第3話

 なんとかシフトを調整してもらって、連休を得る代わりに連勤を作り上げ、弁護士さんに連絡をとった。

 ちなみに、照会したら、実在の弁護士だった。まぁ顔写真が載ってるわけじゃないから、その人が名を騙ってるってだけの可能性もあるし、悪徳弁護士の可能性もなくはないが。

 とりあえず、事務所に電話して経緯を話すと、取り次いでくれた。

 折り返しかかってきた電話で待ち合わせの段取りを決める。今度は駅。流石に、車を丸一日置いておいたらまずい。駅までならバスでいける。幸い、この前もらったお年玉がまだあるから、バス代もなんとかなる。

 この前は飲食代も洋服代も全部払ってもらったからなぁ。

 お年玉のおかげで、滞納してた家賃が払えた。これでやっと、引き落とし日に家賃が用意できる。今まで一ヶ月遅れの自転車操業だったからな……本当に、家主さんありがとう。


 今日は約束の時間よりもかなり前に着く事が出来た。田舎過ぎて本数が少ないから、バスに間に合うよう死に物狂いで支度をして走った甲斐あって、久しぶりに駅のカフェで時間を潰せる。

 ……ああ、本当に、久しぶり。

 手帳と、文庫本。

 スマホで電子書籍も読める時代だけど、紙の質感が好き。においも好き。重いけど、なんども読んで古びた本の感じも好き。

 ビブリオマニアではないが、昔から、何をもらうより図書券(今は図書カードか)をもらうのが嬉しかった。

 机に広げた手帳にシフトの変更分を忘れないうちに書き写してから、小説に目を通した。

 子供の頃には何度も読んで、1度目読み終わったらまた最初から読み返して、なんてしてたのに、今は1回読むのもやっとな生活だった。本を読みたいっていう気持ちも、ほとんどわかなくなっていた。

 だけど久しぶりの連休、外泊。それなら、本を読むのに打ってつけだ。

 久しぶりにワンコインでお釣りがほんの僅かな贅沢な時間を過ごし、見せ金とはいえお年玉をありがとうと感謝していると。

「わっ」

「!?」

 突然本と顔の間に手を入れられて、驚いて仰け反った。

「……やめなさい。すごくびっくりしてるじゃないか」

 あ、なんかデジャヴ。

 じゃなくて。

「ふふふ。どっきり成功」

 ……本当に憎めない人だなぁ。

「……お久しぶりです」

「ほんとよう。長かったんだから」

「待ち遠しかったよ」

「すみません。あ、何か飲まれます?」

「そうね。いただこうかしら」

「そうだね」

「じゃあ注文しに行きましょう」

「あら、あそこで頼むのね?」

「はい。お代わりしますから一緒に行きます」

「まぁ嬉しいわ! おすすめも教えてね」

「そうですね、甘いのが好きなら、これなんかどうです?」


 ひとしきり舌鼓を打って、「さぁ行きましょう」と立ち上がった女の人に手を引かれる。

 女の人が行こうとした先が、改札でないことに気づいて立ち止まると、つられて女の人も止まった。

「どうしたの?」

「あの、改札、こっちですけど」

「……ああ! 行ってなかったわね、車で来たの」

「……そうなんですか?」

 それじゃなんの為に駅を待ち合わせにしたのかわからないが……まぁ良いか。

「そういえば、ちょっと拗ねてたわね」

「拗ね……?」

「ああ。彼もね、名刺を渡したのに、電話がかかってこなかったって」

 弁護士にだけ電話をかけたのが、お気に召さなかったらしい。

 いやそんなこと言われても。

「でも、それを言うなら、私たちだって拗ねてるわ」

「僕たちは連絡先を交換しないように言われてるから、仕方ないだろう」

「それも変な話だと思わない?」

 あ、やっぱり詐欺だから?

 でも普通、こう言うのってトバシの携帯使うんじゃないのかな?

「まだ養子縁組もしてないよ。この子は成人しているけど、虐待を受けていたんだ。連絡先の交換には、慎重になっても仕方ないだろう。彼らは職業上、連絡する必要があるけれど、僕たちはそうじゃないんだ。だいたい、君は連絡先を知ったとして、連絡するのを我慢できるのかい?」

「……そうね」

 口を挟めない雰囲気になってしまった。

 手の込んだ詐欺だなぁ。

「無理してほしいなんて思ってないわ。私たちが信頼できるって判断したら、連絡先、教えてね」

「……はい」


 田舎住まいは土地が安いから、別に庭付き一戸建てなんて、どこにでもありふれてる。だから驚かない。

 けど、明らかデザイナーズ住宅だ、これ。

「さぁ入って!」

「あ、はい。お邪魔します」

「こっちよ!」

「先にお茶を」

「良いじゃない、すぐ済むもの!」

 小走りに駆けていく女の人に手を引かれて、すげぇ広さのリビングか何かを突っ切る。

 凝った作りの階段を駆け上がって、いくつ目かの扉を開く。

「どう!?」

 弾んだ声で振り向いた女の人越しに、部屋の中を見て、目を見張る。

 ナチュラルテイストの部屋に、円形の木製テーブルと柔らかそうなファブリックソファ、これまた角が丸い幅と奥行きの広い木製デスク、座り心地の良さそうなデスクチェア、可愛い形のベッドには花柄の明るいカバーがかかっている。

 それより何よりも目を引いたのは、通販限定のスライド式本棚が、壁際の下半分をぐるりと埋めている。

「……本人の好みもあるから、一緒に選んだほうが良いと言ったんだけど、聞いてくれなかったんだ」

「だって、この前たくさん聞いたもの。それに、もし気に入らなかったら買い換えれば良いじゃない」

「まぁ、そうだね」

 そうだね!?

「ということで、一通り、住めるように……あ、今日は泊まってもらえるように、部屋を整えてみたんだけど、どうかな?」

「気に入らないものと足りないものがあったら、お買い物に行きましょう!」

「いえ!! 十分です。……ありがとうございます」

「それじゃ、今日は本を買いに行きましょうよ! 本棚が空っぽなの」

「とりあえず、移動が長かったんだ。お茶にしないかい?」

「あら、そうだわ、そうだったわね」

 ぱちんと手を打ち鳴らした女の人は、くるりと回って「お茶にしましょう」と微笑んだ。

 理想の部屋がそこにあって、大掛かりな詐欺に悲しくなった。

 悲しいけど笑って、頷いた。

 そろそろ覚悟を決めなきゃ。

 善人ぶってる自分がいちいち出しゃばって邪魔をする。

 善人でいようとして、良かったことなんて何もなかったじゃないか。

 お姉ちゃんでしょ、女の子でしょ、我慢しなさい。

 世の中の長女が言われる定番のセリフを、暴力と一緒に言われていた。そうすれば愛してもらえると思って、一生懸命我慢した。

 結果、どうなったかって? 愛してもらったことなんて一度もなかった。殴られっぱなしだった。意味もなく。テーブルに飲みかけのジュースを一時おいた、それが気に入らないなんて理由で怒鳴られて蹴られた。友達の悪口を言われて腹が立って言い返したら、いきなり蹴り付けられた。全部親に金を巻き上げられて、任意整理しなきゃどうにもならないってなったときに、我が身かわいさで母親は逃げた。生贄にされた。

