第8話
翌朝。
あろうことか、寝坊した。
朝はしんどくて仕方ないのはいつものことだとしても、人を待たせているからってことで、なんとか朝食時間には間に合うように起きていたのに。
仕事には間に合うけれど(もう自分がうつ病だと受け入れてから選んだ仕事だから、昼からの勤務時間というのが一番のメリットだった)、いつも朝ごはんを食べてから、前日書ききれなかった記録を書き起こす時間に当ててたのに。
今日はそんな暇もない。
何故なら、ドアをノックされてから起きたから。
「お嬢様、お目覚めですか? 体調がよろしくないようでしたら、医者を——」
「起きてます! すみません、寝坊しました!」
ドアの向こうの心配そうな声を遮るように叫ぶと、露骨にホッとしたような声に変わった。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか。では、お食事のご用意をして参ります。ゆっくりお支度ください」
足音が遠ざかっていくのを聞いてから、慌ててベッドから抜け出して髪を梳かす。
洗面所でやれば良いんだけど、髪質のせいで寝起きはライオンの鬣みたいになるんだよなぁ。強風を受けてるみたいで、ものすごいブサイク。
いやでも、ミュージカルのライオンキングは、あれはあれでカッコよかったから、やっぱり、つまり、自分の顔が嫌いなんだよ……。
一人暮らしだったらそのまま洗面所行って顔洗ってからするとこだけど、他人もいるからな……
手が疲れてきたところで諦めてブラシを戻す。今日は二人もいるんだよなぁ……どうかすれ違いませんように、と祈りながらドアを開けた。
マンションの間取りは、玄関を開けると左右にそれぞれ洋室があり、玄関のちょうど真横にも洋室が一つ。そして左右の洋室の向こう側に水場がまとまっている。そして突き当たりがキッチンとリビングダイニング。リビングの横には引き戸があって、そこが4つ目の洋室だ。
引き戸は一番狭いからということで、そこを家政夫さんが利用している。
夫婦は仲良く一部屋使っているが、だったら一番広い部屋を使えば良いものを、一番広い部屋をこちらへあてがってくれた。
二面採光の、玄関横の部屋。
この家は角部屋な上、廊下と玄関の間にはポーチもある。耳の良い自分でも、あまり物音が気になることもなかった。
空いた一室は多分客間だろう。もしかしたら、戸籍上の実子の部屋かもしれない。今は、多分家政夫さんが定期的に掃除してるとは思うけど、立ち入ったことはないから、どうなってるか知らない。
なんとか誰にも会わずに洗面所にたどり着いた。二人の部屋の前を通っても物音ひとつしなかったから、多分、もう突き当たりのリビングにいるんだろう。
洗面所の鏡に映った自分は、「セーフ」とでも言いたげな引き攣った笑いを浮かべていた。
せっかくだらしないところは見せないようにしていたのに、しくじった。
いや待て、悪人になるって決めたんだから、どうせだったらだらしなくてどうしようもないところだって見せれば良いじゃないか。
どうせ遅かれ早かれ、二度と会うこともなくなるんだ。
そう、言っていたじゃないか。
傷は浅いうちに別れたほうが良い。
「すみません、思いっきり寝坊しちゃって。仕事前にほんとは役場と警察署に行きたかったんだけど」
ブランチを前に気もそぞろで告げると、3人はそれぞれ異口同音に驚きの声を上げた。
「ああ、えっと、引越しの住所変更、してなかったなと思って。免許の更新案内とか、アパートに着いちゃったら困るし」
「左様でございましたか。それは必要な手続きですね。失念していて申し訳ございません」
「いえ、忘れてたのは自分です」
「ですが、郵便局への転居届は既に提出済みです。免許更新案内などの郵便は1年間、手続きがなくとも自動でこちらに届きますのでご安心ください」
「あ……ありがとうございます」
「そういえば、雪さんは免許を持っていたね」
「すごいわ」
「いえ、……ここだとほとんどの人にとっては必要なもので、生活保護を受けていても処分されませんよ」
しまった。暗い話を出してどうする。
