第9話

 考えても仕方ないと、もうなるようになれと開き直った里帰り(?)当日。

 朝からハイテンションなママと機嫌のよさそうなパパがやってきて、それがストレスにならないか懸念してるのが顔に出ちゃってる家政夫さんに世話をされながら朝食を食べ終え。

 家政夫さんは留守番で、パパとママが乗ってきた車で向かうということを聞いて、玄関へ移動。

 パパとママが先に玄関を出ると、心配そうな声が聞いてきた。

「お嬢様、印鑑はお持ちになりましたか? 免許証は? ハンカチ、ティッシュ、携帯電話、ああ、それと、こちらをお持ちください。カモミールティーを淹れてあります。茶葉はもう取り出してありますので、渋くはなりません。ご安心ください」

 差し出されたマイボトルを受け取りながら、言われたことを頭の中で再生する。印鑑はバッグのポケットに入れた。免許証は手帳カバーのポケットに入ってる。ハンカチはパンツスーツのポケットに、ティッシュはバッグの外ポケットに入れてある。スマホはジャケットのポケットにある。触って確認。

 よし、きっとだいじょうぶ。

「ありがとうございます。大丈夫です。行ってきます」

「お嬢様」

「はい?」

「旦那様と奥様は、ただ純粋にお嬢様の生まれ育った町をご覧になりたいだけだと思います。生家に立ち寄る必要はないかと。もしお気にされているようでしたら、お嬢様の好きな場所をご案内ください。きっとお二人は、お嬢様が何を好きで、何を思って生きてきたのか、それを知りたいだけなのだと思います」

「……そっか」

「はい」

 観光スポットがないからどうしようかと思っていたし、喜んでもらえるようなものがないことに落ち込んで焦っていたけれど、別にあの二人は「案内して」なんて言わなかった。勝手に先走ってブルーになってた。

 目から鱗が落ちるとはこのことだ。

 それに、あの二人は、きっと普段は桁が違うようなものを食べているだろうに、はるかに安いものをオススメしても、一度も悪く言わなかった。

 好きなものやことを言うと、批判されるのが嫌だった。相手が喜んでくれそうなものを選んで言うのが癖になっていた。

 だけど、あの二人は大丈夫かもしれない。どんなに変わってても、「そうなんだ」って笑顔で受け入れてくれるような気がする。

 この人の言う通りに。

「……ありがとうございます」

 いつの間にか下がっていた視線を上げて、目を合わせてお礼を言うと、

「はい。では、お嬢様、お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

 にっこりと、まるで大丈夫ですよと請け負うみたいに笑顔をくれた。

「はい。いってきます」


 カモミールティーは別名ナイトキャップ。本来なら朝出がけに渡されるような飲み物じゃない。きっとそれは、考えすぎて勝手に落ち込んでしまう自分に向けた「リラックス」できるようにとの気遣いだ。

 あの人の方がよっぽど、これが必要そうに見えたけれど。

 ポーチで待っていてくれた二人が笑顔で手招く。それに頷きながら、あの人は心配性らしい、と思い出し笑いしてしまった。

 自分より焦ってる人間や、落ち込んでる人間、怒ってる人間を見ると、不思議と冷静になれる。冷静になるしかなかった家にいた頃は、それを損だと思っていたけれど。

 ——まぁ、いつまで続くかわからないが、多分、なんとかうまくやっていけるだろう。 


 運転手さんの褒め言葉に毎度のごとく面映くなりながらお礼を言って、暖かい車内へ乗り込む。前みたいな県外への遠出ってわけじゃないから、それほど時間もかからないだろう。

 運転手さんはパパとママにも手を貸してから運転席へ着くと、バックミラー越しにこちらを見てから口を開いた。

「今日は出生地の役場で証明書を取得後、町内で昼食、その後市役所で証明書を取得し、警察署で免許の変更手続き、以上でよろしいでしょうか?」

「ええ。よろしくね」

 ……そうか、こうやって改めて聞くと、結構な場所移動だ。のんびり観光スポット案内なんてしてる時間はない。わぁ恥ずかしい。取り越し苦労とはこのことか。

「……はい」

 居たたまれなくなりながら返事をして窓の外を見た。

 通行人も多くて、行き交う車の量も多い。視界を遮るビル。

 あと10分もすれば、視界が開けて見えるのは山になる。

 徐々に通行人の姿は減っていき、通りを行き交うのは車か野生動物になる。

「どんなところか聞いてもいいかい?」

「あら、聞いてしまうの?」

「ダメなのかい?」

「ファーストインプレッションって大きいわよ? 私は自分で見て感じたいの。雪ちゃんには、一緒に見ながら話を聞きたいのよ」

「なるほど。それもいいね」

「でしょう? あなたが聞きたいなら止めないけど。その場合は内緒話にしてね。私に聞こえないように」

「それは雪さん次第だ」

「えっ」

「パパの耳元で内緒話をするのは、雪さんの年頃だと恥ずかしいかもしれない」

「あら……反抗期は過ぎている頃だと思うわ」

「年齢で言うともちろんそうだろうけれど、会ってからの時間を考えると、まだまだこれから反抗期だろう」

「まぁ……そのうち、クソババアとか言われるのかしら」

「僕はクソジジイか……いや、無視かな?」

「寂しいし傷つくわ」

「……いや、君はまだ良いよ。僕はきっと、くさいとか言われるんだよ」

「……人ごとじゃないわ。女性にもあるのよ、加齢臭って」

「共通の問題だ。心して取り組もう」

「そうね」

 なんの話ですか。

 って言うかなにこの展開。どうなってるの? って言うかなんて言えば良いの?