 善人でいようとして、散々守ってきてやったのに、末の子まで暴力を振るうようになった。誰も止めなかった。

 だから、もう善人でいるのはやめる。

 仮にこの人たちが本当の親だったとしても。

 ほとほと愛想が尽きたって言われるまで、放蕩三昧して、そして死のう。

 今まで散々我慢してきた。良いことなんてなかった。

 最後がこの、大掛かりな詐欺だなんて、笑わせてくれる。

 ブラックユーモアたっぷりな人生だった。

 さぁ、一世一代の大博打だ。

 なりきってやる。



 そういや、「お茶にしましょう」つったな、「淹れましょう」じゃなくて。

 3人でついたテーブルに、茶器とお菓子を運んできてくれた人たちが、それぞれ目の前にきて一礼して挨拶して行った。

 慌てて立ち上がろうとすると「どうぞそのまま」と言われた。

 そうして淹れたての紅茶の香りにちょっと緊張を解されていると、やっと見覚えのある人が現れた。

「お久しぶりです」

 弁護士さんだ。

「あら」

 女の人が目を瞬いた。

「お約束してたわね」

 思い出した、みたいな顔で呟いた。この人、約束すっぽかして本買いに行こうとしてたのか。弁護士さん待ちぼうけじゃないか。良かった、男の人がお茶にしようって言ってくれて。

「お気持ちは決まりましたか?」

「あら、随分せっかちね?」

「手続きがありますから。証拠保全の意味でも、早いほうがよろしいかと」

 なんの話かわからないが、証拠保全という単語から、裁判の話だろうと察しはついた。

「……裁判はしたくありません。公の場に出るのはしんどいんです。……うつ病、寛解する前に、治療費が払えなくなって勝手に通院やめたんです。ストレスがかかると、記憶が曖昧になって、自分の記憶なのか、想像なのかもわからなくなる。そんなんじゃ、裁判は無理でしょう?」

「そこを支えるのが我々弁護士の役目です」

「……ありがとうございます。それでも、ただでさえ少ない産婦人科医を減らすような真似はできればしたくないんです。もしお二人が……訴えたいというのであれば、できる限り協力はします。でもそうでないなら、戦いたいとは思いません」

「ですが、あなたはかなりの不利益を被っていますよね? 失礼ですが、お金にも困ってらっしゃる。十分勝ち目のある戦いです」

 負けるか。

「そうですね。でも、一個人の経済状態を救うより、産婦人科医の名誉を守ったほうが、社会的に有意義だと思いませんか」

 こんな調子で、手数料を騙し取られてなるものかと、理論武装しまくった結果、なぜか二人に大層感心されてしまった。

「良いじゃないか。この子のお金の問題なら」

「そうよ。私たちが引き受けるわ。そうよね、あなた?」

「もちろん。僕が解決するよ」

「え」

「ここに住めば、生活費はかからないもの。お家賃も」

「何も困ることはないだろう」

「奨学金の借り入れなどは債務整理しなかったのでは?」

 どうやってそこまで調べた? と思ったが、考えてみれば当然か。あえて債務整理を選んで自己破産しなかったのは、整理したくない債務があったと察しがつく。

 親の持ち家に住んでいて、親の所有物しかない学生の身なら、自己破産の方がメリットは多い。

 連帯保証人が必要だったものは、整理しなかった。親ならともかく、親戚が保証人になっていたから。親戚に迷惑かけるわけにはいかないだろう。

「あら、それって親が払うものでしょう?」

「借主は学生本人です」

「……例え名義がそうでも、親が払うものでしょう?」

 眉を顰めた女の人に、弁護士さんが首を振った。

「奨学金破産というニュースもありましたよ」

「それは僕も見かけたことがあるよ。返済義務のない奨学金もあるが、それはあまり知られていないんだ。制約も多い。何より、学校側が案内する機構のほうが、安全だろうと判断されるんだろうね」

「お嬢様は優秀な学生だったようですね。お嬢様が退学されて数年後、大学独自の奨学金がスタートしました。遅きに失するとはこのことですが。真面目な学生を失った教授陣も、思うところがあったのでしょう」

「私が払うわ」

 女の人が急に、決意に満ちた顔で言い出した。

「どうして、この子がそんなに苦労しなきゃならないの? おかしいわ。大学だってそうよ。学ぶ意欲のある学生には、そして資質のある生徒ならなおのこと、門戸を開くべきよ」

「……何事も、失って気づくということがあるからねぇ」

「奨学金は私が払うわ。一千万円くらい? 足りない? 振込でいいの?」

「そんなにかからないですよ! 250万円くらいです。中退だから」

「あら?」

「お嬢様は地元国立大学ストレート合格ですよ。それも、県内ではもっとも倍率の高いコースです」

「ねぇあなた」

「なんだい?」

「どうしようかしら?」

「何を?」

「なんだか私、ものすごく腹が立ってきたわ」

「奇遇だね。僕もだよ」

「決めたわ。絶対この子を幸せにするわ」

「元よりそのつもりだったけど」

「まずはすっきりさせましょう。振り込んでくるわ」

「振込先は?」

「え? あ、……問い合わせれば、多分」

「お嬢様の口座に入金しておけばよろしいのでは? おそらく、自動引き落としだと思いますよ」

「繰り上げ返済の方がすっきりするじゃない。それに、経営方針には大いに疑問があるけれど、利用している学生さんは多いんでしょう? 回収には協力した方がいいわ」

「そうだね。それにあそこの奨学金は、利子が付くんじゃなかったかな?」

「お嬢様の成績とお話を伺っている限り、おそらく無利子の第1種だと思いますが」

「第1種だけじゃな足りなくて、第2種と両方借りてます」

 手を挙げて正直に申告した。国立大学は奨学金の金額も低くて足りなかったんだよね。

「振込先調べて。今すぐ」

「はいっ」

 なんだか逆らえない雰囲気に、慌ててログインして繰り上げ返還の項目を調べる。

 同じ頃、弁護士さんが電話しながら出て行った。

 あれ、これもしかして詐欺?

