第5話

 引っ越すので、仕事を辞めると伝えた。

 チーフは、驚いていたけど、諦めたような笑顔で了承してくれた。

「正直さ、もったいないと思ってたんだよねぇ。卒業はしてないけど4大入れる頭があって、パソコンにも強いし、覚えも早いし、コミュ力高いし。うちみたいな時給安いところで、申し訳なかったね。今まで、ありがとう」

 正直、正しい評価がなくて、呆気に取られた。四大出じゃないってところくらいしか、事実がない。パソコンの知識はそりゃちょっとはあるけど強いとはいえない。ここの人たちがいかんせん苦手すぎるだけだ。

 時給が低くても、人間関係の良さに救われた。何よりシフトの時間帯がありがたかったし、自分の興味のあることに繋がる職場だから。

 人の顔が覚えられなくて、何回も迷惑かけてお詫びに行かせたことだってあったのに。

 コミュ力高いのはこの職場の人たちとお客さんだ。大学時代のバイト先からしたら、ここは本当に天国みたいだった。優しいお客さんが多かった。待たせてしまっても怒らないし、「ありがとう」と言ってくれる人までいる。職場の人たちだって、連休取っても怒らないし、「気をつけて行っておいで」って言ってくれる。嫌な顔せずシフト交代してくれるんだ。

「こちらこそ、本当にありがとうございました。たくさん迷惑かけて、すみませんでした」

 家族のせいで、欠勤も多かったのに。

 でも、それには首を振って、笑顔を向けてくれた。

「もしまた、事情が変わって、こっちに戻ってくることがあったら、ぜひうちで働いてください。最終日まで、よろしく」

「はい。お願いします」

 泣きそうになった。バレないように、お辞儀を深くした。

 仕事仲間にも言わなきゃいけないけど、顔をみると言い出せなかった。

 時給は安いけどその分超ホワイトで、だから人の出入りがほとんどない。ずっと長く一緒に仕事をしていたから、別れ難い。

 自分で言わなくても、きっとチーフや店長が話すだろう。

 まだ、日がある。後任が採用されて、その人の指導が終わってから辞めることになってるから、採用されてもまだもし誰も言ってないようだったら、その時言おう。それに求人の掲示が出たら、きっと「え、誰の代わり? 誰か辞めるの?」って話になるはずだから、その時に言えば良いや。



 17日。

 仕事の前に、ATMへ寄った。

 通帳記帳すると、奨学金の返済分として、連続して3件、合わせて250万円近く、引き落とされていた。

 ……終わった。

 長かった。

 本当に?

 毎年6月が憂鬱だった。猶予願いの提出があるからだ。毎回毎回、無いお金をどうにか工面して、所得証明書と戸籍をもらいに行かなきゃいけない。このお金が地味に痛い。でも出さなきゃもっと払えない大金を払わなきゃならなくなる。それに毎回毎回、文面を考えるのもしんどかった。

 現状を訴えるのはいくらでもできるが、今後の見通しなんて立つわけないだろ。いつでもお先真っ暗なんだよ。

 人手不足の煽りを食らって、シフトを正社員並みに入れたら、日常生活が難しくなった。歯磨きをする間の短時間、立っていられなくなった。毎回座り込んで歯を磨く羽目になった。夜眠りにつきにくくなって、朝起きるのがすごく辛くなった。死にたいと考える頻度がひどく増えた。ああ、やっぱりうつ病治ってなかったんじゃんと、絶望した。

 人が優しくて、癒されたように思っていた。褒めてくれるし、失敗しても怒られないし、フォローしてくれる環境で、すっかり元気になったと思い込んでいた。希望的観測が希望的過ぎたわけだ。

 やっぱりもう、普通には働けないんだ。

 そんな頃、一時停止違反の車に横から突っ込まれた。

 相手の車が大きかったせいで、なかなかの重症で、休むしかなくなった。

 怪我が治ってから、シフトは思いっきり減らされた。そりゃそうだ。ゴールデンウィーク期間という、最も人手が入り用な時に、シフト入りまくってたのに休みまくったわけだから。

 申し訳なさそうに言われて、こっちの方が申し訳なくて、頷くしかなかった。首にならなかったのを感謝しなきゃならない立場だった。

 そしてこの年齢だ。今更、どこの会社でも正社員として雇ってもらえるわけがない。

 この現状のどこに返せる見込みがあるんだよ?