「お嬢様」

「はいっ?」

 運転手さんに話しかけられて、思わず声がひっくり返った。

「冗談です。そんなに気を揉まれることはありませんよ」

 笑い混じりの声に、「は」と変な声が出た。

「旦那様。奥様。お嬢様はお優しい方です。真剣に困っておられますよ。あまり揶揄われますと本当に嫌われてしまうかもしれません」

「それは困る」

「それは嫌よ」

「でしたら、そのあたりでおやめください。ミラーの中のお嬢様の表情が見るに堪えません」

 いやどんな顔だよ。見栄えのしない顔に不景気な面してたのは認めるけども。

「ごめんなさいね、雪ちゃん。大丈夫よ。覚悟はしてるの。反抗期だって全力で受け止めるわ」

「そうとも。たとえ家出されようともあらゆるツテを使って無事を確認するから大丈夫だよ。家出中の身辺警護も抜かりなく手配する」

「お二人とも」

「あら、本当のことよ。反抗期、もとい試し行動をされたって、私たちは揺らがないわ。その覚悟と決意があるということは、わかってもらいたいの」

「もちろん、言うだけでは伝わらない部分もあるだろう。だけど、そういった行動を起こせないほど信用してもらえないのは寂しすぎる。だから最低限、わがままを言えるくらいの『安心』は、持って欲しいと思ってね」

 ……実を言うと、多分二人の思惑とは別のところで感動していた。

 子供に一つのことを教えようとする時に、協力して補い合って伝える親と言う構図に。

 見事なほど言ってることがバラバラの二親というのは珍しくもないだろう。子供の前で喧嘩をし始めるのがデフォな親の元で育った身としては、いっそ新鮮だった。

 言われた内容だってもちろん嬉しかった。冗談に織り交ぜて伝える部分は賛否両論あるだろう。ふざけてると思う人もいるかもしれない。

 だけど少なくとも——

 二人のびっくりした顔が滲んだ。


 パパとママと呼んではいるし、これが詐欺じゃなかったとしたら血縁はあるのだけれど、法律上は他人。ということで、二人とも壁際に並べられたソファに座ったまま、物珍しそうに辺りを見回している。

 ちょっとした不審者だ。身なりがかなり良い上に、二人とも雰囲気が柔らかいからか不審がる職員もいないのが救いである。

 パパとママのことは伏せて、引越ししたのだけど手続きを忘れていたと窓口の人に伝える。

 ここの役場の職員はみんないつでも親切だった。祖父が亡くなった時の手続きも、斎場でもらったブックレットも不要なくらい、「次は隣の課へ」「次は2階の真ん中の受付へ」と、順を追って次々案内してくれた。後でブックレットを確認したら、手続き漏れは何もなかった。公的補助金の申請も漏れなく。

 今回も言われるままに申請書に記入して、印紙をもらう段階になって動きが止まってしまった。

 財布。持ってない。

 どうしよう……。あの人も財布って言ってくれればっていうかどんな責任転嫁だよ大人のくせに!

 背中を嫌な汗が伝う。どうしていつもこうなるんだろう。準備不足で退っ引きならない状態になること、両手の数じゃ足りない。でも毎回慣れない。胃がギュウウってなる嫌な感じ。

「あ、印紙はあちらの窓口です。受付二人いますけど、今の時間はどちらでも大丈夫ですよ」

「あ、はい。……ありがとうございます」

 そちらに足を向けつつ、忘れ物をしたといった態でバッグを見て、わざとらしく案内してくれた人に笑いかけて、ソファの方へ駆け寄った。

「……すみません、お金忘れちゃって」

 正直にパパとママに伝えると、二人が顔を見合わせた。

「すみません」

「あら、謝らなくて良いのよ」

「もう申請は終わったのかい?」

「あとは印紙を買わなきゃいけないんです。そこの窓口で」

「なるほど。いくら必要なんだい?」

 言いながらパパは立ち上がった。

 ママは小さなハンドバッグを持っているけれど、パパは手ぶらだった。

 あれ? と思いつつ、パパは窓口へまっすぐ向かう。

 慌てて後をついて行って、窓口で額面を伝える。

 パパはジャケットの内ポケットから財布を取り出した。

 ……ああ、そうか、男物のジャケットって、内ポケット深さがあるんだ。

 女性用のジャケットって、内ポケットすらないの多いから。良いなぁ、便利そう。

 窓口の女性にパパはお礼を言って、印紙をこちらへ渡してくれた。

「これで大丈夫かな?」

「はい。……すみません、あと、市役所でもう一回、多分同じ金額の印紙を」

「謝らなくて良いよ。もともと払うつもりだったんだから」

「え?」

「引っ越しさせたのは僕たちだろう? だから当然払うよ。親のわがままに付き合わせてるんだから。今日のことはあとでお詫びに何かプレゼントするよ。市役所に行ったら、印紙を買う前に声をかけておくれ」

「……はい」


 実を言うと、役場は家に近い。徒歩5分の距離。もしかしたら家族に会うかもしれない、と言う嫌な不安をずっと抱えていたが、そんなこともなく、用を済ませることができた。

 役場の自動ドアを通り抜けて、運転手さんの顔を見たらホッとしてしまった。あとは車に乗り込むだけだ。これで、家族と顔を合わせずにすむ。

 車のドアを開けてくれた運転手さんは、笑顔で手を貸してくれる。

「ありがとうございます」

 いつもならお礼に笑顔を返してくれるのだけれど、表情が曇った。

 なんで?