 だったら念のために。


「申し込みはネットで出来ます。ただ、登録してある口座に入金後、申し込んで、返済日に繰り上げ返還、ええと残金を一括で引き落としされるっていう形式みたいです」

「わかったわ。あなたの口座に入金すれば良いのね?」

「はい」

「今、番号わかる?」

「すみません」

「あら、どうしましょう」

「帰ってから口座番号を連絡してもらえば良いんじゃないかな?」

「そうね。それとも現金で持っていく?」

「……重いと思うよ?」

「残念だわ。番号さえわかれば、ネット振込できるのよね?」

「そうだね。支店名と口座番号が必要かな」

「ここでできるんですか?」

「ネット振込に対応している口座があるからね」

「今はスマホでもできるのよね」

 そこで、規則正しいノックの音がした。

「失礼します」

「はーい」

「ご歓談中失礼します。初めまして」

 人の顔覚えるの苦手なんですけどねって何人目だよオイ。

 自己紹介によると、この家の金銭面の管理をしている人らしい。

 そんな人までいるのか。

 もらった名刺に、見覚えのある単語を見つけて首を捻った。

 ……? ああ。

 ハイヤーと同じ、グループ、系列会社なのかな?

「奥様がお嬢様に贈与のご予定があるとお伺いしまして」

「250万円くらいなの」

「贈与税がかかりますね」

「あら……そのくらいでもかかるの?」

「200万円からかかります。250万円ですと、300万円以下、15%の税率に控除額が10万円です」

「なら300万円で良いわ」

「そうですね。300万円贈与された場合、税引後の金額が2,815,000円です」

「それで良いわ。手続きお願いね」

「かしこまりました。ところで、養子縁組はどうされますか? お嬢様は二十歳を超えておられますので、一般贈与税と特例贈与税で税率が変わってきますが」

「そうだったわ!」

「その話がまだだったね」

「……養子縁組は、なしでお願いします」

 息を呑む声が聞こえて、慌てて手を振った。

「違うんです! 一緒に住むのは、まだ考え中ですけど、多分、嬉しいんです。会えてすごく嬉しいです。お二人はいい方です。でも」

「わかったわ。時間が必要なのね?」

 いや違うけど。

「そういうことなら、急かすのは良くないね」

「今はいいわ。養子縁組なしで、計算してちょうだい」

「使用用途をお伺いしても?」

「奨学金の返済」

「かしこまりました。お嬢様。贈与税は、受け取る方、つまりお嬢様が申告し納税することになります。翌年、お嬢様の申告のお手伝いをさせていただきます。よろしくお願いします」

 あ、そうなんだ。

「こちらこそお願いします」

「では、口座番号を」

「それなんだけど、今はわからないらしいの」

「左様でございますか。キャッシュカードはお持ちではありませんか? もしお持ちでしたら、この場で私が手続きいたします」

「え」

「通帳などを初対面の人間に預けるのは不安でしょうから」

「ここですぐしてくれるんですか?」

「はい」

「もしかしたら、キャッシュカード財布に入ってるかもしれないです」

「読み上げていただければすぐに操作いたします」

 ジャケットからタブレットを取り出したのを見て、慌ててバッグを漁った。

 タブレットをテーブルに置いてくれて、こちらからも画面が見えるようにしてくれる。

「構いませんか?」

 ん? と思ったが、女の人が「もちろんよ」と頷いた。

「では、お嬢様。こちらの画面をご確認ください」

 あ、なるほど、見せても良いかっていう確認か。

「奥様の銀行のネット画面です。検索していただいても構いません」

 ……専門家って、こういうことか。昨今はやりの、フィッシング詐欺とか、ネットを使った詐欺にも精通してるんだ?

 それならと、一応、確認させてもらう。

 スマホを開いて、タブレットに表示されている銀行名を打ち込む。

 公式アプリの案内をタップすると、タブレットをダブルタップしてくれて、今開いているアプリの名称とアイコンを見せてくれた。スマホに出てきた公式アプリと一致するか確認する。

「よろしいですか?」

「はい」

「では、しばらくお待ちください」

「あ、はい」

 慌てて横を向いて目を閉じた。

 くすりと、笑い声が聞こえた。

「どうぞ、済みました。ご確認ください」

 言われて振り向くと、振込画面が開いている。スマホに目をやり、アプリの説明画面をスライドさせると、運良く振込画面が表示された。見比べても、目立って変わってる所はなさそうだ。まぁ、ここに振込画面が載ってるってことは、フィッシングサイトも作りやすいってことだけど。

 でもまぁ、暗証番号さえ言わなきゃ大丈夫だろ。

「銀行名、支店名、口座番号をお願いします」

 言われて読み上げる。

 実はほとんど暗記してるから、タブレットから目を離さないようにして。

 復唱しながら打ち込んでくれて、確認画面が表示される。

「ご確認ください」

 金額と、銀行名、支店名、口座番号、口座人名に間違いないことを確認する。

「はい」

 実行ボタンをタップすると、ワンタイムパスワードの画面になった。

 ポケットからキーを取り出したのを見て、さっきからドラえもんみたいだなぁとちょっと思った。

 それにしても、こんなにおまかせでこの家大丈夫なんだろうか。この人がその気なら、簡単に横領できそうだけど……?

 振込完了画面が出る。

 振込先を登録するかどうするかの選択肢が出ている。

「いかがされますか?」

「何かと便利だし、登録しておいて」

 こほん、と咳払いが一つ。

「お嬢様、登録しても構いませんか? ご不安なようでしたら、このままログアウトします」

「あら、ごめんなさい、私じゃないのね」

 恥ずかしそうに女の人が笑った。

「いえ。育ちは違えど、やはりお二人のお嬢様は素晴らしい素養をお持ちですね」

「そうでしょ!? そうなのよ。とっても優秀なの!」

「いえ! ……疑り深いだけです。性格が悪くて」

 しん、と沈黙が落ちる。

「え」

 なんか言ったか? あ、詐欺師相手にまずかった?

「……社会のために自分の利益を放棄する人間が、性格悪いわけないだろう?」

 男の人が、ゆっくりそう言った。

 いやそれは、手数料騙し取られてなるものかと思って感情面に訴えただけだ。

 うまく返せなくて、黙っていると、女の人が私の手をそっと握った。

 ちょっと驚いて、そちらを見ると、女の人が目に涙を溜めていた。

 は?!