「あの、次の休みの日は、警察署と役場へ行ってきます」
「お送りいたします。警察署での手続きには住民票が必要ですから、お嬢様がお仕事をされている間に私が役場と市役所へ参ります。委任状にサインをいただけますか?」
「え……それで良いの?」
「はい。お任せください。委任状と印鑑、身分証明書をお預かりできれば、代理人でも可能です」
いや待て、身分証明書って偽造されたら困る。家事が完璧だからうっかり除外しかけてたけど、妙に詳しいしやっぱ怪しいって。
こりゃやばい。なんか適当な言い訳を……
「あ……えーと……その。た、たまには、……向こうで、ご飯食べたいなぁ……とか、思ったり、アハ、あははは……いや、作ってくれる料理すっごく美味しいし好きだけど、なんていうか、たまには外食も良いかなぁ、なんて。それに、……えーと……なんか、……この街は県内じゃ拓けてるし便利で良いところだけど、緑がなさすぎて息が詰まる」
……って、あ。
言ってしまってから口を塞いだ。慌てててうっかり本音が口から出てしまった。
……冬でも夏でも、昼でも夜でも、よく家から追い出されたことがあった。その度に、近くをあてもなくぶらぶら歩いていた。田んぼと畑と、森と山。人通りのほぼない道。どの家の庭にも大抵樹齢何年もしてそうな太い木が1本はあった。家の中にいても、窓から見えるのは山と空。そして空き地。
驚異的に歩いている人間が少ない過疎地で育ったせいか、まだ2週間もいないっていうのに、なんだか息苦しい。
「植物を買いましょう」
「手配いたします」
「フェイクグリーンはダメよ、ちゃんと呼吸してお手入れ間違えたら枯れちゃう生きてる緑」
「それから次の休みは予定を開けるから、連絡しておいてくれ」
「かしこまりました」
「今の季節って、虫除けはいるのかしら?」
「お調べします。必要なようでしたらご用意しておきます」
虫除け?
「何時に出かける?」
どこへ?
「向こうでゆっくりするなら、早い方が良いだろう」
「お嬢様の体調次第です。お疲れなところを無理に起こされるのはどうかと」
「そうよ! それはもちろん」
「雪さんの用意が出来次第出発、我々は可能な限り早めに用意を終えておく。というところでどうかな?」
「そうね」
何かがまとまったらしい。
「雪ちゃんの育った土地、楽しみだわ」
——ああ、そういうこと。
って、え?
仕事中は気もそぞろだったが、怒られることなく業務を終えて、バスを待っている間のカフェ。そこで頭を抱えてしまった。
多分、あの町にみんなで行くつもりなんだろう。だけど、あの町って、見ても楽しいものなんて特にないし、買い物できるようなところも特にない。半分がシャッター街になってしまった商店街、いつまで経っても新しくならない耐震法違反の古くて洒落た作りの公共施設、安いのだけが取り柄の町営温泉。
ショッピングモールすらないし、若い子が楽しめるようなカフェもないし、テレビがくるような隠れた名店もないし、ファミレスは1件だけで選択肢もない。誇れるところがあるとすれば、待機児童ゼロな点だろうか。
自分みたいな変わった人間にとっては、そこそこ好きなスポットはある。芝生一面広がった広大な庭がある出入り自由な研究所とか。
だけど、ただ歩いてるだけで落ち着くっていうのが一番大きい。等間隔で並ぶ街路樹じゃなく、歩道と車道の間は段差すらない白線だけで、車道の反対側は田畑と民家と荒地が無作為に並び、屋外にいれば視界のどこかに必ず植物が入り込む。
まぁ、人がいないから落ち着くのかもしれないけど。
とにかく、そう言ったところに連れて行って、がっかりされないわけがない。
雰囲気が好きなんですってザックリすぎる説明に、同意する方が難しいだろう。都会の人が思うような一面の麦畑も黄金の波もなく、自然だって整然と手入れされた都会の公園とは程遠い。
田舎特有の温かさを求める人もいるけれど、人の繋がりは濃くても、虐待が起きていようと、毎日泣いている子供がいようと、「それは躾」「あの子はできが悪いから親が大変だ」で済ませられる。ようは、中の人間には甘く、外の人間には冷たい。