「お疲れのようですが、予定を変更されますか?」

「え」と言う声が3つ重なった。

「だ、大丈夫です。全然」

 乗り上げてシートに座って答える自分に、まだ立ったままの心配そうな目が3対向かってくる。

「本当」

「我慢は体に毒だよ。帰って休もうか」

「いえ、ほんとに、全然」

「すぐ帰りましょう」

 ママの鶴の一声で、運転手さんはママに手を差し出した。ママは普段は優雅な動きをする人だけど、今は「颯爽と」と言う言葉が似合うような素早さで車上の人になった。

 パパもそれに続いた。

 でもまぁ、良いか。

 早い事帰りたいのも本音だった。

 こうやって安全な空間にいれば、わかるんだけど。実際に家族に会う可能性なんて限りなく低いってこと。

 だって、役場に来る用事ってそもそもそんなにないだろう。駐車場に停めた車から、建物に入る間の距離なんてそもそもそんなにないし、駐車場は敷地外の道路からは見えにくい作りになっている。今乗っているこの車にまさか自分が乗っているなんて思われないだろう。幸い、寒い季節なこともあって窓も閉めてあったし。

 本当に、無意味に怯えるのを辞めたい。

 ……渦中にいると限りなく低い確率ってことが、わからなくなる。


 帰りの車内は静かだった。

 会話があったのは運転手さんがハンズフリーで電話をかけていた時くらいだ。

 家政夫さんに、予定を変更して帰ることを伝えていた。

 本当は市役所へ行って、警察署にも行く予定だったから、結構時間が前倒しの帰宅になる。そこまでしなくて良いのに。

 来る途中でいきなり車の中で泣き出したこともあるし、情緒不安定だって判断されたんだろう。実際そうだし。

 いきなり泣き出すっていうのは、ドラマのヒロインがやるから可愛いのであって。

 はあ、と思い出して恥ずかしくなってため息が出る。

 さっきは冷や汗かいて実際に寒くなったのに、今度は顔が暑い。もう嫌だ。自分のこういうところ本当に嫌い。


 ふと、ドリンクホルダーに目が止まった。

 カモミールティーを淹れてもらったマイボトル。

 車が信号待ちしたタイミングを見計らって、蓋を開ける。

 ふわりと、落ち着く香りが鼻腔を擽る。

 ハーブティーの適温からしたら少し低いくらいの温度は、猫舌の自分にはちょうど良い。

 優しい温度に頬が緩む。


 ママが「良い香りね」と優しい声で言った。

 飲みたいのかな、と思ったけれど、「はい」とだけ答えた。

 口つけちゃったし、手渡すのもな。

 だけど、ママは別段機嫌を損ねた様子もなく、優しく微笑んでくれた。



 マンションに戻ると、心配そうな家政夫さんが出迎えてくれた。

「これ、ありがとうございました。美味しかったです。ママも良い香りねって」

「それはようございました。奥様、お飲みになりますか?」

「そうね」

「僕の分も頼むよ」

「お嬢様は、如何なさいますか?」

「……お願いします」

「かしこまりました」

「でも、その前にお腹空いちゃったわ」

「ご用意しております。お嬢様は、胃に優しい物の方がよろしいですか?」

「いえ、全然、普通に、食べられます」

 別に体調不良ってわけじゃないんだ。慌てて伝える。

「あの、……すみません、今日は。予定、急に変えちゃって。ご飯もすみません」

「とんでもないことでございます。実を申しますと、予めご用意しておりました」

「は?」

「急な予定の変更はよくあることですから。それに、お嬢様の体調を考えますと、このようなこともあるかと」

 ママとパパは感心している自分とは全く違う反応をした。

「あら、どうして教えてくれなかったの?」

「そうだよ。雪さんの体調が悪いのなら、伝えてくれないと」

「違っ」

 慌てて振り向いて手を振って否定する。それは違う。体調悪いわけじゃない。

「失礼ながら、予定を詰め込み過ぎなのではと。お嬢様は日頃、あまり外出をされないようです。仕事後は寄り道などもなくまっすぐご帰宅されますし、休日もお部屋で過ごされます。そろそろお疲れなのではと思っておりました」

 二人はちょっと顔を見合わせた。

「奥様も旦那様もバイタリティ溢れる方々です。お嬢様も元来はそうなのかもしれませんが、環境の変化もあります。かといって、今回の外出はお嬢様が望まれたことです。はっきりとした体調不良が現れていれば、もちろん進言いたしましたが、そうではないのです。それをお止めするのはあまりに僭越というものです」