「……あなたが、」

 女の人の声はちょっと震えていた。

「ひどい環境にいたこと、……話してもらってから、少し調べたわ。……言葉の暴力も、あったのね? でも、あなたはとっても良い子よ。会ってまもない私たちだってわかるもの。だからお願い、そんな悲しい言葉を使わないで」

「ひどい言葉をたくさん言われてきたんだろう。でも、君はそんな言葉で貶められて良い人間ではない。そんなことを、自分で言ってはいけないよ。ひどい言葉は、受け止めちゃいけない。受け入れるなんて以ての外だよ」

 えーと……

 困って、恥ずかしくなった。何の気なしに言ったことだった。

「僭越ながら——虐待に遭われた方は、その過去を知られることを恥ずかしく思われる場合があると聞いております。ご両親であるお二人に話された経緯は存じませんが、第三者のいる場所でその件に触れるのは、お嬢様のお気持ちに沿わないかと」

 二人は、ほぼ同時に肩を震わせた。

「……ごめんなさい」

「すまなかった」

 謝辞が被る。夫婦は似るっていうもんな。

「二度と軽々しく口にしたりはしないわ。決して。だけど、ごめんなさい」

「言い訳にしかならないが、……この家のことは彼にほとんど任せてるんだ。だから、他人だと思っていなくて、……それに、被害者が恥ずかしく思うなんて……もちろん、君が嫌なら、決して口外しないと誓うよ。彼も、口は堅いし、守秘義務があるから、決して口外しない」

「……いえ、その……ありがとう、ございます」

「——お嬢様は、とてもお優しい方ですね」

「そんな」

「そうなのよ。本当に。とっても優しいの。だから、この子が二度と傷つかないようにしたいの」

「それでは、仮にお嬢様が養子縁組をなさらないと決意されたとしても、お二人に仕えるのと同じように、お嬢様にお仕えします」

「ああ、頼んだよ」



 女の人のバイタリティはすごかった。

 本当に本屋まで連れて行ってくれた。

 こっちは大きな本屋さんが今でもある。ブックカフェが併設されていて、買いたい本が決まったら持ってきてと言われて、気もそぞろで目を走らせた。

 本当に買って良いんだろうか。

 昔大好きだったライトノベル、ファンタジー小説、児童書、文芸書、それにコミック。

 シリーズの途中で追えなくなっていたものに関しては、流石に古くて、置いてない本もたくさんあった。

 それでも、昔好きだった作家の名前を見つけては、ドキドキして歓声を上げそうになるのを抑えた。

「雑誌は良いのかい?」

 どれくらい経ったろう。後ろから声をかけられて、「ひょえ!?」とか変な声が出てしまった。

「ファッション雑誌は買わないのかな?」

「あ……えと、あんまり、その……興味がなくて」

「そうなんだ。趣味が違うんだね」

「……すみません」

「何も謝る必要はないよ。カゴ、貸してごらん」

「え」

「本は重いからね。手が痛むだろう」

「大丈夫です。このくらいは、慣れてるんで」

「そ——……いかん。約束したばかりだった。いや、何。僕もこのくらいで音を上げるほど、年寄りじゃないよ」

 からりと笑われて、そのままお願いすることにした。

 他にもいくつか、気になる本はあったけれど、申し訳ないからレジに向かうことにした。

 本屋にいると時間なんかあっという間だ。3時間くらい平気で潰せる。

 1限だけのために7時に家を出てバスと電車に揺られて通学したのに、教室に着いたら「休講」とデカデカ黒板に書かれているのを見た田舎の中でも田舎に住んでいる学生の気持ちを想像してもらいたい。そんな時はそのまま百貨店まで行って本屋にいたものだ。

 でも、何時間も二人を付き合わせるわけにはいかない。

 手提げの紙袋にぎっしり2つ分、収まった本を見て、嬉しいような苦しいような気持ちになった。

 ああ、ダメだダメだ。被害者のふりして大金巻き上げてからトンズラしてやるって決めたんじゃないか。

 こんなことで罪悪感抱いてどうする。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。それじゃあカフェに行こうか。寄らずに買ってしまったから、怒っているかもしれない」

「え」

 そういや、ブックカフェで待ってるから、買う本決まったら持ってきて、って言われたんだった。

 ニコニコ顔でマグカップに口をつけていた女の人が、こちらに気づいて顔を輝かせ、それから眉を吊り上げた。

 ……わぁ、怒ってらっしゃる。

「待たせたね」

 気にせず声をかけた。すごい。

「なんで、もう買ってるの?」

「様子を見に行ったら、ちょうど選び終わったようだったからね。持てない量でもないから。ああそうだ、喉が渇いたね。悪いが、これで買ってきてくれないか? 君の分も」

「あ、はい」

 渡されたお札を受け取ると、近づかれてぎょっとした。

「甘いものが良いな。サイズは大きめで。戻ってくるまでに、妻の機嫌を直しておくから。なるべく時間がかかりそうなものを頼んでもらえるかな?」

 なるほど。

「……はい」

 ヒソヒソと伝えられた内容に頷いて、ぺこりと一礼してカウンターに向かった。

「なんで買っちゃうの?」

「そうは言うがね、君はもう奨学金を払ったろう? ここは僕に払わせてくれたって良いじゃないか」

「この前はあなたが払ったじゃない」

「それを言うなら、君はお年玉を用意していたよね?」

「あなたも結局渡したじゃない」

「それはそうだが。抜け駆けは良くない」

「あら、じゃあ今のあなたも良くないわよね? 抜け駆けよ?」

「……あの子は本当に本が好きなようだから、また買いに出かければ良いよ。その時は君が払ったら良いんじゃないかな?」

「……それもそうね」

「そうだよ。まだチャンスはあるんだ。これからずっとね」


「お待たせしました。これで大丈夫ですか?」

 差し出したのはかなり甘めの期間限定の飲み物だ。

「ありがとう。いただくよ」

「あの、よかったら……」

「まぁ、私にも持ってきてくれたの? ありがとう」

「えっと、余計だったらすみません」

「そんなことないわ。嬉しい。ありがとう」

「口に合わなかったら、すみません」

 女の人は笑って、一口飲んで、「美味しいわ」と答えてくれた。

 ホッとした。

「あの、お釣り」

 テーブルの上にトレーを置いて座ってから、ポケットを漁って小銭とお札を取り出す。

「取っておいて」

「え?」

「持ってきてくれたお礼に」

 すげぇ時給だな。

 千円近くする飲み物を3つ。実際は一つは自分で払ったから、2つだけど。渡そうとしたお釣りは八千円強だ。

「受け取っておきなさいな。気に入られたくて必死なのよ」

「それは君も同じだろう」

 なるほど、祖父母のような心持ちなのだろう。

 ちくりと胸を刺す罪悪感を押し込めて、にっこり笑って見せた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 途中でATMに立ち寄った。キャッシュカードで残高照会すると、確かに300万円振り込まれていた。

