第2話

 待ち合わせの日。早めに着けるようにと思っていたのに、出がけで色々忘れ物をして時間がかかってしまった。

 いつもは財布を持ち歩く習慣がないから(どうせ中身が数円とかしか入ってない)財布をうっかり忘れたり、必要かわからないが保険証を持って行こうと思ってたのに忘れたり(病院は1回行ったら受診料で首が回らなくなるので行けないから保険証も持ってたって意味がない)、つくづくダメだな。

 履いた革靴を脱ぐのにめんどくささを感じて舌打ちして玄関と部屋を行き来する。まぁいつものスニーカーよりマシか。紐解いたり緩めたりしなきゃならないし。

 そんな有様だったから案の定、店の入り口に立ったときに電話がかかって来た。

 謝ってから今着いたと伝えると、窓際の席にいると教わった。


 ——うおーいマジかよ。席に3人座っとるがな。

 違うよなぁ、まさかあのテーブルの残り1つの椅子に座るわけ? 初対面の人間の真横に座れってか?

 でも他の窓際の席客いないんだよなぁ。平日の昼下がりなんて、この田舎じゃこんなもんだよなぁ。


 途方にくれてると、店員が声をかけてくれた。

 最近来てなかったとは言え、祖父が生きていた頃は頻繁に来ていた。その頃からの顔なじみの店員には「お好きな席へどうぞ」って言われたんだが、流石に立ち止まってたら不自然か。

「待ち合わせで」

「そちらの窓際のお席です」

「……はい」

 うあやっぱりあそこかい。

 ため息を吐きながら心を奮い立たせて両手を握る。

 よし、行くぞ。

 気合いを入れて顔を上げた瞬間。

「こちらです」

 下座に座っていた男性の、スーツ姿の方が立ち上がった。つられたように、夫婦と思しき男女がこちらを向く。

 相手が息を飲んだ。

 それにつられるように息を飲んだ。

 ちらほらと白いものの混じったこげ茶色の髪色。

 緩やかなウェーブがかかった柔らかそうな豊かな髪。

 アーモンド型の小さな目。

 小さな口。

 卵型で凹凸の緩やかな顔。

 ブルーベースの白い肌。

「あ……」

 誰のものかわからない驚きの声。


 家族の中で誰にも似ていないと言われた。誰似なのかと親戚によく不思議がられた。

 なのに、そんな容姿を形作っている要素が、目の前の、驚きというものを体現している二人には確かにあった。

 目を見張ったり、瞬いたり。

 多分きっと、自分もそんな感じだ。


 クスリと笑い声がして、そちらを向く。最初に立ち上がって手を挙げてくれた男の人が、笑った口元を手で隠していた。が、目が笑ってるから。隠してる意味はあるのだろうか。

「どうぞ、まずはおかけください」

 上座の女性の隣を手で示される。

 女の人の隣ということにまだしもましかと思いつつ、覚悟を決めて「失礼します」と軽くお辞儀すると、女性は目に涙を溜めて頷いた。

 え!?

「DNA鑑定のお願いもしましたが、その必要はないかもしれませんね」

 温かな声音に正面を向くと、弁護士が自己紹介を始めた。差し出された名刺を作法もわからず受け取って凝視する。こちらは差し出す名刺もないから、名前だけ告げた。

 二人の紹介も弁護士がした。緩やかなウェーブがかかった栗色の髪の女の人が、おそらく血の繋がった母親。ちらほらと髪に白いものが混ざっている、眼鏡をかけた男の人が、おそらく血の繋がった父親。

 泣きそうだった女の人は、こっちに向かって手を差し出した。

 握手か? と思って手を出すと、両手で握られて、撫でられる。

「やめなさい、びっくりしてるじゃないか」

「……だって。ごめんなさいね」

「本当に、よくお二人に似てらっしゃいますね」

「ええ。ええ」

 そっと外された温かい手に、不思議なもので少し名残惜しさを感じた。

 でも、ま、そうだ。この二人は。

「あの、娘さんは……」

「今日は来られません」

 やっぱり入院中なんだ。

「すみません、うちも両親連れてくれば良かったんですが、あの、ドナー登録の説得は一人じゃ難しいと思って」

 なんて説明しようか。ドナー登録それ自体の説明もそうだけれど、難しいのは二人の性格だ。子供時代の話でもするか? それか家族旅行行った時の話? 靴擦れが痛くて走れない子供をそのまま放置して治安の悪い所が怖くて置き去りにした親の話する? 「置いてかないでよ」って後で言ったら「だって何かあったら怖いじゃん」て、子供に何かあるよりも自分自身に何かあることの方を怖がった親の話する?