 しんどくて泣きたくなるのをなんとか堪えて、叶うはずのない希望の見通しを書く。書くたびに、自分が情けなくなって、責められてるように思えて、嘘を書いているのが申し訳なくて、死にたくなった。

 あれが、終わったんだ。

 もう、来年からは、書かなくても良いんだ。来年は減額願いかと思っていたら、もう何も、書かなくてよくなった。

 でも、本当だろうか。

 長いこと悩み過ぎて、急に重荷から放たれても、実感がわかない。

 それに、こういうぬか喜びパターンは何度もあったんだ。

 もしかしたら、これが詐欺かも。通帳に記帳されたこの引き落とし先が、本当の奨学金の機構かどうか、まだわからない。

 昔、猶予願いの提出の仕方がわからなくて、一度引き落とされたことはあった。それと見比べればわかるはずだけど、その時の通帳なんてとっくに捨てたよ。まだアパートに越す前だ。

 確証はない。安心するのはまだ早かった。これがフェイクなのかもしれない。

 心臓が嫌な感じにばくばくと音を立てる。なんとか宥めて、仕事に向かった。


 

 お給料日、奨学金のサイトにログインしたら、返還済みになっていた。

 ——ああ、本当だったんだ。

 唐突に、笑えて来た。

 よかった。これだけが気がかりだったから。

 随分でかい見せ金だなぁと、まだ信じられないような現実に、手が震えた。

 これでもう、自己破産してもどこにも迷惑はかからないんだ。

 そう思った時、ふと、見慣れない項目に気づいた。


 こんなの、この前ログインした時にあったか?


 気になって見てみると、そこには、——そこには、あの頃、あったらって思うようなものが増えていた。

 給付型奨学金の発足。

 連帯保証人から機関保証への変更。

 マイナンバーの提出と引き換えに、各種証明書の免除。

 そして、返還免除の欄。本人死亡時の他に、もう一つ項目が増えていた。肉体的または傷病による返還免除——

 これって……

 震える指先で項目を選択すると、医師の診断書を必要とするが、その傷病によって働けない人、うつ病などの精神障害を抱える人の返還を免除する、というような内容が記されていた。 

 ……もしかして、こんな詐欺に乗らなくても、どうにかなったんだろうか。

 そうだ。あれから何年も経った。

 ニュースだって流れた。

 一度、匿名で返信できるアンケートが郵送されてきたことだってあった。証明書の取得金が負担なこと、免除願いの記入が精神的苦痛になっていることを、書いた覚えがある。

 ほとんどログインしてなかったから知らなかっただけで、機構だって変わっていたんだ。

 涙が流れた。自分はもう遅かったけど、それでも、苦しい思いをする人が、減ることが嬉しかった。

 誰にも助けてもらえないという絶望で、死ぬ人が減るなら、それはとても良いことだ。死にさえしなければ。

 変わっていくんだ、悪い方へばかりじゃなく、良い方へだって。

 ま、その救いはいつも一歩遅くて、自分には適用されないんだけどね。

 まぁ運がないよな、ほんと。

 だけど、綺麗事って言われるから口にはしないけれど、追い詰められる人が減るってことに、温かい涙を流すくらい良いじゃないか。

 それにしても、どうしてこの前ログインした時には気づかなかったんだろう。慌ててたから?

 ……そういえば、弁護士さんと二人に話したっけ。……まさかね。

 ただの詐欺グループにそんな真似できるわけないし、幾ら何でも実現が早すぎるだろ。偶然に違いない。偶然気づかなかっただけさ。

 だけど、次に会った時には、お礼を言おう。だって、この詐欺に乗らなかったら、ずっと気付かなかった。世界は捨てたもんじゃないって、こんなにもあったかい気持ちになる事もなかったんだから。



 給料日後の休日。

 連休は基本的にないし、仕事を辞めるわけだから、シフトの変更願いも少し躊躇していた。でも一緒に住むことに同意したら、なぜか泊りに来るようにと言われなくなったので油断していたら。

 こっちの仕事の都合もあるだろうからと、なんと二人はマンションを用意していた。

 ちょっと待て。こっちの希望を聞き入れるっていう話はどこ行った?