 あのネット画面は、フィッシングサイトじゃなかったようだ。

 まぁこの場合は、フィッシングサイトっていうのか怪しいけど。

「ちゃんと入ってた?」

「はい。ありがとうございます」

「あとは手続きだけね。帰ったらすぐしましょう」

 まるで今まで頑張ったわね、と言うかのように背中を撫でられて、涙腺が緩みそうになるのを慌てて堪えた。

 親にされたことのない、いたわりのこもった仕草。

 良い人たちに見えるのに、最初から裏切られているのが辛かった。

 だけどどうせ、家族の愛情とは縁遠い人生だったから、それはもう良いんだ。


 二人の家に帰ると、早速本棚に本を収めた。

 昔だったら本棚は、読み終わった本をしまう場所だった。

 買ってきた本は帰ってすぐに読んでしまうから。

 だけど流石に、こう何十冊とあると、すぐには読めない。まるで新居みたいな顔した部屋に、紙袋を置きっぱなしって言うのも申し訳ない。

 ベッドに近い位置の本棚に、下の奥の方へ重い本を入れて、手前にすぐ読む本を並べた。

 紙袋はどうしようかと、畳んで持って、お茶をしたところへ戻る。

 話し声が聞こえてきて、思わず立ち止まった。

 慌てて、ボイスレコーダーのアプリを立ち上げる。

「喜んでくれたかしら」

「この前、服を選んでいる時よりも楽しそうだったよ」

「本当に本が好きなのね。でも勿体無いわ。おしゃれに興味がないなんて。あんなに可愛いのに」

「そこは君の腕の見せ所だと思おうよ」

「そうね! そうだわ。もしかしたら、本当に好きなブランドに出会えてないだけかもしれないもの!」

「でも、しばらくは、あの子自身が望むものをプレゼントしようよ。あんなに嬉しそうな顔をするんだ。プレゼントのしがいがあると言うものだ」

「ねぇ、こんなこと言ったらあれだけど」

 思わず身を乗り出すと。

「同い年だと思えなくない?」

「同感だ」

「見た目もよね? お肌もツヤツヤしてるし。それに、あの瞳! 子供みたい、いいえ、いっそ幼いと言っても良いわ。魂というものがあるとしたら、きっとすごく綺麗な色をしてると思うわ」

「そうだね。苦労してるのに、いや苦労してるからかな? 不思議なくらいまっすぐだ」

「そうなのよ。女には多少なりとも、毒があるはずだけど、あの子にはそれがないの。本当に、不思議だわ。奇跡と言っても良いくらいよ」

「お二人は、本当にお嬢様がお気に召したようですね」

「あら、あなたは違うのかしら?」

「喜んでお仕えします。ですが、難しいかもしれませんね」

「あら、何が?」

「一人暮らしとはいえ、恋人がいないとは限らないのでは?」

「……そうね」

「恋人がいるのであれば、ここに住むのは難しいかもしれません」

「なぜ? だって、一人暮らしなんでしょう? 離れたくないなら、もう結婚していてもおかしくない年齢じゃない?」

「それは、事情というものがあるだろう。最近では、あえて結婚というものを選ばないカップルもいると聞いたよ」

「あえて結婚しないなら、離れてたって良いじゃない」

「それはまた、話が違うんじゃないかな?」

「ずいぶん勝手な言い分に聞こえるわよ?」

「あの子からしたら、こちらの言い分が勝手かもしれない」

 雲行きが怪しくなってきたところで、そしてばからしくもなったので、録音を切った。容量の無駄遣いだ。

 ノックをすると、「はーい」と女の人の声が応じた。

「失礼します」

「あら、ちょうど良かったわ。あなたの恋人って、どんな甲斐性なしなの?」

「……やめなさい。いきなり失礼だろう」

「だって、よくないおつきあいをしているなら、早くやめさせたほうが、結果的にこの子のためじゃない?」

「傷は浅いに越したことはないが、言い方というものがあるだろう。すまないね。これでも、悪気はないんだ」

「いえ。というか、……恋人はいないので、お気遣いなく」

「それなら!」

 喜色満面の女の人を、昼に紹介された「他人と思えない」人が遮った。

「ですが、恋人がいなかったとしても、お嬢様にはお嬢様の人間関係があります」

「別荘を建てるというのはどうだろう?」

「あら、良いわね。セカンドハウスね?」

「それなら、この子の望みを取り入れた家を一から建てるのも面白そうだ」

「そうね。とってもセンスが良いもの」

「いえ! あの、あの部屋で十分。本当に、ありがとうございます」

「僭越ながら。急かさないほうがよろしいのでは? とりあえず一泊というお約束だったはずです。急に話を進められては、お嬢様も戸惑われます」

 女の人が、瞬いた。

 そして男の人と顔を見合わせる。

 そしてゆっくり笑った。

「そうだったわね。ごめんなさい。あら、そうよ! お部屋に着替えを用意しておいたの。よかったら、着て見せて。ゆっくりできるものもあるから」

 言われて、はたと気づくと、二人とも、別の服を着ている。

 あ、なるほど。部屋着に着替えるのか。

 気づいて、恥ずかしくなった。

 そういえば、クローゼットもあったような気がする。正直、本棚に気を取られて、他のものに気付かなかった。

「すみません、着替えてきます!」

 慌てて駆け戻る。

 部屋をぐるりと見回すと、ドア以外に、一箇所だけ、本棚がない壁があった。

 めっちゃ扉があるじゃないかここに。

 なんで気付かないのか。

 観音開きっぽい扉を開け放つと、確かにそこは、クローゼットになっていた。

 パイプハンガーと、引き出しがついてる。

 ちょっとしたホテルのクローゼットみたいだ。

 パイプハンガーには、いくつか服がかかっていた。

 きちんとした印象の服と、リラクシングウェア。

 引き出しを開けてみると、そこには——あろうことか、下着が用意されていた。

 もちろん、新品だろう。

 それと、パジャマ。シルクのパジャマ?

 タグをひっくり返すと、あ、絹100%って書いてある。

 ハッハァ、さすが金持ち。

 ……いや、まぁ、素直に。すごいなぁ。

 でも、あの二人が着ていたのは、どう見てもパジャマじゃなかった。

 引き出しを閉めてもう一度パイプハンガーに並んでいる服を見る。

 ニット素材のワンピース。

 同じく、チュニックに、あとはスパッツ? レギンス?

 これ、……かなぁ?

