第6話

 任意整理の時にお世話になった司法書士の先生に、連絡を取った。

 何年も前の話だ。もう覚えてないだろうと思ったが、意外にも先生は覚えてくれていた。

 先生の得意分野は本来は土地関係。マンションを譲渡されたのだが、書類が本物なのか見て欲しい。それと、立ち会った弁護士が本物の弁護士か調べたい。

 そう伝えると先生は少しの沈黙の後、面談の時間を設けてくれた。


 久しぶりに会った司法書士の先生は、一見して、歳を重ねたんだなというのが分かった。あれからもう何年も経ったんだと、少し寂しいような気持ちになったが、お元気そうで何よりだ。

 

 先生は書類を見て、少なくとも契約書としての体裁は整っているし、内容も至ってオーソドックスなもので、譲られた側が支払うものは何もない、と教えてくれた。それでも控えの保管は厳重にとだけ釘を刺して、それから、「本当に良かったわね」と、言ってくれた。「神様はちゃんと見ててくれたんだよ」と。

 少なからず、同情していてくれたらしい。心配していてくれたそうだ。

 自分は当時、すっぴんで、髪もろくに手入れしてないボサボサ髪、服装も着古した安いものしか着てない状態の学生だった。だけど先生は、「女の子なんだから、お化粧もするでしょう」と、月の返済額を低めに通してくれた。あの時、びっくりして、そしてほんの少し、心が動いた。

 うちの家族は、女なんだから手伝いして当たり前、家事はやって当然と、そういう風にばかり使っていた「女の子なんだから」と、……その言葉を、権利を守るために使われたのは初めてだった。

 先生にそんな事情はわざわざ話したりしなかったけど、何か感じる部分があったのかもしれない。まぁあの見た目だからなぁ……。

 優しくされるとすぐに泣きそうになるという困った性分だから、泣かないように涙腺に力を込めた。

 電話でお願いしたことはもう一つあるのだ。

 もらった名刺を差し出す。

 先生の事務所は応接室があって、そこで依頼人と応対する。

 自分もその応接室に通されていた。この部屋にはパソコンとかはないから、先生は一度部屋を出た。


 戻って来た先生が教えてくれたのは、自分で調べたときと同じ内容だった。

 名刺と、実際に登録されている事務所に相違はない。

「先生、弁護士さんの顔って、どこかで見ることってできます?」

「顔は……難しいわね」

「……そうですか」

 じゃあ、あの記念写真、撮った意味なかったな。

「名前と番号と、所属事務所と連絡先はわかる。でも、顔は難しいわね。県内や同期だったら、伝手を辿って、と言う手もあるけれど」

 そっか。意外に時代がどんなに進んでも、最後はアナログな手法になるんだな。まあ、個人情報大公開ってのも、安全面で良くはないか。弁護士なんて恨み買いやすい仕事なわけだし。


「多分大丈夫だと思うけど、そんなに心配なら、また相談に来なさい」

 先生は安心させるように笑顔でそう言ってくれた。

 大丈夫だ。

 大人は冷たくて怖くて、社会は四角四面だと昔は思っていた。

 だけど、自分が大人になると、全員が全員そうなわけじゃない。むしろ、知り合いになれば、それなりに融通してくれるし、優しい人も大勢いる。

 きっと、この人も。

 


 アパートは解約してしまったので、当面、買ってもらったマンションで暮らすことになった。

 職場の求人の掲示はすぐに貼り出されたが、元々別の時間帯の求人で貼られていた掲示と貼り替えになったせいか、まだ仕事仲間は誰も何も言わない。それに甘えて言うのは引き伸ばしたままだった。