「4LDKだから、ちょうどいいと思って買っちゃったの」

 賃貸じゃないのか。購入なのか。

「今から行きましょ」

 今から!?

「近いから、歩いて行こうか」

 ちなみにここは駅だ。

「良いわね。ご近所に何があるか、見ておきたいわ」

「そうだね。買い物はほとんど駅ビルで済むと思う」

 そうか。連休といっても二日しか取れない、むしろ1日しか休みがない時の方が多いから慌ただしく帰るこちらと違って、二人は時間に余裕がある。こっちが帰った後に、駅周辺を調べてマンションを下調べする時間もあったわけだ。

「雪ちゃんの好きな本屋さんも、駅ビルにあるもの、ちょうどいいわ。ね?」

 期待のこもった輝く瞳を向けられて、コクリと頷くしかなかった。

「このマンションからの方が、仕事先にも通いやすいようなら、すぐにこっちに引っ越せば良いわ」

「そうだよ。そうすれば、一緒にいられる時間も増える」

 もしかして、こっちの名義で勝手にローン組まれてるんじゃないよな?

「……あの、何年ローンで買ったんですか?」

「教えない」

「えっ!?」

 まさかまじで?

「敬語やめてくれたら教えてあげる」

「……何年ローンで買ったの?」

「ローンは組んでないわ」

「一括払いだよ」

 マンションて一括で買えるものなの!?

 事も無げに言ったあと、男の人——ええと、パパ(週1回会うか会わないかだとすぐ呼び名が戻ってしまう)が、ちょっと真面目な顔になった。

「……僕もママも長生きするつもりだよ。もちろん」

「そうよ。やっと会えたんだもの。ずっと長生きするつもり」

「だけど、ずっと先の話だけど、雪さんが養子縁組をしなかった場合、遺産を渡すのには、遺言書が必要になるよね」

「生前贈与って形になるけど、何か渡しておきたかったの」

「賃貸収入を得るために貸し出しても良い。駅近なら、財産になるはずだ」

「もちろん、遺言書も残すつもりだけど、できる限りのことはしておきたいの」

「書類はマンションの部屋にあるから、説明もするよ」

 以上が歩きながらの会話である。

 県立図書館すぐそばの、でっかい新しいマンション。

 洒落た作りのロビーを抜けて、エレベーターに乗る。

 自分は戸建てとアパート。親しい友人は戸建てか団地だ。ピアノの先生はもちろん戸建て。マンションに足を踏み入れたのは初めて。

 きょろきょろしてしまっていたのだろう。

「使い方は、後で説明してくれるわ」

「僕たちも一緒に聞こう」

 そんな風に言われて、少し恥ずかしくなった。完全におのぼりさんに見えたに違いない。他人の家をじろじろ見るのは失礼という意識があって、この二人の自宅に行った時は抑えてたけど(あまりにアレなので圧倒されてたと言えなくもない)、マンションの共有スペースなら構わないだろうと思って油断していた。

 わー恥ずかしい。

 箱から降りて、突き当たりのドアで立ち止まる。

 あ、ここか。

 鍵を取り出す……のではなく、インターホンを押した。

 ややあって、ドアが内側から開いた。

 え。

「お久しぶりです」

 二人が言っていた他人だと思えない人が、にっこり笑顔で視線を合わせてから、綺麗に一礼した。

「……お久しぶりです」

「ああ、今日のお召し物もよくお似合いで」

「……ありがとうございます」

「どうぞ、お入りください」

「さぁ、入って」

「気に入ってくれると良いんだが」

 あ、先に入るの?

 二人の後からついて行く気だったから、戸惑いながら敷居を跨ぐ。

 アパートに暮らすようになって知った。

 戸建ての家と違って、日が差さない場所は真っ暗。

 このマンションは、角部屋だからか、玄関もまだ外光が入ってる。

 想像よりは暗くないけど、ホワイエの奥の方は光が差さないからだろう。電気が付いてる。靴箱というよりは立派なシュークロークがある。アパートみたいにドアを開けて小さな三和土があってすぐ床、という間取りとは全然違う。土間のようなスペースがあって、そうか。三輪車とか自転車、もしかしたらシルバーカーとか車椅子とかを置くスペースなのかもしれない。