 だいぶ自信がないんだが。

 風呂に入る前に新品の服を着るのもどうかと思うが、人様の家で贅沢も言えないか。

 慣れない服に袖を通す。

 意外と、着心地は悪くなかった。

 家から着てきた肌着の上からだけど。

 扉の横には全身が映る鏡まで据え付けられていた。

 まぁ、……こんなもんだろ。

 自分でもよくわからないことを内心呟き、はたと気づいて、スマホで繰上げ返済の手続きをする。

 これで、いきなり口座から金が消えてたら、いよいよ首でも括るしかなくなる。

 でも、もう良いって決めたんだ。

 だって、どの道、もうどうしようもない。

 引き延ばしてもらっていた猶予も、今年が最後。

 だったら、最後に贅沢してみよう。冥土の土産ってやつさ。

 あの世でじいちゃんも待ってる。

 じいちゃんだけは、勉強できるの喜んでくれてた。

 いろんな才能があるって褒めてくれてた。

 じいちゃんごめん。結局何にもなれなかった。

 でも、最後に面白い話ができそうだから、追いついたら話すね。


「あら、ぴったりね! 着心地はどう?」

「かわいいね。さすが、君の見立てだ」

「でしょう? ね、どう?」

「あ、はい。着心地も良いです。ありがとうございます。あの、お金」

「お金?」

「おいくらですか。あんまり高いと払えないんですけど」

 二人は目を見張って、顔を見合わせて、それから笑った。

「お金は要らないよ」

「養子縁組はまだしてないけど、あなたが私たちの子供であることに変わりはないわ。子供のために着るものを用意するのは親の義務でしょう?」

「もらってやってくれないか? 君に着てもらうのを楽しみにして、妻が一生懸命選んだんだよ」

「そうよ。気に入らなかったら仕方ないけど、おばさん拗ねちゃうわ」

「いえ! あの、とっても、……どれも、素敵な服で、気に入りました。ありがとうございます」

 至れり尽くせりってやつだな。

 どこまでも大掛かりな詐欺だ。

 いつ掌を返されるのかわからないけど、それまでは大人しく騙されておこう。

 それに、なんでお金とか言っちゃったんだ。引き出せるだけ引き出してやるって決めたんじゃないか。全く。

「あ、あの、紙袋。本、ありがとうございました。紙袋、ええと、どこに分別すれば?」

「ぶんべつ?」

「……あの、捨てない、んですか?」

「紙袋、捨てる、けど?」

 ん? なんか意思の疎通が出来てない気がする。

「あの、すみません。ここの地区って、ゴミの分類はどうなってます?」

「えーと?」

 そこでノックの音がした。

「あら、ちょうどよかったわ。ゴミの分類ってどうなってるの?」

「もちろん、地区の指定通りに行っております」

「紙袋」

「はい?」

 こちらを指差した女の人に、合点が入ったとばかりに大きく頷いた。

「これはわざわざ、ありがとうございます。次回からは、部屋に備え付けのゴミ箱に入れていただければ。こちらで回収、分類いたします」

 またやっちゃったよ!!

 恥ずかしい。

 顔から火が出そう。

「……すみません。なんかかえってすみません」

「いいえ。お預かりします。お嬢様は生活力がおありですね。そのお召し物もよくお似合いです」

 さらっと褒められて、恥ずかしさが2乗になった。




「それじゃ、夕食にしましょう!」

 女の人が手を叩くと、ノックの音がして、部屋のドアが開いた。

 初めましてって言われないから、多分、お茶を淹れてくれた人たちだろう。

「お腹、どのくらい空いてる?」

「え?」

「ぺこぺこ? それとも、まだそんなに空いてない? たくさん食べれそう? それとも控えめが良い?」

「えっと……」

「無理しないでね。でも、食べれたらたくさん食べて」

「はい」

「妻が手作りした料理もあるんだよ」

「そう、なんですか」

 逆に手作りしてない料理はどれだよ。出来合いのもんなんかなさそうだけど。

 家政婦さんもいるってことか?

「ちなみにビーフシチューは私たちの合作よ」

「あ、ビーフシチュー、好きです」

「まぁ、嬉しいわ! 作った甲斐があるわね」

「ああ。圧力鍋じゃなくて、普通の鍋で煮込んで作ったんだ。そうでもしてないと落ち着かなくてね」

「そうよ。この人も私も、ずっとソワソワしてたの。早く会いたくて。だから、待ち時間をどうやって減らそうかって考えて、時間のかかる料理をあえて作ろうって思ったの」

「意外と楽しかったよね」

「ええ。たまには一緒にご飯を作るのも良いわね」

「そうだね。また煮込み料理にしようか」

 仲良いんだなぁ。

 うちなんか絶対喧嘩するわ……八つ当たりがこっちにくる。ああ、本当に、仲の良い夫婦も、この世には存在してるんだよな……。

 手伝わなくてもセットされたカトラリー。

 ……フランス料理の店に行った時みたいなセッティング?

「あの、すみません。先にビーフシチュー食べても良いですか」

「あら、もちろん、良いけど」

 多分順番としては、前菜とかサラダが出てきて、スープとパンが出て、もしかしたら魚料理が出て、ビーフシチューになるんだろう。

「食べられなくなったら嫌だから、先に食べたいです」

 二人とも、また顔を見合わせて、嬉しそうに笑って頷いた。


 ちょっと前にサラダチキンをレンジで温めて食っていたってのに、信じられない豪華さだ。

 ビーフシチュー美味しかった。

 たくさん食べて、お腹が膨れた。

 食後にはデザートと、お茶も出てきた。紅茶だ。

 焼き菓子は日を置いた方が味が馴染んで美味しくなるものが多いけど、出来立てだってやっぱり美味しい。それがエッグタルトとなるとなおさらだ。

 美味しさに笑み崩れていると、二人もその美味しさに声をあげた。

 こんなに穏やかな食事は、あんまり経験がない。

 家での食事はいかに早く詰め込むかが要だったし、一人暮らしを始めてからは、何かをしながら食べることが多くて、味わって食べたりすることはなかったから。

 この前に二人と食べた時ぶり。

 元々食べるのが遅くて、それのせいで学校の給食でも怒られることがあったし。あんまり良い記憶がないんだよなぁ。

 感慨深くて、少し視界がぼやけた。

 詐欺以外に、夢オチって可能性もあるか。

 じゃあ夢なら、思いっきりワガママな真似すれば良い。

 どうせ、夢なんだから。

 決意も新たに最後の一口を口に運んだスプーンを皿に戻した。

 すでに食べ終えて紅茶を口に運んでいた二人が、それを見届けて嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 あ、やべ。もしかして毒入りだった? 睡眠薬?

 いや、睡眠薬はないか。若くて綺麗な女の子を狙うだろう。

 こちとら三十路を遥か前に通り過ぎてるからなぁ。


 食事を終えると、もう結構な時間だった。

 明日も早いからと、お風呂に案内された。

 一泊の予定で、ここまでは結構遠い。

 帰りも同じ時間かかるとなれば、仕方ない話だ。

 風呂場の手前に洗面所があって、ホテルみたいなダブルベイシン。

 カードに気づいて目を走らせると、「ご自由にどうぞ」と書いてあって、上にはホテルみたいにパックされた歯ブラシと歯磨き粉があった。

 ……まぁ、金持ちのやることってすごいな。

 そういや歯ブラシなんか持ってきてねーや。

 ありがたく使わせてもらうことにした。

 本当にホテルみたいにグラスまで置いてある。3つ。

 使って良いってことだろう。

 洒落た形の鏡に映った顔は、半笑いだった。


「お風呂ありがとうございました」

「お湯加減どうだった?」

「ちょうど良かったです。ありがとうございます」

 答えながら、脱衣所に温度差がなかったことに驚いた。

 アパートは脱衣所が寒くて、ついお風呂に入るのが億劫になる。ガス代も水道代も電気代もかかるからなおさらだ。

「良かったら飲まない?」

 差し出されたのは、輪切りのレモンが浮かんでるコップ。

 水かな?