もともと知っている人間には甘いから、新しく生まれてくる子供の意見は通らない。
いや——それでも、もしかしたら、助けてくれたのだろうか。「いつも叩かれるから帰りたくない」と、誰かに言えたのなら。
無理か。小さい子供に優しい大人たちは、大きな子供らしくない子供には優しくなかった。小さい頃発育が良くて、園児だった頃には小学校高学年と思われていた。
……ほんと、辛かったな、あの頃からずっと。
母は捨て台詞のように「社会に出たらもっと辛いことはいっぱいある」と言っていたけれど、社会に出たら、いじめもないし、殴られることもないし、怒鳴られることもない。心ない言葉だって聞いたこともない。
親がこんなに酷いんだから他人はもっと酷いなんて、盛大な勘違いをやらかしてたもんだ。
……ま、その最後が家族の名を使った大掛かりな詐欺に遭うってのは、なかなか自分らしいのかもしれないが。
バスが最寄駅に着いて、運転手さんにお礼を言って降りると、目の前の歩道に家政夫さんが突っ立っていて死ぬほど驚いた。
「お嬢様……ご無事でしたか」
「え」
あ、そうか。バス、うっかりいつも乗るのに乗り損ねたから。
「……すみません。あの、……」
「いえ、何もなければそれで」
「本当にすみません」
「いえ、……本当に、何もございませんね?」
「え?」
「いえ、まずは帰りましょう。日が落ちると冷えてきます。お嬢様にお風邪を召されては一生の不覚になります」
んな大げさな、とちょっと笑った。
第一、風邪引いても看病してくれる人誰もいないからと気を張ってたからか、ここ何年も風邪なんて一度も引いてない。病は気からとはよく言ったもんだ。
「お荷物お持ちします」
荷物? 今日は買い物なんてしてない……って、ああ、バッグのことか。
「……じゃあ、はい」
どうせ鞄の中には財布も入ってない。
カフェはスマホ決済できるし、バスも交通系ICで決済できる。お年玉の残金から一万円もチャージしたので、まだ残ってる。何かとキャッシュレスを持て囃される昨今は、正直なところ任意整理や自己破産をした人間には居心地悪いことこの上ない。なんたってクレジットカードが作れない身の上、現金でチャージできる電子マネーはありがたい。
昨日はあの後、家でお小遣いをパパからもらった。今時はお小遣いも電子マネーなんていう超ハイテク家族も存在するらしいが、パパもママも年齢が結構いってるからか、現金手渡ししてくれた。下着の買い物はママが払ってくれたから、お小遣いはパパの分担なのだそうだ。
とはいえ、使い道はほとんどなかった。衣食住と借入金の支払いから解放された身としては、月々のスマホとWi-Fi料金くらいだ。1杯500円以上するようなカフェで時間を調整してバスで往復なんていう超贅沢をしても、余裕で貯金ができてしまう。元来財テクにときめくような変わった人間としては、資産運用と行きたいところだ。まぁいつネタバレが襲ってきてもいいように、今の所堅実に普通預金かはたまたまだしも利率の良いネット銀行の定期預金か、としか考えていなかった。資産運用といっても銀行任せで投資するくらいなら自分で運用したほうが割りがいい。あの手数料は異常な曲者だ。自分で勉強する時間が惜しいなら人件費だと割り切ってやってもらったほうが良いのだろうが、根がケチなもので割り切れなかった。
学生の時に手を出して失敗、ではなく成功していた身としては、元金さえあれば。……まぁそれも、リターンが千円を超えた頃、弟が無保険で事故を起こして元金諸共藻屑と消えた。あの時出さなければ……と遠い目になりつつ、バッグを手渡し——
入ってるのは手帳とタンブラーと、って手帳が入ってる!!
「いや、やっぱいいです。そんな重くないし」
「そういうわけには。私の数少ない仕事です。本邸にお住まいになる前に慣れてくださいませ」
「……じゃあ手帳だけ自分で持ちます。落ち着かないんで」
「かしこまりました」
マンションに戻ると、もう二人はいなかった。
次の休みに合わせて予定調整するために、何かしなきゃいけないことがあるらしい。悠々自適の年金暮らしってわけでもないのか? 詐欺の打ち合わせ?