 二人が入るからと急いで足を進める。

 開けられていたもう一つのドア(もしかしたらこっちが本当の玄関なのか?)の先、スリッパが用意されていた。

 畳と違って、フローリングは冷える。

 多分、3人分あるから、使って良いってことだろう。

 スリッパを履いて、後ろの3人を振り返ろうとした時。

「お待ちしておりました。お久しぶりです」

「……お久しぶりです」

 突き当たりのドアが開いて、明るい陽光が眩しい。大きな掃き出し窓の、多分リビングだろう。

 その光の中に弁護士さんがいた。

 そうか、……もしかしたら、今日で最後か。


 淹れてくれたお茶を前に、ソファに3人で座った。

 大きな窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。

 対面式キッチンと一続きのリビング。カウンターにくっつけるようにしてダイニングテーブルがおいてある。

 そこからスペースを空けて、壁に向かうようにソファとローテーブルが置いてある。

 ホテルのラウンジみたいな感じ。ローテーブルってあんまり好きじゃないんだよな。背中丸めないとうまく飲み食いできないし。まぁ食事はダイニングテーブルで食べるんだろうけど。でもソファで紅茶くらい飲むよね? それに脛にぶつかりそうで怖いんだよなぁ。家の居間はこたつだったし。祖父が生きてた頃は掘り炬燵だったし。

 ローテーブルを使うような生活に縁がないんだよ。

 だけど全体的には木目を活かした温かみのある部屋だ。素敵だと思う。実感ないけど。


 前のように自分の部屋へ案内されるのかと思ったけれど、今日はまっすぐリビングのソファに座らされた。

 向かい側に座っている二人が、書類を前に説明してくれる。

 名義はこっちになっていた。

 ローンではなく、このマンションの1室の所有者名義だ。

 支払いは確かに済んだという証明書(領収書?)もある。

「維持費や修繕積立金など、毎月かかる費用もございますが、そちらの支払いは奥様の口座から引き落としとなっております」

 そうか。……マンションて、買ったらタダで住めるってわけでもないのか。初めて知った。

「こちらが引き落とし口座登録の控えです」

 口座名義は女の人のものになっている。そもそも、こっちが持ってない銀行の口座だった。

 管理会社の緊急連絡先は、男の人と女の人になっている。

 書類から分かるような不審な点はなかったけど、もとよりマンションを買ったことがないから、どんな書類が正当なのか、判断するのは難しい。だから念の為に。

「この書類って、コピーしても良いですか?」

「こちらの控えはすべて、お嬢様のものですよ。もちろん、コピーもご自由に。原本が必要でしたら、こちらをどうぞ。もとより書類一式は、こちらに保管する予定でした」

 この『こちら』は、多分このマンションの部屋内に、ということだろう。

「……すみません、それと、お願いがあって」

 二人が目を輝かせた。

「みんなで、記念写真撮りませんか?」

 二人は笑顔で頷いた。

「良いね」

「どこが良いかしら。リビング? ベランダに出て、お部屋が映るように撮るのも良いわよね」

「ああ、そうだね。今日は天気が良いからね」

 当然のようにカメラマンを買って出てくれた秘書さんと、フレームから外れようとした弁護士さんに、「全員で撮りたいんです」と言ったら、少し照れくさそうに笑いながら、それでも頷いてくれた。


 写真を撮り終えた後はマンションの説明(書類じゃなくて、部屋の作りとか、鍵とか、駐車場とか)を受けてから家具屋に向かった。

 リビングに限っては、家具を入れてくれていたが、他の部屋のインテリアは何もまだ用意していなかった。

 なるほど、こちらの希望を取り入れてとは、こういうことか。

 キッチンも見たが、食洗機は備え付けで、冷蔵庫は大容量の物が用意されていた。洗濯機もあった。乾燥機も。

 少し残念だった。家電を選ぶことは滅多にないし、年々新しいものが出るから、ちょっと選びたかったなぁ……。

「間取りが気に入らないようならリノベーションしても良いわ。自由に考えてね」

 そんな恐れ多い真似できるか! ってか誰が出すんだその費用。いやどっちかが出してくれるんだろうけど。

 ……あー……いっぱい金引き出してやるって何回も決意し直してるのに、貧乏根性が治らない……。

 それに、何年か住んでリノベするんならともかく、せっかくマンションを作った人たちがこだわって作ってくれた間取りを、ろくに住まないでぶち壊すのは、設計に関わった人たちに申し訳ない気がする。

