第10話

 翌朝、ダイニングに入ると、太い幹と大きな緑の葉っぱが目に入った。

「おはようございます」

「……おはよう、ございます。……これ」

 これは、知ってる。思わず葉っぱに手を伸ばす。懐かしい。

「ドラセナ……」

「ご存知でしたか」

「はい。……昔、うちの部屋で育ててたことがあって。ばあちゃんが枯らしちゃったけど」

 うちにあったのよりも断然大きい。うちにあったのは腰くらいまでの高さしかなかった。元はデミタスカップ並みの小さなグラスに入ってたのに、どんどん大きくなって行くのが嬉しくて、大きな鉢に植え替えていくのが楽しかった。

 だけど、修学旅行から帰って来たら。

「水の遣り過ぎで」

 思い出して苦笑いした。

 ばあちゃんはせっせと世話を焼いてくれたようだ。土が乾いてから水を遣れば良いのに、毎日毎日たっぷりと。それで根腐れして枯れてしまった。

 どうにかしたかったけれど、どうにもならなくて。あれは悲しかったな。

「おばあさまは、もしや、どちらかといえば、口うるさいお方では?」

「え?」

「失礼しました」

「あ、いえ。確かに、そうです。何かと、気に入らないみたいで。髪が長かった頃は髪を切れとうるさくて。髪を切ったら、スカートを履けってうるさくて。スカートは嫌いであんまり履かなかったのが気に入らなかったみたいで」

 中学へ上がって制服でスカートを履くようになったら、今度は人格否定が始まった。

「おばあさまは、愛情が心配に転じて、そのまま行動となって表れるお方なのですね」

 ……。

 ああ、水の遣り過ぎは、それでかな。

「だからこそ、お嬢様にとっては、さぞや口うるさいおばあさまでしょうね」

 ……え?

 ダイニングテーブルに配膳を終えた秘書さんは、意味ありげににっこりと微笑んだ。


 パパとママはもう帰ったらしい。

 あの二人は本当に早起きだ。どうしてそこは遺伝しなかったのだろう。

 ……いやまぁ、繋がっていればの話だけれども。

 って、そうだ。

「あの、秘書さん! なんですよね? あの、雑用は自分でするんで、お仕事を」

「私の仕事は、お嬢様のお世話です」

「いやそれは」

「訂正します。今の私の仕事は、旦那様と奥様の第二のお住まいであるこちらを、快適に整えること、お二人の大切なお嬢様に快適にお過ごしいただくことです。その他の業務は割り振られておりません。なので、お嬢様のお世話を放棄したら、私は仕事を放棄したことになります。私のために、雑用は任せていただけませんか」

「……雑用なんて言ってすみません。あの、そういうつもりで言ったわけじゃなくて、」

「わかっております」

 やれやれ、みたいな笑顔で言われて、なんだか少しだけムカッと来た。

 子供扱いされると腹がたつんだ。昔から何故か。

 もちろん、表には出さないけれど。

 出してなかったつもりだったけれど、秘書さんは露骨におっとまずい、みたいな表情になって、一礼して謝罪した。

「いえ、あの、こっちこそすみません」

 これが完全なる年上にされたのなら、むかっとなんか来なかったはずだ。

 自己紹介で年齢なんて名乗らないから、この人の年齢はわからないし、見た目で人の年齢を当てるのはひどく苦手。ただ、自分より20も上ってことはないだろう。下手したら同い年くらいじゃなかろうか。

 年齢の上下をいちいち気にしたり、マウントしたりされたり。

 めんどくさくて逃げて来たのに、最近、ちょっとあれだ。その辺敏感になって来てる自分が腹立たしい。何故だろう。



 出勤すると、自分の代わりの人が決まったと伝えられた。

 良かった。

 これで心置きなく、この県から出ていける。

「三ヶ月くらい研修期間なんだけど、最低でもそのくらいいてもらえる?」

 二つ返事で頷いた。

 それまでに、データは全部プリントアウトしておかないと。

 パソコン詳しい人を雇ってくれてれば良いんだけど、そうでなかったら問題だしなぁ。


 ……あと三ヶ月。三ヶ月で、ここから出られたら良いのに。


 ——ん? あれ、なんか、……本音じゃ、もうしんどかったのか、ここにいるの。


 知らずに湧いて来た思いに驚いて苦笑した。

 今までずっとそうだった。

 仲良くなろうと頑張り過ぎて疲れる。仲良くなると、見下されるようになって疲れる。

 だいたいいつもそんな感じだ。昔からずっとそう。対等な人間関係が作れないんだ。

 環境が変わってもいつもそうだったから、これはきっと自分の問題だ。

 いつになったら抜け出せるんだろう。自分が変わらなきゃ抜けられないのか。でもどうやったら変われるんだろう。変わろうとするのにも疲れてしまった。

 

 例え本当に新しい家族を手に入れても、またこの息苦しさを感じるのか。



「ただいま」

「お帰りなさいませ。奥様からお手紙をお預かりしております」

「……手紙?」

 このアプリ全盛期に?

