第7話
「久しぶりね。よく顔を見せて。うん、ちゃんと眠れてるみたいね。今日もとっても可愛いわ」
「久しぶり。元気そうで良かったよ。何か困ったことはなかったかい?」
言っておくが、1週間ぶりだ。数ヶ月ぶりにあったときにでも言いそうな科白を満面の笑みで告げて、二人は手を握ったり肩を撫でたりした。
実は本来あんまりスキンシップが得意じゃなくて、自分から触ることはほとんどない。太っている子供って大抵同級生からのいじめの標的になる。バイキンのような扱いを受けるから、スキンシップは避けて来た。無自覚だったけど。
今の職場はみんな仲が良くて、普通にスキンシップで背中をポンと叩かれたり、気づかなかったら笑いながら肩に触れられたりする。それに最初ものすごく驚いて、そして気づいた。人に触っちゃいけないと思い込んでいたって。それを払拭してくれた。だから職場の人には自分から触ることもできるようになった。
ただ、あの職場の人はほぼ女性。
だから男性に触られるのはすごく苦手なままだ。ぞわっとする。正直、あんまり近寄られるのも苦手なくらいで、職場の数少ない男性は察しが良くて、初期はめっちゃ近寄られて顔が引きつりそうだったけど、今では一定の距離を保ってくれるし、ありがたいことに触ってはこないからそれは安心。
そんな体質(?)だけど、なぜかはよくわからないけど、パパの触り方はぞわっとしなかった。
「はい、お陰様でよく眠れてます。ご飯もとっても美味しいの作ってくれるから、前より元気だと思います」
やや押されながら答えると、二人がちょっと残念そうな顔になった。
しまった、敬語になった。
狼狽えていると、二人を一緒に出迎えていた家政夫(おっとじゃないけど便宜上こう呼ぶことにする)さんが、軽く咳払いした。
「僭越ながら、申し上げます」
「あら、何?」
「奥様、ぜひお嬢様をお買い物にお連れください」
「……あなたに買えないもので、何か足りないものがあったかしら?」
「下着です」
ママがゆっくり瞬きした。
パパがゆっくりと、ゆっくりと体の向きを変えた。
「なんだって?」
「ご実家のクローゼットには十分あるからと、お嬢様がアパートから運ばれた衣類しかこちらにはございません。洗い換えが充分にないのでしょう。帰宅が22時を回る日も、お嬢様は毎日洗濯なさっておいでです」
「……洗濯も君の仕事だよね?」
「お嬢様は下着を私に任せるのは忍びないとお考えのようです。状態がよくないことを気にかけておいでです」
「まぁ……」
……この人、敵に回しちゃダメな気がする。
うん。
「ごめんなさい。気づかなかったわ。雪ちゃん。そう言うことなら、すぐに買いに行きましょう」
「そう言えば、お年玉を渡したきり、お小遣いを渡してなかったね」
いや30過ぎてお小遣いってどうなのマジで。
30過ぎても正社員になる気力がわかない自分も充分アレだけど。
「そうね。油断していたわ」
でもそういや、一緒に住むっていう話をした時に、お小遣いの話をされたような気もする。
それにしたって、仕方ないじゃないか、自分の中で衣類の優先順位って元からそんな高くないし、バイト代じゃ家賃払って光熱費払って通信費払ったらすっからかんっていうかむしろ足りない月の方が多かったんだよ!
