第4話
シフトの調整の限界で、取れた連休は2日だ。
翌日、深夜まで及ぶ大ゴミ捨て大会の疲れもなんとか押し退けて、遅刻せずに職場へついて、いつもの挨拶と仕事が始まる。
そこにはここ10年ほど、ずっと支えてくれた日常があった。
大掛かりな詐欺の最中にいるとは、まるで想像もできないほどの日常。
それに少し笑いそうになりながら、慣れ親しんだ時間を過ごした。
アパートに戻ると、久しぶりの、というかもしかしたら初めてかもしれない大掃除を始めた。もう年末はとっくに過ぎたけれど、本当に二人と住むなら、いや住まないにしても、掃除はした方が良い。
風呂場のカビ取りと床の掃除、っつーか拭き掃除って前にやったのいつだっけ?
……やぁまぁ本当に、物が少ないと掃除楽だわぁ……
流石に暗いと窓掃除は微妙だから、と思いつつも、時計を見ると大して時間が経っていなかった。
良いや、やっちゃえ。
知識だけは豊富だ。なにせ実家も汚屋敷だった。なんとかしたくて掃除を始めたけど、父親がそれを利用するようなことを言い始めてやめた。父親にとって女は飯炊き女だ。女中みたいなもの。ふざけやがって、だったらその分稼いできやがれ。自分でも驚くくらい腹が立って、合理的に考えるなら気にしなければ良いのにやめてしまった。
思い出したらまた腹が立ったので、雑巾に苛立ちをぶつけた。
ごくごく薄めた洗剤を浸した雑巾を固く固く絞って拭いていく。
ぶっちゃけ寒いし手はかじかむが、怒りが手伝ってくれた。
雑巾を絞る時は記憶の中の暴力を振るってくる奴らの首を絞めるつもりで。
死・ね・ええええええ!
さながら悪役である。もう悪人になるって決めたしね。
思いの外サクサク進んだ。つーかこれスッキリするな。すげースッキリするわ。床の拭き掃除する時に思いつけばよかった。
なんか未練つーか無念? が成仏するような気がする。言い返さなかった、何も言えなかった、どんなに腹が立っても飲み込むしかなかった無念さが成仏する感じ。この恨みはらさでおくべきかって有名なセリフがあるけど、そういや、そういう方向に思いを持ってったのって初めてか。想像の中でも相手を痛めつけるなんてできなかった。
でも、考えてみれば、あいつら人を殴ってあとはけろっとしたもんだ。まるでそんなことなかったみたいに優しいふりをして接してくる。いつまでもずっと悲しい苦しい辛いっていうのは、何もしないからずっと続いてたのかもしれない。
だからって、あいつらみたいに実際に人を傷付けるなんて人間として論外だけれども、想像の中でくらい、仕返ししてやってたら、こんなに引きずることもなかったのかな。
乾拭きもして、あっという間に外側も内側も窓掃除が終わって(届かないところはワイパー使った。柵付き窓はとりあえずほっとこう)、玄関の掃除だけできなかった。
山のように積み上げられた(それでもどうにか外へ出られるんだからいっそ芸術的と言っても良い)ゴミ袋で塞がってるからだ。
明日ゴミの日だし、頑張って往復するか。
「雪ちゃん」
駅のカフェで本を読んでいると、女の人の声がした。楽しそうで幸せそうな声に、顔をあげる。
そうだ、その名前。
目が合うと、一層幸せそうに笑った。
男の人が、カウンターにいるのも見えた。
女の人はまっすぐこっちに来て、手をとった。
「久しぶり。会えて嬉しいわ」
「はい。嬉しいです」
あれ、ちょっと眉が下がった。なんで?