 やはり時給の安さがネックなのか、正社員登用無しが厳しいのか、応募はさっぱりなようだ。

 次の人が決まるまでは勤め上げたい。

 ここでの仕事は、一番楽しかったから。家で嫌なことがあっても、仕事してると気が紛れた。

 だから当分、本邸に厄介になるわけにもいかず、マンション暮らしだ。

 二人は、マンションと本邸を行ったり来たりしている。何かあちらで用があるらしい。まぁ、そのほうが何かと良いだろう。マンションは流石に、あんな大勢の人を入れるわけにはいかない。

 せっかく買ってもらった本があっちにあるから、早く二人の家へ行きたいような気もするのだが、一緒にご飯を食べているときにぽろっとそう漏らしたら、いくつか持って来てくれた。そしてあの通販限定のスライド式本棚も、マンション用に買ってくれて、設置してくれた。

 とってもありがたい。そんな感じで、ここでの暮らしも二人の優しさもありがたいのだが、気になることが二つある。

「行ってらっしゃいませ」

「……行って来ます。今日は5時上がりです」

「かしこまりました。夕食をご用意してお待ちしております」

 これだ。


 二人が自宅に帰っている間、いつぞやカラオケでも言われた「可愛い娘を一人にさせておくのは心配」と言う謎理論を打ち出して、一人、家政婦さんを雇ってくれた。家政婦——婦って言うか、それがまた男なんだよなぁ……なに考えてんだか。

 掃除と炊事と買い物と留守番はやってもらってるが、さすがに下着を洗わせるのはどうかと思って、洗濯だけは自分でやってる。それがまぁめんどくさい。でも、アパートにいた時は一番面倒だった家事が洗濯だったんだけど、他の家事に追われなくなったら、それほどしんどくもなくなった。

「任せていただいて大丈夫ですよ? 仕事ですから」

「いやもう、ほんと恥ずかしいヨレヨレのしかないんで! あと体質で結構汚れるから本当に大丈夫です」

 それを言う方が恥ずかしくないか? ってことを口走ってなんとか死守した。

 ただ問題は、仕事時間の関係で、取り込みはやってもらうことがある……ので、居た堪れなくて死にそうになってたら、洗濯ネットを用意してくれた。

「あの、これ?」

「はい。予洗いが終わりましたら、これに入れておいてください。このまま干せますので、取り込んでネットごとクローゼットへしまいます」

 おお、すげぇ。気遣いが流石。


 気遣いはもうひとつあって、初対面の男性を家に入れるってのが受け入れ難かった自分に真っ先に気づいてくれたのが本人で、私室に鍵をつけてくれた。こっちの部屋には中から解錠と施錠ができるタイプの鍵。そして、本人の部屋には、外から施錠と解錠ができる鍵。

 自分の部屋の鍵はともかく、なんでもないことのように提案されたそれに、頰が引きつった自覚がある。

 祖父の影響で時代劇を見て育った自分の頭には、「座敷牢」と言う単語が浮かんでいた。

 と言うか、縁起でもないが、何か事件とかが起きて他人がこの部屋に入った場合、誰かを監禁していたのではと、あらぬ疑いを……

 それに何より、実家には物置があるのだが、まぁ物置というよりは蔵といったほうが近いんだが——そこに子供時代、何かと閉じ込められた記憶のある自分にとって、その提案は本当にありがたくない。


 そもそも、別にいい歳して襲われるなんて思っちゃいない。第一自分は見てくれが良くない。……初対面で似ていると思ったあの二人は、見目麗しいと言ったら大げさかもしれないが(失礼)、整った外見をしているのだから、もし本当に血が繋がっているのなら、外見に関しての遺伝子は「混ぜるな危険」だったってことだろう。パーツの組み合わせの問題か、配置の問題なのか、両方かはわからないが。とにかく自分は外見がよろしくない。

 水商売して借金を返すなんて考えはチラとも浮かばなかったくらいだ。そもそも、外見を着飾るという気概がない。うつ病が原因なのか、元々の性格なのかはわからないが、とにかく朝の化粧すら面倒なくらいだ。脱毛すらめんどくさくてしてないし、脱いだらそれこそ萎えるだろう。