 下を向いて、どれならそれなりに同情されずに、なんとか説得をそっちでしてくれと言うように話を持っていけるか考えていると、上の方から、ふっと、優しい吐息が聞こえた。

「いえ、今日来られない理由は、まだ産後間もないので」

「え?」

「病気の方は、もう」

「お待たせしました。お決まりでしたらうかがいます」

「……あ、はい。ドリンクバーお願いします」

「ドリンクバーおひとつでよろしいですか?」

「はい、すみません」

「かしこまりました。グラスはドリンクバーコーナーにございます」

「はい」

 すごいタイミングでお水とおしぼりを持って来てくれたウェイトレスさんに頭を下げると、そこで3人分のほどけた明るい吐息が聞こえた。

「何か食べませんか?」

「そうね、私たちも食べましょうよ」

「うん。なんでも好きなものを」

「……あの……恥ずかしながら、お金が心もとなくて」

「払いますよ」

 弁護士が間髪入れずに言うので一瞬固まった。

「でも確か、飲み物しか領収書落ちませんよね?」

 確か前に交通事故にあった時に相手の保険屋にそんなことを言われた。

「そうなの?」

「それなら、こちらで払うよ」

 首を傾げた女の人と顔を見合わせた男の人が、弁護士に向かってそう言った。

 弁護士はにこやかな顔になったが(肯定か否定かわからん)、こっちの口から「……いえ、でも」と思わず溢れた。

 だけど、女の人は笑顔でパンっと手を合わせた。

「そうしましょう。それがいいわ。私お腹すいちゃったもの。食べない人がいたら気兼ねしちゃうから。私のわがままに付き合わせるんだから、私が払うわ」

「では、ドリンクは何がよろしいですか? お持ちします。その間、ゆっくりメニューを選んでください」

「え、いや、申し訳ないので自分で」

「あら、私、オススメが聞きたいわ。おばさん甘いもの大好きなの。オススメのデザートは?」

 意外と押しが強いぞこの人。

「はい、ええと……」

 いや待て、弁護士さん立ったままじゃないか。

「すみません、紅茶で」

「かしこまりました」

 申し訳ないと言う思いを乗せて頭を下げると、お気になさらずとでも言うように笑顔を向けられた。

「あら、フルーツを使ったデザートはないのかしら?」

 グランドメニューのデザートページを見ていた女の人の声に、慌ててテーブルの端に手を伸ばす。

「あ、それならこっちの期間限定メニューに」

「まぁ! 季節のフルーツね。同じ果物だけど種類がたくさん!」

「ほんとうだね。これは目移りするね」

「あ……甘いものお好きなんですか?」

「実はそうなんだ。恥ずかしいけど」

「あら、今時良いじゃないの。スイーツ男子よ」

「でも田舎の方だとまだ……あ、いや、その、」

「いえ、大丈夫ですよ。実際ど田舎ですし、実際そう意外だと思ってしまって、申し訳ないです」

「まぁ……」

「すみません」

「とっても素敵な子に育っていて嬉しいわ」

「は?」

「本当に。そうそう、うちの娘は病気で、いや病気だったんだ。そこまでしか手紙に書いてなかったね。もう治療は終わって、元気だよ。無事に子供も産まれたんだ」

「そう……なんですか」

 良かったぁああああああ。

 うん、純粋に娘さん無事で良かった。そしてあの厄介で言葉も道理も人情も通じない両親を説得するって言う無理ゲーから解放された「良かった」。どちらかと言うと人非人な自分にとってこっちの方が秤が振れるかもしれない。だって本当に大変なんだよ……

 見えないようにテーブルの下でグッと握り拳を作った。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

「あ、それなら出産祝いを……と言いたいんですが、本当にお金がなくて、申し訳ないです」

「そんな気は回さなくて良いんだ。だけど……」

「ええ。ごめんなさいね。頼んで、調べてもらったの」

 あ。そうか、弁護士なら法律関係の……官報とか見るもんな……

「任意整理、というものをしたんですってね」

「……はい」

 知られたことはショックだったが、調べられたことについては、別段どうとも思わなかった。思っていた以上に知られたことがショックだったのかもしれない。

 ……まぁ、ショックだったのは、多分、目の前の二人も同じだろう。お金にルーズな人間が実子かもしれないなんて、感動の再会とやらに夢を見ていた人には願い下げな事実だろう。

「理由を聞いても良い?」

「そちらのご両親は健在だと聞いたし、二人とも任意整理はしてないだろう。どうして子供の君が一人だけ任意整理なんて」

 そこまで知られてたら、もう取り繕っても仕方がないか。

 任意整理というのは、簡単にいうと、破産の一歩手前だ。破産は借金が帳消しになるけど、その分、財産はほぼ持っていかれる。任意整理は、借り手と貸し手の間に専門家が入る。弁護士だったり司法書士だったり。ここまでは破産と一緒。破産と違うのは、借金は帳消しにならない。代わりに、専門家が入った時点から、利子は付かなくなる。そして、返済額も返済期間も、無理のない範囲で組むことができ、そして財産は手元に残る。ブラックリストや官報には載るけどね。

 職場にはバレなかった。官報を見る人間なんてそんなにいない。実際、今まで生きて来た中で、官報を目にした機会なんて一度もなかった。ネットでそこまで調べて、踏み切った。やっぱり職場にはバレず、何故かお嬢様育ちだと勘違いされたまま。

 自分が子供の頃はそれなりにお金持ちと言える家だった。少なくとも貧乏とは無縁だった。祖父が健在だった頃は。

 だけど祖父が亡くなってから、転がり落ちるように火の車だ。バブル期に青春を謳歌した両親は、「欲しい物を我慢する」とか、「身の丈に合ったもので妥協する」という考えが欠落している。自分たちが欲しいものを揃えるためには湯水のようにお金を遣い、子供のことは頭から抜けていた。だって子供は「自分」じゃないから。

 だけど「自分を飾るアクセサリー」である子供のにはこだわった。

 どういうことかって? 簡単さ。


 国立大に進学させられ、その実授業料はもちろんのこと、入学金さえ払ってくれなかった。


 だから学費を稼ぐためにバイトを始めた。教育金融公庫の借入金は、教育費じゃなくて家計に消えた。母の入院費、弟の無保険事故、家電の故障、ありとあらゆる理由で、奨学金も巻き上げられた。

