the good lord will take you away

なかoよしo

the good lord will take you away

   一




 自分なんて必要がない。


 まばゆい夢を祈りのように呟いた。


 まるで他人事。

 

 そして戯言。


 俺は目を疑い、そして耳を研ぎ澄ませなければ・・・


 それを願った。


 ・・・これも祈り。


 苦痛はまだ、実感には程遠く、だからこそ俺は恐怖を感じてはいなかった。


 そもそも・・・


「俺には怖いものなんてない」




 目前に立つ、見知らぬ女性。

 スキンヘッドの白人は、左手で、その耳朶に刺したピアスを弄びながら笑って、俺にピストルを向けていった。


 ブラックのオールインワンにターコイズブルーのロングパーカーをまとったシックな女。

 こんな女に殺されるのならば文句はない。


 硝煙。


 鼻腔にまとわりついて認識した。


 鳴り響いたのは三度、それは確かに銃声で、俺の胸に撃ちこまれたのは二発。


 女は俺を殺したかった。


 臓腑が、焼けつくほどに熱く、それは熱をもった血液が、俺の腹中で圧迫されているからだ。


 俺は、とにかく血を吐いた。


 救いが何も見当たらぬからだ。


 もだえ、意識が途絶えそうになる今も・・・


 こうしている瞬間も・・・




 君の声が聴こえたような気がしたのに、俺にはもう・・・


 もはや何をする力もない。


 俺の意識は消えるのだ。




   二




 その日、私がライト&シャドウというショットバーにやってきたのには意味がある。


「くだらないなんて、あなたたちは言う?」


 それはもう馬鹿げていて、誰だって馬鹿にするような目的だわ。


「そうね。

 私、馬鹿な女なの」


 今でも、くだらない御伽噺に夢中だなんて。


 こんなことを今も信じているなんて。


「この街には恐ろしい暗殺者がいるの。

 運命をも狂わせると恐れられるその暗殺者を、この街の人々はこう呼んでいるわ。


 そう、人々は彼を・・・」


 彼に依頼するのは容易ではない。


「だから殺したの?

 誰にだって感情がある。

 想いの強さも・・・

 願いだって・・・

 なのに、あなたは人を殺したの。

 まるで感情もなく、ゴミでも放り捨てるかのように」


『・・・もったいない』


 かすかな呟き。

 それは言葉としては僅か。

 きこえるかどうかの、かすれた声で。

 だけど、それを私が耳で受けとめたのは・・・


 私自身も、それを感じていたからだ。


 私が銃口を向けた最初の男は悔いるような眼で、私を見ていた。


 生きることは死ぬこと以上に苦しい・・・


 だけど死ねば、もはや取り返しのつくようなことでさえ、そうではなくなってしまうのだ。


「俺には怖いものなんてない」


 私が引いた三度の引き金のうち、彼の体を通り抜けたものは二発。

 それも一発は偶発的なものだった。

 しかし私は、彼の人生の終局を彩るために、彼が生きてきた人生と、いま此処で私に出会った運命への敬意から、もう一度トリガーを引いたのだ。

 そのため彼は血を吐いて、私の足元に這いつくばって息絶えていた。

 男の亡骸を抱きしめている女。衣服の汚れに無頓着。それがどうでもいいことなのか、私にはよく解らないけど・・・


「恋人だったりするのかしら」


 私にとって、どうでもいいことをきく。


 女は「もちろん・・・」と、ルージュを拭うように袖で唇をなぞると「ちがうわよ」と軽く微笑。

 それは聖母の余裕かと見紛うほどの優雅さで、私は彼女に見惚れていた。

 そして私がそれを認識したのは、彼女の唇、それが再び私の眼に焼きついたとき。


「あなたも彼を探しているのね」


 という言葉。


 彼女も探しているのだと、その唇が教えてくれたとき。


「あなたにも必要なのね。


 自分のために人を殺してくれる人が。


 運命をも狂わせるというミスリードという暗殺者が・・・」




 私は上着を片手で捲りあげ、その女に胸を見せつけた。


 そこには私にもかつてはあった。

 そして今は存在しなくなったものの傷痕がある。


 女は絶句もなく、私の胸を見つめていた。


 だいぶ肝がすわっている。


 彼女も運命を受け入れて猶、それを乗り越えようとする意志があるのだろう。


 私は衣服を戻しながら、


「私は乳房を切りとられたの。

 あいつは私の体に一生消えない傷を残したかったのよ。

 実際、それは私の体よりも心に深く刻み込まれたものだけれど」


 だからといって、他人を傷つけてもいい理由にはならないと、そんなことは解っているけど・・・


 私は、その女性にも銃口を向けていった。


「とまらないのよ。

 もう、自分ではとめられない」


 トリガーに人差し指をそえる。

 爪先からの振動が口惜しかった。


「よせよ」


 それを見咎められたのだろう。

 責めるような眼で私を見る。

 別の席に座っている男。


「そんなことでミスリードはやってこない。

 たとえ、この店にいる全員、皆殺しにしたとしてもそうだ」

「そうかしら?

 やってみなければ解らないわ」


 私は心の震えを抑え、悟られぬようにゆったりと、そう口にした。


「よせよ。

 あんたの心は怯えている。

 今はまだ狂気を腹に含んでいるから自分自身を欺けるが、現実はそんなに簡単じゃないぜ。

 あんたには奴が得をするだけの報酬を払えるとは思えないんだ」


「それこそ・・・」

 

 やってみなければ解らないわ。


 私は運命に従事する。

 そのためにも彼にも銃弾を放つ。

 それは二発。

 しかし弾丸は反れて、その弾道は発砲した私自身にも把握のできないものだった。


「あと何発のこっている?

