第七話 夢の話を1

 あれからどんな話をしたのか正直覚えていない。あいだあいだに嘘や冗談を交えながら言葉を紡ぐものだから、何が本当のことなのか全然分からなかった。

 初めて会ったとき魚月さんも不思議なひとだなあと思ったけれど、千去さんはなんだか「わからないひと」だ。

「最近帰りが遅いようだけどどうしたの?」

「友達と、ばったり会っちゃって。長話してたらこんな時間になってたんだ、ごめんなさい」

 嘘を吐くのは良心が痛む。

 祖母からも「嘘つき子はこの家に要らないよ」と散々怒られたことを思い出した。けれど今回はやんごとなき事情あってのことなのだ。致し方ない。

 重ね重ね謝ったけれど、お母さんは「ああそうなのね」と安心したように笑った。

「でもあんまり暗い時間まで外にいちゃだめよ?」

 気を付けます、と応えようとした瞬間、家の固定電話がリビングに響いた。

 洗い物で手が離せないお母さんの代わりに、ぼくが真っ先に受話器を取る。

「もしもし、世良です」

『夜遅くにご免なさいね』

 電話越しだと聞き慣れない声だったけれど、話し方から理解することができた。バイト先の美代子さんだ。

『大事なことを言いそびれていたの。新くん、明日が一番忙しい日になるわ』

「い……一体なにが」

『ふふ。汚れても大丈夫な服でいらっしゃい。丸一日力仕事ばかりで働いてもらうことになるのだけど……』

「だ、大丈夫です! ぼくこう見えて運動する方なので!」

 まあ半分くらい見栄だけど。

 それを聞いた美代子さんは心底嬉しそうに「あら~、男の子ねえ~」と笑っていた。

「それで、明日は何があるんですか?」

 内緒話をしているようにひっそりした声で訊く。今か今かと返事を待ったのちに、声高らかに美代子さんは告げたのだった。

『明日は月に四度あるかないかの牡蠣焼きの日よ!』



 月に四度って、それ週一じゃ。

 重たい眼を擦って欠伸をした午前六時。そんなことを考えていたぼくはいま、船に揺られている。

 いつもより近い水面と潮の匂い。身に付けているライフジャケットはとてもごわごわしていて動きにくかったけれど自分の命を守るためだと思えば我慢できる範囲だった。

「坊主、酔ったりしてねえか、大丈夫か?」

 そう心配してくれる漁師さんは慣れているからか、作業服ひとつで船の操縦をしている。いまこの船にはぼくらの二人しかいない。

 おじいさんと呼んでも構わないくらいの年齢だと教えてもらったけれど、節くれた手と大きな背中はなんだかとてもかっこよく見えた。

「大丈夫です! なんか、船酔いはしないみたいで」

「おう、そうか。お前さん漁師に向いてるんじゃねえか」

 あははと豪快に笑う。


 昨夜。

 船で漁をしたことがあるかと訊かれれば「無い」と答え、船に興味があるか訊かれれば「ある」と答え、海が好きかと訊かれれば「大好きだ」と答えた。

 たったそれだけ。

 気が付いたら朝六時前に港を経つからと告げられ、ちょっと困惑していたにも関わらず、ぼくはわけもわからぬまま「はい」と答えてしまった。ゆえに、今に至る。

 牡蠣焼きとは聞いたけれどまさか獲るところから始まるなんて。

 人が片手で数えられるほどの人数しか乗れない船に初めは転覆して溺れて死ぬとか、サメがひとを襲う映画のワンシーンだとか、そんな不吉なことばかり浮かんできたけれど、いまはこうして船に揺られているだけで楽しくて仕方ない。

「安心しろ、この海は余程のことが無い限り荒れはせん。知っとるか? 静かな波が海岸に打ち寄せるからこの海は『琴のうみ』とも呼ばれとるんだ。琴の音みたいに穏やかだってことだな」

 片手を海に付けたまま、潮風を浴びる。まだ陽が昇りきる前の薄明の空だ。

 小さい魚が泳ぐ影、浮いては消えるクラゲの影、所々に見える仕掛けのポイント。

 漁師さんは点々とするポイントの中から自分が仕掛けたものを見つけると、そこに船を停めた。

「よその漁じゃ牡蠣の水揚げにクレーンを使うんだが、わしはそんな機械持っとらんからな。こうやって……籠につけた縄を引き上げるんだ。坊主、めいいっぱい引っ張れよ」

「は、はい!」

 漁師さんが海面に浮かぶポイントを引き寄せて慣れたように水揚げをする。失礼にもご年齢的に大丈夫かなあと少し思ったけれど、本当に失礼な心配だった。

 捲し上げた腕は見劣りしない筋骨隆々で、ひょろひょろのぼくが大丈夫じゃない気がしてくるほどだ。

 将来はこんなおじいさんになりたいなあ。

 縄を引き上げていくうちに海面から薄っすら籠の影が見え、藻がびっしりついた籠が船のヘリから顔を出した。

「おら坊主」がしゃん、と貝同士がぶつかる音がする。「これが牡蠣だ」

 強い海の匂いがした。

「藻がいっぱいで……よく見えない……」

「がはは! 坊主は牡蠣食ったことあるのか?」

「牡蠣フライとか、お店にあるやつなら」

「じゃあ牡蠣焼きは初めてか。気ぃつけろよ」

 気ぃ付けろよ……? 一体何に?

「ほんとは牡蠣だけじゃなくて蟹とかもまあ色々仕掛けてるんだ」

 船の床にある扉を開けて、海の倉庫の様な空間に籠を入れながら漁師さんは続ける。

「こうやっていろんな魚が棲みつくようになったのも牡蠣のおかげだな。今も綺麗とは言い難いが、昔はもっとヘドロみたいでどうしようもなかったんだが。こうして獲った牡蠣の殻は地元の子供会で集めとるんだよ。なんでか知っとるか?」

「牡蠣の殻には海を綺麗にしてくれる生き物が棲んでるから、って、小さい頃教えてもらいました。殻に棲んでる微生物が川の汚れを食べてくれるからだって」

 忘れかけていた小学生の自分の姿を思い出す。

 牡蠣の表面には水生ミミズやカツラワムシなどの微生物が棲みつき、その微生物がアンモニアなどの有害な物質を食べてくれる。

 海そのものではなく、海にそそぐ川から大量の土砂やごみなんかが流れてきて、海をヘドロにしていたらしい。これではあまりにも酷いと悩んだ末に牡蠣の殻を川に敷き詰めることにしたそうだ。実際それから海が綺麗になったと科学的にも証明されている。

 ぼくもそうやって地域の子供会の活動で川に入って作業したっけ。あの頃はめんどくさいとか思ったりしてたけど、後々からこんな繋がりになるなんて思ってもいなかった。

「さすがだな坊主!」

 そうやって笑う漁師さんはなんだか嬉しそうだった。


 きらきらと海が輝いている。

 行きと同じ道なのかどうか、この広い海ではわからないけれど、一仕事を終えたぼくたちは港へ船を進めた。

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