 疲れすぎて、自分の金遣いも荒くなっていたんだろう。何より時間がなくて、体が限界だった。

「……大学生の時に、働きすぎて、色々あって、うつ病になったんです。それで、フルタイムで働けなくて」

 息を呑む音が二人分重なる。

「でも、持ち家があるでしょう?」

 祖父は堅実な人だった。土地も家も残してくれた。

 だけど、子供のためにその家を売ろうなんて、あの両親は考えもしなかった。

 ま、両親からしたら、さっきも言ったが子供の学歴は自分を飾るアクセサリーだ。アクセサリーのために、「自分のもの」を手放すなんて、考えられなかったに違いない。

「なのに今は家を出て一人暮らしをしているそうじゃないか。その理由を聞いても良いかい?」

 気遣わしげに、それでも滲み出る怪訝さは隠せない。そりゃそうだ。一人暮らしなんて家賃が勿体無い。実家暮らしは金が貯まる。フルタイムで働けないのに、なぜそんな真似を? と誰もが思う。

 理由なんて一つしかない。人前で話すことじゃない。だけど、任意整理のことを知られた手前、もう隠しても意味がないと思ったのか、気づけばポロリと口から滑り落ちた。

「……暴力が、ひどくて」

 二人が息を飲んだ。

「あと暴言……言葉が通じなくて、……疲れちゃって」

 女の人の手が、こっちの手をまた握った。

 温かい。

 泣きそうになる。

「こう言ってはいけないのかもしれないが」

 男の人が、重たそうに口を開いた。

「今の話で、……間違いなく、うちの娘の親なんだと思ったよ」

 は?

 性格は遺伝しないはずだけど?

「うちの娘も癇癪がひどいんだ。……それと、言葉が通じないというのは……すぐに感情的になるというか……怒りっぽいというか」

「はい」

「自分に都合が悪くなると、手が出る」

「はい」

「訴えますか?」

 うおびっくりした!

 ホットとアイス両方の紅茶が乗ったトレーを持った弁護士さんが、私の前に両方置いてくれる。

「そちらのご両親は虐待の疑いがありますね」

「いやでも、怪我とかはしてない、し……もう二十歳超えちゃったし」

「怪我をさせたら傷害罪です。が、肉体に損傷を与えずとも、暴力を振るった時点で暴行罪です。年齢に関しては全く問題ありません。十分訴えられますよ」

 そうか。それは考えつかなかった。

 子供の頃は、虐待なんて言葉、まだ認知度も低くて。中学生になって、家庭科の授業でようやく認識した。

 心の相談窓口という、無料で使えるテレホンカードを、いつも財布に入れて、殴られた後は取り出して握りしめていた。あの頃は公衆電話が至るところにあった。でも、門限が決められていて、大抵怒られるのは両親が仕事から帰って来てから、つまり夜だ。そんな時間に外出はできない。あの頃は、携帯電話なんてまだ存在しなかった。

 それに、優しい大人はごく僅かだとあの頃は思っていた。保育園ではお昼寝の時間にトイレに行きたくなっただけで怒られたし、ピアノの先生は音を間違えるたびに手を叩いた。

 たとえその相談窓口に電話をしても、両親は躾でしているのだから、我慢しなきゃダメだと言われてどうせ終わると思っていた。想定されている相談内容はおそらく「いじめ」。生徒間のいじめは、その頃には社会問題になっていたし。

 それでももしかしたら、助けてくれる人が電話の向こうにいるかもしれないと、それが命綱だった。

 結局、助けを求めても諭されて終わりにされるのが怖くて、一度もかけることはなかったけれど。

 勇気がないんだ。

「良いんです、もう。法廷とかで会いますよね? とにかく顔見たくないんです」

「そうですか……残念です」

「いえ……あ、紅茶、ありがとうございます。すみません、どっちか言い損ねちゃって」

 テーブルに目をやると、既に3人の前にはそれぞれの飲み物が置かれている。中身もまだ入っている。

 自分の目の前に置かれているのは、ミルクと砂糖とティースプーンが添えられた紅茶と、ガムシロップとミルクとストローが添えられたアイスティー。

「お気遣いなく。お好きな方をどうぞ」

 ということは、どっちか選ぶと、もう一つはどうなるんだ?

「両方飲みます」

「無理しなくて良いですよ」

「いえ、両方好きなんで」

「それは良かった。ところで、ご注文はされましたか?」

「そうよ! 先に注文しましょう。それで、どれがオススメ?」

 脱線していた話を女の人が一声で元に戻す。

 今は午後2時を過ぎたところだ。休みの日だったけど、朝が弱いから待ち合わせ時間を午後にしてもらった。時間的に、食事ではなく軽食。女の人が見ているのはデザートページ。

「えっと、どういうのが好きですか?」

 オススメって言われても、最近は来なくなって久しいし、どうしたものか。だけどメニューに目を走らせると、幸いなことにリバイバルメニューだ。祖父と来ていた頃に何度か食べたことのあるデザートの写真が並んでいる。

 これならそんなに、あの頃と変わらないだろう。少なくとも、不味くはなってないはずだ。

「これは下のパイ生地が薄いんですけど、添えてあるアイスが洋酒入りで、組み合わせ美味しいです。それとこっちは——」


「注文お願いします。このパフェを2つと、このパイを2つ、それとフライドポテト2つ」

 は? 全部二つずつ?

 注文してくれたのは弁護士さんだ。だけど、うん、なんで二つ?

 自分は結局、どれかひとつ選ぶこともできなかったので、「これにする」とはいってない。変に遠慮して安いのを選んでも機嫌を損ねるかもしれないし、だからって一番高いのを頼むなんて言語道断だし、考えすぎた結果、決めるまもなく呼び鈴を鳴らした。これは割合よく使うパターンで、優柔不断すぎてよく起きるこんな場面では、もう答えを言うしかない場面にしてしまう。土壇場で口から何か出るに任せる。

 だけど、何で二つずつ? という真っ当な疑問が浮かんだせいで、自分のものを注文し損ねた。まぁいいや。人のものとはいえ、メニューを選ぶのは楽しかった。

「それでは、本題に入りましょうか」

 そうだ。そういえば、ドナーが要らないということは、会いたかった理由ってなんだろう? 単純に顔が見たかったのかな? その理由は今ならわかる。血縁って、似てる人がいるって、なんだか、すごく嬉しいものだ。

 今まで理解できなかったことを知れた。


 ——ん? ちょっと待てよ? 今首が回らないのは自分だけじゃないとしたら?


