第四話 懐古屋1

 海はとても広くて、大きいんだ。

 あらたなんか一飲みにされちまうね。


「あった、見つけた!」

 そう叫んだ途端、一気に埃を吸い込んで思いっきり咳き込んでしまった。

 丁度ちょうど台所で朝ご飯の支度をしていたお母さんが心配そうに声を掛けてくれた。何でもないよ、とだけ返してからもう一度、ひっぱり出したに向き直る。

 何度も使いこなされてぼろぼろになった大学ノート。

 黒のマッキーペンで「うみについて」と書かれている。その下には丁寧に「世良京子」と名前も記されていた。


 ずっと怖くて開けなかった祖母の遺品だ。


 他にも木箱のなかには図鑑だったり何かのコピーだったりスケッチだったりが詰め込まれている。


 船の停泊所にほど近い「ときの港」の売店でバイトを始めてから今日で五日。もうすぐ一週間が経とうとしていた。初めはなかなか捌けなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、それでも何とかできるようになってきた。港の漁師さんたちも売店の美代子さんも、本当に良いひとばかりで毎日が楽しい日々だった。有難いなあと心底思う。

 「もうすぐ終わっちゃうのね、寂しいわ」

帰り際。美代子さんはそう言ってたくさんのお土産を持たせてくれた。お土産と言っても中身は個包装されたお菓子がランダムに詰め込まれているだけだけど。こういうのは気持ちが嬉しいのだ。

 好意に甘えて、有難く頂戴する。

 「ありがとうございます」

 「そういえば喫茶店には行った?」

 美代子さんの目が輝いた。

 美代子さんの言う喫茶店とは売店の上の階にある「懐古屋」のことだ。懐古屋には生前の祖母とよく訪れていたとかで、いつも楽しそうに話をしてくれる。

 けれど、懐古屋にはあれからまだ行っていない。冬休みとはいえ、ぼくは学生だ。勉強も、一応部活だってある。

 「最初に行ったっきりで……でも今から行こうかなって」

 そうはにかんで応えると、とても嬉しそうに笑い返してくれた。

 今日ははじめからそのつもりだったのだ。

 美代子さんが言っていたアップルパイも食べてみたいし、運が良ければ不定期に期間限定だというたい焼きにも、綺麗に薔薇の形に整えてくれるらしいチリンチリンアイスにも挑戦したい。

 それに、それとは別に、少しだけ相談があるのだ。

 「あらそう! それならあれを食べてほしいわ……ええっと、お名前なんだったかしら……すごくおいしいお肉の料理があったはずなんだけど……」

 美代子さんはひとしきりうんうん唸ったあと、「忘れちゃった!」とまるで少女のように肩を竦めた。可愛らしいおばあちゃんだなと素直に思う。


 「ありがとうございました!」

 「こちらこそ、ありがとうございました。また明日もよろしく頼むわね」


 ◇◇◇


 上からひとが降りてきてもすれ違えないほどの狭い階段を上って、扉の前に立つ。

 プレートが「OPEN」になっていることを確認してから、あの日と同じようにゆっくり扉を開けた。

 からんからんと鈴が鳴る。「いらっしゃいませ」とテノールの音が耳に届いて胸の辺りが熱くなった。

 ぼくのことは憶えているのだろうか。

 きゅっと、抱えているトートバッグを握り締める。


 けれど、それは杞憂だったようだ。

 「……あ」

 「お……? よう! 坊主じゃないか! どうした元気か!」

 あっはっは、とカウンターに座っていた男性が豪快に笑った。

 深緑のつなぎ服に少し明るい髪色。港で配達人をしているというエイギさんだった。

 知った顔を見つけて、少しだけ心が温かくなった気がした。

 知った顔、というか、憶えてくれていたことが何よりも嬉しい。

 「お久しぶりです。隣、いいですか?」

 「おうおう! 座れ、遠慮すんな! おいナツキさん、あんときの坊主だぞ」

 芯が強くて太いエイギさんの声はカウンターの奥の調理室までよく届く。歓迎されているのは嬉しいけれど、ちょっぴり恥ずかしい。

 わかってますよ、と声が聴こえた。同時に、ふわりと珈琲の香りが漂ってくる。

 「こんにちは新くん。お久しぶり」

 海の色をした瞳と夜空の髪。喪服みたいな黒い羽織は相変わらずで、モノクルの金色が不思議と馴染んでいる。

 「お、お久しぶりです」

 紫陽花のような笑顔を浮かべるこの店員さんの名は、魚月さんという。

 魚の月で、魚月なつきさん。とても素敵な名前だ。

 (良かった、憶えていてくれた)

 なんだか意味もなく、気恥ずかしくなってしまった。それを誤魔化すように慌てて注文をする。

 「この間の珈琲が美味しかったので、珈琲と、あと、アップルパイをお願いします」

 「承知致しました。お先にサービスです」

 ことりと、目の前に白い皿が置かれた。

 クリームのような形をした真白くて小さなお菓子。厨房に向かう黒い背中にお礼を言ってから、ひとつだけ摘んでゆっくり口に入れた。

 さくさくとしていて、だけどあっという間に溶けてしまう。

 お菓子の名前を思い出せずにいると、メレンゲクッキーだと隣のエイギさんが教えてくれた。

 「魚月さんの手作り……かどうかはわからねぇが、サービスにしちゃ味が美味すぎるんだよな。商品にしちまえばいいのに」

 「好きでやってんだよ、おれは」

 魚月さんがトレーを持って戻ってきた。珈琲カップと、クッキーのものよりも一回り小さくて上品なお皿。そのうえにほくほくとしたアップルパイが乗っている。

 「そういえばキョウコさんもアップルパイ好きだったよな」

 エイギさんはそう言って懐かしそうに笑った。

 そうですね、と魚月さんも軽く笑う。


 今なら訊けるかもしれない。

 

 ぼくは足元に置いたトートバッグを膝の上に置き直して、ゆっくり息を吸った。


 「おふたりに、お尋ねしたいことがあるんです」

 

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