 リノベはしない方向で、残念そうにされたので、しばらく住んでみてから、するかどうか決めたいと言ったら、表情が晴れた。

 一番高価そうなベッドを見て、「これって言っても買ってくれます?」と問いかけると、「パパとママって呼んで、敬語をやめてくれたら買ってあげる」と微笑まれた。

 どうしても、お金を出してもらうとなると、敬語になってしまう。

 内心舌打ちしながら、頷いて、売り場を見渡す。自分が一番気にいるものを買おう。

 思えば、自分の親に、物をねだって買ってもらった記憶がない。いまでも覚えているのは、園児の自分が「あれが欲しい」と駄々をこねて泣いて、結局買ってもらえなかった記憶だ。それ以来、自分の希望を言うのをやめた気がする。ひどく怒られたから。誕生日だって、クリスマスだって、親が買って来た適当なものを喜んで見せるのが課せられた義務で、リクエストしたものをプレゼントされた記憶なんてない。

 だから、なぜだか簡単なはずの、普通の子供だったら平然と言えるはずの科白をいうのに、決死の覚悟が必要だった。

 最初に出た呼びかけの「あの」は、あまりに小さくて掠れて、店内の優雅なBGMにかき消されてしまった。

 それでも、二人はちゃんと立ち止まってくれた。

 こっちを向いてくれた。

 そうして、ちゃんと待ってくれた。

「……パパ、ママ、……これがいい。これ、買って……ください」

 結局最後は敬語になってしまったけれど、二人は嬉しそうに顔を見合わせて笑顔になった。

 近くにいた店員に、女の人——ママが、声をかけた。愛想よく返事をした店員に、男の人——パパが、当日配達は可能かと尋ねた。この商品は在庫があるということで、すぐに配達してくれるらしい。ママは同じベッドフレームの型番違いを注文して、パパはシンプルなデザインのものを頼んだ。あれ、夫婦別寝室なんだ。こんなに仲が良さそうなのに、まぁ何年も連れ添ったらそんなものか。でもうちの祖父母はずっと同じ部屋に布団を並べて寝ていたから、少し不思議だ。

 注文を何回か繰り返し、あとは手続きと支払いだけ。

 前に来た時は遠巻きに見るだけだった、商談用のブースに案内されて、飲み物を用意された。

 有料の組み立ても頼んで、その場で支払いを済ませると、配達予定時間は夜7時頃とのことだった。

「それなら、どこかで食べて帰りましょう」

「もしよろしければ、2階にカフェがございます」

「あら、良いわね。雪ちゃん、どうしたい? 何かリクエストはある?」

「いえ、えと、ここのカフェ、美味しそうだったんで、食べてみたかったんで……食べたい」

 多分家族だと思われてるはずだから、急いで言い回しを常体に変えた。

「まぁ。それなら決まりね。パパもそれで良いわよね?」

「もちろん。雪さんのリクエストなら応えない手はないからね」

 店員はそれに微笑ましそうな目線を向けてきた。



「あ、ビーフシチューがある」

「まぁ、本当に好きなのね?」

「うん。……あ、前に作ってもらったのも美味しかったし、もともと好き」

「そうなのね。また作るわ。じゃあビーフシチューひとつと、パパは?」

「パスタにしようかな」

「パスタね。私は——オススメを教えてくださる?」

 店員さんに向けてだ。店員さんはグラタンと、ティラミスを教えてくれた。

「それも。雪ちゃんはティラミス好き?」

「大好きです」

「グラタン一つとティラミス2つね」

 会計はパパが担当して、その間にセルフのお水を汲もうとしたら、ママに「それはパパの役目よ。先に座りましょう」と言われた。

 家具だけじゃなくて、タオルやカーペット、カーテンも買ってあった。

 カーテンとカーペットは宅配を頼んだけれど、タオル類はすぐ使うから、と手提げ袋に入れてもらって持っていた。

 4人掛けのテーブル、窓際の席を選んで腰を下ろし、隣にパパから預かった手提げ袋をおいた。

 外を見ると、まだうっすら明るい。

「久しぶりにインテリアショップに来たけど、いまは面白いものがたくさんあるのね」

「あ、便利グッズとか?」

「便利グッズって言うのね」

 少し浮世離れしたところのある人だ。

 楽しそうに見たものについて話したり、質問したり。

 そうこうするうちに、男の人が3人分のお水を運んで来てくれた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