 ちらりと二人に目をやる。

 今まで、自分と似ている容貌にしか目がいかなかったけれど、身につけているものに目をやると、とても仕立ての良さそうなものを着ている。

 わかりやすいロゴが入ってるわけじゃないけど、ものの良し悪しを見分ける目には自信がある。

 欲しいものを手に取ると、昔から高すぎてビビることが多かったから。

 なんだろう。二人して破産するとか? 破産じゃなくて、借金残すとか? だから官報まで調べたのか? それなら返済能力ないってわかってもらえたよね!? もう無理だからね!?


「お二人のご息女は嫁がれました。お二人が恵まれたお子様はお一人だけ。入れ替わりが判明したあなたとお会いしたい。これが第一のご要望でした。そして、調べているうちに、あなたが一人暮らしをされていることが判明しました。そこで、第二のご要望です。可能であれば、またあなたの人となりを拝見して考えが変わらなければ、お二人のご自宅にお招きしたい。そして一緒に暮らしたい、とのことでした」


 ——………なんて?


「考えは、変わりませんか?」

「はい」

「是非共」

 ぜひとも?

「ということです。いかがでしょうか?」

 いや、んなこと急に言われても。

「……ちなみに、家賃はいかほど」

 3人が顔を見合わせて笑う。

「持ち家ですから、家賃はありませんよ」

「仮に住むとして、月々おいくらお渡しすれば良いですか?」

「あら、それは私たちのセリフよ?」

「そうだね。お小遣いはどうしようか? そうだ、ちょうどお正月だし、お年玉をあげないと」

 は?

「実は私、用意してあるのよ」

「そうなのかい? 準備万端だね。珍しいな」

「あら、何が珍しいの?」

「よくスマホや財布を忘れて出かけるじゃないか」

 ……つくづく、他人の気がしなくなってきたわ……

「ひどいわ。この子の心証が悪くなったらどうするの?」

「それは——」

「お待たせしました。パフェのお客様」

 夫婦のじゃれ合いに見事なカットイン。

「あら、ありがとう。私と、この子よ」

「え」

「ホイップ、好きなんでしょう? 私も大好きなの。美味しいわよね」

「……はい」

「僕はちょっと苦手なんだけど」

「あ、うちの職場にもいますよ、苦手な人。でも甘いものは好きっていう」

「そうそう、僕もそれ」

「お待たせしました、フライドポテトのお客様」

「はい」

「もう一つはこの子」

「え」

「甘いもの食べたらしょっぱいもの食べたくならない?」

「いえ」

「あら、ごめんなさい、私若い頃はよく食べてたから」

「いえ、でも、ポテトは好きです。先に食べます」

「良かった!」

 小説なんかで少女のように笑うっていう描写があるけど、この人はまさにそれだ。

 押しが強いけど、なんだか憎めない人だな。

「アップルパイのお客様」

「はい。僕と、その子に」

 え!?

 何めっちゃ食うって思われてんの!?

「食べきれなかったら残して良いからね」

「さぁ先ずは食べましょう! 食べながら話しましょ」

「うん、そうだね。食べよう」

「あ……じゃあ、いただきます」

 その声が唱和して 良いなぁと思った。中学の給食以来だ。


 ポテトもパフェもアップルパイも美味しかった。

 多分、決め兼ねているのに気づいて、全部注文してくれたんだろう。紅茶と同じように。

 自分のためにこんなに頼むことってないから、お腹がかなりやばいからと半分ずつ食べることにした。残りは女の人が食べてくれるって。

 細い体のどこに入るんだ?

 二人ともデザートを褒めながら食べていた。勧めた自分のことまで褒めてくれたので、面映ゆくて汗をかいた。

「仕事帰りならお腹空いたでしょ?」

「いえ、今日は仕事行ってないです」

「あら、じゃあこれから?」

「え、いえ。今日は休みです」

「あら、正装してきてくれたのね。ありがとう。素晴らしいわ。でも、私服でも良いのよ」

「いえ! ……あの、私服……着る機会がそんなにないので、これしかなくって」

 また息を飲むのがわかった。どうにもやりにくい。職場でなら、笑いの種になるんだが。

「それなら、このあとはお買い物ね! 良いわよね?」

「うん。いいんじゃないかな? この辺りの若い人は、どこで服を買うのかな?」

「ええと、そうですね、ショッピングモールが隣町にあります。多分そこじゃないでしょうか」

「ショッピングモール! 実は私、行ったことないの。楽しみだわ!」

 あ、ああ、そうか。都市部はないんだっけ?


 話している間中、ちょいちょいいろんな意味の格差を感じていたが、食べ終わりかかった頃。

「忘れちゃいけないから、先に渡しておくわ」

 ん?

「はい。お年玉」

 ……かわいいポチ袋だ。かわいいは、キュートっていうよりかは華やかなっていう意味で。キャラクターものじゃなくて、箔押しで「お年玉」って入ってる。

「受け取ってやってくれないかな。妻が持ってこれたのは、よほど渡したい気持ちが強いからだと思うんだ」

「でも……」

 思わず、弁護士の方を見やると、素知らぬ顔で残り少なくなったポテトを口に運んでいた。

「受け取ってくれないの? おばさん悲しいわ」

「いえ! あの、ありがたく」

 手を差し出すと、丁寧だけど押し付けるように渡された。

 頭を下げて、しばらくぽけ〜っと眺めたあと、そのままカバンにしまおうとしたら。

「あら」

 え?