 単純に落ち着かないんだ。暴力ばかり振るわれてたから。


 落ち着かないならなおさら、相手の部屋に鍵をかけておいた方が、安心だろうと思うかもしれないが、それはどうしても受け入れられなかった。

 自分にはものすごい嫌悪感を抱くものが二つあって、そのうちの一つが、本人の意思を無理やり捻じ曲げて、都合の良いようにさせることだ。権力とか何かそういったもので人を屈服させるとか、そういった類の話はうっかり耳にしただけで気分が悪くなる。他人の自由を侵害する行為は受け付けられない。

 だからそちらの方は丁重に辞退した。


 だというのに、その話の翌日、帰ってくると部屋に鍵が付いていた。

 当然のように鍵を差し出されたが、断固として受け取るのを拒否した。

 正直、毛が逆立っていたような気がしないでもなかった、その有様にやっと察してくれたのか、大人しく諦めてくれた。鍵はリビングに置かれたままになっている。

 目にするのも嫌だったので、箱に入れてなおかつ引き出しにしまってもらったが。



 有言実行、即断即決らしいこの人は、最初送り迎えもしてくれるつもりでいた。けどそれは今度こそ断固として断った。仕事仲間は母親の顔を知ってる。親戚の顔もだ。

 アパートに越したことさえ話してなかった。マンションのことなんて、もっと言えないし、この人の説明の仕方がわからない。

 だから見られるのが嫌で、バス通勤にした。

 幸い、駅近なこともあって、駅から職場のすぐ近くまでバスが出てる。帰りもバスで帰れる。



 鍵と洗濯に関しては一悶着あったものの、それ以外はその人の人となりに関して、全く何もいう事はない。

 しかし、気がかりなことのもう一つはと言うと、有り体に言って、……暇なのである。


 うつ病の人間は日常生活に支障をきたす。身支度に異常に時間がかかる。

 とはいえ。いくら身支度に時間がかかると言っても、朝起きればもう清潔なダイニングにホカホカのご飯が用意されていて、帰ってくれば洗濯物がきちんと畳まれたりハンガーにかけられてアイロンまでかけてあったりしてクローゼットに仕舞われていて、リビングに行けばピカピカな部屋に手の込んだ美味しそうな料理の匂いが漂ってきて、ご飯を食べればすぐに片付けてくれて(文字通り上げ膳据え膳状態)、なおかつ自分の部屋まで綺麗に掃除してくれており、布団からはお日様のにおいがするわけだ。

 この状態で、どんなに身支度に時間がかかっても、それこそ3時間くらいかかったとしてもだ、アパートよりは格段に職場に近くなったわけで余裕で仕事に間に合うし、帰ってきても寝るまでの時間がたっぷりとある。


 そもそも、家政婦さんと言うのは、仕事が忙しくて手が回らない人が雇うものであって、フルタイムで働けない人間が利用して良いサービスじゃない気がする。もちろん、障害のある人にとってはとてもありがたいサービスだが、精神障害者手帳をもらうほどの障害じゃない(と思いたい)、一人でなんとか暮らしていた状態の人間からすると、過剰サービスという気がしないでもない。