そんな内心の叫びも虚しく、二人は跨いだばかりの敷居をもう一度跨いだ。今度は、こっちの手を引っ張って。
物が物だけに、パパは流石に店内には入れないようだった。
一つブースを隔てた向こう側にある、カフェで時間を潰すそうだ。
ママと二人で見て回ることになった。可愛らしいセットアップを見て心引かれないかと言えば、惹かれないのだ。残念なことに。
多分、姿勢の悪さが原因なんだと思うけど、ストラップがずれるんだよなぁ……
見るぶんにはそんなになで肩じゃないんだけど。撫で肩はスーツ似合わないだろ? でも似合うから、多分やっぱ姿勢なんだろうなぁ。
試着室でフィッティングして、めっちゃ肩を動かしてよしずれない、と思って買ってもやっぱりずれる。
そんなこんなで面倒になって、しかも高いし。
そんな内心をポツリポツリと漏らしたところ。
「あらあら、私に似ちゃったのね」
苦笑しながらでも朗らかに言われて、手を引かれた。
「あったわ」
「え」
楽しそうな女の人はキラキラしてる。あやかりたいものだ。
ストラップが特殊な形をしているシリーズを指差して、「これ、試してみて」と言われた。
まぁどうせいつもと同じパターンだよな……そのうちズレてくるんだろう。
でもせっかく選んでくれたのだから、と思ってサイズを選んで手に取ると、フィッターさんがやって来た。
採寸してくれるそうだ。
……あれ、そういや採寸したの何年前だっけ?
覚えていたサイズと実際のサイズでだいぶズレがあったので、フィッターさんが持って来てくれたものを買うことになった。
「着けてお帰りになりますか?」
「え……良いんですか?」
「かなりサイズが変わっているとのことですから。ちゃんと合わせたものを着けてあげないと、お胸が可哀想ですよ」
……すげぇな。そんな主語初めて聞いたわ。
「じゃあ、そうします」
「ありがとうございます。お色と柄はこちらでよろしいですか?」
……あー、そうか、選択肢あるのか。でもめんどくさい。選ぶのめんどくさい。付け替えるのはもっとめんどくさい。
「これで良いです」
「ありがとうございます。新しいものをお持ちしますね」
「え」
相当変な顔になったのか、フィッターさんは少し笑った。
「こちらは試着用のものですから。では一度失礼します」
……そうか、そんなものがあるのか。
どうせつけ替えるなら、色柄選べば良かったかな。
良いや。これからは定期的に下着売り場にも連れて来てもらおう。買ってくれるんだから。いやお小遣いもらったら一人で来れば良いのか。
それにどうせ、またこれも合わなくてイライラするんだろうなぁ……
ストラップ調節しまくって、ずり落ちなくしたら、キツくて気持ち悪くなったもんなぁ……。
「失礼します」
フィッターさんは、同サイズの色柄違いも持って来てくれた。
意外に思ったけど、気遣いに感謝して選ばせてもらう。
調節もしてくれて、タグを外してくれた。
あとは服を着るだけだ、と思ったところで、また採寸された。そうか、下もセットで買うんだった。
これはさすがに試着はない。あとでカタログから選ぶことになった。
「では、カウンターでお待ちしております」
「はい。ありがとうございました」
二重カーテンを閉められたのを確認して、貸してくれていたケープのようなものを椅子に置いた。
ああ、服を着るのがめんどくさい。疲れた。っていうか、流石に、ムダ毛の手入れしないといたたまれないなぁ……そこまで手が回らなかったんだけど、いまは時間が山ほどあるのに。お金もとりあえずあるんだよな?
奨学金返済後も余剰金がまだ口座に入ったままになってる。贈与税の支払いに必要だろうから、手を付けずにいたけれど、もう家賃払わなくて良いから、給料も丸ごと使える。
でもなぁ……今まで、想像もつかないような出費が突然! てことが何回もあったから、思い切れないんだよなぁ。
別に脱ぐ必要があるわけでもなし、良いやって思ってたけど、下着をこまめに買い換えるのなら、必要だわ。
多分、そのいたたまれなさもあって、余計面倒だったんだよな。下着を買う優先順位下がる下がる。
初めて二人に会う前の晩、黒子を見せなきゃと思って、腕だけは剃ったんだけど、まぁめんどくさいこと……。
脱毛するにも先に剃らなきゃならないし、……めんどくせぇ。女なんて本当にめんどくさい。
心の中で愚痴を連呼しながらなんとか着込み(冷え性で厚着してるから本当に時間がかかる)、二重カーテンを開けてカウンターへ向かうと、ママが優雅にお茶を飲んでいた。
……え?