 ……これは、翻訳すると「体調不良じゃなくて精神的なもの、予定の詰め込みは良くないだろうと予測はつく。が、本人の希望を無下にするのはもっと不安」ってところだろうか。

 まぁ、そうだ。自分でもどこまで平気かわからないし、平気じゃなくなってても気づかないこともある。

「雪ちゃん」

「っはい!?」

「……外出は好きじゃないの?」

「いえ、……あの、嫌いってわけじゃないん——だけど」

 です、と言いそうになって慌てて語尾を変えた。

「パパとママと出かけるのは楽しいし、マンションで過ごすのも好き。今日も全部できるかなって思ったんだけど、体力持たなかったみたいで。見積もり甘くて。すみません」

 言いにくいことを言う時、目線が斜め下へ逸れる。

 ふわっと良い匂いがした。ママからいつもする、香水なのかお化粧なのか、それともボディクリームなのかわからないけど、それ。

 ハグ。

「え」

 ママは割と小柄な人だ。

 いつもヒールのある靴を履いているから、気づきにくかったけれど、マンションの中みたいに、靴を脱いでスリッパを履いてるときは、目線が低くなる。

 少しだけ背伸びするみたいにして、ハグしてくれた。

「えっと」

 実を言うと、誰かに抱きしめられたと言う記憶がほとんどない。

 ないから、思考がフリーズしてしまった。

 暖かくて、柔らかくて、なるほどと思った。いや何がって言われても困るんだけど、なんてとりとめもないことを考える。

「もっと早く会いたかった」

「え?」

「そうしたら、雪ちゃんがどのくらいなら元気でいられるのかわかるのに」

「そうだね。子供をフォローするのが親の役目なのに、それが出来ないのは悔しいね」

「そうよ。悔しいわ。何が得意で何が得意じゃないのか、どこまでなら無理せずできるのか、そう言った全部を知らないんだもの」

「まったくだ。だけど考えようによっては、何年もの歳月をかけて経験則を重ねるところを、会話によってショートカットできると思えば、それも良いと思わないかい?」

「あら。確かにそうね。それは大きなメリットだわ」

「僕たちはまだまだ会話が足りない。一緒にいる時間も。だから今は悔しいけど、僕たちには、育ての親にはないメリットがあるかもしれないよ」

「なぁに?」

「働き盛りを過ぎているんだ。子供との時間もたっぷりとれるよ。今はここと向こうの往復だから、もしかしたら、働き盛りの人たちと同じか、少ないかもしれないけれど」

 ママの瞳が輝いた。

「そうね。そうだわ」

「僕たちがいない間、雪さんに起きたことを教えてくれる秘書もいることだし」

 ママは家政夫さんの方を見てウインクした。

 わぁ、可愛い。

 ——ん?

「お任せください」

「隠し事はなしよ?」

「お嬢様に命じられない限りは」

「……まぁそうね。あまり詮索して嫌われるのも嫌だわ」

「家族とはいえ、親しき仲にも礼儀ありというからね」

 そこでにこやかに談笑している3人を前に、こっちの頭の中には疑問符が散乱していた。

 ——この人、てっきり家政夫だと思っていたら、秘書だったの?

 え、秘書ってやること違くない? 社長の付き添いとか、スケジュールとか、お礼状とか、そう言うのが業務内容じゃないの?



 みんなそれぞれ一度部屋に戻って着替えてから、ダイニングに集合した。

 ママはウールのドレスだ。パパはジャケットの素材がツイードに、インナーがセーターに変わってる。自分はといえば、結局一番気に入っている、ウールの丈も袖も長いワンピースにレギンス。

 ママがせっかく選んでくれた、可愛らしいルームウェアを着ようかとも思ったのだけど、今は自分は体調が悪いと言うことになっているから、女子力よりも気楽さを優先したって許されるはずだ。

 ダイニングテーブルの上には、透明なボウルに水が満たされて、短く切り揃えられた花が生けてあった。

 ——あれ、朝はなかったよな?

「可愛い」

 ぽそっと言葉が漏れてしまったことに気づいて、慌てて口を覆った。

 恐る恐る顔を上げる。

「ええ。可愛いアレンジメントね」

「ミニブーケかな?」

 ピンクの大振りな花の周りを、小さな白い小花が囲っていて、大きな葉っぱがそれを包んでいる。

 残念なことに、自然豊かな土地に生まれ育ったものの、草花の名前はさっぱりだった。

 ママとパパが花の名前を口にしているのを聞いて、驚愕する。

 ママはともかくパパまで……!