 アパートにはなかったが、マンションにはでかいテレビもある。


 マンションに住んでから翌週の休日、やって来た二人に「今日は何して遊ぶ?」とまるで小学生のような質問をされたので、家電屋に行きたいと告げた。

 女の人は目を輝かせて、男の人は意外そうな顔になった。

「何か壊れたのかい?」

「いえ。……単純に、家電を見るの好きなんです。今は便利家電とかもたくさんありますし」

 人はそれを冷やかしという。が、ウインドウショッピングという言葉もあるじゃないか。自分にとっては、服を見るよりも家電の方がときめくんだから仕方ない。

「そうよ! 私もそれ、見てみたかったの。この前のインテリアショップも面白かったもの」

 便利家電に惹かれたママの一声で行くことが決まった。

 家電屋では理美容家電に引っ張られた。ママのたっての希望だった。

 ママの髪型はセミロングだ。ボブっていうのかもしれない。対してスーパーロング(と言うらしい)の髪には、最新型のドライヤーが良いに決まってる、と言うことだった。

「どれがオススメ?」

「……これじゃない?」

 ですか? というのを無理やり引っ込めた。話しかけたそうな店員が近くにいた。家族だと思われてるだろうから、敬語使ってたら不思議がられる。

 一風変わった形のドライヤーを指差す。

 昔好きだったミュージシャンの担当ヘアメイクの人がおすすめしていた。

 TV C Mも興味を引いたし。

「まぁ! これもドライヤー? 今はこんな形なのね」

 いや全部が全部そうじゃないけど。

「それじゃこれにしましょう」

 え。向こうで話しかけたそうにしていた店員が、勢い余って踏鞴を踏んだ。

 即決だもんねぇ、この人たち。

 下の棚から同じ番号のついた箱を選んで取り上げると、そのままパパに取り上げられた。

「ああ、しまった。カゴを持ってくれば良かったかな」

 ……いや、うん、買うと思わなかったんだよね。見るだけで楽しいって思って。ほんと。

 でもまぁ、もう拒否も遠慮もしないぜ! 悪人になるって決めたんだからね!!

 そんな調子で、ドライヤーの次はヘアアイロンまで買った。

「せっかく綺麗でこれだけ長いんだもの」

「いやでも、不器用だから苦手で」

「あら。でも、毎日美容院行くわけじゃないんでしょう?」

 誰が行くか。

 美容院代なめんなよ。

「今日の髪型もとっても素敵だけど」

 まとめ髪は専用の器具を使えば簡単にできるし、似合うらしいからよくしてる。

「時々はダウンヘアも見てみたいわ。きっと可愛いわよ」

「いや〜……」

「そんなに苦手なら、私がしてあげるから。ね?」

 まぁそこまで言うなら。

「……やめなさい」

「あら、どうして?」

「確かそれは、高温になるんだろう? この子に火傷でもさせたら、どうするんだい? いくら君でも許さないよ」

「まぁ……」

 ママは目を見張って、それから「それは良くないわね」と言った。

 それならこれは無しかな。

 まぁ元々、あんまり美容家電には興味がない。

 そしたら。

「まずは練習ね。教えてもらってくるから、それまで待っててね」

「はい?」

「うん。そうだね。僕も上達具合をしっかりチェックしよう」

「あなたがゴーサイン出すまで、雪ちゃんの髪はお預けね」

 二人で楽しそうに話しながら、店員が持って来たカゴにヘアアイロンを投入した。

「電動歯ブラシ欲しい」

 マンションには歯ブラシと歯磨き粉も用意されていたけど、フルタイムで働いた時、歯磨きがしんどかったから、ぽろっと口からこぼれ落ちたそれは、当然のように叶えられた。

 何か買おうとは思っていなかったんだけど、来てみたら来てみたで、意外と欲しいものはあった。

 欲しいと思っても買えないってことが多すぎて、知らず知らずのうちに、欲しい気持ちに蓋をしていただけだったのかもしれない。

 キッチン家電コーナーに行くと、新型のスチームオーブンにときめいた。

 当初アパートには単機能電子レンジしかなくて、焼き菓子はあんまり作れなかった。あまりにフラストレーションがたまりすぎて、安いトースターを買った。買ったのは母だった。お菓子を作ってくれればいつでも食べれるなんて言って買ったくせに、結局住まなかったんだけどね。

 値段の上限を考えないで良いとなると、逆に絞り込むのが難しい。大きければ一気に焼けるし、メニューが豊富なら火加減が楽だ。悩みに悩んでいると、「試しに一つ買ってみて、気に入らなかったら買い換えればいいわ」と斜め上なアドバイスをのほほんとされて仰け反りそうになった。店員が。