 俺は今も神に祈っていた。

 神は何者にも公平だ。

 だからこそ弾丸は、俺を反れて飛んだんだ」


 正気じゃないのは彼の眼を見ればわかること。

 眼球が濁って、まるで生気を感じなかった。

 まるで今にも死んでいく人間のように無気力で無機質。


 あまりにも彼が不可解で不気味なものに見えたから、私はしばらく言葉を失っていた。

 その空白をぬって先程の女が叫ぶ。


「殺してーーー。

 そのおんなを・・・」


 その女が突き出した人差し指は私の体に突きつけられていた。

 私はその女に向けてトリガーを引こうと意識したが、その瞬間に私のピストルには男の手が、その銃口をひねりあげる。私はあまりの痛みに手ばなすと、彼。

「どんな悪党であろうとも人を傷つけるのは感心しないな」

 と。

 私は、急激に目覚めた殺意をもてあまし、

「これを見ても、あなたはそんなことが言えるのかしら」

 と、私は上着を剥ぎ取って、その下にある姿身を晒してみせた。


 衆目は絶句。

他にも見るに堪えない傷を身体中に刻み込まれていたからだ。

 誰もが眼を見張って息をのみこんだ。


 私はそれを感じていた。


「あなたは本当に、この街に正義が存在していると思っているの?

 それが成されているとでも思っているの?」

 と。

 すると、彼は頷いて。

「誰の心の中にも純粋な正義がある。

 君が思っているよりも、ずっと確実に、強固なものとして」

「だとしても・・・

 それをあなたからは感じない。

 私や、この街にいる者たちが求めている正義はあなたじゃない。

 ・・・ミスリード。

 そう呼ばれている暗殺者だけなのよ」

「君はいったい、その殺し屋に誰を殺してもらいたいって?」

「だれって、わからない?

 この胸の、乳房を切りとられた跡を見ているというのに、まだ・・・」




 赤い月。

 黒点が煌いて髑髏にみえる。

 この街では何処でもそうだ。

 あたりまえにある風景さえも、私にはひどく、おぞましく、だからこそ嘔吐した。


 あなたのことを愛しすぎて。


 だれよりもあなたが愛おしくて。




「名前なんて俺にはない。

 死んで悲しんでくれるような者も俺にはない。

 もしも殺してほしい相手がいるというのなら、俺が代わってやってもいいぜ。

 たとえ正義ではないとしても、憎しみが原動力である君の悲しみが、多少なりとも俺には理解できるからだ」




 捨てられて、知らない者たちに辱められて、嬲られて、私はすべてを失った。

 それはたぶんもっと前・・・

 彼と出会ったときには始まっていた悲劇だったのに。


「他人が聞けば喜劇以外の何モノでもないわ。

 自分で復讐しようと躍起になって、その度に私は返り討ちにあう。

その度に体と心を削り取られていく。

 わかるでしょ?

 私では彼を殺すことができないのよ。

 だから誰かに・・・


 力ある誰かに縋ってもいたいのよ」


「そうかい。

 だけど、本当の君の気持ちに、君自身が気づかぬうちに決断をくだすのはあせりすぎだと思うが」


「私には後がないの。

 わからないの・・・もう、こんな私を・・・私には・・・」


 高揚。

 もはや言葉にするのも辛いだけ。

 私はすべての説明を諦めて。


「私を救って・・・」

 と、

 見も知らぬ相手に縋っていた。

 彼は最初から最後まで、生気のない曇った瞳で、

「他人が聞けば喜劇というのは言いすぎだぜ。

 今の俺には満ち足りて有り余る嫌悪感が存在する。

 君が植えつけた憎しみの種だ。

 さっきも言ったかもしれないが、憎悪は人の原動力となる。

 そしてもう、これは君だけの問題ではないぜ。

 俺にも植えつけられた問題だ」


 私は彼にエニグマ以外の何物も感じ取ることはできなかったが、その雰囲気に飲みこまれてもいたのだろう。

 私は彼に依頼した。

 どの程度の人間かさえもわからないのに。


 と、その瞬間、彼は私の両手と両足の手を打ち抜いて。


「君は一生、不自由に暮らすといい。

 人を殺めるということは、それなりの代償を払わなければならない」


 激痛は一瞬。

 私には耐えられないことなどない。

 膝をついて蹲ったが、すぐに顔をあげて、その男と眼を合わせた。


「それは、あなたも代償を支払っているということなの」

 呟くと、彼は「もちろん」と生気のない顔で頷いて、それ以上は答えなかった。


 答えてはくれなかったが、彼の空虚な箱のようなイメージが、それだけで十分、私の願いを叶えてくれるような不思議な勇気を与えてくれた。


「おたがい、苦しんで生きていけばいい。

 この身が朽ちて果てるまで・・・」


 彼は最後にそう言って席をたち、私に背を向けて出て行った。


 犯罪者だけが屯する街の、何処にでもある小さな物語だ。





the good lord will take you away



   三




 旅に出たのは三日前。


 日差しが焼けるように暑く、あまりに喉が渇くので、何度も唇の渇きを癒そうと舌なめずり。それは自分の癖ではないが、傍らの女性は、そうとしか思っていないらしい。

 彼女は自分の名をフェリシティ(至福)だと言った。

 ジオメトリック柄のワンピースを着た長髪の東洋人。右手にはショルダーバックを担いで、ジャラジャラと長いシルバーのブレスレット。

 彼女は勝手に俺についてくるが、その目的すらも俺は知らない。

「ねぇ、エフィソスに行くんでしょ?」

 それはもう彼女の口癖で。

 たしかに俺の目的地でもある場所だった。

 偶然、馴染みのバーでスキンヘッドの女とした約束。

 フェリシティはそのとき、見も知らぬ遺体を抱きしめながら聞いていたのだという。

「俺について来ても得はないぜ。

 なんせ安い男だからな。

 薄っぺらが真情なんだ」

「だったらあたしも、そんなのかもよ」

 冗談のように首を燻らして笑う。

 俺たちはゴーストタウンに着いて冗談を言った。

 今の世の中、どの街も死んで息をしてはいない。

 俺は気だるく煙草を吸った。

「なんで俺につきまとう?」

 その謎は謎のまま、彼女は俺に話してもくれない。

「お金が目的なのかもね」

 なんて。

 彼女には解っている筈だった。

 俺が無一文だということは。




 誰が彼女を愛したのか。


 誰が彼女を傷つけたのか。


 誰が彼女を雇ったのか。


 そして彼は光を見つけたのか。


 誰よりも愛しい君を。


 誰よりも神々しい君を。


 そうして、何よりも汚れをしらない君を・・・




「誰のこと?