「はい。郵送されたものではありませんから、書き置きと申し上げるべきでしょうか?」

 書き置き。そりゃまたアナクロな。

 頭の中に浮かんだのは、まだ携帯電話を持っていなかった頃だ。祖父は祖母を連れて、よくあちこちドライブに出かけていた。

 学校から帰ってくると、卓袱台の上に書き置きがあった。

 それは大体がチラシの裏とかで、もちろん手書きだ。マジックで書かれたそれは、文面は大体決まってる。尋常小学校を出た人特有のカタカナの使い方をされたそれ。

「一度こちらへ立ち寄られたのですが、またお戻りになりました」

「忙しいんですね」

「はい。リビングでお渡しします」

 手洗いうがいを済ませてから私室へ入って、楽な部屋着に着替えてリビングへ向かうと、まずドラセナが目に入って心が和む。次いで、紙袋の山を見て目が点になった。

「どうぞ」

 座るように促されて、目の前にサーブされたのは紅茶セット。そして。

「あ、どうも」

 手渡されたのは書き置き。というかちゃんと封筒に入っている。見覚えのある達筆。

 それに目を通す間に、紅茶を淹れてくれた。良い香りがふわりと広がる。

 あれ、今日は紅茶だ。いや待て、紅茶なら機械があるのに。

 頭の片隅でそんなことを考えたけれど、書き置きの内容に集中していたので、口には出さなかった。

 こちらへ一度来て、買い物をして、とんぼ返りしたらしい。

 紙袋の山は、パパとママと自分のもので、でも多分パパとママの分は、もうすでに片付けてくれたんだろう。

 このマンションは引き払う予定はないそうだ。

 仕事を終わらせて、パパとママの家に住むことになっても。

 だから、パパとママの日用品と、趣味のものを買い足したらしい。

 リビングに残されているのは、プレゼント。別に誕生日でもなんでもないのだけれども。

 必要なものはもう全部あるのに、何だろう。

 手紙をテーブルに置いて、プレゼントの中身を確かめる前に、紅茶を一口。

「ん」

 ……ああ、やっぱ、美味しい。

 最初にパパとママと会ったあのファミレス、昔はドリンクバーじゃなかった。紅茶はポットサービスで、リーフティー、美味しかったんだ。それがある日からティーバッグになった。ティーバッグでもテトラ型だから味は変わらないって、説明書きにあったけれど、露骨に味が変わって、残念だったのを覚えてる。

「お嬢様?」

「あ、えっと……美味しいです。紅茶。ありがとうございます。あの機械のも充分美味しいけど、やっぱり美味しく感じます」

 ティーカップをちょっと捧げ持って見せると、目を細めて笑って頷いてくれた。

 それから、紙袋に目をやった。

「食事の前に、ご覧になりますか? 先に食事になさいますか?」

「えっと……」

 つられるように紙袋を見て、気にはなるけど、あれだけ多かったらご飯食べるの遅くなるなと思った。

「先に食べてから、見ます」


 まだ寒いから、スープ料理はありがたかった。

 まぁ猫舌だから、すぐには飲めないんだけれど。

 お腹が満たされて、ダイニングテーブルからソファへ移動すると、すっかりおなじみになったカモミールティーを淹れてくれている音を聞きながら、紙袋に手を伸ばした。

「……え、タブレット?」

 思わず口から出てしまった。

 意外な贈り物だった。

「はい。お嬢様は連絡先の交換には慎重で、いまだに連絡先を教えていただいておりません。お嬢様の連絡先を知っているのは顧問弁護士のみ。こちらからの連絡手段は書き置きしかございません」

