第2話 その相談者、命相部員
月城が
一日の授業をこなして帰りのホームルームが終了した後、腕に顔を
「そろそろ起きろ。掃除の邪魔になるぞ」
「そうだねぇー……、おやすみー……」
文脈が全く繋がってないぞ。起きる気が完全に無いじゃないか。
とは言え掃除当番の生徒は気にしておらず、窓際最前列で居眠りをしているこいつに構うことなく掃除を始めている。さすがうちのクラスメイト、霞ヶ丘の扱いを心得ていた。
返事をできるほどの意識が残っていれば問題無い。俺は一方的に要件を伝える。
「皿糸先生に呼ばれてるから、ちょっと職員室に寄ってから部室に行く」
「分かったー、すやぁ……」
起きる意思を完全に放棄した霞ヶ丘に背を向け、
部活や委員会に向かう生徒の会話をぼんやりと聞き流しながら、青春真っ只中の彼ら彼女らの流れに逆らって一人歩く。
二階の隅にある職員室へは、特別な理由がなければ生徒は向かわない。自然と多くの生徒とすれ違い、何を思うでもなく真反対へと歩を進める。
べつに、これだけの行為に特別な意味を見出だしたりはしない。日常の一部を意味ありげに語ってみたところで、何も起こらない。
彼ら彼女らのような、特別感の無い青春に嫉妬したりもしない。物語に書き起こして面白いくらいの出来事でなければ意味が無い。
暇をもて余した脳が
「失礼します」
多くの学校に当てはまるが、校内は教師よりも生徒の数のほうが多い。そのため、若さをもて余した賑やかな声は各所から聞こえてくる。
そんな中、職員室は生徒よりも教師が多く集まる珍しい場所だ。それ故なのか、醸し出す雰囲気が明らかに違っている。その空気を作り出している要因の一つは、大人な苦味が鼻孔を掠めるコーヒーの香りだろう。
注ぎたての香ばしい匂いを追い、コーヒーメーカーの近くにある空席に見えるデスクへと歩み寄る。
「皿糸先生」
一見しただけでは空席に見えるその場所には、パソコンに隠れて見えなかった皿糸先生がいた。
モニターから目を離し、椅子を後ろに引いてこちらへ体を向ける。
「渡刈君、わざわざごめんね」
「いえ、大丈夫です。部活のことですよね」
「ええ。朝に頼まれていたポスター用紙と画ビョウと、それからマーカー数色を用意しました」
皿糸先生はスーパーのレジ袋を広げて中身を取り出し、机に並べて俺に確認を取らせる。
「マーカーは学校に備蓄してあったものを部費で購入という形にしたので、使用後はそのまま部室に置いて構いません」
「ありがとうございます。早速時間のある時にでも作ってもらいます」
確認が終わると、皿糸先生はそれらをレジ袋に戻して俺に手渡した。特段これ以上の要件も無いので立ち去ろうと思ったところで、皿糸先生はデスクの引き出しを一段開けた。
その中から一枚の紙を取り出し、俺が見やすい向きでデスク上に置く。
「それと、先ほど月城君が入部届けを持ってきました。もちろん断る理由もありませんし、渡刈君と口論をしたとも聞きました。なんだか、やる気に満ち溢れた目をしていましたね」
あいつ、どんな心持ちで入部届けを出しに来たんだよ……。
想像以上の期待を寄せられていると感じながら、気持ちの一端を担う理由を思い返す。
「まぁ、心理カウンセラーになるのが夢だって言ってましたからね。命相部はうってつけだと思いますよ」
「君と霞ヶ丘さんのことを、えらく気に入っているように感じられたわ」
「霞ヶ丘は納得しますが、俺をそんな気に入るなんてあり得ないですよ。皿糸先生だって分かってるじゃないですか」
俺は打算的に言動を選ぶ傾向が強いため、ノリや勢いといった感情を優先する他の学生とあまり反りが合わない。友人がいないというわけではないが、イマドキの高校生からしてみれば大層つまらない存在に映るだろう。
俺の言いたいことを理解している皿糸先生は、頬に手を当てて困り顔を作る。
「私はどちらかと言うと、そのネガティブな心持ちが良くないのだと思うわ。相談者の鬱屈は解決するくせに、どうして自分の卑屈は放置するのかしらねぇ……」
「卑屈なつもりはありませんよ。理性的に、自分のことを正しく理解しているだけです」
「昔はもっと純粋だったのに、いつの間にこんな小難しい子になってしまったのかしら。もう少し夢を見て、ポジティブな心持ちにならないものかしらね」