「炭酸は飲めないんです」

「あら、お酒も?」

「はい。すみません」

「何も悪くはないわ。私もあまり好きじゃないの。あの人は付き合いで飲むことが多いから、嫌になっちゃうみたいね。家では飲まないわ。だからこの家には料理用のお酒しかないの」

「そう、なんですね。……なんだか、本当に、似ていて驚きます」

「そうね。不思議ね。同じ暮らしをしていても、全然似ていない家族もいるのに、あなたは確かに私たちに似ているわ。それが嬉しいの。変?」

「いえ! ……嬉しかったです」

「ね、お願いがあるの」

「はい」

 ……ああ、もう終わりか。お金を要求されるのかな。ないんだけど。ブラックリストに入ってるだろうし、貸してくれるところはそれこそ闇金くらいなんだけど。

 いつも月末近くに襲ってくる、背中を這い上がる嫌な感覚。

 それに耐えて下を向く。

「まずは、座って。それ、炭酸水だったから、軟水を持ってくるわ」

「え、いえ、大丈夫です」

「遠慮しないで。待ってて」

「……はい」

 男の人はどこに行ったんだろう。

 この家は、TVもあるけど、この家の人は、TVを付けっ放しにはしないらしい。

 部屋の中をぐるりと見回す。大きな家だ。部屋も広い。

 今住んでいるだだっ広いアパートは、広さを持て余してるみたいに、物で埋まってる。だけど、この家は広いけど、人の出入りがたくさんある。今一人しかいないこの部屋も、昼間の人の出入りを覚えてるみたいに、どこか温かだ。

 シャンデリアじゃないけど、柔らかい光は、眠りを誘うのにちょうどいい色合いだ。

「そうなの。あの子もお酒は好きじゃないんですって」

「本当かい? それは嬉しいな」

「あなた、無理して付き合う気満々だったものね」

「そこは僕しか稼げないポイントだからね」

「でも良かったわ。体に毒だもの」

「ああ。助かった。しかし、そうなると……ますます、ポイント稼ぎが難しいな」

「そうなのよ。でも、なんとかして稼ぎましょう」

「あの子が帰ったら、早速作戦会議だ」

「ええ。その前に、お願いをしなきゃ」

「そうだったね」

 ……人より耳が良いんだよなぁ。それで散々、嫌な目にあってきたけど。

 こっそり、ポケットの中のスマホのボイスレコーダーを立ち上げた。

 ノックされたので待っていると、入ってこない。

 あれ? ああそうか!

「はい!」

 慌てて返事をする。

 ノックしないで当然のように無断で入ってくる家族ばかりだったせいで、返事をすることに思い至らなかった。

 女の人がドアを開けて、男の人がお盆を持っている。

「はい、どうぞ。これは軟水」

 女の人が、男の人が持ったお盆から、グラスを一つ取って渡してくれた。

「ありがとうございます」

 一口飲むと、確かに軟水だった。レモンのいい香りが口の中に広がる。

「それで、お願いなんだけど」

「はい」

 グラスを置いて、居住まいを正す。

 頭を使うにはその方がいい。昔からの習慣だ。でも、今は太刀打ちできるかな。

「敬語をやめてほしいの」

「——え?」

「……あのね、私たち……本当に、あなたに会えて嬉しいの。あなたを育てられなかったから、親だと思ってほしいって言っても、すぐには難しいかもしれない。でも、私たちも、あなたの親だってこと、認めてほしいの」

「つまり、……子供に敬語を使われると、距離を置かれるようで、寂しいんだ。すぐには無理かもしれないけど、徐々に慣れてくれると嬉しいな」

「それと、名前で呼んでも良い?」

「それはイヤ」

 とっさに出た言葉に、二人が同時に目を見開いた。

「あ、いえ、えっと。……働き始めてから、家族以外にはずっと敬語だったから、敬語をやめるのはちょっと時間がかかるかもしれません。でも、努力します。だけど、もしわがままを言っても良いなら、自分の名前が死ぬほど嫌いなんです。だから、どうせ呼ぶなら、新しい名前をつけてください」

 我ながら突飛なお願いだなぁとは思った。

 だけど、この人たちの口から、自分の嫌いな名前で呼ばれるのはイヤだった。

 あの名前はそもそも、父親が好きな漫画のヒロインの名前だ。そのヒロインはキャバ嬢だ。

 じいちゃんはその由来は知らなかった。知ったら激怒してやめさせたろう。知らなくても別の字を当てようとしていた。じいちゃんの選んだその漢字の方が良かった。名は体を表すそのものの漢字だったから。

 それに、あの名前を呼ぶ両親は、大抵、怒っているかバカにしているかのどちらかだ。音の響き自体が嫌いになった。職場では苗字で呼ばれるから、それにホッとしたくらいだ。

 背筋は伸ばしていたけど、下を見ていた。でも返答がないままだいぶすぎて、どうしようかと思って顔をあげた。

 普通は、こういう時、親がくれた大切な名前とかって正論を振るうんだろう。正論じゃ人は救われないときもある。まぁそれは諦めるしかないわけだけど。

 なのに、二人はなぜか、すごく嬉しそうにしていた。感激していたと言っても良い。

「なんてこと。信じられないわ」

「でも、きっとそうだよ」

「ああ、本当に? 嘘みたいよ」

「本当だよ。だってこの子がそういうんだから。きっと、そういうことだったんだよ」

 謎めいたやり取りに首を傾げた。

「あら、ごめんなさい。説明するわ」

「そうだね。混乱させてる」

「私たちも驚いてるから、うまく説明できるかどうか」

 初めての子供に、二人は当然、考えに考え抜いた名前をつけようと、妊娠がわかった時点で決めた。

 名付け辞典を買い込んだり、姓名判断をしたりと、そりゃあもう楽しみにしていたそうだ。

 でも最後に決めたのは、直感だった。

 名前の候補はいくつかあった。だけど、どうしても、子供をひとめ見てから決めたいと思った。

 そうして、生まれた子供を抱きあげて、直感で決めた名前があった。

 だけれど、退院して連れ帰った子供を見て、何か違うと思った。

 二人で話し合ったけれど、二人ともその名前がなぜか違うと思った。

 だからその子には違う名前をつけた。

 だから、その、最初に思いついた名前を贈りたい。

「呼んでも良いかな」

「……どんな名前ですか?」

「ゆき。……雪降る夜、の雪」

「あなたが生まれた日、雪が降っていたの。初デートの日も、雪が降ってたのよ。それにあなたは、本当に肌が白くて。雪の結晶って、とても綺麗でしょう? それに、形が千差万別で」