ガラスのカウンターは普通、商品が中にディスプレイされてて、上にカタログが乗ってて、支払い用のトレーと電卓も乗ってて、支払いをするのに使うだけなはずだ。
なのに、そのカウンターの前には椅子が2脚用意され、カウンター上にはソーサーとティースプーン、ミルクピッチャーまで乗っていた。
ソーサーとセットのカップはママが優雅に口元で傾けている。
……こういうところって、お茶出るの?
「あら、雪ちゃん。こっちよ」
「お疲れ様でした。どうぞ、おかけください。今お飲物をご用意致します」
びっくりしすぎて無反応になってしまったが、一礼して何処かへ行ってしまった。
「カタログ見せてもらってたの。雪ちゃん、どれが好き?」
……いや、あの、たとえ同性でも、下着の好みについて喋ったことないんですけど?
「これはどう? 雪ちゃんの肌にぴったりだと思うの。若いんだからこのくらい明るい方が可愛いわ」
カタログを広げて見せてくれたのだが、ママが指差したのは、思わず内心で(わー洗うのめんどくさそー)と言うデザインだった。なんでビーズがついてるんだろうね? ビジュー? 落ちない? それと刺繍がびっしり。花か蝶か? 鳥?
35は若くねぇ。
「……もうちょっと落ち着いたデザインはないんですかね」
「あら」
よほどびっくりしたのか、目をゆっくりぱしぱしと瞬たかせた。
「実物を見せてもらいましょう。それほど派手ではないと思うけれど、写真とは印象が違うわ」
そう言って、ページをめくった。
「好きなデザインはある?」
ゆっくりページを繰ってくれるけれど、どれも派手だ。プリントが派手だったり、カラーが派手だったり、ラインストーンが一段と派手だったり。
最後の方のページで、やっと無難なものが出て来た。
「……これ、とか」
「あら、ファンデーションね? そうよね、これも買わなきゃ」
ファンデ?
って、ああ、そうか、むかーし、確かなんとか体に合うのが欲しくてジプシーしてたとき、勝負下着と普段用の下着とあって、普段用のをファンデーションっていう場合もあるってなんかの本で書いてあった。foundation garmentつったら補正下着も含めたコルセットガードルブラジャーの総称だけど。
「色はどれが好き?」
……っていうか在庫あるんだろうか? いつもないのが多いんだよなぁ。って、ありゃだいぶ前の話だし、今はここのすぐそばに住んでる。取りに行くのだって簡単か。なにせ歩いていける距離だ。取り寄せでも良いや。
一番目を引いた好きな色味を指差して、それからは二人でカタログを前に品評会をしていた。こういう話は母親としたことがなかったから、なかなか新鮮で楽しかった。
「お待たせしました。どうぞ」
「どうも」
紅茶を出されたので、ありがたく手にとった。「すみません」と言うのはやめようと心がけるようにしているけど、なぜか「ありがとう」が恥ずかしくて言えない。「ありがとうございます」だと長いし、でもそのほうが良いのかな。頑張って練習しよう。なんでお礼言うのが恥ずかしいんだろう。言われて嫌な人ってそういないと思うのに、なんで? パパとママには言えるんだが。
「ありがとう。ね、こちらもお願い。」
ママはもちろん、全く気負いなくにっこり微笑んでお礼を言ってる。
お代わりかな? と思ったら、カタログを指差していた。
「かしこまりました」
「あとこのセットと、これね。全部セットで」
「ありがとうございます。ただいまお持ちいたします」
心なし、ママを前にした店員さんは態度が丁寧だ。まぁいつものことかもしれないが、意外と人によって接客変わったりするもんねぇ。
って、ちょっと待て。なんかめっちゃ頼んでなかったか、今?
それも、「あ、これは可愛いですね」とか言ったのばっか。あれは自分が着けるのを想定して言ったわけじゃなくて、単純にデザインが綺麗とか可愛いとかで言っただけなんですけど?!