 こっちとしてはもう、またそれか!! と思うだけだった。

 一生懸命説明してくれていた店員がかわいそうだった。

 居たたまれなくなったので、店員がオススメしてくれた機種を買った。

「コーヒーマシンは良いのかい?」

「コーヒーはあんまり好きじゃないんで——紅茶派」

 敬語になりそうになったのはご愛嬌だ。

「おや、紅茶のもあるようだよ」

「え」

 マジか。

 存在は知ってたけど、発売してからだいぶ経つし、あんまりチラシでも見ないから、もう売られてないかと思ってた。

「マンションにはあまり人を雇えないからね。機械に頼れるところは頼ろう」

 そう言われて、そうか、もう一人暮らしじゃないんだと思った。今のところ、半々の行ったり来たり生活をしている二人だけど、二人も住んでるんだ。二人も紅茶が好きなら。自分一人だけじゃないなら。

 と、この時は思った。家政婦を雇われるなんてまだこの時は知りもしなかったから。

「買う?」

「買おう」

「買いましょう」

 その後、テレビコーナーへ向かった。

 正直、テレビにはあまり良い思い出がない。

 好きなアニメを見ていると母が不機嫌になり、母が好きな番組を見ているときに話しかけると「うるさい! 聞こえない!!」と怒鳴られた。祖母が好むニュースを見ていると暗い気持ちになるし、母が好む推理モノは、題材によっては人ごとだと思えなくて胸の中を引っ掻き回されてるような嫌な気分になった。

 受信料の問題で見れなかったのも本当だけど、それで特に不自由してなかったのも本当だった。特に好きな番組ってのもなかったし。

 年齢のせいか元々の性格か、ハッピーエンドの物語じゃないと見る気になれなくなって、さらにあんまりひどい展開があると、心がしんどくて見られなくなった。正直、見るのも面倒だった。本に関しても最近はそうだ。

 だけど二人にとっては、受信料のせいで我慢していたってことになってるらしい。

 あれこれと楽しそうに品定めしているが、正直どれでも良いという思いが強い。でも二人が見るなら、置かないわけにはいかないし。

 二人は当然、善意でこちらの要望も訊いてくる。これがパソコンだったら、と考えながら話を合わせて、二人が最終的に選んだでかいテレビと一緒に、選んだもの全て配送にしてもらって、家電屋を後にした。

 やっぱり金額を気にしなくて良いのは楽しい買い物だった。


 そんな経緯で来たテレビも、正直扱いかねていた。二人がいればたまに一緒に見るんだけど(ありがたいことに、二人が見るのは人が死なないものばかりだ)、一人——というか二人の時には、テレビ見てぼーっとするのもなぁ……という気になる。なんというか人に働かせておいて座ってるって状況に慣れないのだ。非常に居心地が悪い。

 手伝おうとしても、「食洗機に入れるだけですから」と笑顔でスルーされてしまう。しかも手持ち無沙汰を気遣ってくれて「紅茶でも淹れましょうか。少々お待ちください」と言われてしまう。じゃあ淹れますと言うと、「ワンタッチですから」と拒否された。下手に機械を買ったばかりに。

 そんなことを何回か繰り返したある日、ヒーリング音楽が流れる中で(有料チャンネルにはそう言うのだけ流してるチャンネルがある。知らなかったけど)紅茶を運んで来てくれたその人は、にこやかにこう言った。

「お嬢様。本邸ではもっと大勢の使用人がおります。私一人では至らないところもございますが」

 いや十分ですけど?