「……すみません」

 そうだった。アナクロにならざるを得なかった。

「……でも、情報の共有は?」

「連絡先を無断で教えるようでは弁護士失格だそうで」

 病歴は教えたのに不思議な。

「それを言うならば病歴の件もどうかと思ったのですが」

 おっと。

「それとこれとは違うそうで。旦那様と奥様は、お嬢様が信頼してくださるのを待つと仰っていましたが、この間のバスの一件で」

「バスの一件」

「……カフェで」

「ああ! あの、すみません」

 カフェで考え込んでいたらバスに乗りそびれた。あの時は本当に申し訳なかった。だいぶ顔色を悪くしたこの人がバス停に突っ立っていたのを思い出した。

「いいえ。ですが、お二人も心配されまして。こちらはキャリア通信のないタイプのWi-Fi専用機種です。お嬢様の意思を尊重したいと言うお二人のお気持ちと、それでも心配だから連絡したいと言う親心の妥協点がこちらになったようです」

「えっと……?」

「旦那様と奥様、差し当たって私、運転手、弁護士の連絡先が登録してあります。こちらで初期設定をすませましたので、お嬢様のメールアドレスを登録する必要はありません」

 なるほど。

「電子書籍も読めますし、よろしければ携帯してくださいませんか。この前のような事態が起きましたら、カフェのWi-Fiを利用して私にご連絡ください。持ち歩くのがお嫌でしたら、致し方ありません。マンション内でご利用ください。この部屋のWi-Fiとは同期済みです」

 ……丁寧だし、確かに尊重してくれてはいるけれども、気のせいだろうか。言葉の端々から(言い方か?)圧を感じる。

「……持ち歩きます。電子書籍読めるのも嬉しいし」

「ありがとうございます」

 露骨にホッとした声と顔。

 ……あー、もしかしたら、監督責任みたいなのがあるのかもしれない。言葉は正しくない気もするが。

「お嬢様さえよろしければ、モバイルWi-Fiもございます。荷物は増えますが、移動中でもネット接続できますよ」

「いえ、乗り物酔いしちゃうんで、バスとか車の中では読まないようにしてるんです」

「……左様ですか」

「でも、ほんとありがとうございます。ただ確認なんですけど、プレゼントなんですよね、これ?」

「はい」

「……良かった。こんな高いのどうしようかと思いました」

「ご安心ください。支払いは済んでおります。メールに領収書が添付されて届いています。起動したらご覧ください」

「いえ、そこまでは」

「アプリも自由にダウンロードして構わないそうです。ゲームの課金も好きなだけどうぞ」

 悪戯っ子のような笑顔で言われたそれに、世代間格差を感じた。

 いや違うか、これも自分が世間と隔絶してるだけか。

「いえ、……ゲームは苦手で」

「そこでお金の力ですよ」

「いえ、……あの、正直言うと、そこまでゲームが好きになれなくて。なので、大丈夫です」

 意外そうな顔をされたけど、すぐに笑顔に戻った。

「でしたら、電子書籍ですね」

「……はい」


 次の袋を開けると、布袋が出てきた。

 ……紙袋の中から布袋?

 もう一度開けると、今度はバッグが出てきた。

「……バッグ?」

「はい」

 まぁ確かに、ママとの買い物、下着と洋服は買ったけど、バッグは手が回らなかった。

「タブレット用のバッグです。お嬢様の普段の持ち物が入るサイズに、タブレット用のクッションポケットが付いています。お気に召さないようでしたら、すぐに言って欲しい、とのことです」

 ……持ち歩かせる気満々じゃねぇか。

 内心呆気にとられつつ突っ込んでから、改めて矯めつ眇めつ手にとる。

 マチも広くて使いやすそうだ。それに、昔はPCバッグって黒か紺でカラバリなかったけど、まさかのピンクに花柄だ。だけど、パステルカラーでそこまでド派手な感じじゃない。普通に好きな見た目。

 他の紙袋に手を伸ばすと、カバーとか、ワイヤレス充電器とか、スタイラスペンとか、タブレット関連のものがいくつか。

 ギフトカードもあった。コンビニで何度か見かけたことがある。最高額じゃね? って金額の額面に驚いて手から滑り落ちそうになった。

 だけどなるほど、これなら気軽にダウンロードできる。

 課金もご自由に、なんて言われてたけど、それだといまいち請求が不安だ。だって詐欺かもしれないんだから。

 

 全ての袋を開け終えて、カモミールティーを飲んで一息つくと、なんだか疲れてしまった。

 良い方でも悪い方でも、感情が一気に振れると疲れるんだよね……。

 特に、普段買い物しないから、こんなにたくさんの物を一度に与えられても疲れると言うかなんと言うか。

 昔は、確かに欲しいと思っていたけれど、いつからか、時間とお金が欲しいと思って、物自体を欲しいとはあまり思わなくなっていた。

 欲しかった時は手に入らなかったのに。何の因果だ。

「今日はお疲れのようですし、電源を入れるのは明日にされますか? よろしければ、充電だけ済ませておきます」

「……お願いします」




 翌朝、ご飯を食べ終えたリビングで、タブレットとにらめっこをしていると、テーブルの上にココアが現れた。

「あ、ありがとうございます」

「はい。ところで、先ほどから何を?」

「……電源を入れて、『タブレットありがとう』ってメールか電話しようかなぁと思ったんですけど、今すると、仕事に間に合うかなぁ、それまでに会話切り上げられるかなぁって不安になって、じゃあ帰ってきてからにしようか、でもお礼はすぐにした方が良いし、……ああめんどくさい、自分の性格がめんどくさいって思ってます」