バッグは部屋まで持ってきてくれた。この部屋にはバッグの定位置なんてものまである。
バッグの中のタンブラーは回収された。洗ってくれるそうだ。ペンケースはテーブルへ、ポケットティッシュと鍵の入ったポーチはチェスト上の籠へ、バッグはブラシをかけてくれた。
……へぇ、その籠、そうやって使うんだったのか。
「ご夕食を温め直しておりますので、終わりましたらお声かけいたします」
「はい。ありがとうございます」
手洗いうがいを済ませて、服を着替える。正直着替えは面倒なのだが、若干潔癖のきらいがある自分にとっては、外出した後着替えられるのはいいことだ。ただ何が面倒って、洗い物が一着分増えることで、その洗濯をやってくれる人がいると思うと、心理的抵抗はグッと下がった。
それでも多分、普通の人からするとノロノロと時間をかけながら着替えを選ぶ。だいたい着る服多いと選ぶのに時間かかるから嫌なんだよ。
今の季節にあった服しかないというのに、この量はな。
ウールのワンピース、セーター、チュニック、レギンス、膝丈スカートに、化繊のモコモコしたいかにも若い子が好みそうなパステルカラーがよりどりみどりだ。
その中で、ルームウェアっぽいものを選ぶ。
これがまたちょっと大変だったりする。楽しそうに選んでくれたママに悪いので、順繰りに着ようとは思うのだが、静電気が凄まじい帯電体質の自分としては、化繊は遠慮したいところ。ついついウールに手が伸びる。
「……まぁいいか。今日は二人ともいないし」
手に取ったのはいかにもウールっぽい色合いの、ポケットのあるチュニックと、ハイウェストなレギンス。足だけやたらと汗をかく体質なので、ソックスも取り替えさせてもらう。発熱素材は化繊だから敬遠したいんだが、靴下だけは手からも髪からも遠いからまぁ良いや。
スリッパというかルームシューズのブーツみたいなものに足を入れれば、空調の効いたマンションならこれで十分暖かい。
クローゼットの扉を開くと片面は鏡になっている。全身が映るその姿見は、扉を閉じるときに嫌でも目に入る。
ただ、まぁ、やっぱり人に選んでもらっただけあって、まぁ捨てたもんでもないか、くらいの見た目になってる。それに苦笑いして扉を閉じた。
「お嬢様、ご夕食の準備が整いました」
「はーい。今行きます」
家政夫の仕事は体を動かすものが多いから、もっと楽な格好をすれば良いのに。流石にネクタイはしていないが、ワイシャツにスラックスにエプロンという出立ちがデフォで、さっきはエプロンの代わりにジャケットを着ていたのでそれにもちょっと驚いた。
傍目には砕けた格好の年増女が、真っ当な勤め人を顎で使っているように見えたかもしれない。……嫌な気分になってきた。
今はジャケットは脱いでいつもの格好だ。
今日もテーブルの上に所狭しと並ぶ、目に楽しい料理たち。
あの日持ってきた、お気に入りのお皿たちも登場している。
家じゃそれなりにどころじゃない量の食器を所持していながら、いつも使うのは安物の皿で、しかも使うものは決まっていた。
テーブルコーディネートとは無縁の家だった。
きっと、近頃の若いお嬢さんたちだったら、スマホ片手に写真を撮ってSNSへ投稿するんだろう。でも自分にはそんな芸当は荷が重い。
目で楽しむのが性に合ってる。
今日もその調子で、「いただきます」の後にどれから食べようか迷っていると、斜め前、カウンターと一番行き来がしやすい席に座っている家政夫さんが、徐に口を開いた。
「お嬢様」
「はい?」
「お話があります」
今?
持ち上げたばかりのカトラリーをもう一度置いて、改めて姿勢を正す。
「はい」
「——先に謝罪いたします」
「——はぁ」
何を?
「私共は須らく、守秘義務を負っております」
「……はい」
「それを前提とした上で、あくまで業務上必要な場合において、情報の共有を図る場合がございます」
「……はい」
「緊急性がある場合、知らなかったことによる重大な過失が起こる可能性がある場合、また情報の共有が妥当及び、当然と思われる場合において、許可を得ず情報を共有いたします」
「……はい」
まぁ言いたいことはわかる。命の危険がある場合に、救急車を呼んでおいて守秘義務がどうので連絡先を教えないとか、名前を教えないとかあったら困る。
わかるんだが、何を謝りたいのかがわからない。
眉間にシワが寄るのが自分でもわかった。
「お嬢様の既往歴について、共有しておりました」
……既往歴っていうと、あれだろうか。いやあれしか喋った記憶はない。
「……ええと、うつ病のこと」
「はい」
ペラペラ喋られたら困るが、職場の人にさえ知られなければそれで良い。
誰に話したんだろうか。
「——お怒りになられましたか?」
「……いえ、あの、誰に話したんでしょうか」
「私に」
……ん? 私が、じゃなくて私に?