「すまないね、念のために確認してくれるかな? 妻はうっかりすることが多くて、もしかしたら中身がないかもしれない」

 なんだそれ。

 あ、そうか、反応するのが礼儀か!

 昔TVで見たマナーだと、開けちゃいけないって言われてたんだけど、やっぱ当てにならないな。

「すみません」

 慌てて中を覗くと、ちゃんと入っていた。しかもたくさん。

「こ……んな、に?」

「よかった、足りたみたい」

「そんなに少なく入れたの?」

「だって、今は物価が高いんでしょう? それに一人暮らしっていうから、多めに入れたつもりでも、もしかしたら足りないかもって思って、足りなかったらあなたに追加してもらおうと思って。もう1枚持ってきたの」

「袋を?」

「ええ」

「なんだ。あるならもらおうかな。僕からも渡したい」

 そんな話が展開されていることも耳に入らず、中身に驚いていた。

 そりゃあ確かに、箔押しの袋になるよな。確か袋の豪華さと金額は比例するはずだ。それは祝儀袋とか香典袋の話だと思っていたが。

「目を閉じて」

 急に肩に触れられてびっくりして横を向いた。

 心臓がばくばく言ってる。

「え」

「目を瞑って。良いって言うまで開けちゃダメよ?」

「は」

 ニコニコ笑いながら言われて、ためらいつつ下を向いて薄目になる。細い目はこう言う時便利で、閉じているように見えるらしい。

 とりあえずカバンをぎゅっと握りつつ待っていると、何か紙が擦れるような音が続いた。

「良いわよ、開けて」

 上を向くと、正面に見えたのは、ポチ袋を差し出す手。

 あれ、まだ持ってる。

「はい。僕からもお年玉」

「え」

「妻からは受け取れて僕からは受け取れないなんて方はないよね?」

 ……あれ、もしかして、この人も押しが強い?

「あ、はい」

 受け取って、顔を見ると、ニコニコしている。

 中、見た方が良いんだよな、と思って、開けると。

 顔に出た気がする。

 桁が違う気がする。

 でもそれを見て、ああ、なんだ、と嫌な腑に落ちるを味わった。

 そうか、これが詐欺で言うところの見せ金ってやつかって。

 似ている人を見て味わった、毛布に包まるような温かさも、安堵感も、すうっと消えていった。

 でもこれも、慣れていることだ。何度も何度も、今までの人生でぬか喜びをしてきた。もう慣れてしまった。

 だから。

「ありがとうございます」

 笑顔でそう言った。

「どういたしまして」

 たまたま似ていたってことだろう。

 どうせ詐欺ならば、ここは受け取っておこう。

 今更、もうなくすものなんて何もない。どん底まで落ちてやれ。

 下を向いてバッグにしまいながら、見えないようにバッグの中でスマホの録音機能をスタートさせる。

「お年玉、ありがたく頂戴します」

「受け取ってくれて嬉しいわ」

「うん」

「そうだ。お見せしておきますね」

 二人がキョトンとした顔になる。

 くるくると袖を捲る。

 また息を飲む音が聞こえた。今度は一人分。

「形も大きさも、一緒に成長してきたから変わってると思いますが、位置ってだいたいこの辺りでした?」

 どんなに老眼でもはっきり見えるだろう大きな黒子。

 それを見て、女の人が震える息を吐いた。

「……ええ、間違い無いわ。でも、こんなに大きくなるなんて」

「——もし気になるなら、レーザー治療で消せるんじゃないかな?」

「え……ええ、そうね。……消したい? 私にとっては、まぎれもない、あの時の赤ちゃんの証だけど、あなたにとっては、……いじめられたりしなかった? 悲しい思い出かもしれないものね」

「僕も、覚えがあるよ。真っ白な雪に隠れた兎みたいだって思った」

「あら、素敵な例え」

「初めての子だったから、なんでも可愛いと思ったんだよ。でも、女の子は、いろいろ言う人もいるかもしれない」

 どうする? みたいな感じで二人に見つめられる。

「……お気遣い、ありがとうございます。でも、これには別に、嫌な記憶もないですし。このままで良いです」

 二人がホッとしたように息を吐いた。

 それは本当だった。子供の頃は太っていることが理由でイジメられた。あとは勉強がそこそこできることだ。黒子については誰にも何も言われなかった。

 それからは、弁護士との事務的なやりとりも少し。

 養子縁組のこと。産院を相手に裁判を起こすかどうか。このあたりは全部するしないは選べるそうだ。どれも共通するのは、すればお金が手に入るということ。

 今の時点では考えられないと伝えた。考える時間が欲しいとも。

 どちらもしなかったとして、それでもともに住みたいという意思は変わらないと、二人から言われた。

 本当だろうか。

 詐欺の場合は、手数料とか着手金を取るだけとって、実際はなんの行動もしない、そしてそのままドロン。てのが、考えられるんだが。

 だったら、養子縁組もなし、裁判もなしで、どれだけ家に居座れるか試してみようか。

 いつでも、エマージェンシーコールはできるように、スマホは手放さずに。


「それでは、私はこれで。ご夫妻はホテルを用意してあります。親子水入らずで、1日過ごしてください。あなたの気持ちが固まりましたら、またご連絡ください」

「え」

「はい。ありがとう」

「後ほどお迎えにあがります」

「よろしく」

「あ、あの!」

「はい」

「……ありがとうございました。お茶も」

「ああ。どういたしまして。ごゆっくりお過ごしください」

 席を立たれてから、慌てて礼を言うと、少しおかしそうに笑われた。

 なんで?