 相変わらず人間として最低なことを正直に申告していると、ドン引きするでもなく、「なるほど」と頷かれた。

「お礼のメールは私が代筆しておきます。次に旦那様と奥様にお会いした時に、お嬢様から一言お伝えください。それで十分、お気持ちは伝わります。喜ばれると思いますよ」

 目から鱗。

「良いですか?」

「もちろんです。秘書としての本領発揮ですから」

「……そうなんですか?」

「ええ。お任せください」

「お願いします。良かった。ありがとうございます」

 ああ、気が軽くなった。

 これで安心して使える。



 今日は顔合わせの日だった。仕事の引き継ぎ。

 おっとりした感じの人だ。若干似てる気がする。自分に。

 まだ先とはいえ、いよいよ、ここから離れることに現実味が出てきた。

 だいたいいつも日常がデンジャラスな家庭だった自分にとっては、ここは数少ない平穏な場所だったからなぁ……

 最近は、人間関係に疲れ始めてた。けど、昔は麻痺してたんだろうな。家族がアレだからさ。

 とはいえ、麻痺してた自分にとってのリハビリにはちょうど良かったんだ。少なくとも、セクハラもパワハラもなかったし。

 


 マンションに戻ると、タブレットはスタンドに乗せられていて、スタンドの前には昨日紙袋からいくつも出てきたカバーが重ねて並べられていた。タブレット本体にはスタイラスペンがくっつけてあった。

 結局今日は持ち歩かなかった。

 鞄は、部屋のクローゼットの中に置かれていた。

 それを見て少しホッとした。疲れるって、感情が振れて疲れると思っていたけれど、どこに置こうかを考えるのが疲れてたのかもしれない。

 カバーは、キーボード付きのもので明るい色合いのものを選んで取り付けた。

 残りのカバーは、引き取ってくれた。

 どこかにしまっておいてくれるって。

 

 それから夕飯を食べた。

 たくさん物を買っても、そんなに生活は変わらないことに驚いた。

 ミニマリストに憧れていたマキシマリストだったけど、物の多少で生活は変わらないらしい。

 管理能力を持った人がいるからだろうけれど。

 自分の管理能力に見合っている量を知るのが大切ってことか、やっぱり。

 だとすると、自分が持てるものは限りなく少ないんだろうなぁ。

 増えても構わないのは本だけか。

 こればっかりは、どれだけ持ってても無くしたことはなかったし、持っている本を忘れたり失くして二度買いしてしまうこともなかった。

 ……いや、……仕事が忙しすぎたときは、表紙を見て本の中身を思い出せなくなって、それが怖くなったことがあった。

 アレは本当に怖かった。

 自分が自分で無くなる感覚。

 何事もほどほどが一番ってことかな。


 

 それから一ヶ月が過ぎた。

 覚えが早い新人のおかげで、予定よりも早く仕事を辞めることができそうだ。

 どちらかというと、新人研修よりも、こっちの引き継ぎが終わるかどうか。

 自分にとって簡単な仕事を、他人にわかりやすく伝えるのは意外と難しい。

 ショートカットを覚えるのは大変だろうからと、マウス操作をベースに教えているのに、言葉とは裏腹に気づけばショートカットで操作している自分がいる。

「……はやい」

 と、言われて我に返ったのだが、嫌味だろうか苦情だろうか。

 ちなみにこの引き継ぎは新人相手ではない。

 頻繁に行わない操作で普段は使わない機能を使ったパソコン業務——例えば月一業務とかそういったものを、本来の担当者の代わって代行していたのだ。

 言われたり読み上げられたりするままに打ち込んで体裁を整えて送信したりプリントアウトしたり。そういった仕事を、それぞれの担当者に返しているわけだが、自分がする時はなんてことなかったのだが、教えるとなると意外と苦戦した。

 もういっそアイコン一つで出来るように作った方が良いかもしれない。

 すぐに方向転換したものの、通常業務と並行してだから、意外と進まないんだよなぁ。

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