「本邸での暮らしに慣れるためと思って、家事はお任せください。余った時間は、どうかお好きなことをなさっていてくださいませ」

 そう言われて、はたと気づいた。好きなことって何。

 趣味。趣味ってなんだろう。読書。あとは。

 回らない頭を必死に動かしていると、ふっとダンボールに詰めた食器と製菓用器具が浮かんだ。

 そして、まだこの人が来る前に、家電屋で悩みながら選んだスチームオーブンのことも。

「……あの、作ってくれるお菓子、すごく美味しくて好きです」

「それは嬉しいですね。ありがとうございます」

 この人が来てからは、毎日のデザートや料理にフル回転しているスチームオーブンは、元々自分で使おうと思っていたんだった。

 この人のお菓子に不満があるわけじゃない。そこは誤解して欲しくない。

「だけど、……お菓子作り、好きなんで、たまに作っても良いですか」

 ちょっと目を見張って、それから莞爾となった。

「もちろんでございます」

 ……だけど、イライラをぶつけるために、心を落ち着けるために、母に気に入られるためにしていたことが、好きなことになるんだろうか。

 わからない。

 わからないけど、二人が持って来てくれた本もそろそろ底を尽きる頃だ。

 作ってみるのもいいかもしれない。作ってみればわかるかも。

「もしも可能なようでしたら、旦那様と奥様へもご用意されてはいかがでしょう。きっとお二人ともお喜びになりますよ」

 ……普段相当美味しいもの食べてるだろう人間に出すのはどうだろう。

 でもまぁ、あの二人は、案内するどんなところの料理も美味しいと言って食べていた気がする。

 それなら、そんなに気にしなくても良いか。

 そうして、二人が帰ってこない休日の午後、お菓子を作ることにした。その間は他の家事をしてくれて、キッチンは明け渡してくれた。

 作業台が広くて料理しやすい。

 ありがたかった。

 しかし、毎日は作れないし、仕事のある日は無理だ。

 お菓子を作り終えるとぐったりしてしまうから、時間のある日でないと作れない。昔に比べたら、帰って来てからでも、十分時間はある。なにせ夕飯も作らなくて良いのだから。多分普通の人は、短時間のバイトだったら、帰って来てからでも平然とお菓子の一つや二つ、作れるだろう。

 だけど、それは自分には無理な相談だった。


 休日の暇つぶしはできたけれど、平日はどうしようかと考えて、日記をつけることにした。

 日記というか、いざ詐欺の仕掛けが発動した時に、少しでも有利になるように、何があったかされたかの記録だ。外出するときはバッグに入れて、眠るときはドアを施錠すれば、読まれることはないだろう。

 仕事帰りに家電屋に行って、残っていたお年玉でボイスレコーダーを買った。メモリーカードを取り替えれば、いくらでも録音できるやつ。

 なんとか詐欺の証拠を捉えようと、一人でいる時を除き、バッグやポケットに入れて常時録音することにした。

 でも、もしかしたらこの人は、専門の会社から派遣されているだけで、詐欺とは無関係な人なのかもしれない。

 あまりにも家事スキルが高すぎる。

 ありがちな姑が因縁つけてくるような定番の所に指を走らせても、埃なんかついて来たためしがない。

 料理だって和洋中レパートリーが豊富だ。苦手なものはあらかじめ言ってあるから、それは避ける工夫もしてくれる。


 自分も家事の知識だけはあるけど、ここまで実践できる人ってすごい。だからこの人はシロかもしれない。

 それでも、どこかに何か綻びがあるかもしれない。

 いつも完璧に叶ったと思ったことが、とても想像もできないようなちょっとした見落としでパァになったなんてこと、腐る程あった。

 だったら、注意深く見て聞いていれば、どこかにあるかもしれない。

 詐欺のネタバラシにあっても、被害を最小限に抑えられる何かが。

 一縷の望みをかけて、ひたすらかき集める作業を日課にした。

 レコーダーを持ち歩いてない時の記憶を掘り起こして書き起こす。何にも関係ないと思っていた些細なことでいつも希望は潰えたから、いずれ助けてくれるとは思えないような些細なことでも、思い出せる限り書き起こした。