 しばらく花の話で二人が盛り上がるのに相槌を打ち続けていると、あらかじめ用意されていた昼食が配膳されて、話はその美味しい昼食のことになった。

 昼食は中華だった。中華粥が出てきて、それを見た瞬間、具合悪かったらこれそのままお粥になったのかなと思うと、体は元気でよかったと思った。お粥も嫌いじゃないけど、それほどに中華粥とそのおかずは絶品だった。

「そういえば、雪さんの育った町は、自然豊かだったね」

 やめて。話を振らないでくれ。

 食事を終えると、話が戻ってしまった。

 自然が豊か過ぎて、逆に関心がわかなかったんだよ。

 例えるならあれだ。自分が吸っている空気の組成を気にしたり関心をもったりする人間が少ないのと同じだ。いや、空気の組成は小学校の理科から習うけれど、植物なんてそれほどテストに出ないじゃないか。

 植物は好きだけど、名前を知りたいって言う知的欲求はなぜか皆無だった。

 庭に咲いている花や植えてある木々は、ひっくるめて「じいちゃんが丹精込めて育てた植物」って認識だ。

 ——いや、それでも、そうだ、父親が勝手に毟ってしまうまでは、「あの葉っぱは花が咲くから抜いちゃダメ」「こっちのはただの雑草」「これは枯葉が肥料になる」って、甘い蜜の出る花も、花冠の作り方も、名前は知らんが知識はあったし、見分けもついてたんだった。

 追憶に引っ張られる(現実逃避とも言う)自分を、家政夫改め秘書さんが引き止めてくれた。

「明日になってしまいますが」

 こぽぽぽ、と食後の紅茶を淹れてくれながら。

「大きめの観葉植物を手配しました。好みもありますから、まずは1鉢だけ。リビング、ダイニング、お嬢様のお部屋、どちらに配置しましょうか」

「あら、素敵。何を頼んだの?」

「それは着いてからのお楽しみということで」

「あら。……でも、良いわね」

 ちょっと頬を膨らませたママは、すぐにじんわりと微笑んだ。

「はい」

「ありがとうございます」

 話を変えてくれたことと、観葉植物を手配してくれたこと。お礼を言うと、にっこり笑ってくれた。3人とも。

「何か希望の植物があったら、すぐに伝えるといいわ」

「そうだ。雪さんの体調が良いときに、植物園へ行かないかい?」

「素敵! 良いわね」

「もう少し暖かくなれば、桜が見頃だし、もう少し先ならハーブ園も良いよね」

「次はひまわり畑かしら?」

「オーソドックスな所から攻めていこう。思い出作りに」

「冥土の土産ね」

「やめてください」

 思わず口にしてしまった。

 二人がびっくりして目をまん丸にしている。


 祖父は、体が不自由になってから、少し怒りっぽくなった。

 頬を叩かれることもあって、怒鳴られることもあった。

 優しかった祖父にされたそれは、もっと酷い暴力も暴言も何度もあった両親からのそれより、何故かひどく心を抉った。

 頻度も程度も全然低かったのに、次第に祖父を敬遠するようになった。

 祖父は入退院を繰り返すようになってから、私をある場所へ連れて行きたいと言ってくれていた。

 祖母と一緒に行って、きれいな場所だったから、今度は3人で行こうと。

 だけど、その約束を果たせないまま、先延ばしにし続けているうちに、祖父は亡くなってしまった。


「……やっぱり、遠出は嫌?」

「違います。……あの、それは純粋に楽しみです。植物園もすごい小さい頃に祖母と行って以来行ってないし、ハーブ園は時期外れなときにしか行けなかったし、ひまわり畑は遠くから眺めたことしかなかったから」

 だけど、と前置きしてから、祖父との約束を話した。

 途中から泣いてしまって、多分、伝わりにくかったと思う。分かり難かったと思う。

 祖父が亡くなってからもう15年たった。それでもずっと後悔している。それを思い出すのが辛くて、怖いから、題材がだれかの死をテーマにした物語は、それが漫画でも小説でも、ドラマでもなんでも、受け付けなくなった。

 そうだ。だから、本を読まなくなったんだった。

 知らない物語は、結末が苦しいかもしれないから、それが怖くて手を付けない。

 読むのは実用書ばかりになった。読んでも読んでも満たされなくて、そのうち追い立てられるような気分になって、ちっともよくならい現実に絶望して、買う気力もなくなっていった。

 お金がないのも本当だったけど、もしかしたら、いつも知らない世界を与えてくれた本から、逃げたくなったのが本音だったのかもしれない。


「……お嬢様は、とても、お祖父様がお好きだったのですね。そして、情の厚い、お優しい方です」

「ごめんなさい。不謹慎だったわ。……ごめんなさい」

 沈痛な表情と落ち込んだ声に、慌てて首を振った。

「違うんです。もう何年も経ってるのに、いつまでも引っかかってる自分がおかしいのはわかってるんです。でも、みんな優しいから、つい、本音が出ちゃって」

 いつもなら、会社の人相手だったら、笑って受け流せたのに。

「ううん。それで良いのよ。本音を言ってくれてありがとう」

「——たとえ何年経っていようと、自分が辛いなら、辛い、それで良いんだよ。こんなことは、誰かと比べることじゃない。平均なんて意味がないんだ。君が辛いなら、そう言ってくれて良いんだよ」

「私たちに出来ることがあるなら、なんでもしたいと思ってる。あなたのお祖父様にはなれないけれど、思い出の地を一緒に巡ることは出来るわ」

「君のそばに、お爺さんのような人がいてくれたことには、感謝するよ。……きっと晩年のことは、許せないし、苦しかったと思う。きっと、優しいおじいさんだったからこそ、……愛してくれていた人に、裏切られたようで、辛かったんだね」