「ええと、すみません。誰が誰に話したんですか?」
「お嬢様は面識がおありだと思います」
弁護士さんの名前と、本邸の、あの他人だと思えない人の名前。
「ああ、はい。知ってます」
あの人が「私に」
ああ。なるほど。あの人たちが、この人に話したと。
「……で、何を怒るんですか?」
「彼が私共に話したことについて、お怒りではないでしょうか」
……ああ。
「いえ、別に」
「……ありがとうございます」
パニック障害みたいな発作が起きるわけじゃないが、接する側としても、予め知っておいたほうが心構えができる。そういうことで多分、情報共有したんだろう。家族がずっと張り付いてるわけじゃないから、緊急事態になったときのために。
まぁとは言っても、別にリストカットしたりとか、首を吊ろうとしたりとか、例えばここはこの県にしてはなかなかの高層階だけれども咄嗟に飛び降りようとしたりとか、いきなり人が変わったように暴力的になるとか、そう言ったわかりやすい困ったことを起こしたことはない。
なかったけれども、それでも抑うつと診断されたから、ニュースや物語の中にあるような劇的なことを起こす患者ばかりというわけではないと思う。きっと、そうやって表に出せないくらいの、だからこそ気付かれにくくて自分でも気づきにくい、だから余計におかしいと思えてどんどん追い詰められていく人は、きっと多いんじゃないだろうか。
自分はたまたま心理学に興味があって、履修していたこともあって、そうかもしれないと、気づいたけれど。
「では、お話ししますが——その前に、どうぞ、お召し上がりください」
「あ、はい」
もう一度カトラリーを手にとって、今度こそ美味しそうな匂いを立ち上らせている料理を掬った。
「ストレス?」
「——はい」
「……いえ、別に、ストレスは多分今まで生きてきた中で最も少ない生活をさせてもらってると思うんですが」
「それはようございました。ですが、環境の変化がストレスになるのではと」
「……いえ、……そんな」
「あくまで例えですが、人生において、ある種の女性にとって、最も幸福な瞬間ともなる結婚でさえ、……うつ病の原因となることがあるそうです」
「あー……」
うん。授業で習った。
「このマンションへの引っ越し、一人暮らしからの3人暮らし、私のような使用人の存在、連日の外出、買い物。このどれもお嬢様ご自身の意志ではございません」
ってかこの人使用人なの!? 家政夫さんて使用人なの!?
いや待て、えっと。
「いえ、強制されたわけじゃありませんし、……全部納得して」
「……ですが、お嬢様の環境が大きく変わったのは否めません。食欲はあるようで安心いたしましたが、起床時間のズレや、……その、」
ん? なんかすげぇ言いにくそう、っていうか顔色悪っ。いや待て、なんか震えてね?
え、何、これは察して自分から言うべきか? 何を?
えーと、起床時間のズレ、だからそう!
「あ……えーと、住所変更忘れるとか、……バスの時間をうっかり忘れて乗りそびれて帰りが遅くなるとか?」
「うっかりされたのですか?」
目をまん丸に見開いたその顔は、ちょっと愛嬌があった。思わず笑った。
「はい。ちょっと最近寒かったから、バス停のそばにカフェがあるんです。そこで一杯飲んでたらぼーっとしちゃって。もともと、ぼーっとしてることが多くて。子供の頃のあだ名はボーちゃんだったし。忘れ物も物忘れも多い人間で……だから別に、家出しようとか思ったわけじゃないですし、……追い詰められてたわけでもないです。——でも」
ここは正直に言っておこう。
「確かに、……この病気は寛解したわけじゃないし、病気と、元々の性質との境目は自分じゃもうわからないんです。だからって、通院して処方薬を飲むと、起きてられなくなって、仕事ができなくなる。いまの職場には恩があるんです。だから、最後までちゃんと働きたい。だから、……もし、病状が悪化してるように見えたら、明らかにおかしかったら、今日みたいに言ってください。——朝、起こしてもらえて助かりました。もし症状がひどくなって、また起きられなくなったら、また今日みたいに助けてもらえるとありがたいです。……お願いできますか」
一瞬、困ると言われたらどうしようかと思った。
でもそれでも構わない。
起きれないったって、起き上がって支度をするのがとんでもなく辛いってだけだ。仕事の日は、アラームをかけまくれば良い。