「こちらの4セットと今身につけておいでのもののペアのこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。どう?」
いや、どう? って言われても……
既に一着身につけてる訳で、合計5セットとか、金額どうなの……確実に5万円超えるんじゃあ……
いや待て、だから待て。何回も言い聞かせてるのになんで土壇場で尻込みするんだ毎回。
ゴクリと無意識に喉がなったけど、カップから手を離して、膝の上でこっそり握りしめる。
よし、言うぞ。
「……はい、大丈夫です。全部お願いします。ありがとうございます」
言った。言ったぞ! よく言った!
心の中で快哉を叫んでいると、何か言われたような気がした。でも心臓の音がうるさすぎて、何を言われたのかさっぱり聞き取れなかった。
顔をあげると、ママと店員さんが話をしているので、多分、ママに話しかけたんだろう。よかった。
「あら、困ったわ」
「はい?」
え、まさか、財布忘れたとか? 詐欺の本領発揮今? このタイミングで? 今日手ぶらで来ちゃったんだけど? いきなり腕引っ張られて連れてこられちゃったから。
「マンションの住所、覚えてる?」
……そっちかー!!! 良かったぁ!!
いやよくねぇよ。ぶっちゃけまだ覚えてない。
つーか、運転免許の住所変更もしてねぇぞ。忘れてた。運転全くしなくなっちゃったから、気づくきっかけが全くなかった。
そういや、住民票どうなってるんだ? なんか移す手続きが確かあったよな? 役場行ってねぇ……行くの面倒だけど、今度暇なときにやっとこう。
いやむしろ、帰ってすぐやったほうが良いかもしれない。保険証のこととかもあるし。国保だったからなぁ……そっちも手続きがいるはずだし、しまった……、年金とかも手続きが必要だったような……完全に何にも考えずにやっちまってた。
下手したら、アパートに郵便物届いてるんじゃ?
だらだらと冷や汗を流していると、覚えてないことを察してくれたのか、ママが小ぶりなハンドバッグからスマホを取り出した。
「パパ。マンションの住所、覚えてる? 忘れちゃったの。配送を頼んでるんだけど、伝票が……」
いや待て、すぐそこだよね!? 持って帰ればよくね!?
てっきり、ポイントカードとか作ってるのかと思ったよ!?
「ええ、……ええ。ありがとう。頼りになるわね、パパ」
言い出すよりも早く、会話しながらママは伝票に住所を書いてしまった。
……この筆跡、あの手紙の達筆はこの人か。てっきり、あれだけ人を雇っているなら、そのうちの誰かに代筆させたのかと思ったけど。違ったんだなぁ。
「はい。お願いしますね」
「かしこまりました。送料は3万円以上ですのでサービスさせていただきます」
「ありがとう」
……ああ、うん、やっぱり、そう言う金額だったんだ。
半ば呆然としているなか、ママはあっさりとその支払いをすませた。
いや絶対、そんな金額だったらこっちの顔引き攣るししんどい。なんの気負いもなく出せるのすごいな……。
カフェにいたパパに気づいて手を振るママに、「ほら雪ちゃんも」と促されて、ぎこちなく手を振ると、パパの笑い皺がもっと深くなった。
パパの前にはカップが3つある。
「少し冷めちゃったかもしれないが、買っておいたよ」
「いえ、お待たせしてすみませ——じゃなくて、ありがとう」
「いや、大丈夫。普段行く百貨店とまた違って、眺めていて面白かったよ」
「ありがとう、パパ。いただくわ」
「どういたしまして」
なるほど、そういえば良かったのか。
「まだ温かいわ」
「ママとの電話の後に、注文したからね」
「ほんとだ。ちょうど良い。……実は猫舌で」
「おや」
「あら、そうなの?」
「は——うん」
「僕もそうなんだ」
「え」