 まるで奇妙な呪文の羅列だわ。

 あなた時々、くちばしっている」


 そういうと、彼女は俺の顔を覗き込んでこう言った。


「気づいていないの?」


 気づいていない。


・・・わけがない。


 俺はまだ、彼女のことを忘れられないでいるのかも。


 阿駒卯琴夜。


彼女のことを・・・




 鬱々としていた。

 何をするのも気が塞ぎ、自分が自分でない感じ。針の莚にたつ心地。いや、自分はもはや魂の抜けた、正体をうしなった傀儡にすぎないのだ。

 俺はもう、生命をなくしているのだとそう思う。

 それは生きる気力とでもいうもの。

 俺はそれを無くしてしまった。




 ガギグギガッツシャーンと、けたたましく鳴り響く轟音を煩わしいながらも耳にする。

 フェリシティが自動販売機を叩き壊している音だった。

 彼女は又、どこからか盗んできた斧でそれを壊して中身を取ろうとしていたのだ。

 そして、取った。

「ねぇ、牛乳いる?

 それとも珈琲?」

 俺は無言で首をふると、

「だめだよ。

 栄養つけなくちゃ」

 と、彼女は俺に珈琲を、ブレスレットをつけた手で差しだした。

 賞味期限の切れた牛乳を渡さないだけ良心的だと思うべきか。

「わりぃが・・・」

 俺は珈琲なんざ飲まないんだ。

 言う代わりに受け取らないでいると。

「だめだよ」

 と。


 だけど、俺には無駄なことだ。


 言葉には何ひとつの意味もない。


 たったひとつの意味もない。

 意味を持たせられるのは自分だけ。


 自分一人の行動だけ。


「ねぇ、本気で、飲まず食わずでも生きていけると思ってる?」


 琴夜は俺のことを愛していなかった。


 ほんの爪先ほどにも満たず。


 彼女の中に・・・


 彼女の世界に・・・


 俺は生きてはいなかったんだ。


「自分は許されていると思っている?

 神様に愛されているとか思っている?」


 冗談。

 俺は笑って「そんなナルシストじゃねぇんだ」と無愛想。だったら食べろと差しだした彼女のパンを俺は仕方なく齧ってやった。


「だったら、なんで・・・」


 解釈は人によって変わる。

 簡単に人を傷つける人間や見下す人間に生きている意味なんてないと俺は思っている。


 なのに・・・


 個人的な恨みで、俺は彼女を傷つけたかった。


「近くにコンビニあんだけど行ってみない?

 おいしい紅茶も。

 緑茶だってあるかもよ」

 そういって駆け出す彼女。

 なんだか放って置けなくて、俺は彼女の後をおってコンビニの中へ。

「ほらっ」

 掛け声と一緒に飛んできたのは缶ジュースの紅茶。

「ほらほらっ」

 つづけて緑茶、ヨーグルト、コーラー等、彼女の放り投げてくるものを受け取り続けて、俺は入り口で両手をふさがれた。彼女は遊びの延長で俺の相手をしている感じ。俺にはどうでもいいことだった。彼女の遊びも。彼女の存在そのものにも。

「どう?

 お気に召すものあったかな」

 無言で、俺は手にある殆んどを放り捨てた。

右手に残したオレンジジュースを除いてだ。

 それを見ていた彼女は笑い。

「いい趣味してる」

 と歩みよる。

「なんのつもりだ」

 それは彼女が、俺の手にあるオレンジジュースを取り上げたからだ。

「わかっているくせに」

 と、彼女はタブを起こして一気に飲み干し、笑いながらに、

「趣味があうのね。

 あたしたち」

 それから深い溜息をついたあと、俺は陳列用の冷蔵庫の中から同じモノを見つけて同じように飲み干した。

 それから壁に背もたれして座り込むと、彼女も同じように隣りに座って、「あなたって良い人なのねえ」とそう言った。

「性格なんか、この世界には必要ないさ」

「世界?

 街じゃなくて?」

 俺は静かに頷いた。

 彼女の言っている意味を理解したからだ。

「静かね。

 ほんとうに、この街には誰も住んではいないのかしら」


 閉鎖された時間軸と空間の中に俺たちは閉じ込められている。


 危険なことだとは知っていたさ。

 そうしたら俺たち以外の誰も生きてはいないかもしれないこの街で。


「あなたはこの街の産まれなの?

 あたしはこっちじゃないんだよ。

 だから全然理解できない。

 快楽殺人許可証も、この街の今の現状も」

「この街の連中は・・・」


 身の程を知らなさすぎたんだ。

 世の中には、どうでもいいことが多すぎる。

 それを理解しないから・・・


「あまりにも純粋すぎたんだ」


 ふたり、すわりこんで賞味期限の切れた握り飯を食べていた。


「たとえば、あなたとか?」


 俺は黙って頷いた。


「ライト&シャドウにいたスキンヘッドとか?」


 俺は黙って頷いた。


「あなたの恋人なんかもそうだった?」


 そのとき俺は微動だにせず、一瞬、頭の回路がショートしたように、彼女のことで頭が一杯になり・・・

 そのあと、誤魔化すように笑って「かもな」と搾りだすように呟いた。


「かも?」


 それは俺の希望だからとは言いづらく。


「ふるい話だ。

 あいにく記憶はよくねぇんだ」と話をそらす。

 彼女は矢張り不満気で、

「だったら思い出してみるといいじゃない」と。

「だけど、思い出せないんだ」

 と問答させる。

 それからしばらく真顔でいたが、そのあと一人でクスクス笑って、

「いいよ。

だったらあたしとの約束。

あたしがあなたの、恋人といた頃のことをもう一度、思い出させてあげるから」

と。


それは迷惑な話だった。


「ねぇ、あなたに名前をつけてあげる。

 あたしが名付け親になっても構わない?」


 本当の名前は洋介。

 苗字は何だか解らないが、幼い頃、目の前で殺された両親は、たしかに俺の名をそう呼んだ。それから生き別れになった妹のこと・・・彼女は過去を知らぬまま、新しい家族の養女として、今は幸せに暮らしている。


「ホルス(希望)なんてどうかしら?