「ポジティブが夢を見ることだというのなら、ネガティブな俺は現実を見てるんですよ。人生なんてつらいことのほうが多いんですから、志を低く持っていれば転落した時に軽傷で済みます」
「とことん自分へのカウンセリングは甘口ね……。これで他人へのカウンセリングは的確に行うのだから、不思議なものだわ」
何てことはない。他人に対しても自分に対しても、理論を使い分けているだけだ。
俺は、俺のメンタルを理解している。
皿糸先生は腑に落ちないといった様子だったが、特にそれ以上は反論も無いのか言葉を続けなかった。
会話の終わりを示すために、俺はレジ袋に目を落として軽く持ち上げる。
「これ、ありがとうございます」
先ほども言ったお礼の言葉を再び口にした。
「どういたしまして」
皿糸先生も言葉の目的を理解して、月城の入部届けを引き出しに戻す。
俺はそのまま立ち去ろうとしたが、ポスターと月城であることを思い出した。
「そういえば、部活名に何で子供って入ってるんだと月城にも言われましたよ。ポスターを書く前に、どうせなら子供を抜かしませんか?」
高確率で訊かれる質問を少しばかり
すると皿糸先生は小さな体で胸を張り、腰に手を当てて意気揚々と大人ぶる。
「君達高校生なんて、世間的にはまだまだ子供です」
子供みたいな先生に子供認定された。
職員室を後にして廊下を進み、階段を上って三階の命相部部室を目指す。
文化系の部活や空き教室が並ぶこの辺りは、だいたいどの時間でも静かな空気が流れている。遠くから聞こえる運動部の発声を耳に掠めながら足を動かした。
とある部室の一角に『命相部』と書かれたプレートを目に映し、入室時のマナーとして扉をノックしようと手を伸ばす。
すると、部室の中から話し声が聞こえてきた。
「ん……」
ガラス越しに室内を覗き込むと、ボールペンを握る霞ヶ丘の隣に月城が座っており、二人の対面に男子生徒と思われる後ろ姿が見えた。どうやら対談中らしい。
俺は振り返り、今歩いてきた廊下を戻る。
数メートルほど歩いて角を曲がり、鞄からライトノベルを取り出して背中を壁に預けた。
この位置からなら、部室の扉が開かれた際に音で状況を確認できる。相談が終わって男子生徒が退室したら部室へと向かおう。
相談中に割って入室するなんて不躾な真似はするはずもない。入部初日から相談を持ちかけられる月城に運命の気まぐれを感じながら、ページをパラリと
二章を読み終えて三章に入ろうとしたところで、ガラガラガラと扉が開かれる音がした。
「先輩、ありがとうございます! 僕、もっと頑張ってみます!」
どうやら相談が終わったらしい。
男子生徒の言葉を聞きながら、ライトノベルを閉じて歩き出す。角を曲がったところですれ違い、その際に灰色のネクタイをチラと流し見た。
月城のことを先輩呼びしていたようだし、間違いなく一年生だ。
たった今閉められた扉を開けて部室に入ると、霞ヶ丘が記録用ノートを閉じてこちらに顔を向けた。
「おかえりー、渡刈くんー。今ね今ねー、月城くんが相談を受けてたんだよー」
「知ってる。今そこですれ違った」
本当はそれ以前に部室をチラと見て知っている。けれど、そんなどうでもいい情報は伝える必要が無い。
皿糸先生から受け取ったレジ袋を長机に置き、一仕事終えたばかりの功労者に声をかける。
「月城のカウンセリングを隣で聞けなくて残念だ」
「べつにそんな大したもんじゃないって。むしろ、ちゃんとカウンセリングできてホッとしてるぐらいさ」
その言葉は
相談の様子を隣で見ていた霞ヶ丘は、素直な評論を口にする。
「いやいやー、月城くんは凄かったよー。ちゃんと言葉に隠された感情を拾い取るのが上手いねぇー。どっかの渡刈さんとは大違いだよー」
「おい、
唐突に引き合いに出された俺は、恨みがましい視線で霞ヶ丘を睨み付けた。
するとやりとりの意味を分かっていない月城が、霞ヶ丘に疑問の目を向けた。
「なんだ、何のことだ? まるで渡刈が力不足みたいな言い方じゃんか」
「力不足とはちょっと違うかなー。強いて言うならー、得意分野の違いなのかなー」
「得意分野?」
いまいち分かっていない様子の月城に、俺は言葉の裏に嫉妬を隠して答えを述べる。
