、アキホがゆっくりと刀のつばに手を置いた瞬間。


 





 本能が告げる。経験が叫ぶ。背後に寄り添う死神が、首に鎌をピタリと押し当て嘲笑わらうように耳元で囁く。

 

 寄るな、触るな、あいつに刃を抜かせるな。アレの結界まあいに入ったが最期、―――!!






「『極冷は此処に、空に大地に白銀の祝福をフロスティア ステル アルジュマリア!!』」


 詠唱と共に、魔力が吹き荒れた。静寂に満たされた空間に、パキパキという音と共にルークの周りの空気が凍る音が響く。


 それは空気中の水分が固まる音だ。急速に冷えた空気は音を立てて凍り付き、落ちるよりも早く固まった水が空気中を漂う細氷ダイヤモンドダストとなって二人の視界を埋め尽くした。吹雪にも似たその群れは、まるでルークの周りを踊るように舞っている。


 空気中の見えない水分が凍り付くほどに、この空間内だけ異常なまでに気温が下がっている。氷を操る青年の本領を見せられるような環境へと、あの学生は自ら作り変えたのだろう。雪に白く染まる床や空間に、アキホは自身の目を疑う。


 個人で行使される魔術の限界点と言われている三節詠唱を用いた魔術。『凍土平原コキュートス』と呼ばれた青年の全力に、試合の外で見ているだけの生徒たちですら身震いした。




 ――――それは氷結という属性における極地。一種の固有魔術オリジナルにまで昇華した、空さえも凍てつく術者を守る絶対零度の結界。己の魔力の大半を以て己を中心に世界を支配する、ルークという魔術師の秘奥が今顕在する――――





「…………」



 遠くで佇むアキホにもその冷気は感じられた。氷よりも冷たく感じるその空気は全てを蝕んで動きを止める。


 魔力による身体の保護は試みているが、今の自分の未熟な制御では如何せん心許こころもとない。多少の軽減は出来ているが、この吹雪の中では数分もすれば体は満足に動かなくなるだろう。


 ならばと、刀に置いた手に力を込める。一足飛びに相対する敵を切り伏せようと足に力を込めた瞬間に、それよりも僅かに速く極寒の世界が牙をむいた。



「『凍てつけ、星のようにフロスト アセンディア』!」



 詠唱を以て機先を制するルーク。三度目になる火蓋を切って落とす魔術は、既に過去二回とは一線を画していた。


 術者ルークの周りに、そして冷気が覆い尽くしたこの世界のあらゆる場所に、最早数えるのも億劫な数の小さな氷の塊が視界いっぱいの一面に広がっている。


 これは最早数の暴力と言う他ない。十や二十ではきかない氷が例外無くこちらを狙っている。まるで整列し合図を待つ兵士のごとく、矛先をこちらに向けて今か今かと飛び出すのを待っている。



 その中心、氷を統べる王が腕を振り上げ、合図するようにその腕を振り下ろした。



 浮かんでいた無数の氷が勢いよく飛び出す。その勢いは矢のように疾く、80マトルの距離を瞬く間に埋めてアキホに向けて殺到する。その弾幕に距離を詰められないと感じたアキホは、前ではなく横に駆けた。


 追いすがるように弾幕がアキホを追いかける。一瞬前に立っていた床に氷の弾丸が殺到する。足を止めれば瞬く間に打ち抜かれると、アキホはルークを見据えながら絶え間なく駆け続ける。


 左右に揺さぶりながら標準をずらし続け、ほんの僅かな隙を見て取ったアキホは急速に方向転換。虚を突くように距離を詰めようと足に力を込めた瞬間、そのさらに虚を突くようにが目の端を掠め、アキホは思わず足を止めた。


 そして思い出す。氷の脅威は氷弾のみに在らず。この世界全てが、彼の領域であり間合いなのだと。


 上から迫る氷の弾丸にのみ注視していた為気づくのが遅れてしまったアキホ。その思考の空白を、爆ぜるような音と共に氷柱が正確に襲い来る。


 

「………っ!!」


 アキホはそれを辛うじて反射で躱す。身を捻り何とか射線から逃れたが、どうしてもひとつ、上半身の動きだけではどうしても躱しきれない。


 重心を制御し、地面を蹴るように跳躍。転がるように横へ飛んで、わき腹に掠らせながらもどうにかやり過ごす。即座に体制を整えるが、揺らいだ軸は微かなれど確かに僅かな隙を生んだ。