「さてそれじゃ、私たちも行きましょう! ここからショッピングモールまではどうやって行けば良いのかしら?」

「ここからだと……バスですね。それか車なんですけど」

「あら、私バス乗ってみたいわ!」

「そうだね、たまには」

 ……バスってそう言う感じで乗るもの?


 幸い、平日なことも幸いして、ちょうど良い時間のバスがあった。バス停まで歩く道中、バスに乗っている間、二人は主にこちらの生活を聞きたがった。

 ……別に不幸自慢じゃないんだけど、事実をいうとだいたい笑いに変わるのは世代だったからか? 会社じゃ定番の自虐ネタも、二人は深刻に受け取ってしまうようなので、途中から口が重くなった。

 私服をここ数年買っていないこと、服を買う基準は仕事に来て行けるかどうかで、好きな服のテイストは自分でもわからないこと、趣味は読書だが、やっぱりここ数年は本を買えていないので最近の本は読んでいないこと、TVは受信料が払えないので買っていなくて、何を今やっているかも知らないこと。

 全部深刻に受け止められてしまうので、話を変えて、娘さんのことを聞いた。

 癇癪もちなのはもう聞いたので、そのほかのことを。

 写真も見せてもらった。ああ確かに、うちの家族によく似ていた。

 真っ黒で硬そうなまっすぐな黒髪。大きな二重の目。イエローベースの肌。ふわふわした服が似合いそうな骨格。凹凸がはっきりした顔の作り。

 ……それとこう言っては悪いが、隣に座っている二人と決定的に違うのが雰囲気。

 如何せん攻撃的だ。

 別に怒ってる表情な訳でも、そう言ったポーズで写っている訳でもないのに、気が強そうなのが一目瞭然。

 うちの家族のように。

「……うちの家族に、よく似ています。……会わせた方が良いでしょうか」

「……こう言ってはなんだが、……これでも、大事に育てて来た娘だ。暴力を振るうような人間に、近づけたくはないんだ」

 そりゃそうか。どうにも、やっぱり世間とズレた感覚はなかなか治らない。外面は二人とも良いから、二人の娘さんに暴力を振るったりはしないはずだが、暴力を振るう人間というだけで、普通は避けるんだな。そりゃそうだ。

「娘が望むのであれば、考えようとは思う」

「まだ話してないんですか?」

「話そうとは思ったんだけど、何をしでかすかわからないところがあるんだよね」

「……ああ、それは、わかります」

「……やっぱり、血は争えないね」

「氏より育ちじゃないんですね……」

「この場合は——」

「あら、もしかしてあの建物?」

 弾んだ声に車窓を見れば、もう間も無く着くところだった。

「はい。あれです」


「パーソナルサービスみたいなものはないのかしら?」

「ないんじゃないかな。百貨店じゃないから」

「困ったわ。しっかり雑誌でお勉強してくるべきだったのに」

「……うちの子とは好みが違いそうだよね」

「それに似合うものが全然違うわ。フォーマルな服を着たらとっても素敵なはずよ!」

「そうだね。今日のスーツもとてもよく着こなしてる」

「あれじゃスーツが力不足よ。勿体無いわ。もっとちゃんとしたスーツこそ似合うはずよ。とっても素敵に着こなせるはずだもの」

「……ということは、オペラやコンサートや舞台も?」

「ドレスアップさせたいわ! でも今日はまず私服ね。困ったわ、知ってるブランドが一つも入ってないの」

「ここはショッピングモールだから、ブランドはそんなに入らないんじゃないか?」

「……そうね。……2階を一回りしてみましょう!」

 以上が、案内用の大型タブレットを前にしての会話である。

 好きな服がわからない、と言ったせいで、こうなったわけで、自分が悪いのはわかってはいるが。

「良い?」

「はい」

 場違いな二人を引き連れて行くのも、どうかなぁとは思った。


「楽しいわ」を何度も連呼されたので、それは良かったという気になったが、普段着替えに10分以上かかる日常生活に支障が出るうつ病患者にはしんどい時間が続いた。

 私服にも色々ある。

 部屋でのんびりするだけの完全な部屋着に、ご近所だけのワンマイルウェア、テーマパーク用、女子会用、などなど。

 二人は次から次へと試着させては、両手を組んで瞳を輝かせたり、口元に手をやって「ほう」と頷いたりした。

 楽しい買い物だった、というんだろう。多分。

 多分きっと、本当は友達とこういうことをするんだろうけど、交友関係が狭いから、初めてだった。

 まぁ何より、金額を気にしなくて良い買い物というのは楽しいものだ。

 正直にいうと、疲れると楽しいが半々と言ったところ。

 自分の知る限り、女性の買い物に積極的に付き合う男性というのはあまりいない。

 また店員さんの相手をしてくれている女の人を眺めながら、隣に立っている男の人の様子をうかがう。

「……疲れませんか?」

「いや、何。こういったお店に入るのは初めてだから、興味深いよ。それに、荷物持ちは必要だろう? 妻が楽しそうなのは何よりだ」

「そうですね」

「もしかして、疲れた?」

「あ、いえ、自分のことですし、そんなことは」

「妻のわがままに付き合わせて悪いね。でも、娘に可愛い服を買うのは親の特権だろう? 僕も、見ていて楽しいよ」

 理想的な父親だ。理想のお父さんというものを煮詰めたらこうなるんじゃないだろうか。

 テナントのショッパーをぶら下げて通路へ出ると、男の人が「そうだ」と言ってこちらを振り向いた。

「少し早いけれど、夕食にしようか?」

「そうね。喉が渇いたわ」

「お茶の方が良い?」

「そうねぇ……オススメは?」

 と、これはこっちを向いて。

 お茶なら、と。有名なチョコレート専門店の名前をあげる。県内で飲めるのはここだけで、もしかしたら女子高生が屯しているかもしれない。あとはコーヒーショップと、クロワッサンが有名なカフェ、アパレルブランドが併設しているカフェ、それと食事も取れるドーナツ屋さん、ホットドッグ専門店の名前をあげて、口を閉じた。