 パパにそう気遣わしげに言われた時、止まっていた涙がまた溢れてきた。

「……そっか」

「うん?」

「なんで、たったあれだけのことが、ショックだったんだろうって、不思議だったんです。他にもっとひどいこと、散々されてるのに」

 そうか、裏切られたと思って、それが——ショックだったんだ。

 ああ、やっぱり、こんな自分は、誰にも愛されないんだって。

 やっぱり、誰からも愛されてなかったんだって、……あんなにたくさん、良い思い出があったのに。

「差し出がましいようですが、——お祖父様は、認知症を患ってらっしゃったものと思われます」

「え?」

「ある種の認知症は、——いわゆる『まだらボケ』と言われるものには、脳の萎縮——つまり、脳の機能的な問題によって、性格が豹変する方がいらっしゃいます。感情の抑制が難しくなり、衝動的な行動をとることも起こり得ます」

「……でも」

「この型の認知症では、記憶がはっきりしている時も多いため、発見が遅れがちです。脳の機能的な問題ですから、ご自身の思いとは裏腹な行動をとってしまうことも多いのです」

「それって、……じゃあ、……本当は嫌ってたから、認知症で抑制が効かなくなって本音が出たってことじゃ、ない?」

「それは違います」

 被せるように言われてちょっと驚いた。

 そして、ママが突然手を強く握ってきて、それにも驚いた。

「嫌いだから、ではありません。抑制というのは、好き嫌いの話とは全く違います。患者様と、そのご家族の深い悲しみは、まさにそこにあります。そこを誤解される方が非常に多いのです」

 そうか。それは——それはすごく、悲しい。

 自分の存在を忘れられる悲しみだけじゃないのか。あんな辛さが、追い打ちをかけるのか。

「雪さん。君の苦しみの原因はわかったかもしれない。だけどね、これだけは誤解しないでくれないか」

「なんでしょう?」

「他の人も経験している苦しみだからと、自分の苦しみに蓋をしてはいけないよ。苦しいものは苦しいんだ。それをないものにしようとしたら、もっと苦しくなってしまうよ」

「そうです。お嬢様。悲しみの一般化はいけません。お嬢様の苦しみは、お嬢様だけの苦しみです。他人がとやかく言うものではありません。お嬢様自身も、他人と比べてどうこうなどと、決して比較はしないでください」

 ……おお、すごい。二人ともエスパーのようだ。まさにいま、そんなことを考えてた。認知症の患者さんの家族は、もっと辛い目にあってるんだと、そんなことを考えていた。

 すると、ママがなぜかキッと二人を睨んだ。

「御託はもうお済み?」

 ちょっとというかだいぶびっくりしている自分をよそに、ママは今度はこっちを向いて、労りのこもった表情になった。

「お祖父様はあなたのことを大好きだったのよ。だから、きっと、ご自身が美しいと思ったものを、あなたに見せたかったの。ご病気のせいで、ご自分の意に沿わないことをしてしまって、きっとひどく後悔してらっしゃったはずよ。だからきっと、あなたに、ご自分を思い出してもらうときには、そんな嫌な記憶じゃなくて。3人で見たとびきり美しい景色を、その幸せな時を、思い出して欲しかったんじゃない? だからきっと、あなたがどんなに先延ばしにしても、最後の最後まで、それを口になさっていたんだと思うわ」

 

「そんなの」


 パパもママも、秘書さんも口を閉じた空間に、自分のみっともなく震えた声がポツリと滲んだ。

 それは、綺麗に整えられた部屋と、この部屋にいる美しい人たちとは不釣り合いな、汚いシミみたいに。


「そんなの、どうでもよかったのに」


 3人は何も言わない。真意を測りかねてるのかもしれない。

 でも真意なんてない。今の自分にあるのは、まるで子供の駄々だ。


「そんなのどうでも良いから、ただ、もっと長生きして欲しかった。もっと長生きしてずっとそばにいて欲しかった。もっと話したかった。だってじいちゃんだけだったんだもん。褒めてくれたのは。ちょっと何かするたびに才能があるって認めてくれたのなんて、じいちゃんだけだった。ちょっと叩かれて怒鳴られて叱られたくらいで、嫌いになってなんかない。昔の思い出だってちゃんと覚えてる」


 しゃくりあげるほど泣いたのなんて、いつぶりだろうか。


「そんなの、どうでも良いから、また家に帰って、3人でお茶を飲みたかった。テレビ見ながら」


 二人はテレビを見て、自分は気が向いた時だけ画面を見て、後は図書館で借りた本を読んでる。それか勉強してる。

 読んでる本が面白くて笑うと、おばあちゃんが「何をけたけた笑ってるの」と笑って、おじいちゃんが「今日は何を読んでる?」と聞いてくれる。「小説読んでる。やりとりが面白くて」と、そのくだりを簡単に説明すると、二人がそれに笑ってくれる。

 あの空間は、平和だった。

 自分にとっての家族の団欒は、あの時間だった。


 今でも時々夢にじいちゃんが出てくる。じいちゃんは生きていて、家にいる。長い夢を見ていたようで、じいちゃんが生きていることが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、ずっとはしゃいでいる。