あ。
「嬉しい、すごく」
言い直すと、顔がぱあっと輝いた。
ニコニコ笑ってる人を見ると、こっちも笑顔になる。
男の人はトレーにカップを3つ乗せてこっちへ来た。
「やぁ、久しぶりだね。ドリンクはいかがかな」
「いただきます。……ありがとう」
「どういたしまして」
こちらも目尻の皺が深くなった。
「着てくれたのね。可愛いわ。やっぱりとっても似合ってる。ね?」
「うん。可愛いね」
こんな歳の人間に可愛いはないだろう。
反射で否定しようとして、でも選んでくれた女の人にも、褒めてくれた二人にも、返って失礼だと気付いて慌てて口を閉じた。
代わりに、笑ってごまかした。
3回目なんでなんとか見分けがつくようになってきた運転手さんも服を褒めてくれた。
今週は連休にならなかったので、日帰りで遊ぶことになった。
本来ならドライブと行きたかったのだろうが、正直、車は嫌いだった。「乗り物酔いするから」という小さい頃の体質を言い訳に断った。
本当の理由は、弟の無保険事故で40万円捻出する羽目になったのが今だに許せないからだ。そもそもこのど田舎だと通勤手段のほぼ9割、いっそ10割が車だ。求人条件には「普通免許」がずらりと並ぶ。「マイカー通勤OK」なんて、当たり前すぎて書かないところもあるほど。日常で乗りすぎてるからドライブもクソもない。それに性格的に、目的地に早く着きたい。道中は楽しくない。そもそも移動手段自体を目的にはできない。そういう性格なんだ。
……いや、もしかしたら、父親のせいかもしれない。父は車が好きだからと家族旅行は車で行くことが多かった。だけど「こっちは疲れてるんだから早くしろ」「乗せてやったのになんだその口の利き方は」と、文句ばかりで全然楽しい旅行じゃなかった。疲れるなら運転なんざしなきゃ良い。そもそもこっちは頼んでない。旅行中はいつも夫婦喧嘩するし、そのとばっちりがこっちに来る。良い思い出なんか一つもなかった。だから旅行と聞いても、暗い気持ちにしかならなかった。車の中にはだいたいいつも怒鳴り声とトゲトゲした雰囲気が充満していた。逃げ場がない車の中は、小さい自分には殴られはしなくても乗り物酔いと相まって、動く拷問部屋だった。
だけどそんなことはこの3人には言えない。
まぁ、乗り物酔いすると言ったことで、この前二人の家まで車で連れて行ったことを謝られてしまった。それに、運転手さんにはひどく落ち込まれてしまった。
「あの、違うんです。本当に、前の時は平気でした。多分、運転がお上手だからだと思います。でも、やっぱりちょっとドライブみたいなものは、しんどくて、楽しめないんです」
必死の言い訳が功を奏したのか、二人が話題を変えてくれた。
「普段、何をして遊ぶの?」
「お休みの日は、何をしてるのかな?」
家事をして本を読んで寝る。
というのも、味気ないなぁと思った。
だからって、遊ぶ、遊ぶ、全く思い浮かばない。遊ぶ……遊………遊園地? いや……着くまでに時間がかかりすぎるし、今からじゃ、大して遊べないだろう。祖父が生きていた頃、何してたっけ? 公園? 公園は、いや、寒いだけだろ。大人3人で行く場所じゃないだろ。……大学で新入生歓迎会は……ボーリング? いや、別にあれ楽しくもなかったし。
「……カラオケ?」
「あら、いいじゃない」
「それなら君の独壇場だね」
「決まりね」
無言でひたすら拍手していると、女の人がにっこり笑った。
「ありがとう」
「本当にすごい。びっくり」
声量が半端ない。マイクを持たずに、両手を広げて歌い出した女の人。
テーブルに置かれたままスイッチの入ったマイクは、ちゃんと声を拾っていた。
「声楽をやってたんですか?」
隣で男の人が、吹き出して横を向いた。
女の人は気にせず、にっこり笑った。
「そうなの。声楽をやってたのよ」
「すごい。素敵でした」
私は綺麗な声に惹かれるというよりも、感情を込めて歌う人が好きだ。役者タイプの歌手が好き。だから、流行りの曲でも良さがわからなかったり、興味もないので知らなかったりする。何より、人を本当に好きになったことがないから、ラブソングは共感できなくて好きになれなかった。
けどこの人の声は感情豊かでなおかつすごく綺麗に響く。
「ありがとう。まだまだ私も捨てたものじゃないわね」
「それはそうだよ。変わらない美しい歌声だ。今日は一段と気合いが入ってたね」