ただ、線引きができるだけだ。
何をどこまでしてくれるのか、お願いできるのか、人を雇うなんてしたことないから、わからない。
なのに聞こえてきたのは明るい声だった。
「もちろんです。お嬢様のお願いとあれば喜んで。お嬢様さえよろしければ、毎朝アーリーティーをお持ちします」
アーリーティー? あ、early teaか。
いや良くないわそれは全くよろしくない。それ別名ベッドティーだろ。寝起きの一杯ってやつだろ。寝起きの悲惨な顔を他人に見せろってか。百年の恋も一時に冷めるどころの話じゃないんだけど。
「いえそれは……ブレックファーストティーで充分です」
多分引きつった顔になったろうけどなんとか笑って告げると、返ってきたのは莞爾とした笑顔だった。
「かしこまりました」
その日は、お風呂から上がると、いつものレモン水の他に、カモミールティーを淹れてくれた。
「これ、買ってきたんですか?」
「はい。今日お嬢様のお仕事中に、茶葉を仕入れて参りました」
「わざわざ……すみま——ありがとうございます」
「少しでも良い睡眠のきっかけになればと思いまして」
善意100%に見える笑顔は、多分恋愛感情が死んでる自分じゃなかったら、きっと少しくらいときめくんだろう。
それに少し笑いながら、もう一度お礼を言った。
カモミールティーは、残念ながら機械が自動で淹れてくれるカプセルには品揃えがなかった。3人で、どれを頼もうかと商品の箱に入っていた案内を見て話してたときに、見当たらなくて内心ちょっとがっかりしていたから覚えてる。
だから、きっと買ってきてくれたんだろうと思った。
ティーバッグかと思ったけど、茶葉って言ってたから、きっと手ずから淹れてくれたんだろう。
綺麗な色に抽出されている。アパートから持ってきたものじゃない、透明なガラスの丸い形のティーカップは、色がよく見える。
猫舌だから恐る恐る、そっと口をつけると、ふわりとよく香った。
良い香りだ。
温度もちょうど良かった。
優しい味。
「美味しいです。香りも良くて。よく眠れそう」
「それはようございました」
「いろいろありがとうございます。……よく眠りすぎてまた寝坊したらすみません」
ちょっと笑ってくれた。
「お任せください。お時間になりましたらお呼びいたします」
部屋に戻ると、お香が焚いてあった。今日はリビングでは焚いてなかった。カモミールティーの香りを楽しむためかな。
手帳を開いて、1日を記録していく。
ああでも、今日は早めに寝ないと。明日早く起きれるように。
翌朝はなんとか朝食時間に間に合った。
もともと、仕事時間が遅いし、朝もあんまり強くないと伝えてあったから、多分一般家庭よりは遅い朝食時間。
なんとかベッドを抜け出して髪をまぁまぁ見られる程度に整えて、顔を洗いに行く。今日も無事に誰にも会わずに洗面所にたどり着けた。
顔を洗って、とろみのある化粧水だけで保湿を済ませ(めんどくさくて3ステップなんてやってられない)、化粧は後回しにして着替えに戻る。
30過ぎても化粧が好きになれなかった。日焼け止めとパウダーだけ。顔に色は載せない。それすら面倒で、休日はカットしてしまう。
世の中にはすっぴんで人と会うなんてとんでもないっていう人がいる。でもきっとそういう人たちは、化粧映えのする美人だからだ。
化粧した顔だって好きになれなかったから、清潔であれば別に構わないだろうと、休日はそのまま出かけてしまうし、家政夫さんにもそのまま会う。使用人を人だと思っていないから平気、というわけではない。断じて違う。
着替えて、髪を結んでもう一度部屋を出る。
リビングのドアを開けると、朝食の良い匂いがふわっと広がった。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます。良い匂いですね」
「ありがとうございます。ゆっくりお休みになれましたか?」
「はい。おかげさまで」
「それはようございました」
カウンターの向こうから、じゅわああ、良い匂いと良い音が立ち昇る。
テーブルに置かれているピッチャーに手を伸ばすと、ガスが切られる音がした。
あ、しまった。
……水を飲みたいだけなんだけど、それすら自分でやらせてもらえない。いつもなら待ってるんだけど、今日はうっかりしてしまった。