 確か中にあるカフェはこれで全部だ。

「たくさんあるのね」

「あ、あとフードコートもあります」

「まぁ」

 瞳を輝かせた女の人に、男の人が嬉しそうに笑う。

 だけどその前に、ショッパーをコインロッカーに預けた。

 鍵を回しながら、「しかし買ったなぁ」と胸中で呟いた。

 ありとあらゆる私服のバリエーションが揃った。

 これでまた数年は服を買わずにすみそうだ。

 そして穴が空いていた部屋着を捨てられそう。


 食事をしている間中、話は尽きなかった。料理について。家庭のこと、仕事のこと、趣味について。

 話し上手で、聞き上手だった。二人とも。

 こっちの家庭の事情は二人を暗くさせるとわかったので、そこは避けた。そこさえ避ければ、ニコニコして、話を聞いてくれる。

 それにこちらを笑わせてくれる。

 楽しかった。

 ああ、本当に、二人の子供だったら、どんなに良かっただろう。

 二人の話には、下げられる人がいない。disられる人がいない。誰の悪口もなかった。

 褒めて、感謝して、あらゆるポジティブな感想を言って、労って。

 そして。


 3人で住んだら。


 娘さんの部屋は残してあるけれど、それと別に一つ部屋をくれるそうだ。

 そこを好みのインテリアに変えるし、なんならリフォームしてくれるって。

 どんなインテリアが好みかまで聞かれた。

 服と違って、こっちにはこだわりがある。

 木目調のナチュラルテイストが一番好きで、角が丸いものが好き。トゲトゲしているのは苦手で、円形のものが好き。

 本棚には特にこだわりがあって、通販でしか買えないスライド式の本棚がたくさん欲しい。

 そんな話をしていたら、あっという間に時間が過ぎた。

 閉店音楽が流れて、慌てて席を立った。

「お迎えは、大丈夫ですか? 駅までバス乗ります?」

 徒歩圏内に宿泊施設はないから、どこに泊まるにしても移動手段の確保は必須だ。コミュニティバスはモール内の駐車場にバス停がある。

 まぁバスに乗るのは、大概が免許のない子供か、返納したお年寄りくらいだけど。

「大丈夫」

「呼んであるから」

 さすが、手回しが早い。

「じゃあ、ここで。うちはバスに乗らないと」

 二人がきょとんとした顔になった。

 夫婦は似るって言うけれど、本当に、顔のつくりはそれぞれ違うのに、表情がよく似てる。

 一緒に暮らしたら、自分もこんな風な表情ができるようになるんだろうか。

「泊まらないの?」

「バス?」

「……は?」

「……え?」

「……ん?」

 三者三様の疑問符が、閉店音楽の鳴り響く店内にこだました。


 状況を整理しよう。

 自分はこの後の予定を、こう考えていた。

 まずバスに乗って車をファミレスまで取りに行く。家に帰ったら、明日の仕事に備えて歯磨きと風呂を済ませてとっとと寝る。せっかくご飯まで済ませたんだ。いつもの睡眠時間のズレを、ちょっとでも正すために早寝する。色々考えることはあるんだろうけど、その辺は後回しだ。だってどのみち、相手の出方を見なきゃ決められないし。

 

 対して、二人はこう考えていた。

 ホテルに3人で行って、チェックインを済ませて、眠るまでの短い時間、もう少し話をして、そして眠って、翌朝、ホテルでご飯を3人で食べて、その後3人で車に乗って、ファミレスまで自分を送ってお別れ。


 ……金持ちの考えることって……。

 翌日も仕事があること、着替えに戻らなければならないこと、朝が弱いので早朝チェックアウトで家に戻るのは辛いことを正直に話して丁重にホテル泊はお断りした。

 情けなさと恥ずかしさはこの際目を瞑る。


 すったもんだの末、妥協点として、車でファミレスまで送ってくれることになった。

「もう少し一緒にいたいもの」

「うん、そうだね」

 期待に満ちた目で見つめられて、顔が熱くなって下を向いた。

 急いでロッカーに荷物を取りに戻る。

 扉を開けると、男の人が当然のように全部持ってくれた。

 ああ、本当に。二人の子供だったら、良かったのに。



 ——人が違う?

 行きの時に来た弁護士さんと、雰囲気が違う。人の顔の見分けは苦手だけど、服も違うと思う。

「お待たせしました。初めまして、お嬢様」

 おじょうさまって年齢じゃないんですけど? 

「お送りさせていただきます」

 名乗られて、名刺を渡された。

 作法はわからないけどとりあえず見様見真似で両手で受け取る。

 ハイヤー、と書いてあった。

 勿論名前じゃなくて、会社名のほうだ。

 昔ホテルに泊まった時に一度だけ使ったことがある。

 手を借りて乗り込むと、続いて二人も乗ってくる。

 あ、先に乗っちゃってマズかったかな。

「ごゆっくりできましたか?」

「全然。時間が足らないわ」

「そうだね。もっとたくさん話したかったな」

「ねぇ、次はいつお休み?」

「え」

「それは是非、聞いておかないと」

「え、あ……次、は、そうですね」

 慌ててスマホを触る。

 次の休みを伝えると、その次はと聞かれる。

 面倒なのでシフトを教えると、「連休はないの?」と驚かれた。

「少しまとまったお休みは作れないの? 有給使ったり」

「あはは、は」

 有給はあるっちゃあるけど実際はない。

 定休を有給にしたことにして賃金を払う。誰か一人でも通報したら罰金なのか、合法スレスレなのかはわからない。どのみち、人手不足に悩むところは、そういう手に出るしかないわけだ。