「そうなのよ。熱いポタージュスープを飲んだ時なんて、顔を真っ赤にしてて」
「あれはもう凶器だよ。舌がびらびらになるんだ。痛くてたまらない」
「……すごくよくわかる」
「お腹ぺこぺこの時とか、辛いよね」
「わかる。早く食べたくてつい口に入れちゃうんだけど、熱くて痛くて味がほとんどわからなくて、満足感がない……」
「そうなんだよ。味わいたいのに痛すぎてよく噛まずにすぐ飲み込んでしまうんだ」
「あれは本当に苦行」
「うまいことを言うね」
ママはさっきから笑っていたけれど、このくだりでついに大笑いし始めた。
パパも膝を打って笑った。
ここのカフェに入ったのは初めてだった。県内でも、遠いし、お金もないし、意外と縁がない。ママはメニューを頼んで、また楽しそうにスイーツを選び始めた。ここには来たことがないと告げると、「それならこれからたくさん来ましょう。お気に入りを見つけなきゃ!」と明るく笑った。
ママはテイクアウトも頼んだ。多分、運転手さんと、家政夫さんのものだ。ホイップを使ったお菓子は日持ちがしないから、本邸には持って帰れない。
二人はいつも来たら、必ず泊まっていくから。
また後で来るから、その時に渡して欲しいと店員に言っていた。そんな融通も効くんだ、と快く受け入れてくれた店員さんをみてちょっとびっくりした。
それから、百貨店をじっくり見て回った。
最上階では物産展が行われていて、たくさんの変わったものがあった。
「あ」
お香が売られているのを見て、つい足が止まった。
「あら。お香?」
「……うん。好き」
「あら。香水は使わないみたいだから、香りものは好きじゃないのかしらって思ってたわ」
「香水は量がわからなくて。花粉症がひどいから、自分からは良い匂いでも、ほかの人からはキツイかもしれないし。接客業だから、あんまり強い匂いはよくないし」
使わない理由をつらつら述べていると、ママの表情が徐々に曇っていく。
「あ……えーと、実はちょっとめんどくさくて」
「お香が好きなら、いくつか買っていこう」
「お香の匂い、平気?」
「ああ」
「私も平気よ」
「じゃあ買う」
香りを試して、気に入ったのをいくつか買ってもらった。
前は買っても、使えなかったんだよなぁ……。
ママとパパはそれぞれ小物を買ってた。この県では有名ブランド、って言うかつまり地元ブランドのハンドバッグと名刺入れ。……地元愛は強い方だとは思ってないけど、なんだかそれが嬉しかった。
ママは里帰り出産だった。だけど、ここで暮らしていた記憶はないそうだ。ママのご両親はここの生まれで、若い頃にいまのママと同じところへ移り住んで、そして老後の安住の地として戻って来た。
だから、このブランドのことは知らなかったそうだ。
また本をたっぷり買ってもらって、最後にテイクアウトのお菓子を取りに行って、マンションに帰ると、もう夕飯の時間だった。
外はすっかり暗くなっていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「ただいま。これ、お土産」
「ありがとうございます」
「君たちの分もあるから。後で食べてくれ。それとこっちは雪さんのお気に入りのお香。お風呂上がる頃にでも焚いてあげて」
「……お嬢様は随分とお荷物を持ってらっしゃいましたが、どうされたんです?」
「ああ。あれは本だよ。あの子は本にはこだわりがあるらしくて。さっきまでは僕が持ってたんだけど、自分で本棚に並べたいって。エレベーターの中で奪われてしまった」
「ただいま。はいこれ、控え。ご所望の下着が届くから、受け取っておいて」
「かしこまりました」
規則正しいゆっくりしたノックにビクッとなった。
「お嬢様」
「はいっ?」
やっべ、早く本を入れなきゃって思って、鍵閉め忘れた!