「お待たせしました」
「いえ、……すみま——ありがとうございます」
グラスに注いでもらった水を受け取って飲み干す。
今日はライムだろうか。
基本的に朝はフレーバーウォーターだ。夜は決まってレモンだけど、朝は割と種類がある。
のんびりした朝、ってこんな感じなんだろうか。
古いタイプの独身男が描く結婚したらの夢。
奥さんが食事を作ってくれて、笑顔で給仕してくれる。
まぁ男女逆転してるわけだし、……使用人と雇い主だから、割り切れるけれど。
……嘘だ。
一人でいる方が気が楽なのは、搾取されなくて済むからだ。
どんなに大変でも、自分一人の面倒を自分でみる方が気が楽だ。
人のために頑張って頑張って、報われないのは辛すぎる。もうあんな思いはしたくなかった。
仕返しみたいに、いつかは使う側に回ってやろうと思ってたけど、いざそうなってみたら、心の奥で小さな自分が悲鳴をあげる。
風邪をひいて体がだるくて、それでも家事をして、居間を見れば寝転んで暇そうにテレビを見ている親がいる。手伝ってくれない。辛さもわかってくれない。伝えても、うるさいと怒られる。
ずっと理不尽だと思ってきた。
お給料が出るなら、理不尽じゃない。ちゃんとした仕事だ。お礼を言ってちゃんと報いれば良い。
自分を納得させようとしたけど、やっぱりダメだ。
多分、……本当は、誰かがだれかのために一方的に尽くすんじゃなくて、例えば一緒に台所に立つとか、手分けして洗濯物を畳むとか、そういう生活に憧れのようなものを抱いてる、小さな自分がずっといる。
まるで見張ってるみたいなその小さな女の子をどうにか宥め賺して、今日も動きたいのを耐える。
その生活は、求めるならやっぱり結婚相手にだろう。恋愛感情が枯渇した自分には無理な話だ。この人をそんなごっこ遊びに付き合わせるわけにはいかない。
歯を磨いて簡単なベースメークだけを施して、「行ってきます」と声をかける。
ここまではいつも通りだ。
だけど今日は、「行ってらっしゃいませ」の前に、小学生みたいな言葉が飛んできた。
「お嬢様、忘れ物はございませんか? 手帳、マイボトル、ハンカチ、ティッシュ、ペンケース、キーケース、ポーチ、携帯電話はお持ちで?」
「……あ、はい」
なるほど、物忘れと忘れ物が多いって言ったっけ。
「えっと、そうだ、ハンカチ忘れました」
「どうぞ」
「……どうも」
マジックみたいに唐突に現れたハンカチを受け取る。
ハンカチは必需品なのだが(職場の洗面とトイレにはエアタオルもタオルもペーパーもない)、ついうっかり忘れてしまう。
ここへ越してくる時も、うっかり全部捨ててしまって持ってこなかった。どのみち毎日洗っているのになんだか黒ずんでしまったような感じで、ゴワゴワになってたし、漂白も面倒だったから惜しくはなかったけれども、ハンカチがないのは地味に困った。
買って帰らないと、と思いつつも、家に待っている人がいると思うと寄り道もしにくくて、ついつい先延ばしになっていた。おかげで手が荒れた。
けれど住んでからそんなにしないうちに、クローゼットのチェストの中に、突然ハンカチが出現した。
洗濯物にハンカチがないことに気づいて買いに行ってくれたのかもしれない。
このマンションは各部屋にクローゼットがついている。それに、花柄だったり、淡いピンクだったり、リボンモチーフがついていたり、レースでかがってあったりと、明らかに女性物デザインで、だからきっと使って良いんだろうと思って、手にしていたけれど。
「……今日は5時上がりです」
「かしこまりました。ご夕食を準備してお待ちしております」
これはいつも通り。
それに「じゃあ」と背を向けようとして。
「お嬢様、もしよろしければ、お迎えに上がりましょうか? カフェでしたら、差し支えないのでは」
控えめながらも提案されて、昨日のバス停で見た心底心配そうな表情が脳裏をよぎった。
「……じゃあ、もしまた乗れなかったら。バスに乗り損ねたらカフェにそのままいるんで、迎えに来てください」
……ああ、この人、意外と表情に出る人なんだ。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
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