 とっても勇敢で正義を感じさせてくれると思うけど・・・」


 心が死んでいるのは俺だけじゃない。

 俺はもっと健全な想いで他人を愛したことだってある。


「ルック? プラック? アベルにカイン・・・

 ねぇ、いったい何がいいかしら」


 ある事件から行き違い、今の琴夜は俺を憎んでいる。

 弁解の余地がなかったわけではないのだが、あの時の二人は理屈じゃなかった。

 たとえ愛し合っている者同士でも、互いを認め合えるわけではないのだから。


「博学だな。

 耳朶には心地よく甘い響きがする」

「またムズカシイ言葉づかい?

 あなたの言葉って何か変だよ。

 まるで他人を受けつけていない」

「先を急ごう。

 どっかでバイクか車でも拾うんだ」

「それとお金も?」

「俺たち以外、人間がいないこの街で・・・

 ほとんど人間がいなくなったこの世界でか?

 金や宝石がいったい何の役に立つって言うんだ。

 その価値を理解できる人間がいないんだぜ」

「だけど、あたしは此処にいるよ。

 だれに理解して貰えなくたって、女はね、金と宝石が大好物なんだからね」

「そいつは、厄介な生き物だな。

 せめてポケットにしまえる程度にしておけよ。

 肥えた豚にはなりたくないだろ」

「もちろん。

美的センスの追求は、あたしのモットーでキャッチフレーズなんだもん」 

「まるでミューズ(芸術の女神)の科白だな」

「よく言われるわ。

 あなたも気に入ってくれたなら、そう呼んでくれても構わないわ。

 あたしのこと、ミューズって」

「それもブラフか?

まるでスパムだ」

「どう思ってくれても構わないわ」

「ダンケ。

 だったら、お礼に俺のことを教えてやる。

 俺の名前はルシファーだ。

 わりぃな。

 ホルスとは掛け離れた名前でな」

「どう思っても構わないでしょ?

 だったら、あたしは悪魔の花嫁さんになればいい。

 さっきも言ったとは思うけど、相性はピッタリなのよ、あたしたち」




   四




 俺たちは、誰のものかも解らぬジープを拾うと食料だけを積み込んで三日三晩、道なき道を進んでいた。

 幸福へと続く道へと、何処かで繋がっているのかもしれないなんて、そんな幻想に取り込まれて、取りつかれていく錯覚を何度も味わったものだった。

 陽のあるうちは人工の太陽に向かい、陽が落ちれば暖をとって、ゆったりと眠ったものだった。

 まるで泥のようとかいった形容は不要。

 疲労感も皆無に、ただ毎日をやり過ごすだけ。

 俺の心は、人として、根本的な部位が欠けていて、産まれてから一度も、当たり前に与えられるべき愛情を誰からも与えられなかったがために破綻した。

「何処にゴールを見つければいいのだろうか」

 無意識に呟く言葉に、自分を失っている自分自身に気がついた。

 フェリシティは無為に笑いながら、「そんなの決まっていることじゃんか」と俺に振り向く。それはエフィソスだと言いたげな彼女だが、それは彼女だけの決意。

 俺の意志には一切、関与するところがなかったのだが、俺は熱気で蒸発し、使い物にならなくなった缶のジュースや食料を放って決まっちゃいないさ」と呟くだけだ。

「自分の存在を認めてくれる誰かがいて、その人のために生きたことってある?」

 と、フェリシティ。

 彼女はミネラルウォーターを頭からかぶって言った。

「愛って、そういうことを言うんだけどなぁ」

 と。

 昔、俺にも確かにそれはあった。

 あつい想いで、すべてを犠牲にしても守りたかった相手のことを。

 ただ真剣に抱きしめつづけていたかった過去が・・・




 PAST。

         

「ルーブ・ゴールドバーグって趣味なのよ。

 シャーマッハ・テストだってそう。

 私たちなら最強で、最高の二人になるって思わない?」


 俺がかつて、まだ俺自身を認めていて、誰よりも琴夜を信じていたころのこと。

 彼女はよく、ジョークのように真実の言葉をつきつづけ、それは彼女の千の言葉よりも深く、俺の心を惹きつづけたものだった。


「でも、亀裂がはしったのね。

 だから、あなたは今、此処にいる」

「一人きりでな」

「・・・そうなんだ。

 あたしは人として数をなさないんだ」




 PRESENT。


 半年後、暦に興味なんかないが、おそらく時間はそれぐらいは流れていた。

 俺たちは気ままに日を送っていた。

「この世界には何でもあるわ。

 あたしたちが生きていくには十分なほど」

 彼女は幼く笑いかける。

 打ち解けるつもりなど皆無な俺でも、時の流れは邪悪な思惑を植えつける。

 この女を利用することはできないかと。

 だから俺は、フェリシティに、そんな話をしてみせたのかもしれない。

「そんなに難しい話ではない」

 七年ほど前に世間を騒がせた盗賊に、マーメイドと呼ばれるものがあった。

 それはグループの総称であり、首領の通り名でもあった。

「きいたことあるわ。

 ミスリードと同じで、もう伝説の中の登場人物にしか聞こえてこない。

 たしか首領は女だって」

「マーメイドの本名だって知る者はいない。

彼女がまだ犯罪に手を染めてはいなかった頃、俺はチンケなチンピラで、モラルも良心も持ち合わせてはいなかった。

信じられるか?