「それはそうよ。雪ちゃんに初めて聞いてもらうんですもの。最高の自分を見せないと」
「ホールでドレスアップして歌ってるところ、見たいって思いました」
キラリと女の人の目が光った。
「雪さん」
男の人に呼ばれて、そちらに目をやると、半笑いのような顔をしていた。
「君が言うと、彼女が実現に向けて全力を出してしまうから、発言には気をつけてくれると嬉しいな」
「え?」
「あら、せっかくしてくれたお願いを封印させようって言うの? ひどいわ。そんな人だとは思わなかった」
「待ってくれ。誤解だ。もちろん、雪さんのお願いはなんでも聞きたいし、どんどん言って欲しいと思ってるよ。ただ君がドレスアップしてホールで歌うとなると、それはもう『復活』って銘打たれて興行になるだろう?」
「あら。そうとは言ってないわよ? ホールをあなた名義で貸し切ればいいだけじゃない」
「……しかし、雪さんが見たいのはそう言うことじゃないだろう?」
「だから、身内だけをご招待すれば良いのよ」
「この場合の身内というと?」
「ごく内輪の人間という意味よ。SNSで言いふらすような人は論外ね。入場口で携帯電話を預ける方式にしようかしら」
「なるほど。あくまで、家族団欒の一環ということだね」
「そうよ。待ちに待った娘のお願いを叶えるために、ちょっとエキストラをお願いするということね」
「それは良い。——おや、すまないね。次の曲を入れてなかった。雪さんは何を歌うのかな?」
なんだかさっぱりわからない話から、急にふられて慌てて手を振った。
「いえ、あの、流行りの歌とかわからなくて。それに、あんなに綺麗な歌の後って歌いづらいです。音痴なんで」
だいたいヒトカラに来る時は、もっぱらストレス発散目的だった。家では大声は出せないから、怒りをぶつけるために大声で歌っていた。だからマイク音量は最小限に絞っていた。上手くなるために歌ってたわけじゃない。
「そう言わずに。君の声もとっても綺麗だよ。歌ったらもっと綺麗だろう。多少音程が外れてたって、僕にはわからないから」
「あら、そうよ。それじゃ、声楽をやっている人間は、友達の歌を聞けないことになってしまうわ」
「……はぁ」
とりあえず一曲歌えば良いか、誘ったのは自分なんだし。
「じゃあ」
操作盤を借りて、1曲入れる。
人と行ったとき、何も考えずにこの曲だけを入れることにしてる。明らかに場にそぐわないから、みんな遠巻きにして、そのあとは遠慮が通るようになる。
ゆったりしたピアノの前奏が流れて、マイクのスイッチを入れた。
恥ずかしいから、画面だけが目に入るように少し移動して、二人の顔は見ないようにした。
歌い終えて、マイクのスイッチを切る。ああ、恥ずかしいけどスッキリした。
後奏が終わると、二人が拍手をしてくれた。
「素晴らしいわ」
「ああ。やっぱりとても綺麗だね」
「発音は直すべきだけれど、曲の本質をわかっているのね。まさに天使の歌声よ」
「蛙の子は蛙だね」
「……ありがとうございます」
親の欲目っていうやつだろうか。
男の人も、女の人と比べたら可哀想だけど、それでも上手だった。
いつもなら遠巻きにされるはずの十八番は、何故かその効果を発揮してくれずに、「次は何を歌う?」と笑顔で訊かれて困ってしまった。遠慮しても聞いてくれない。普段ヒトカラで歌う曲は、そんなにレパートリーもない。キーがあっていて声を伸ばせる曲。考えた末に、ヒット曲を歌うことにした。映画の挿入歌だ。長女で、良い子でいようと必死に生きてきた結果に傷付いて、それでも重い鎖を脱ぎ捨てていく歌は、少しの共感と、開き直れる強さに平たく言って感銘を受けた。原曲の方が歌いやすいし、ダブルミーニングだったりして好き。
3人で3曲ずつ歌い終わる頃になると、喉が乾いたと女の人が言い出した。
普段はドリンクバーだけど、二人が「若い女の子を一人にするのは不安」とかわけのわからないことを三十路を折り返そうかという人間を前に言い出して(店員にすげえ微妙な温度で笑われた)、都度オーダーにした。普段見向きもしなかったメニューを見る事になった。
小さい頃、祖母に連れて行ってもらった健康ランドでは、いつもフロートとポテトを食べていた。典型的なばあちゃん子であり、じいちゃん子だ。
その時の楽しかった記憶のせいか、フロートがあるとそればかり頼む。でも祖母と違って、炭酸は苦手だからクリームソーダは頼めない。小さい頃頼んでいたのはオレンジフロートだった。