「ありがとう」

 ママは笑顔で言って、パパはにっこり笑った。

「すごいですね。男の人が運ぶなんて」

「……ウェイターもいるよ?」

「あ、えっと、すみません。……うちは、絶対しなかったので」

 二人は顔を見合わせて、また痛ましそうな表情になった。失敗した。

「手の空いている人が運べば良いと思う」

「そうよ」

「まぁうちの場合は、ママはこう言うのに向いていないんだ」

「え?」

「体幹は鍛えてるのに不思議なんだけけれど、コップの中身が半分になる」

「え」

「だから僕が運んだ方が効率的だよ」

「……なるほど」

 恐る恐るママの方を見ると、恥ずかしがるでもなく、ニコニコ笑っていた。

 ……そっか。出来ないは別に恥ずかしいことじゃないんだ。人には向き不向きがある。出来ないことをいちいち恥ずかしがるんじゃなくて、向いてないと認めたら、こんな風に楽になれるのかもしれない。


 パパとママは、マンションで1泊して翌日帰るらしい。

 でも、こっちは制服を持って来てない。アパートに帰らないと、明日の朝が大変だ。

 二人に会うのが楽しくて、朝頑張って起きていたけど、もともと遅刻しそうになるのがすごく怖い。夜なかなか寝付けないから朝起きるのが辛い。それでも起きないと怒られるから、無理して起きるっていうのを、子供時代からずっと繰り返して来た。

 アパートで暮らすようになって、目覚ましなしでも仕事に間に合う時間に起きられるようになった。家事を後回しにしたりする事もあったけれど、それでも、やっぱり怒られないって言うのと、夜中に怒鳴り起こされるって言うのがないって言うのは、かなり気分が楽になった。安心できる。

 だから、帰ることにした。

 やっぱり、他人がいる家で寝て、次の日仕事に間に合うように起きるって言うのは、かなりの負担だ。不安で逆に眠れなくなりそう。

 そこまで考えて、気づいた。

 遅刻したら首が回らなくなるから、不安がすごく大きくて押しつぶされそうになってたけど、もうそんなに困らないんだった。

 もちろん迷惑かけるのは良くない。人手不足だし。でも、一人足りない状態だってなんとかなる。何も死にそうになるほど不安にならなくたって良いんだ。

 笑いそうになった。

 どんだけ怖かったんだろう。母に叱られるのが。

 三つ子の魂百までって言うけど、30過ぎてもまだ怖いんか。笑える。


 夕食を食べて、駅まで行って、そこで別れた。運転手さんは送ってくれるって言ったけど、遠慮した。まだお年玉の残りがあるし、バス代も払える。


 銀行の口座には数百円しかない。財布の中とにらめっこして、水道光熱費通信費国保の中で払えるものはどれか決める。毎月そんな感じだった。

 でも今は、全部払える。全部払って、さらに残りがある。

 長くは続かないだろうけど、すごくありがたかった。

 そうだ、年金の追納もしてしまおう。

 どうせ払えるなら払えるうちに。いずれ首を括るとしても。

 バスに揺られながらそんなことを思っていたら、ふと思い出した。

 しまった、お礼言ってない。

 奨学金のお礼。

 いやまぁ、あまりといえばあまりの展開だったわけだし。仕方ないよな?

 次に会った時に、改めて言えばいい。



 次の休みの日に、お願いして部屋の荷物を運び出した。

 荷物と言っても、そんなに多くなかった。

 なにせベッドを買うついでにベッドマットもその上のシーツや羽毛布団まで一揃い買ってくれたのだ。寝具は丸ごと処分できるし、机も以下同文。

 もともと、あの日ゴミ袋の袋が空になるまで捨てまくったから、服もほとんどなかった。ボストンバッグに下着、買ってもらった服とウォークマン、充電器具類、通帳と財布とマイナンバーカードとかが入ったカードケースを詰めたら、もうあとは本が入った段ボールだけだった。