 その時の自分は、他の嫌なことは全部忘れている。夜になれば気性の荒い3人が帰ってきて、またひどい目にあうなんてこと、これっぽっちも考えない。

 ——いや、あの3人が本当にひどくなったのは、じいちゃんが亡くなってからだったのかもしれない。

 じいちゃんは文字通り家長で、大黒柱だったから。


 散々泣いて、目が腫れたのか、痛くなってきて、鼻も詰まってひどい有様になって、人前でそんなになるまで泣いたことなかったのに、そんなことにまるで頭が回らなかった。

 目の前にはティッシュボックスが用意されたり、温かいハーブティーが淹れてあったり、ふわふわのタオルケットが体を包んでいたりと、どうやら駄駄を捏ねる子供化している間に、周りの立派な大人たちはご機嫌を取ろうと苦心してくれていたようだ。

 泣きすぎてぼーっとしている頭ではよく思い出せなかったが、座っている場所のすぐ横に置かれたゴミ箱には、丸められたティッシュが山になっている。

 多分自分が使って、誰かが持ってきてくれたゴミ箱へ次々放り込んだのだろう。

 洟は落ち着いたようだし、ティーカップに手を伸ばした。

 気付けば室内を満たすのは昼間の光ではなく、夕方の色をはらんだ陽光だった。

 何時間経ったんだ? いや待て、まだ冬だから、この県では比較的早く日が暮れる。

 飲みながら申し訳なさいっぱいになっていると、ママが背中を撫でてくれていた。

 そりゃそうだ、さっきまでしゃくりあげていたから、優しいこの人ならそうするだろう。

「……あの、……すみませんでした。急に泣いたりして」

 ママは首を振った。

「良いのよ。泣いた方がスッキリするわ。溜め込むのは良くないもの。素敵なおじいさまとの思い出も、いつかお話してくれたら嬉しいわ」

「そうです。泣くことによって実際に、ストレスを」

「また御託?」

「……はい」

「難しい話は良いのよ。これだから、男の人はダメねぇ」

 ママは嘆かわしそうに、フェミニズム? いやその逆? とにかく、何かの主張者に怒られそうなことを呟いた。

「……失礼しました」

「うん。確かに、こういう時、僕たち男は不甲斐ないね。寄り添うということが難しい」

「いえあの、でもなんかすごく、本当に3人ともいてくれてすごく、良かったなぁって思いました。ありがとうございます」

 小学生の作文みたいな発言をすると、みんな笑顔になってくれた。

「恐悦至極です。お嬢様は愛情深い方ですね」

「そうだね。この歳になって、こんなに素敵な子供をもてるなんて、素晴らしいことだ。こちらこそ、ありがとう」

「あなたに会えて嬉しいわ。いつもそう思ってるの。だから、私たちはうんと長生きするつもりよ。できることは全てするつもり。でもそれでももし、認知症になってしまったとしても、あなたに悲しい思いは二度とさせないわ」

「そうだね。健診は毎年受けているけど、認知機能の検査はこまめにしよう。それ以外でも、僕たちどちらかにその兆候が表れたら、——わかるね?」

 パパは秘書さんの方を向いた。

「はい。必ず対処いたします。お嬢様が決して傷つかないように」

「だから安心してね」

「——ちょっと待ってください。対処って、具体的にどんな? 別々に暮らすってことですか?」

「お嬢様との接触は、なるべく避けるように致します」

「それは良いんです、そうじゃなくて」

「え、良いの? 寂しがってくれないの?」

「寂しいですよもちろん。でも問題はそうじゃなくて! どこで暮らすんですか? 自分が一人暮らしするのは構いません。問題はそうなった人です。どこで暮らすんですか? 本邸ですか?」

「今は専門家が常駐してる施設もあるのよね?」

「ダメです!」

 3人がぱくりと口を閉じた。今までで見た中で一番びっくりした顔をしてる。

 でもそりゃそうか。こんな悲鳴みたいな声出されたら、そうなる。

「トイレも自由に行けないんです。許可してないのに勝手にドレーン入れられる。本人はどうせわからないだろうって説明もなく! そりゃ看護する側にだってどうにもならないこともあるだろうけど、あんなの人間の尊厳も何もないです!」

「……おじいさまは、そうされたの?」

「いえ、違います。祖母が骨折したときに。祖母は年は歳だけど、頭ははっきりしてるのに、勝手に年齢で判断されて。それにドレーン入れられる前も、取ってからも、ナースコール押したって、すぐにはトイレに連れてってくれないんです。看護する側が忙しいからって。待ってて待っててってそればっかりで。なのに便が出ないって怒られて。人手が足りないのはわかってる。だから自分がいれる間はなるべく付き添いました。きっと自分も看護師だったら同じようなことをするんでしょう。したくなくても。でも、自分には耐えられなかった。まるで看護する方が立場が上みたいな、あんな物言いするのも、されるのも、耐えられなかった。あんなの人間にすることじゃないと思った。調教して言うこと聞かせようとするところ見て吐き気がしたし、……どんな態度で何をされても『ありがとうございます』って言うようになっていく人を見て、すごく——気持ちが悪くなった」

「……それも、『病院がなくなったら困るから』、訴えなかったのかい?」

 静かなパパの声に、「あなた」と制止する声。

 頷くと、秘書さんが低く小さく言った。

「確かに、医療の現場も介護の現場も逼迫しています。慢性的な人材不足に、待遇の悪さが拍車をかけています。待遇が悪いので新人が入ってこない。疲弊して——先ほどのお嬢様がまさに仰っていましたように、『つい、被介護者にひどいことをしてしまう』のを悔いて、そこまで行かなくとも、いつか虐待してしまうのではと恐ろしくなって、現場を離れる——離職者が後を絶ちません。残された者は、更に少ない人数で職務に当たらなければなりません。必然、更なるハードワークが訪れるという、まさに悪循環です」