 レコーダーにイヤフォンをつけて、1日の会話を聞き返す。当然だけど音声しか入ってないから、その時に見たもの、その時の状況を書き出す。

 それにしても、謝りすぎだろ、自分。1日何回「すみません」て言うんだよ。

 まぁ二人しかいないと呼びかけは「すみません」になるしなぁ。あとは「あの」。

 ……名前で呼ぶべきか。

 思い当たらなかった自分に苦笑した。

 それと、何かしてもらったら「すみませんじゃなくありがとう」って言う、本でもなんども読んだ基本ができていないことにも気づいた。

 それに比べて、いつも何がしか褒め言葉が出てくるあの人たちって、すごいなぁ。

 気遣う言葉も多くて。仕事でちょっと失敗して落ち込んでる時、「何かありましたか?」って聞いてくれたり。

 顔に出やすい自覚はあった。だからいつも笑顔でいるように心がけてる。だって、高校時代、ひとりで廊下歩いてて気を抜いてる時にうっかり顔を見られて、先生に「どうしたのそんなしけたツラして」って言われたくらいだからね。あの頃本当に時間がなくて、宿題は多いし、登下校に時間はかかるし、なのに家事もしなきゃいけないし、それだけやってるのに夫婦喧嘩には巻き込まれるし、機嫌の悪い両親には八つ当たりされるし、いっぱいいっぱいだった。そりゃ気をぬきゃそんな顔にもなる。

 家族は悩みの種であって、相談相手じゃなかった。こっちを気遣うような言葉なんて、一度もかけてくれなかった。

 だから、……気遣われたことなんて、本当に何年ぶりだろう。泣いてしまいそうになった。相手は仕事として、義務でそんな風に言ったに違いない。それがバカみたいに嬉しくて、泣くわけにはいかなかったから、「なんでもないです」と言って笑った。「そうですか?」と少し不思議そうにしながらキッチンへ戻って、そして出してくれた紅茶はいつもより甘くて、あれ? と思って顔を上げた。機械任せの紅茶に味の違いがあるのはおかしい。「蜂蜜を入れました。たまには良いでしょう?」……ああ、こんな気の使い方もあるんだなぁって感心した。そんな気を使われる側になるなんて、本当に人生何が起きるかわからないものだ。


 知っているヒロインもヒーローも、どんな逆境にあっても、文句も言わず泣き言も言わず、明るく生きて、その苦労は第三者が語ってた。でもそんな風にはとてもなれない。自分で自分を可哀想がるしかできない、哀れなちっぽけな人間にしかなれなかった。うつ病がひどかったときは、ひたすら。少しよくなってからは、抑え込んでいた怒りが爆発して、心の中はいつも大嵐。

 どのみちなれるのは脇役か、あまり賢くない悪人か。物語に出てくる登場人物は、みんな何か一つは突出してる。何にも取り柄がなければ、飛び抜けて優しかったり、素直だったり、負けず嫌いだったり。そんな性格の長所さえない。

 それが何の因果で、ここまで大掛かりな詐欺のターゲットにされたのか。

 

 目下のところ、証拠集めというよりは、いかに今が恵まれてるか、ってのばっかり集まってきてなんだか居心地悪いくらいだ。

 落ち込んだ時に気にしてもらえて、励まそうとしてくれる人がいて、自分のために心を砕いて、時間を使ってくれる人がいる。それが仕事だったとしても、それはなんて幸せなことだろう。



 それにしても、……人件費、すげぇんだろうなぁ……。

 だってあの人、住み込みなんだぜ?

 びっくりだよね?

 このマンションの存在を教えてくれた日、家具屋に行ってパパが選んだベッドは、この人用だったらしい。ちなみにママが選んだベッドの型番違いは、サイズ違いってことだった。二人は当然のように同じベッドで寝起きしているようだ。

 いや本当に、あの人は悪くないんだ。雇い主にそうしろって言われて来てるんだから。

 本当によくわからない。あの——パパと、ママは。

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