 俺が無抵抗な女の両手と両足をチェーンソーで切り取って、死なない程度の止血をした後、犯して海に放り捨てただなんて」

 そんな彼女を海から拾い上げたのはダーティー・ジョーカー。

裏の世界では、その呼び名が通った男で、D・Jと俺は呼んでいた。

「そいつが彼女を救ったのは単なる偶然か気紛れか・・・

 そんなところだ。

 重要な意味なんて何もない」と、そう思ったのは俺の甘さだ。

 裏の世界で台頭していた俺の存在は、その世界で常にトップの地位を維持していたD・Jにとって脅威以外の何物でもなかったのだろう。

 そのために、マーメイドが燃やした俺への復讐こそ、彼には必要な手駒だったんだ。

「何度となく繰り返された獲物をめぐってのトリックゲーム。

 それでも常に、俺はマーメイドの頭脳よりも、いつも上をいっていた。

 そして、それは俺自身に、マーメイドの認識を決定づけるものとなっていた」

「所詮、こいつはこの程度だって思ったんでしょ?」

「ああ」

 否定はしない。

 だからこそ悲劇を招いたことも。

「マーメイドを勝手に義賊だと思い込んだんだ」

 だから彼女が・・・


 琴夜を傷つけるなんて思いもしなかったんだ。


 マーメイドの追っ手に追われ、琴夜は護身用のベレッタM1926を手に果敢に戦えるほどには強い人間ではなかったんだ。

 俺が、その事態に気づいた時には、すでに手遅れ、彼女は集中治療室で眠っていた。

刺客に追い詰められ前後不覚になって事故にあったのだと聞いた。


「ダンプカーに、はねられたのだと」




 昏睡の女性。

 意識は不明だが生体反応はあった。

しかし、それだけ。

 外見は五年のうちに随分と変わってしまった骨と皮だけの植物人間、脳底動脈に不完全栓塞・・・橋部出血・・・第四脳室へ波及・・・一酸化炭素の脳細胞破壊・・・誰も彼女を救うことができなかった


 しかし、彼女をこのままに放っては置けなかったんだ。


 莫大な金額とひきかえに、俺は世界一の外科医を雇い、彼女を救ってもらうように依頼した。


「その手術が彼女を今以上の危険な状況に陥れることを俺は知っていた。

 しかし、このままの状態で生きつづけるというのならば、たとえ、結果的に彼女が死ぬことになっても構わないという決意からの選択だったんだ」


脳底動脈切開、脳橋部血腫除去手術。


 右側頭部より切開、皮質から脳底動脈および橋部。

 血腫周辺が石灰化、大開頭術。

 脳底動脈切開縫合のあいだに低体温法。

 縫合後エリスロマイシン静注、フェノールバリビタール筋注・・・


十時間にもおよぶ手術の後、白衣の医師は俺にむかい、

 

「あとは彼女が目覚めるのを待てばいい。

 多少、後遺症は残るかもしれないがな」 


そういった。


その後、


「九死に一生を得たとはいえ、彼女は記憶の一切をなくし、言葉も喋られないほどに衰えた姿で生きることになったんだ。

 そして俺は、そんな彼女の傍らで、彼女を見守り続けることから逃げたんだ」


「それって何か、やさしさの使い道がわからなくなっているよ」


 くるしい、つらい、せつない、さびしい・・・

 そうして心の底に生まれた唯一の陰が、孤独という感情だったんだ。


「どちらにしろ、もう引き返すことのできない道の上さ」

「どうかな?

 路地裏には、まだ隠れた道が、いっぱいあると思うけど」

「琴夜のことだけを思って暮らしていた。

 あいつのいない俺なんて生きている意味などない」

「そうかな?

 あたしにはあなたが必要だと思う。

 この世界に生き残っている人たちにとっても、あなたは価値のある人間だと思うけど」

「幸せなんかマヤカシで、少なくとも俺には人並みの生活すらも存在しない」

「自分の努力が足りないからだよ。

 人は努力次第で神にも悪魔にもなれるんだからさ」

「俺には何をする意志もない」

「それは嘘だよ。

 あなたは今、自分ではない誰かのために此処にいる。

 人の痛みが解るから、その人に必要とされたから、あなたはこの道を行くんでしょ?」

「俺にはもう、自分のことさえも解らないんだ」

「あなたのことは、あたしが知ってる。

 名前なんて、どうでもいいけど、世間の人々なら誰でも知っている人間だわ」

「俺のことなんて・・・」

「ミスリード。

 それが世間に広がったあなたの名前・・・

 そして、誰もが願う唯一の希望。

 それがこの世界中にたった一つしかない・・・あなたの本当の姿なのよ」




   五




旅をはじめて五つ目の街で、久々に髑髏ではない人間に出会う。

 吹きすさぶ風が冷たいボスニアという小さな田舎でのことだ。

 その街の周囲は流砂が広がる砂漠の土地で、旅行者にとって、この街はオアシスそのものと言っても過言はなかった。


「この先を通りたければ通行料を頂くことになる」

 ガタイが俺の倍はある白人の巨人。

いかつい表情で前歯の殆んどが折れている男。

銀髪でオールバック。迷彩の軍服は血に塗れていて、軍用のブーツには重量があった。

「そっ。

 あたしたち悪いけどお金持ちなんだけど。

 キャッシュで幾らいるのかしら?」

旅の先々で盗みとっている小女郎が生意気に言うが、俺も一応そのチームなので口は挟まない。

警戒は緊張感として維持しているが、だからこそ対応が利くと自信があった。

「わらわせるなよ。

 この世界に住む連中は、みんな知ってる。

 そんなものはもう、一銭の価値にもならねぇとな」

「かもね。

 だったら何がお好みかしら?

 もしかして、あたしの肉体とかぁ?

 まさに獣ね」

「誰もそんなものに興味はない」

「そいつは随分、失礼な話じゃないの」

「欲しいのは命だ。

 内臓を喰いちぎられて苦悶のうちに死に腐れ」

 男は、クリスリーブナイフをベルトから引き抜くと、すぐさまフェリシティの喉首を狙っていた。

 しかし彼女は、怯える素振りも見せないで、「残念!」とnothingのジェスチャーをして見せていたが、その時にはすでに、男はナイフを落としたまま、両膝をついて蹲っていた。

 俺の銃口が火をふいたからだった。

「おまえも、そいつの命が欲しいのか」

 俺は自慢のシグ・ザウアーを握りしめて、フェリシティにきいてみる。

「すぁーーーってね。

 あんたならどうすんのかなぁ?」

 おどける彼女、フェリシティの中にも俺と同じ闇があると、俺は旅の中で認めていた。

 だからなおさら、彼女とはこれ以上距離を縮めたくはないと考えていた。

 だから無愛想に。

「わりぃが、他人にはまるで興味ない」

 と、言い放つ。

 すると彼女も軽快なスタンスで。

「あたしも。

 他人なんて、どうでもいいのよ」

 と、呟くと。

「行きましょう。

 どっかでシャワーを浴びたいわ」

 と、そういった。

 それから・・・

「それにしても流石よね。

 自殺しようと銃口をこめかみに突きつけている人間が、自分自身にトリガーを引くよりも早く、その者を打ち抜くことができるって聞いていたけど」

 その銃口はまだ煙を吐いていた。

「めずらしくもないさ。

 俺は、誰にも愛されずに生きてきたんだぜ」

「って、琴夜って女のこと忘れてる?