オレンジフロートと、ポテトとナゲットのセット、それと女の人はデザートも頼んだ。
いつものようにお勧めを訊かれたものの、ここでは頼んだことがないからわからないと答えるしかなかった。女の人はじっくりとメニューを見て、また呆れるほどたくさん頼んだ。
二つずつにしようとしていたから慌てて止めた。
「あら、だって歌うとお腹空くでしょう?」
「いえ! なんか歌うと逆にお腹いっぱいになっちゃうんで」
いやこれはマジで。ヒトカラ行くと食べたい欲求が消えた。多分、なんかホルモンの影響じゃないだろうか。多分ストレスで食べたくなってるから、それが解消されて食べたくなくなるんだろう。
注文が済むとまた歌って、何を歌っても引いたりされなかったので、安心してヒトカラで歌う定番の曲を入れるようになった。女の人の歌は何度聞いても何を聞いても本当にすごくて、自分が歌う時間が勿体無いような気がしたけど、そこは二人とも譲らなかった。一人1曲ずつ順番に歌うというのがルールらしい。
注文したドリンクが先に届いた。久しぶりのオレンジフロートは懐かしくてちょっと感動した。ポテトとナゲットもなかなか美味しかった。それにデザートはやっぱり一つこっちに回ってきたので、ありがたくいただくことにした。一つくらいなら入る。男の人も一つデザートを食べた。
食べ終わると、また飲み物を注文した。男の人はノンアルコールカクテルを頼んでいた。
実はそれすら飲んだことがなかった。酔って暴力を振るう親と同じ血が流れていると思うと、アルコールや酒とつくもの一切合切怖くて飲めなかった。というか、酒を連想するもの自体が嫌だった。未成年の頃から飲酒に耽るような輩がいる中で、酔って人を殴るという最低の親は抑止力抜群だった。飲みたいとすら思わなかった。一滴も飲まないままここまできた。新歓コンパでも絶対に口にしなかった。場の空気なんか知ったことか。
血液型の一件で、血が繋がっていないと知っても、嫌悪感は残ったままだ。それに、大学に進んでそのうち、亜型のABという特殊な血液型があることを知った。それだったら、結局、血は繋がっている可能性もあるということだ。だったらやっぱり飲みたくはない。
家族中から暴力を受けてるのに、なぜか人に暴力を振るうことに強い抵抗があってできなかった。普通は、暴力に慣れそうなものなのに。どこまでいっても、何年過ごしても、自分はあの家族の中で異質なままだった。
だけど、男の人がそれを頼んでるのを見て、どんなものなのか気になって質問した。飲みたいとはやはり思わないまでも。
甘いときいて驚いたけれど、炭酸飲料だときいて、やっぱり縁のない飲み物だと笑った。烏龍茶を頼んだ。ママはパッションなんちゃらみたいな不思議な飲み物を頼んでいた。
「さぁ、歌うわよ!」
注文をすませると、女の人が操作盤を手に気合の入った声を上げて、それに男の人と二人で拍手しながら歓声を上げた。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、そろそろ帰らないと、という時間に、男の人がスマホを持って外へ出た。
戻ってきた男の人に、「時間だね」と言われて、残念がっている自分がいた。
目玉が飛び出るような金額の支払いを、二人がしてくれて、「ごちそうさまです」と伝えた。
ここは割り勘でなんて言うもんか。もう悪人になるって決めたんだ。
だけど、二人は店員に向かって言ったと思ったらしい。
お辞儀をしている店員に、「ありがとう」「デザートも美味しかったわ」と告げて、背を向けた。
車に戻ると、「楽しめましたか?」と運転手さんに訊かれた。
頷くと、「それはようございました」と笑顔を返される。
二人とも、絶賛してくれたせいで、「是非聞いてみたいものです」と言われてしまった。
居た堪れない思いを振り払うように、話を切り出した。
「……一緒に住む、って話、まだ、そう望んでくれてますか?」
二人が黙ったので、慌てて「違うなら良い」と話を切ろうと口を開こうとしたら。
「もちろん」
「決まってるじゃない」
二人がおかしそうに、でもどこか楽しそうに同時に言った。
何がおかしいのかはわからなかったけど。
「その話、お受けします」
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