「雪月花っていうだろう? 冬の名物。代表する良いもの。僕たちにとって、君は何よりの宝物だから」

「……どうかしら。そう呼んでも良い?」

「はい」

 あの名前じゃなければなんでもよかった。だけど、想像以上の綺麗な名前だった。

「雪ちゃん」

「雪さん」

 大切に呼ばれて、くすぐったく思うところだろう。だけど、頷きながら言った「はい」はちゃんとした声にならなかった。

 隣に座り直してくれた女の人は、手を握って撫でてくれた。

 男に触られると嫌悪感がひどかったのに、男の人がまるで「ヨシヨシ」とでも言うかのように、ゆっくり頭を撫でてくれたのは、そんなに嫌じゃなかった。

 泣いているときに、慰めの言葉を書けられると、涙が止まらなくなる。だから、何も言わずに、でも案じてそばにいてくれる二人は、とても——とても、ありがたかった。



「父さん母さんって呼ぶのは、難しいかしら」

 翌朝、朝食の席でそう告げられて、カトラリーを置いた。

「できたらそう呼んでもらいたいんだけど」

「やっぱり、あなたにとってはそれは育ててくれたご両親のこと、かしら」

「だがね、そんな」

「ストップ。あなた、言いたいことは私もとってもあるけど、この子の前で言ってはダメよ」

「……そうだね」

 肩を落とした二人を見て、口を開いた。

「父さんも母さんも、嫌な感じしかしないので、——違います! あの、呼び名に嫌な思い出しかないので。呼びたくないです。だから、パパとママでも良いですか」

 二人が揃って瞬いた。

 無視されたことも多かったし、返答はだいたい不機嫌だ。言葉のイメージに嫌な思い出がこびりついている。この優しい人たちを、……まぁ詐欺師かもしれないわけだが、今の所非常に優しくしてくれているこの人たちを、そんな嫌なイメージのある言葉で呼びたくない。

「いい年してパパとママっていうのもアレですけど、一度も呼んだことないので」

「ないの?」

「一度も?」

「はい。ずっと小さい頃もそうは呼んでなかったんです」

 他の子より言葉の発達が早い子供だった。物心ついたときには「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。他の子供はパパママと呼ぶし、アニメやドラマや本でもそうだった。不思議に思って母に訊いた事がある。「ママって呼んだことあった?」と。母はないと言った。

 二人はまた少し悲しそうな顔をしたけれど、そう呼んでくれたら嬉しいわと、ぜひともと請け負ってくれた。



 また次の週に会うことを約束して、駅で別れた。

 時間に余裕があるから駅ビルでパンを一つ買った。かなりしっかりめの朝食を出されたから、まだお腹が空いてない。

 バスに揺られて帰りながら、帰ったらまずは洗濯か、と考えていたら、うっかり眠くなってしまった。

「お客さん、どこで降ります?」

 マイク越しの声にハッとして目を開けたら、もうバスには誰も乗っていなかったが、これもいつものことだ。

 かなり辺鄙なところに住んでるから。

 最寄りのバス停を教えると、「はい。じゃあ近くなったらボタン押してください」と言われて「はい」と答えた。

 乗り過ごしたら困ると思って、声をかけてくれたんだろう。

 いつもどこかへ泊まると、眠りが浅くて朝が辛い。

 家で暮らしてても熟睡なんかできないけど、外泊は外泊の緊張感があるんだろう。

 降りる時に、運転手さんに心配させたお詫びとお礼を告げると、笑顔で「ありがとうございました。お気をつけて」と言ってくれた。

 

 アパートに戻って、物に埋れた部屋の真ん中に突っ立った。

 この中で、あの二人の家に住むとしたら、持ってけるものって、あるのかな。

 服は二人が用意してくれた。この前買ってもらった服。これは持って行く。

 あと、持って行きたくはないが必要なのは、ヨレヨレの下着。穴の空いた下着。下着を買い換えるお金がなくて、ずっとそのまま。ああ、あの家の下着、ちょっと持ち帰って来ちゃえば良かった。そしたら、これ捨てられたのに。

 そうだ。本。本だけは、持ってかなくちゃ。

 大切な本。苦しい時に、現実逃避させてくれた。

 それと、ウォークマン。これも、怒鳴り声から自分を守る術だった。アパートには怒鳴り声はないけど、どうしようもなくイライラした時、大きな音で聞くと気が晴れた。

 あとは、あとは、なんだろう。

 交通事故にあった時の書類。アパートの保険関係の書類、契約書。

 いろんなものの取扱説明書。

 紙類はとりあえず後回しだ。

 いつか売ろうと思ってた物たち。

 あの家に越すんだったら、あの二人が本当に親になってくれるなら、だったら、これ、全部要らないよな。

 お金に不自由しないんだったら、これ全部、普通に燃えるゴミでよくね?

「……捨てるか」

 指定ゴミ袋を買いに外へ出て、そこで笑った。

 ずっとミニマリストになりたいと思ってた。でもできなかった。

 売りたいってずっと思ってて。

 損するのが嫌だった。

 だけど、もうどうでもいいや。最後の最後まで、やる気なんて戻ってこなかった。寛解したわけでもないのに、診療費が払えなくなって通院やめたうつ病は、結局最後まで付き纏った。

 だからもういい。

 今までずっと、慎重に頑張ってきた。

 それで、いいことなんてなかった。

 だったら最後くらい、バカになって生きてみよう。

 今までゴミ袋を買う金さえ惜しかったけど、もらったお年玉で買って、手にしたゴミ袋の袋を、ばかみたいに幸せな思いで持ち帰った。

 晴れやかな気分だった。

 多分、捨てた後で、手のひら返し食らって死ぬほど苦労するんだ。もうわかってるよ。この後の展開も。

 この人生、そんなんばっかだったから。

 だけどもういいんだ。

 勝手にしやがれ。

 こっちも勝手にするから。


 買ってきた袋が空っぽになって、最後の指定ごみ袋の口を縛った。

「……意外と物あったんだなぁ」

 ずっと昔の発表会で袖を通したきりのロングドレス。

 母のお気に入りだった。

 だけどもう、……いいや。

 気が向いた時だけ可愛がって、八つ当たりして怒鳴って叩いて。

 ほんのちょっと優しくされたことを思い出して愛されてるんだからって思い込もうとした。

 ……もう、やめようってなんども思ったのに、結局同じことを何回も繰り返して、期待して、その分ショックを受ける。がっかりして、失望して。それでも気に入られようと、親が好きなものばかり考えて。

 気づいたら、自分が何が好きなのかもわからなくなってた。

 自分にとって大切なものが何かもわからなくなってた。


 大きめの段ボール、母が泊まった時用にって買って、結局一度も使わなかったエアベッドが入っていたダンボールに、本棚に入ってた本を詰めた。

 詰め込めるだけ詰め込んで、上にマジックで大きく「本」と書いて丸で囲んだ。

 いたずら書きするなって怒られたせいで、字を書くのは嫌いだった。でも、なぜかスッキリした。

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