 恋人じゃぁなかったの?」

「もちろん。

 ただの切ない片想いさ」




   六




 ほんの一欠けらのパンさえあれば空腹にはならない。

 いつでも、それが充分にあったときのことを思い出せるからだと宣教師のダグラス・ブラウン神父がいったそうな。

「それも伝説のひとつかしら」

「むかし話なんざ、何処にだって転がっているものさ。

 だけど、そんなものは大抵、迷信で根拠だって希薄なものさ。

 それは人々の理想を閉じ込めているからなんだが、世間から見れば、本物こそが偽者くさく見えてしまったりするものなのかもな」

「って、また自己批判?」

「・・・」


スミルナまで辿り着けば、エフィソスはもう隣りの街だと解っていた。

 俺たちは誰にも祝福されずに荒野を歩きつづけていた。


「あたしだって、そうなんだよ。

 ときどき泣きたくもなるんだからさぁ」


 フェリシティは幸福に飢えている女。

 決して幸福ではないのは解っていた。

 幸福を演じようとしていることも解っていた。


 満たされぬ欲望に彼女はいつも悩まされていた。


 いつも夢で魘されて、目覚めたときの息遣いは、それ以上に慌しく、それから周囲を挙動不審に見渡して、俺の姿を見つけると、ようやく、そして少しずつ自分を取り戻すようで・・・


 一人っきりになることに怯えているのだといつも思った。


「俺はエフィソスで人を殺す。

 それが俺の目的だが、おまえがそれに付き合う必要はない。

 街に着いたら、それが俺たちの別れのときだ」

 俺たちは塗装の剥げ落ちた苔くさいホテルの一室に二人で入ると、俺はベッドに腰掛けてから、そういった。

 明日には、街に着くだろうと予想がついていたからだった。

「あなたは興味ないのかしら。

 それとも、そう装っているの?

 あたしにだって目的があるんだよ」

「それは金だろ?

 十分に手にいれたものだと思ったが?」

「本当にそう思う?

 この世界ではゴミも同然。

 しっているでしょ?」 

「俺には予想もできないが、それは興味の対象にないからだ。

 わかるだろ?」

「わからないわ。

 それにあたしも彼に会いたいの。

 裏の世界の権力者で、ダーティー・ジョーカーと呼ばれる男にね」

「それは簡単なことじゃないぜ。

 本名も解らないし、奴にかかわって無事でいた人間はいない。生きていたって廃人同然、ほらっ、あの時の女のように」

「でも、あなたは生きているわ」

「幸運なのさ」

「いいえ、違う。

 つよいのよ。

 あたしにも、あなたしかいない。

 この世界を救って欲しいのよ」




   七




 エフィソスは、ふてくされの街。

 どこにもあるよな場所ではない。


「誰にも愛された験しがないって。

 本当に誰からも相手にされなくなるわ」


 頭の中に薄い靄がかかった心地でフェリシティの言葉を聞き流すと、俺は安い煙草を吸った。


「しってる?