 時間にしてほんの刹那。しかし氷結を統べる者はこの隙を見逃すほど盲目でも、見過ごすほど優しくも無い。





「『穿て、銀嶺を染めし氷結よフロスティア リ グランディアス』!!」


 二節の詠唱が響き渡る。そして現れたのは山を想起させるほどの巨大な氷塊。


 白銀の世界の祝福を受け、人を飲み込むほどの大きさを持ちながら未だに成長を続けるそれは、しかし完成を待たずに射出された。


 打ち出されたそれは、迫りくる今もなお肥大化を続けている。周りの細氷や氷塊を瞬く間に飲み込みながら、嘶くような轟音と共にアキホを叩き潰そうと目の前に迫る。


「……」


 そして、体勢を崩したまま見上げたアキホはそれを躱す術を持たない。

 襲い来るその氷槌を、膝を付いたままにただ見上げていた。




 故にこれで終わりだと、誰もが思った。『凍土平原コキュートス』に魔術師の間合いで挑むというのはそういう事だと、誰もが知っていた。白銀の王に抗う只人ただびとが潰され、地にひれ伏す瞬間を誰もが幻視して疑わない。



 ―――――――たった二人、氷塊おわり以外は。




 アキホは小さく息を吸う。崩した体勢は既に意味を成さず、目の前のそれはあまりにも重い。躱すも防ぐも叶わず、なれば迎え撃つしかないと封を解いた刃に手を当てる。


 無駄な力は要らない。全身から強張りが抜け、刀を握るその手のひらにのみ感覚が宿る。


 意識はその半身かたなと目の前の斬るべき対象にのみ集中。その刃に意思が宿り、産声を上げるかのように、魔力が通った鞘が小さく光を放つ。


「……ふっ」


 迫るは白銀しろがねの災害。

 なれど、形在る物ならば斬れぬ道理無し。

 剣の間合い、己の結界と交差した瞬間、息を止め躊躇いなく一息に振り切った。





 鞘走る音は鈴の音の如く。抜く手すら見せぬまま刃が再び鞘へと舞い戻る。


 神速を以て振るわれた二つの閃きは道理を通し全てをあやまたず分かつ。『凍土平原コキュートス』の渾身、二節で生まれた唸る悪夢のような氷槌は、納刀の小さな鍔鳴りの音と共に白銀の世界に崩れ落ちた。





 生徒全員の思考が空白に染まる。その一閃を知っていたシルヴィアでさえも、その光景に体を震わせ目を見開いた。


 誰が予想できるだろうか。その刃は炎を斬り裂くとはいえど、抗うことの出来るはずもない自然の暴威。自らを飲み尽くす氷の山さえも、たったの一太刀を以て斬り伏せるなど――!!


 ルークの時間が一瞬止まる。油断はしていない。しかし想定もしていない。自らの全霊をまさか切って捨てられるなどと、思いもよらない光景に一瞬ではあるが理解が追い付かず動きが止まる。



 そして気付く。その一瞬が余りにも致命的なことに。



 一瞬の硬直から覚めたルークが見たのは迫りくる死神の影。先ほどまでの速度とは比べるのも馬鹿らしい、神風のような速さで開いた距離を詰めてくる。


 我に返ったルークはなおも展開されている氷の塊をを迎撃に回す。


 その数は目に見えて減ってはいるが、標的を打ち抜いて余りある量がルークの周囲に漂っていた。先ほどと同じ、氷の魔弾を以て、相対する敵の足を止めようとアキホを狙い射出する。


 しかし、。最低限のサイドステップで距離を詰めながら彼はなおもはしる。


 距離が縮まり、より正確になった標準が仇となった。正確に狙いすまされた弾丸は、ほんの少しずらすだけでいとも容易く空を切る。彼我の距離、残り50マトル。


「……くっ!!」


 対するルークは即座に切り替える。標準を定めずに乱雑に。当たるのは一発でもいい、足を止められればそれでいいと大雑把な目測で散弾の様に氷弾を撒き散らし、這い寄る氷結を以て迎え撃つ。


 だがその悉くは当たることはない。

 

 拡散し薄くなった弾幕はそれこそ足止めとしても取るに足らず、大地から飛び出る氷柱はその速度では役不足だと、自らに迫る全ての障害を解き放たれた刃が余さず斬り捨て最短距離をひた走る。残り、30マトル。





 そしてルークは悟る。目の前に迫るそれは最早止まる気配はない。自らの与えうるどんな障害を以てしてもあの疾走を妨げることは叶わない。






「『反り立つ氷壁よフロスト』ォ!!」


 もはや悪あがきの様に、ルークは自らとアキホとの間に氷の壁を生み出した。残りの距離10マトルといったところで彼我の丁度中央、直線上に現れたそれは、直接その歩みをき止めようと覆い尽くすようにそびえ立つ。


 しかし当然、山をも分かつ太刀筋に及ぶべくもない。紙をの様に容易たやすく斬って捨てられる氷壁。左から振り抜き斜めに分かたれたそれは音を立てて崩れ落ち、なおも距離を詰めようとその先を見据えたアキホは、


「おおぉぉぉぁっっ!!!」


「っ!!」


 その向こうから、目の前に迫った鬼気迫る剛剣を目の当たりにした。








 