「相談者の悩みにいろんなパターンがあるように、話し手にも得意なカウンセリング方法はそれぞれ違いがある。俺は質問を繰り返して相談者自らに本音を引き出させる質問誘導をメインに行っているし、どうやら月城は相手の本音を拾い上げるのが得意みたいだな」
「まぁそうかもな……ってか、それが基本だろ」
「確かに基本で基礎だが、それが一番難しい。相談者は心の拠り所を求めている人が多いが、始めから話し手に心を開くやつはほとんどいない。だからこっちから言葉を拾い上げて、私は親身ですよ、ちゃんと理解していますよ、ってのを伝えて心の距離を縮めてやるのが最善手だ」
そうすると、さっきの一年生みたいに感動する人も出てくる。
「へぇー……、今まで気にしたことも無かったな」
月城は無自覚に行っていた才能を誇るでもなく、知識が広まったと感嘆の声を呟いた。
意識するまでもなく感動を生み出すとか主人公かよ。
しかしそんな月城の才能が発揮される場面も訪れることは無く、一人の相談者も訪れないまま二週間が過ぎ去った。相談者の来訪自体が少ないので、何も珍しいことではない。
ついでに、時折月城と霞ヶ丘が揃って部室に居ない日もあったが、どこで何をしているのかは俺の知るところではない。
六月にもなると一日を過ぎる毎に暑さが増していき、北海道が夏を受け入れる準備を始める。開け放たれた窓から吹き込むそよ風と、キジバトの鳴き声が部室に風情を運び込む。
ちなみに、北海道の暑さなんて大したことないだろうと言う意見は受け付けていない。北海道民だろうが沖縄県民だろうが、その人が暑いと思う基準はその人の中にしかない。確かに北海道は他県に比べると暑くはないが、その分北海道民の暑さ耐性は経験的に低くなる。
これが逆に、冬になると他県民に寒さ自慢をひけらかし始めるのだ。寒さ耐性の基準も、それぞれの地域の基本を元にしたものでしかないのに。
基準が違うことで張り合うことの愚かしさは、いつの世の中も無くなりはしない。相手よりも優れた部分を誇示しようとするのは人間の本能だ。
来るべき本格的な夏に向けて心の準備をしていると、月城が気の抜けた声で不満を漏らした。
「暇だ……」
「暇でいいんだよ。相談者が多かったら、それはそれで問題があるだろ」
俺は読んでいるライトノベルからは目を離さず、つい先日霞ヶ丘にも言った言葉をそのまま口にした。
月城は誰も訪れることの無い扉に目を向け、立場的に複雑な心境を吐露する。
「そりゃあ皆病みまくりの暗い学校なんてオレも嫌だよ。けどさ、全く必要とされてないってのも寂しいっつーかなんてーかさぁ」
正直なところ、その気持ちには同意する。
自分は必要とされていない。と思い込んでしまえば、自分はいらない人間なのだと直結して考えかねない。
人は少なからず自己承認欲求を満たしたいと思うものだ。月城のように、相談に乗って相手の助けになりたい。と、自分のために思うことは珍しくもない。
人の苦悩を解決したい。けれどそもそも、人に頼らなければならないほどの苦悩なんて生まれないほうがいい。
そんな二律背反は、人を助ける立場の人間なら誰しもが考えることだ。
だから俺は、どちらの気持ちにも応えない当たり障りの無い言葉を投げる。
「元々相談は少ないからな。こればかりはどうにもならん」
月城は入部してからまだ二週間ほどしか経っていないから暇だと思うのかもしれないが、俺みたいに一年以上も大したことの無い日々を送っていると諦めもつくようになるぞ。
ちなみに、時間潰しになりそうなポスター制作はすでに終了している。俺が部活を休んだ時に霞ヶ丘と月城で作ったそうだが、何をどうすれば部室で一夜を明かす事態になるのか分からない。
知らない物語の導入部を想像していると、霞ヶ丘が一つの提案を口にする。
「なら月城くんー、わたしの人生相談を受けてくれないかなー?」
俺はその言葉を聞いて、ライトノベルを
何も知らない月城は、俺が悔いの残る記憶を思い出していることなど気付かずに言葉を返す。
「それはいいけど、何か悩んでることがあるのか?」
「うんー。ずっとー、ずーっと悩んでるよー」
「そうなのか。つーか、渡刈には相談しなかったのか?」
「これはねー、渡刈くんにも解決できなかったんだよー」