 この街にいる人間は皆、ダーティ・ジョーカーの息がかかっているって」

「ああ、常識だ。

 間違っても、身の危険を感じたからって警察に駆け込むような真似はするんじゃないぜ。

 奴らだって、D・Jの部下なんだからな」

「わかってる。

 ウージーだってあるんだもん。

 武装としては十分でしょ?」

「言っておくが戦おうなんて考えるな。

 そして何よりも、自分の命を第一に守れ」

「無理だよ。

 そんな生態は持ち合わせちゃいないんだ」

「だったらウージーもウソコムも必要ない。

 ハンドガンに一発の銃弾だけあればいい」

「それはどういう・・・

 作戦なの?」

「いいや、他人に傷つけられる前に自決しろ。

 それが唯一、おまえの魂を救う方法だ」

「じゃぁ、あなたは・・・

 あたしの望みを叶えてはくれないってこと?」

「望みなら叶えるさ。

 俺ならD・Jを殺すことができる。

 俺は変装が得意なんだ」

「そんなこと知ってるよ。

 だけど、あなたが解っていないの。

 あたしの望みはD・Jを殺すことじゃない。

 あの人にあって話がしたいだけ」

「それはどういう?」

「連れてきて」

 そういうと彼女はジャラジャラと長いシルバーのブレスレットを俺に手渡して。

「これは世界にひとつしかない。

 あたしが、あたしであることを証明してくれる証しなの」

「だから?」

「これを持ってあなたが会うの。

 その男を連れてきて。

 あたしは・・・待ってる」

「待つって、此処でか?」

「いいえ。

 海のみえる場所がいいわ。

 小高い山の麓にそれがある。

 昨日とおったの、おぼえている?」

「ああ、おぼえている?」

「もしも、あなたに噂ほどの実力があるのなら、きっと叶えてくれる筈・・・あたし信じているんだもの」


 懇願するほどの想いは感じない。

 いつもあくびれず、軽快で、だから彼女が解らない。

 そして俺は、自分自身のことも解らない。

 なぜ彼女の言葉に耳を傾けているのかということも。


「やれやれ・・・

 俺は神様じゃないんだぜ」




   八




 できるだけ戦闘は避けたいものだと、俺は闇夜に乗じてエフィソスに侵入。

 裏の権力を握るD・Jが快楽殺人許可証という特権を、この町の住人たちに与えたために、これまで俺たちが旅してきた道程には、ほとんど人間なんていなかった。

 人間だって、死ねば只の肉の塊りだったからこそ、腐敗さえしなければ、火を通せば重要な食料になる。だからこそ俺たちは、飢えることもなく此処までやってきたものだが。


「いい度胸をしているな。

 それとも単なる馬鹿なのか?」


 手にしているのは半年間、一度も整備を欠かした事のないシグ・ザウアー。それは俺の指の毛穴にまで張りつく、俺の分身のようなものだった。

 だからと言って、正面突破が可能なほど気の利いた代物ではない。


「スキンヘッドの女が言っていたよ。

 ダーティー・ジョーカーの本名は、ハーマン・ウェブスターというらしい。

 もちろん、本当かどうかも解らないが、どちらにしろ、彼の屋敷に入るのは無駄ではない」

「んなこたぁ聞いてない。

 いいか。

 俺は一人で千人以上の人間を撃ち殺してきたんだよ。

 てめぇなんざ・・・」


 そんな言葉を最後まで聞くほど俺は御人好しじゃない。

 一瞬で脳天を撃ちぬくと叩き割ったスイカのように脳髄が散らばっていた。

 俺は血しぶきが飛びつかぬように角度を計算して避けた。


「無抵抗な連中を殺してきたおまえらにも。

 俺同様の懺悔が必要だ」


 疾駆する。

 常に障害物に隠れるが、そこに留まることのないように俺は走り続けていた。




『なぜ俺を殺さなかったんだ?』


『あなたこそ、なぜあたしを殺さなかったのよ?』



 

 護衛兵はただの二人。

 それも素人と言っていいほどの実力だった。

 俺は残酷に徹していた。

 命の遣り取りを楽しんでいた過去の自分を記憶からよびさまし、自分に酔っていたのかもしれない。

 俺は理不尽な死を彼らに与えた。

 そうして、緊張感を維持したまま、彼と直面したのは幸運だった。


「そろそろ来る頃だろうと思っていたよ」


 D・Jは、その言葉を俺のために用意していたのかもしれない。

 予想していたよりは遥かに平坦な道のりだと俺は笑う。

 それほどに容易いものだったから俺は察していたのだった。

 D・Jは、俺が来ることを知っていて、敢えて、それを待っていたということに。

 俺はフェリシティに見習い、軽快な思いで、こう尋ねた。


「ダーティー・ジョーカーと呼べばいいのか?

 ・・・それとも、ハーマン・ウェブスターかい?」


 初老の、そのネームバリューには不似合いな小さな体躯の紳士であり、どうやら

足を悪くしているようだった。安楽椅子に腰掛けて、傍らには杖を置いてある。


「何とでも呼べばいい。

 名前なんて、ただの飾りだ。

君にとっても、そうなのだろう?」

「わりぃが、あんたと話をするつもりはない。

 あんたを待っているのはこの・・・」

 そういってフェリシティのブレスレットを差し出しながら、「アクセサリーの持ち主なんだ」と無表情にそう言った。

「君は、それが何なのか知っているのか」

「フェリシティが、フェリシティである証拠らしい。

 証しとも聞いたかな」

「今はフェリシティと名乗っていたのか。

 彼女も、不幸な娘だった。

 愛してはいるが、私にはどうすることもできない娘なんだ」

「愛なんて、あんたのクチから聞けるとは思わなかったよ」

「君は因果律の中にいる。

 君には、因果応報というものだ。

 私たち、家族の運命を狂わせた」

「ミスリードとは不名誉なニックネームだぜ。

 俺は一度も、そう名乗ったことはないんだが」

「彼女が君に、心と体を傷つけられたとき、私と娘は、ずーっと君の影だけを追って生きてきた」

「フェリシティが、あんたの娘だと言っているのか」

「彼女の本名はビアン。

 ビアン・ウェブスター。

 君は覚えてもいないだろうが、私にとっては最愛の娘。

 彼女は両手と両足の修正を受けたのだ」

「修正?」

「君は知りようもない話だが、ロストテクノロジーにはコアと呼ばれるオーパーツが存在する。彼女の遺伝子の塩基配列を分析し、それを培養して移植したのだよ」

「そうか。

 だったら、娘のもとへ送ってやるよ。

 俺は彼女と約束したんだ」

「この世界にいったい、どれだけの人間が生きていたと思う。

 この広い世界で唯一人しかいない私の娘を、どうして君が傷つけなければならなかったのか。

 私にはそれがどうしても解せないんだ」

「わりぃが意味なんてない。

 単にムシャクシャしてたんだ。

 誰にも愛されたことのない俺の気持ちを、誰かに解って貰いたかったのかも知れない」

「そうか・・・

 君を責めるつもりは私にない。

 私もまた、贖罪をせねばならぬ身だ。

 そして彼女は今も、君の幻影を追い続けて生きている」

「彼女なら今、海のみえる場所にいる。

 小高い山の麓にそれがある。

 昨日とおった場所なんだが、あんたと話がしたいと言っていた」

「本当に彼女がそれを望んでいるとでも思っているのか。

 彼女は私のことを知っていた。

 自分のこともよく知っていた。

 ただ君の事をよく知らなかっただけで、彼女はすべてを知っていたのだ」

「それで?」

「整形をし、声帯をかえ、肉体に修正をくわえて、過去の自分を殺してまで彼女は君のことを知ろうとした。

 君の中にある人間らしさを、もう一度信じてみたいと願ったのだ」

「それはいったい何のために??」

「彼女は君の言った場所には行ってはいない。

 彼女は君より先に戻ってきていて、すでに奥の間で君を待っている。

 君への審判を下すために」

「俺はあんたを殺しにきたんだ。

 わかってんのか」

「もちろん私を殺すことに異論などあろう筈がない。

 私の命は、もう風前の灯火だと、すでに医師の診断を受けているのだ。

 悔いることなど一つもない」


 俺は・・・

 

 無言で老人の横を通り抜けると、彼女が待つというその先に。

 すれちがい様、かすれた声で「ビアンは君に憧れているのだよ」と呟くのが聞こえてきたが、俺は無表情のままだった。




   九




「本当は、わかっていたのでしょう?

 ・・・あたしのこと」


「最初から知っていたのだろう?