 最後にパソコン。

 二人が手配してくれた引越し業者に、「驚異的に物が少ない引越しですね」と驚かれた。多分、翻訳すると、業者必要なくないですか? だろう。

 サービスで持ってきてくれた段ボールに、何をつめようか迷った。

 そうだ、食器。

 ……本格的に困窮してからは、まともな料理はしていなかったが、元々はお菓子作りが好きだった。まぁそれも、甘いものが好きな母の歓心を買いたいっていう思いの成せる技で、たまたま大した失敗もせずに作れる器用貧乏だからってことが大きい。

 でもまぁ、アパートでも、時々は作っていた。イライラした時に生地をこねたり、泡立て器を使うような単純作業は、禅と同じで頭の中が静かになるから、まぁ助けられたと言えなくもない。

 食器と、お菓子の焼き型、泡立て器とボウル。

 包丁とまな板はいいや。だいぶ古びてきてるし、新しいものを買ってもらえば。

 あの立派な二人の家には、きっと立派な食器も器材もあるだろう。でも、マンションにはないかもしれない。だから、自分が持っているもので、思い入れの深い、好きなものだけ段ボールに詰めた。

 荷物を詰め終わると、不用品を運び出すのも業務のうちだと言ってくれた。

 パソコンを使うときに使っていたミニテーブルと、壊れたまま修理ができなかったオーディオ。ミニチェスト。角度調節ができなくなったデスクライト。間に合わせで買った椅子。祖母と母のために買った椅子。粗大ゴミは流石に燃えるゴミ袋に入れるわけにはいかなかったから、自分で収集場まで運ばなきゃと思ってた。ラッキー。


 

 部屋が空っぽになって、次は退去手続きだ。

 退去手続きには時間がかかる。と言うか、日数がかかる。あの日、捨てハイってやつになっていたのだろう、気がついたらそこまでしていた。

 退去日は未定だったけど、二ヶ月後にしていた。そのくらい前もってじゃないと、申請が受理されない。

 二人からマンションを用意されたのは、奇しくも2月。4月からの転勤入社入学に備えて、内見希望が増える頃だ。

 タイミングが良かったんだろう。

「できたらもっと早く退去したいんですが、できますか?」と電話したら、二つ返事で引き受けてくれた。

 アパートの退去費用は、今度は男の人——パパが出してくれた。

 自分の体も大切に思えないから、ものを大切にしているつもりでも、どうしても荒くなっていたらしくて、あちこち傷んでたから、費用もかかる。

 でも、二人と、弁護士さんが一緒に退去日に来てくれて、思いの外、退去費用は安くおさまった。 

 知らない人を家に招くのがあんなに怖かったのに、空っぽの部屋を見せるのは特に何も思わなかった。家の使い方が荒いと思われるかもしれないと言う危惧はうっすらとあったけれど、どのみち相手は詐欺師な訳だから、気にするのも馬鹿らしい。

 シーリングライトを買うお金もなくて、入居時から付いていたキッチン照明と、持ち込んだデスクライトで凌いでいた。

 それでも、セーフハウスとして、お世話になった。エアコンも据え付けだったから、この部屋だったから、今にして思えば、生きて来れたんだろう。

 ……ありがとう。

 苦しい思い出の方が多かったけど、だけど。

 ありがとう。

 ここがなかったら、とっくに心が壊れてた。

 とんずらする日がいずれ来るけど、もうここには戻らない。戻れないだろう。元々は3人で住もうと思っていたから、広くて家賃も高かった。

 今度は、町営団地に住めば良い。狭いし古いけど、家賃は半額以下だ。それだったら、なんとか生活していける。

 ——あれ、死なない方向で考えてる。

 少し気が楽になったんだろうか。

「寂しい?」

「え」

「住み慣れた部屋を離れるのは、物悲しいものだよね」

「……いえ……大丈夫。いろいろあったなぁって、ちょっと感慨深かっただけ」

 二人はそれにふっと笑った。

「記念写真撮る?」

「何にもないけど」

「でもそうだね」

「うん。撮ろうか」

 サンルームに3人で立って、リビングとキッチンが見えるようにスマホに写真を収めた。

 ……祖母と母と3人で、こうやって写真を撮りたかった。

 あんなに酷いことをされても、母も父の暴力の被害者だと思って、幸せになれたら良いといつまでも心のどこかで思っていた自分に苦笑した。

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