第五話 懐古屋2
人の
陰を
時を守りし海の
代価を支払い
祖母の手帳はこんな繊細で美しい言葉から始まっていた。
後に続くのは様々な深海生物を纏めた図鑑のような頁。
先程まで楽し気に会話をしていた魚月さんとエイギさんがその手帳を凝視している。ぼくはそんな御二方に畳みかけるように、バックからひとつの鉱物を取り出した。磨かれて加工される前の、岩石と混じった宝石。
その中を一匹の魚がふよふよと泳いでいる。
魚月さんが大きく目を見開く。
「きみ……一体、それは」
「祖母の遺品です」
「い……ひん、そう……」
エイギさんが豪快に笑った。
「で、新、俺たちに訊きたいことってのは何なんだ?」
「教えてください」ぼくはカウンターに身を乗り出して言った。「祖母のことが知りたいんです」
ざざん、と海の声が聞こえる。
「きみのそれは、好奇心?」
魚月さんが目を伏せた。訊いちゃまずいことだったんじゃないか、と少しばかり不安になりながら「いいえ」と応える。
「知らなきゃいけないと思ったんです。……祖母はとても厳しいひとでした。いつも何かに怒っていて、ぼくは祖母のことが怖かったんです。でも、この港に来て、バイトを初めて、たくさんの方から祖母について聞きました。……わかったんです。本当は、ぼくが思ってるよりずっと優しいひとなんだって。いままで何か勘違いをしていたことがたくさんあるって」
出来ることなら、もう一度祖母に会いたい。もう叶わぬ願いだけれど。
「もういいんじゃねぇの」
エイギさんがぼくの頭を乱暴に撫でた。
「偶然にしては出来すぎた話だよ。あれだけ孫には孫の道があるのなんのって言っておきながら、その孫が自分からやってきたんだ。話してやれよナツキさん」
「……
ここから離れることを伝えたのか、店の奥から「え〜」という女学生の溜息が聞こえてくる。その後にハスキーな笑い声が加わり、魚月さんは笑顔を保ったまま出てきた。
「じゃあ、行こうか」
着の身はそのまま、壁に掛けてあった黒い
ぼくは慌ててそれについていく。
「やっぱり海は良いなぁ」
潮風に盗られそうになる帽子を押さえながら魚月さんが言った。
陽の光を反射して海がキラキラと輝いている。空は雲ひとつない真っ青で、たくさんの子供たちが岩場を遊び場にしていた。
「ちゃんとみんなが見てくれるから危なくはないんだよ。そりゃ転んだら怪我はするだろうけれど。たくさん転んで遊んで笑って、子供たちは成長していくんだ。俺はそれを見ているのがとても楽しい」
地域を見守る子供会のおじさんやおばさんのようにぽつりぽつりと話し出す魚月さんの横顔は、やっぱりとても優しげな
不思議なひとだなぁと常々思う。
街中の喧騒にはとても似つかないひとだ。
港の隣にある広い公園。僕らはその公園と海に挟まれた散歩道を魚月さんのペースでゆっくりゆっくり歩いていた。目指すのはずっとずっと奥にある岬の灯台らしい。
日が暮れてしまうんじゃないかと正直思う。
「少しぼくの話をしよう」
潮風を胸いっぱいに吸い込んで、魚月さんが言った。
「私がこの街に来たのは今よりもずっと前で、京子さんと出会ったのはまだ懐古屋にも居ないときだった。これからどうしようって思っていた時に、岩場に座り込んでいる京子さんを見つけたんだ。『なにをしているの?』って訊いたら、京子さんはこう応えたんだ。
『夜を売っているんだ』って」
視界の端で何かが弾けた。
「『人の陰より出しもの、陰を糧とす灯に、時を守りし海の聖、代価を支払い夜を創る』。世界は逡巡しているんだよ、何かが生まれたときには何かが朽ちる。そうやって世界は回っている。新くんは『
記憶に新しい桃色の魚が、あの時と同じように宙を泳いでいた。ぽつりぽつりと姿を現すと同時に時計塔が音楽を奏で始める。
夜の合図だった。
「ぼくらにしか見えない彼らについて、まだ何もわからない。触れようとすれば逃げられるし、触れれば泡みたいに弾ける。消えたと思えば別のものが形を作って──……ずっとその繰り返しだ。それを見て京子さんはいつも『海にはたくさんの哀しみが流れてくる』と言っていた。浄化されていないたくさんの哀しみが、いずれ海を埋めつくしてしまう。
『海の聖』は哀しみの成れの果てだ。どうしようもなくて仕方ない哀しみはいずれ時間と共に流されてくる。
ひとは、彼らがいては先へ進めないから。
それでも、忘れられてしまうのはそれこそ本当に哀しくて仕方ないだろう。
京子さんには、そんな彼らの声が聴こえたんだ。彼らの声を代筆し、彼らの声を届けるのが京子さんの仕事だった。
悔しいけれど俺には出来ない所業だ。
ただの好奇心じゃないと言うのなら、海の秘密を守れるというのなら、どうか頼まれてくれないか。きみにしかできない仕事なんだ 」
魚月さんの横顔の向こうで、海が大きく唸りを上げた。蛍火のような光を纏った白いクジラが、潮風と共に泳ぎ出てくる。
「少し喋りすぎたね。さぁ、懐古屋に案内しよう」
魚月さんの瞳に月が映えた。
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