だけど、ドアは開くこともなく、向こう側からやっと最近慣れてきた声がかかった。
「ご夕食はいかがなさいますか? 準備できておりますが」
「今行きます!」
「ごめん、お待たせ!」
「大丈夫よ。本はしまえた?」
「うん。全部入れ終わったよ。夜寝る前に読むの楽しみ」
読書灯であんまり眩しくないやつも、買ってもらった。ベッドサイドに置いてある。たまに付けっ放しで寝ちゃうこともあるんだけど、夜中に気づいて消したり。
「それは良かった」
テーブルには既に美味しそうな料理が湯気を立てていた。ちなみに昼は和食だった。焼き鮭美味しかった……シンプルな方が美味かったりするよね。
「いただきます」
3人で唱和して、食事が始まった。
家政夫さんはその間も給仕してくれてる。
二人の時は、同時に食べるけど、基本的にパパとママがいる時は別だ。
食器の上げ下げとかお水とか。
広いダイニングテーブルは、6人かけても平気なんだろうけど、本邸の作りをみるに、多分、雇い主とは別の時間帯に食事時間が設けられてるんだろう。
うちでは自分一人だけが居間と台所を行き来してて、やっと食べる頃にはおかずがないなんてことも結構ザラにあった。それを思い出して切なくなるから、一緒に食べて欲しいとお願いした。
「凝った料理がお出しできなくなります」と最初は渋られたけど、「シンプルな料理の方が好きです」と答えて封殺した。
「ん、美味しい」
「ほんと! このお肉、美味しいわ」
「この海老もプリプリだよ」
「ありがとうございます」
3人で食事を取って、会ってない間の話をする。
食後にはソファへ移って、ママが買ったデザートも出て来た。
あれ、そうか、たくさん買ってたもんな。
「やっぱこれ美味しい」
「ほんとうね」
「こっちも良いね」
紅茶を淹れてきてくれて、今日のカフェイン摂取量ヤベェなと思った。
もちろん飲むけど。好きだから。
テレビはスポーツをやっていた。正直野球とかサッカーとかはルールがよくわからないし、ボクシングとかは見てるだけで痛いし、なんかこう、あんまりスポーツを見て楽しめる性格じゃないんだよな。だけど、今日はフィギュアスケートだった。
華やかで見ていて目に楽しい。衣装が凝っていて綺麗だ。
生放送かどうかはわからなかったが、3人で応援していると、もう良い時間になった。
「そろそろお風呂にしませんか?」
「はーい」
「そうね」
沸かしてくれてる間に、歯を磨こうと思って洗面台へ移動した。
この前買ってもらった電動歯ブラシは、手を細かく動かさなくて良いからだいぶ楽。最近は、立ってられるようになって久しい。
眠くなって来た。
……あれ、マジで?
夜眠くならないのに、今日は眠い。つーか紅茶飲んだのに眠いってすごいな。ノンカフェインかデカフェだったのかな?
マンションのお風呂は1回だけ入った本邸みたいな豪華なやつじゃないけど、アパートよりはすごい。それに、何と言っても、ガス代気にせず入れるから、あったかい。追い焚きもし放題だし、浴室暖房も使えるし。
この県の気候は、冬寒くて夏暑い。
2月になってもまだ寒い。最低気温は氷点下になる日も多いし、ある年には3月に大雪が降ったくらいだ。
だから、アパートでは寒くてお風呂に入るのがつい面倒になることも多かったけど、このマンションはそもそもすごい暖かい。気密性や暖房の機能もあるだろうし、加湿器もちゃんとあるからだろう。
この暖かさのせいか、眠くなりやすいのかもしれない。
保育所でも学校でも、お昼寝も居眠りもできなかった自分が眠いって。
素直に驚きだけど、人間ぽくなれたってことで良しとしよう。
湯船に浸かって、面倒だけど髪も洗って、体も洗えるようになった。
前は1日おきだったもんなー……洗うの。
元気になったってことだよね? うん。
いやまぁ、過信はやめとこ。前みたいに、余計落ち込むし。抑うつだったのが躁鬱になっただけかもしれない。
昔から、予想を裏切るのはいつも悪い方へだった。
……そういや、今日はずれなかったな、ストラップ。
ま、どうせ、一度洗ったらずれるようになるんだろうけどさ。
ちなみに、今日の告げ口というか仕返しが怖くなって、洗濯も任せることにした。
「お風呂ありがとうございました」
って、あれ?