「そして、労働環境が最悪でも働き口として、対応が最悪でも受け入れ口として、存在してもらわなければならない、か」

「まるで煉獄ね」

「地域差も施設ごとの問題もあるでしょうが」

「私たちの問題は、雪ちゃんね」

「え」

「そうだね。雪さんは、共感性が強いようだ」

「それもかなり」

「その特性で、これまでの環境は辛すぎる」

「雪ちゃん。私たちは、お家に専門家を雇って、雪ちゃんには好きな時に様子を見てもらうことにするわ。それなら安心?」

「録画録音機能も付けよう」

「私が先に目を通します」

「……ああ、そうだね。雪さんに着替えを見せるのはちょっと問題か」

「ちょっとじゃなくてかなりよ。私たちのことは、これでどうかしら?」

 頷く。それならきっと、大丈夫だ。

「……おばあさまは、もう?」

「あ、えっと、もう退院してます。もう一人でトイレも行けるようになったし」

「……頑張ったわね」

「はい。おばあちゃんは家に帰りたい一心で頑張ってたんです。リハビリ。だから、本当によかった。報われてよかった」

「そうね。そして、雪ちゃんも。すごく頑張ったわね」

「え?」

「おばあさまの頑張りを知っている雪ちゃんは、それだけずっとおばあさまに付き添っていたのよね。よく、頑張ったわ。あなたの頑張りのおかげで、おばあさまの頑張りも報われたのよ」

「そうだよ。付き添いの頻度を減らす選択肢だってあったろう。なのに、雪さんは嫌な思いをしても、付き添いをやめなかった。正面から向き合い続けたんだ。とても立派だよ。優しくて強い雪さんを、誇らしく思うよ」

 違う。そうじゃなかった。ただ怖かったんだ。

 家族がいる目の前でさえ、あんなに酷い対応しかできないなら、自分がいなかったら、何をされるんだろうって、怖くて仕方がなかった。

 仕事の都合で食事に付き添えなかった時、祖母は入れ歯を渡してもらえず、ご飯を食べていなかった。

 ある日、夕方仕事終わりに病室に入った自分を見て、祖母は「そこの入れ歯をとってくれ」と言った。ドレーンを体に入れられた祖母は、ベッドから動けない。その状態で、手の届かない棚の上に置かれた入れ歯洗浄剤のケースを見た時、体から力が抜けて、バッグを落としてしまった。

 青いプラスチックケースの蓋を開くと、緑色の洗浄液に漬けられたままの入れ歯が目に入った。

 ケースを取り落としそうになったのを何とか堪えて、洗面台に向かった。

 トイレも自由に行けない。目の前に食事のトレーを置かれているのに、お腹が空いても食べられない。なのに便が出ないと叱られる。

 ママは煉獄と言ったけれど、刑務所よりも酷いんじゃないだろうかとあの時思った。


「申し訳ありませんが、このあたりで一度、お話は中断してくださいませんか?」

「あら、もう夕ご飯の時間ね?」

「はい」

「準備があるよね。それとも外食にするかい?」

「いえ、そちらも早急にお話されるべきですが、一度に辛い体験をいくつもお話されますと、精神的な負担が大きくなりすぎます。今日はこれ以上はおやめください」

「それはいけない。ご飯について話そう」

「外食は無理ね。目が真っ赤よ。濡れタオル」

「はい」

「ケータリングにしましょ」

「たまには良いね」

 ジャーっという水音が二人の会話に紛れる。

 ほどなくしてタオルを手渡された。

 小さい頃は、家族が寝静まった後で号泣したことが結構あったけど、こんなのしたことなかった。

 おかしくなって笑ってしまった。

 昔読んだ漫画の中で、印象的な言葉があった。

 昔の子供——昭和や、平成初期の子供と、今の子供、どちらが幸せかという問いに、大人が答える。

 どちらも幸せさ。

「子供は、幸せじゃなきゃいけないんだよ」

 もう結構大人になってから読んだそれに、目頭が熱くなった。

 絶対に、子供は作らないと誓った。

 虐待された子供は高確率で虐待する親になる。

 だったら、絶対に子供は作らない。幸せじゃない子供を増やすわけにはいかないから。

 子供が幸せであれるように、大人は努力すべきだと思った。

 あの頃自分はちっとも幸せな子供じゃなかった。

 子供時代を思い出そうとすると、浮かぶイメージはいつもグレーがかっている。グレーがかっていて、下腹部に嫌な感じがする。自然と眉間に皺が寄る。気持ち悪くなってしまって、途中でやめてしまう。

 そんな嫌な思い出しかない子供時代を過ごしていたのに、何の因果か、今頃、幸せを感じている。

 泣いているときに与えられるのが、怒声でも更なる嫌がらせでも暴力でもなく、優しさだなんて、不思議で仕方なかった。可愛いと言われる子供時代に与えられなかったものが、今当然のように差し出されるなんて。

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