 すでに後退する余地はない。敵の歩みを止めることは叶わない。そう覚悟したルークは此処で迷いを捨てた。


 なおも警鐘は鳴り響く。即座にその剣鬼から離れろと、恐怖と直感がその判断を否定する。


 あの剣の間合いに入るのが怖い。至近で相対するのが怖い。解き放たれた雪よりも煌めくあの白銀しろがねが怖い。あの青年から見え隠れする死の匂いが怖い。首元に当てられた死神の鎌が怖くて仕方がない。


 だが離れてどうなる。既に間合いは自分の距離に在らず。敵は既に目前に迫り、その刃は遮る全てを薙ぎ払い続ける。己に出来るのはその時を僅かに引き延ばす延命のみで、抗ったその先は目に見えている。


 追い詰められて斬り伏せられる。それがその選択の末路だと分かっている。


 この仕合はシルヴィアに対して悪意を向ける生徒たちの出来レースだ。代弁者として担ぎ上げられたルークが勝てば、それ見たことかとアキホへと嘲笑が向けられる。シルヴィアと関わるとろくなことがないぞと、彼を指さし嘲笑うだろう。


 そう、その程度で済むのだ。


 しかし、。だからこそ、ここで止めないといけない。いままでのように、私を介してその悪意を発散できるよう彼より上に立っていなければならない。


 彼の意思は鉄より硬く、騎士道を曲げることは叶わないだろう。エルトルージュの味方であり続け、彼女に降りかかる悪意を彼が共に被ることはもう避けられない。



 そんな正しい青年だからこそ、負けるわけにはいかない。彼に降り注ぐ悪意を少しでも和らげる為に、自らが斬り伏せられる未来を受け入れるなど断じて在り得ない……!!



 崩れる氷壁をブラインドに。未だ鳴り止まぬ警鐘を、体が震えるほどの恐怖を決死の覚悟で押し殺し、迫るアキホへと不意を突く形で自ら間合いを詰めて、彼よりも早く渾身を込めて振り下ろす。


「おおぉぉぉぁっっ!!!」


「っ!!」


 不意を突かれたはずのアキホ。しかしその剣鬼は逡巡無く、振り下ろされる剣に刀を合わせた。


 確実に意識の外から斬撃は飛んできた。反応は追い付かずに、しかし反射が体を動かす。上段から振り抜かれようとしている一撃を、彼は自らも渾身を込めた逆風の一刀を以て迎え撃つ。


「ぐっ……うぅっ!!」


「………っ!!」


 三度鍔競る鉄の音にルークは驚愕を露わにする。


 上段から振り下ろす自分の方が圧倒的に優位なはずだ。得物の重量も、彼我の体勢も、恐らくは膂力も自分の方が上だと感じている。


 だが振り下ろせない。拮抗する互いの剣が震えている。あまつさえ、押し返されているのだ。全てにおいて上回っているはずの剣が、振り上げられた太刀の剣圧に軋みを上げている。


 先ほどまでとは違う全力同士の鍔競り合い。互いの渾身を以て全てを乗せて振るわれている。だからこそ伝わるに、ルークは戦慄し体が震える。




 この剣は我々と根本から違う。学生が平穏の中、模擬戦で培った型に当てはめた綺麗なだけな剣ではない。

 その刃を以て数多の屍を積み上げた末に辿り着いた剣。数えきれない戦場を駆け抜け無数の死を以て形作られた、人の形をした羅刹が此処に居る―――!!




 このまま押し合えばいつか崩され、逃げるように引けば返す刃で斬って落とされる。もはやこれまでかとルークが覚悟を決めた瞬間に、アキホが前触れなく足を滑らせた。


 その足元に在るのはかすかな氷結。白銀の世界が床のその一部分を凍らせ、軸足に力を込めたアキホは予期せぬ抵抗力の無さに体制を崩した。


 微かに空いたその刹那の隙に全力で剣を振るい、ルークは押し切るようにアキホを吹き飛ばす。気休め程度の間合いを広げて、乱れた呼吸でアキホを睨みつける。


「………」


 少し離れた間合いで、アキホは何故か自身の手を見つめている。その様子を眺めながら、ルークは震える手で剣を握り、立っているのもやっとな状態で何とか青眼に構えなおした。


 最後の幸運をもたらした氷結の結界は魔力の欠損により崩れかけている。底を尽きた魔力は一節詠唱すら覚束ない。


 勝負を決めるつもりで振るった最後の一太刀は凌がれ、満身創痍の心身で何が出来るかさえ分からない。握る剣に力が入らず、もはや一息で斬り伏せられる未来しか想像できない。



 だからこそ。









 

「………降参」






 



 あの剣士が両手を上げて呟いた終わりを告げるその宣告に、氷山を斬り伏せられたとき以上に理解が追い付かず、ルークは手にした刃を構えながら放心していた。



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