 正直、多少、腹が立つこともあるけれど、基本的にみんないい人たちだ。店長だって。だから、困らせたくはない。

 だからそこは笑って誤魔化した。

「……考えてみます」

「今度は私たちの家に招待したいの。勿論送迎するわ。でも日帰りじゃ寂しいもの。是非泊まっていって欲しいの。住むかどうかは、そのあとに決めてもらって構わないから」

「お試し、ということで、是非」

「……いつでも良いんですか?」

「ええ!」

「君の都合に合わせるよ」

 ……ああそうか、二人とも年齢的には定年を迎えてるわけだ。

 そういう設定か。なるほど。

 そうだ。どうせ騙されるなら、美味しいところは思いっきり味わってから、警察に行けば良い。自己破産でもなんでも、もう良いや。もう疲れた。最期くらい、夢を見てから死んでも良いじゃないか。

 もう頑張ったよ。十分頑張った。で、ダメだった。

 それで良いじゃないか。

「……近いうちに、連絡します」

「絶対よ」

「はい。約束します」

「もし、まとまったお休みが取れなくても、連絡はしてね。また、私たちが会いに行くから」

「……はい」

 最初に落ち合ったファミレスの駐車場に戻ると、まだ車はレッカー移動されずにちゃんとそこにあってホッとした。このど田舎は、車がないと結構キツイ。

 横に停めてもらって、運転手さんが荷物を運び出し、車の中に入れてくれる。

 良かった、車片付いてて。

「お荷物はこれで全部ですか?」

「はい」

「お忘れ物はございませんか?」

「はい」

「では、お気を付けて」

「はい。そちらも」

 一礼した運転手さんと入れ替わるように、女の人が小指を立てた。

「約束」

 懐かしい、と思って、実際は誰ともしたことがなかったなって、ちょっと悲しい笑いを浮かべて、その小指に自分の小指を絡めた。

「約束します」

「僕も」

 最後に大きな指が上から包んだ。

 節くれだった太い指。そっくりだ。

 どうせなら、女の人の指に似たかったけれど。

「ゆーびきりげんまん嘘つーいたら針千本のーます、指切った」

 子供みたいにそんな歌まで歌って、必ずまた会うことを約束して指を離した。



 本当に。これが詐欺じゃなくて、本当のことだったら良かったのに。

 本当に、あんな優しい人たちが、似ている人たちが、親だったら。

 どれだけ幸せだったろうか。


 カーステレオに繋いだスマホから流れてくるのは、雑音混じりの今日だ。


 きっと殴られることも、蹴られることもなく、暴言を吐かれることもなく、理不尽なことをされることもなく、きっと普通に、信頼して、わがままも言えて、親相手に怒ることだってできただろう。

 こんなに、自分を嫌いにならなくて済んだかもしれない。

 普通に働けなくなるほど、心を壊したりしなかったと思う。

 あの二人の子供だったら。

 人を好きになることもできたかもしれない。

 誰かから好かれることもあったかもしれない。

 普通におしゃれを楽しんだかもしれない。


 小指がまだ熱かった。

 そして今、目が熱くなった。

 親の好みの服を押し付けるんじゃなくて、似合う服を一生懸命探してくれて、何が好きかを一緒に探してくれた。

 興味を持ってくれた。

 何を考えてるかを気にしてくれた。

 聞いてくれた。

 一方通行じゃない会話を、してくれた。

 大切に思ってくれてるって、そう思えた。

 時間を使ってくれた。合わせてくれた。

 ああ、きっと寂しかったんだなぁって、思った。


 暴力と暴言のフルコースみたいな親だったけど、それでも。

 あの親に、愛されたかったんだなぁって、思った。

 あんなひどい親たちに、それでも、関心を持って欲しかったんだ。店にある適当なものを買い与えるんじゃなくて、何が欲しいか聞いて、それを探して買ってきて欲しかったんだ。

 自分のために、時間を使って欲しかったんだ。心を砕いて欲しかったんだ。

 話を、聞いて欲しかったんだ。何も言わなくて良いから、悪口じゃなく、ばかにするんでもなく、ただ相槌打って聞いて欲しかったんだ。「へえ」とか「そうなんだ」とかそれだけで。

 それができない親ってわかってるのに、まだ期待してたんだ。

 きっと無意識に。

 殴らない親が欲しかった。

 会話できる親が欲しかった。

 寂しくて苦しくて、本当はずっと怒ってた。

 悲しかった。

 諦めたつもりで、ずっと欲しかった。


 傷ついていたんだな。


 帰りの車の中、ボロボロ溢れる涙を拭えずにそのままなんとか車を走らせて、アパートについた。

 久しぶりにお腹いっぱいで、あとはもう歯を磨いてお風呂に入って眠るだけで良い。

 本当に、良い夢を見たような気分だった。


 でも、もう終わり。

 終わりの始まり。

 さぁ、最後くらい、楽しんで死のうじゃないか。

 どこまで見せ金出してくれるのか楽しんで、最後にひと花咲かせてみようか。

 悪人と渡り合えるほど知恵はないだろう。

 鬱状態の自分じゃ、知能は半分程度しかない。だいたい泥酔状態と同じくらいの覚醒状態らしいって、前になんかの本で読んだことがある。

 まぁ最後は惨めなものになるんだろうが、それでも、引き出せるだけ引き出してやる。


 明日はまず、会社の人にお願いしてシフトの調整だな。

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