「……これ、あのお香?」
「はい。焚いてみました。いかがでしょう?」
「……嬉しい、です。良い香り」
ひたすら面倒なドライヤー作業を終えると、予想だにしないご褒美が待っていた。
リビングに薫るお香。
「ね、素敵な香り」
「ほんとうだね」
好きなものを褒められると嬉しい。
っていうか、お香、使うとしても自分の部屋でこっそりって感じだと思ってたから、本当にびっくりした。そして嬉しい。
「雪ちゃんの良いものを選ぶ目は本物ね」
「さすがは雪さんだ」
いや恥ずかしい。でも。
「……パパ、ママ、買ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
「良い買い物をしたよ」
「お嬢様、お水をどうぞ」
「あ、ありがとうございます。って、すみません、お香大丈夫ですか?」
「ええ、先ほど焚いたばかりですが、まだ当分もつと思います。香炉も説明書通りに使用しました」
「ええと、その、じゃなくて、それはありがとうございます。あの、この香り、っていうかお香の匂い、嫌じゃないですか?」
若干しどろもどろになってしまった問いかけに、目を丸くされた。
そのあと、目元が和んだ。
「お気遣いありがとうございます。仕事ですから」
……すみません、我慢しないとってことか。
「ですが、それを抜きにしても、良い香りだと思います」
お世辞かな? 本音かな? 本音だったら嬉しい。
「……良かったです。もし嫌いな香りがあったら、無理しなくて良いです。自分の部屋でだけ使わせてください。その日は自分で掃除しますから」
「滅相もないことでございます。それは数少ない私の仕事ですから」
「……数少ない?」
「ええ。お嬢様はあまり要望を仰らないので、こう言っては何ですが、暇を持て余しております。もっと気軽に申しつけていただきたいのですが」
「……はぁ」
って言っても、特にない。っていうか、十二分な働きっぷりに、言うことなんてそれこそ「ありがとうございます」しかないんだけど。
「あら、雪ちゃんてそうなの?」
「はい。食事について、苦手な物だけは仰ってくださいましたが、要望は一度も。私の仕事ぶりについて、何か我慢されているのでなければ良いのですが……」
「雪ちゃん、遠慮は良くないわ。思っていることは伝えなきゃ。その方が、返って助かる場合もあるのよ? 好きなものを用意してくれたら、嬉しいでしょう? 好きなものを用意して、喜んでもらえたら、やり甲斐があるわ。win-winよ」
「……でも、いつもすごいなぁって思ってるし、感謝こそすれ文句なんて」
「雪さん。要望と文句は違うよ」
「……えっと、食事は、本当に、どれも美味しいです。それに、特に好きなものってなくて」
「好物ないの?」
「本当に?」
今度は二人が目を丸くした。
「……というか、今まで、値段と他の人が好きなものを基準に選んできたから、自分が何を好きなのかわからないんです」
ああ、またやっちゃった。二人がハッと息を呑んで黙ってしまった。
「左様でございますか。それでは、比較で結構です」
「比較?」
「はい。昨日食べたもの、前の食事で食べたものと比べ、どちらがより美味しく感じられたか。1回の食事内容で、メイン・副菜・スープ類・デザートの中で、どれが一番美味しく感じられたか。ご面倒でしょうが、毎食お尋ねしますので、お答えください」
「それは良いアイデアね。メモしておいて? あとで家にも送らなきゃ」
「かしこまりました」
なんかおおごとになってしまった。
というか、さらに本音を言えば、食事に集中するのって、パパとママに会ってからで、今まで流れ作業というかながら作業だったから、味の比較とかしたことなかった。
これからはパパとママが留守の時も、しっかり味わって食べないと。
渡されたグラスに入った水は、レモンの香りがしてまろやかで美味しい。
お風呂上がりの渇いた喉に染み渡っていった。
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