 ・・・俺のことなど」


「むかしから、あなたには無限の可能性があった。

 だれよりも気高く、尊く、力づよく」

「わりぃがリアリティに欠けるんだ。

 俺は自分が嫌いだし、誰に褒められたって嬉しくない」

「あたしの母が死んだとき、父は監獄の中にいた。

 行期を終えて出てきたとき、あたしは父を殴ったの。

 母の死を看取ることができなかった父を許せなかったわけじゃない。

 それが母の遺言だったから。

 母は父を愛していたのよ。

 愛には色んなカタチがあって、時には、その愛の深さゆえ、自分では思ってもないことを言ってみたり、やってみたり」

「それがおまえの懺悔なのか?」

「琴夜さんに危害を加えたのは悪いと思っている。

 あたしは彼女に嫉妬したのよ。

 彼女がいるポジションで、あたしは生きてみたかった」

「それで、おまえはどうだったんだ」

「だけど、何かが違っていた。

 いつもあなたの眼に、あたしは映ってはいなかったから。

 あたしを透かして、もっと遠くにある何かをあなたは見つめていた。

 あなたは今も、彼女のことを想っているのよ。

 あなたはずっと彼女のことを愛していた」

「産まれてこなければ良かったといつも思っている。

 自分のことを汚らわしく薄汚れたシミのように思えてくる。

 いつものことだ。

 誰かに構ってもらいたいのに身の程を知って、誰にも相手にされるわけがないと諦めているんだ」

「もしかしたら似てるのかもと思ったんだけど、やっぱり違うわ。

 あなたは誰よりも強いもの。

 一人っきりでも生きていける人なんだわ。

 あたしにはとても耐えることなどできなかった。


 ・・・だから、あたしを殺して欲しい」

「知ってるだろ?

 俺の目的には、おまえを殺すなんてものはない」

「わかっていないのはあなたの方だわ。

 父は、あたしに尽くしてくれていたことに気づいていたの?

 こんな大量殺戮を公認したのも、いくつもの街を滅ぼしてきたのも、すべての制度をつくったのも、あたしなの。

 あたしは罪のない人たちを、無抵抗な人たちを、無残に殺すように仕向けた残酷な女なのよ」

「琴夜のことを詫びていただろ。

 おまえには人間らしい感情がある。

 それが俺には欠けている。

 俺がおまえを殺しても意味がないんだ」

「それは自分自身への懺悔だった。

 その時間は一瞬で、永遠に記憶の底に閉じ込めてしまった。

 もう誰も、あたし自身でさえ辿り着くことができないほど奥深くに。

 だから、すんごく残酷なのよ。

 他人になんて興味ないもの」

「なるほど。

だが、

俺だって同類だ。

 他人なんて興味ない」

「それなら、あたしを殺したって、どうでもいいことじゃない。

 そうして、あたしを、あなたの記憶に刻み込んでほしいのよ」

「そいつは・・・無理な話だな。

 俺には、あんたを殺せやしない」

「・・・なぜ?」

「さぁな。

 意味なんてものはない。

 ただムシャクシャしてくるんだ。

 理屈じゃないのさ」

「あたしがこんなに望んでいるのに?

 わからないの?」

「俺は悪魔にもなれない半端者だ。

 それにビアン。

 おまえにはまだ、幸福になるチャンスがある。

 俺はとっくに諦めているが、おまえにはまだ人を想う心があるからだ。

 だから、

 俺には、おまえを殺せない」


 苦痛に・・・

 いいしれぬ恐怖に満ちた苦痛は渦となり俺を苦しめる。


 それは運命のLoopとも呼べるもの。


「ただ、その人といるだけで涙が後から溢れてきて。

 とめどない期待に想いを馳せて。

 それほどには喜べなかった自分に絶望して。

 そうして、自分自身を諦めて。

 あたしはどんどん卑屈になった」


「俺にビアンを責める資格はない。

 もしも、この世界を失意と狂気でしか捕らえることができないと理解するのなら、俺も同類」

「まるで不完全なデュークとでも言いたげだわ」

「おまえが模造品だと言うのなら俺の方こそ、そうなんだ。

 俺たちは世界を混沌と混迷に陥れた共犯者だってこと、気づいているのか」




その後、俺たちがハーマン・ウェブスターに出会ったとき、彼は自らの喉に刃を突きたてて死んでいた。切れ味の悪いナイフで刺したのだろう。傷口が二重になっている。おそらくすぐには死にきれず、もう一度・・・


 とにかく楽に死んだわけではなさそうだ。


「安楽椅子に座っているのにね」

 ビアンは、そんな冗談で父の死を笑う。

「彼はいつも魂の解放を願っていた。

 これでおそらく救われたのだと、あたしは思うわ」

「死んで幸せということか?」

「いいえ、そんなことは言っていない。

 彼は間違いなく不幸だったと思うけど・・・

 あたしみたいな娘をもって」

「とにかく俺の任務は終わったんだ。

 そんな大層なものではなかったがなあ」

「行くのね?」

「ああ。

 だが、おまえはこの街に残ればいい。

 此処なら、おまえは受け入れられる。

 きっと幸せだってみつかる筈さ」

「冷たいよね。

 本当は、そんなの信じてもいない癖してさ」

「さぁな。

 おまえだって言ってたろ?

 俺は優しさの使い道がわからない奴なんだって」

「これがサヨナラだなんて思わないから、こういうわ。


 Good Luck」

 と、それが妙に格好つけた言い草だったから、俺は思わず吹き出して笑い、彼女に見習って、こう返した。


「Luck a bye」


 と。


 それから俺たちは互いに背を向けて、おそらくは彼女も、ふりむかずに立ち去った。

 別れの挨拶を綺麗に交わしたことに二人、満足していたからだろう。

 たがいの運命をふたたび、すれ違わせる別れ。

 俺たちにとっては上出来だった。

 

 そんなもの、いつだって思い通りになることを、俺たち二人は解っていたから問題にもならなかったんだ。


 それはつまり・・・


「しっているだろ?

 世間の奴らが俺のことを何と呼んでいるかということを・・・」


 つまりはたぶん・・・


そういうことだ。

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the good lord will take you away なかoよしo @nakaoyoshio

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