……あぁ、そうさ。俺は過去に一度霞ヶ丘からの相談を受け持ち、失敗している。
月城が、信じられないといった気持ちを込めて俺を見る。
「マジで……?」
「本当だ」
偽りも誤魔化しもしない。端的に自身の失態を認めた。
この後に展開されるであろう口論を先読みし、二人だけのほうが話しやすいかと霞ヶ丘に問う。
「席を外すか?」
「ううんー、べつにいいよー。渡刈くんは知ってるんだしー、今さらだよー」
「……分かった」
霞ヶ丘が立ち上がり、長机の対面に用意されている相談者用の椅子に座る。
「またこっちに座るなんてー、考えもしなかったなー」
俺は霞ヶ丘が座っていた椅子に座り、ノートを広げてボールペンを握った。
隣に座る月城に、絶対的なルールを確認する。
「俺は一切口を挟まない。相談が基本的に一対一の形式なのは知ってるだろ」
「もちろんだ」
命の相談を口にする人の気持ちは複雑で、それを聞き拾う人は必ず一人でなければならない。
話し手にも主義主張は個人差が現れる。十人が同じ相談を持ちかけられたとすれば、十通りの言葉が生まれる。それを相談者は、多彩な話が聞けて良かった、とはならない。
ただでさえ迷い戸惑っているのに、複数の正解を開示されてはどれが正しいのかが分からなくなってしまう。
物事を選べないから相談しているのに、これでは本末転倒だ。
月城は俺と霞ヶ丘の準備が完了したのを確認し、若干自信無さげに言葉を告げる。
「それじゃ……、解決できるかは分からないけど、悩み事を話してくれ」
命相部で初のリピーターとなる、霞ヶ丘須美との対談が始まった。
「わたしはねー、どうやって生きたらいいか分からないんだー。やりたいこともべつに無いしさー、本気になれる何かを見つけてないんだよねー」
霞ヶ丘はひとまず漠然と語り出し、月城が聞いた言葉を
「生き甲斐が無い……ってところなのか?」
「そんな感じー」
「そうか……。でも、全記モードっていう凄い特技を持ってるじゃんか。それを生かした仕事とかをすればいいんじゃないか?」
「あれはねー、すごーく疲れるし、すごーく短い時間しかできないんだー。それに言っちゃえばー、ただ早く書き取りができるだけだよー。録音でも録画でもー、言葉を残すだけなら他に便利な方法はいくらでもあるよー」
「便利とか効率とか、そういうのはあまり関係無いんじゃないかな。誰もができるわけじゃない特技は、それだけで人生を生き抜く武器になる」
「それにわたしはさー、こうー、のんびりやさんだからねぇー。ちゃんと働けるのかも心配だよー」
「人にはなんでも向き不向きがある。霞ヶ丘に適した仕事を見つければいいと思うぞ」
「たとえばどんな仕事があるのー?」
「そうだな……例えば、花屋とか図書館の貸し出し担当とかはいいんじゃないか? 穏やかさということなら、介護士や保育士も適役だと思う」
「あぁー、図書館の貸し出し担当はいいかもしれないねぇー。ずーっとぼーっとしていられそうだぁー」
「いや、少なからず業務はあるだろ……」
「もういっそのことー、永久就職でもいいんだけどねー」
「お嫁さん、か……」
「家事ならー、自分のペースでできるからいいよねー」
「ちなみに……、好きな人や恋人はいたりするのか……?」
「いないよー」
「なら、恋人探しをすればいいのか……な?」
「そうかもねー。……けれどー、ちょっと問題あるんだよー」
「問題?」
……きた。俺はここから先の言葉に、対応しきれなかった。
言い負けたとは思っていない。けれど、言いくるめられなかった時点で相談は失敗だ。
未だに悔やむ記憶が再び訪れようとしている。そんな過去など知りもしない月城は、ここからどういった展開を見せてくれるのだろうか。
霞ヶ丘は気だるげな瞳を僅かに開き、ここからが本題だと気持ちを切り替える。
「ねーえ、月城くんー。きみも知っての通りー、今言ったことも全て無意味なんだよー」
「……!」
月城はたらりと一滴の汗を垂らした。ここから先の相談……いや、口論がどういった展開になるのかは、月城もよく理解しているだろう。
「まさか……」
確認、と言うよりも、信じたくないといった声音で呟く。
それに対し、霞ヶ丘は決定的な一言を口にする。
「うんー、月城くんも使ってたー、人生無意味理論だよー」
月城は僅かに言葉を詰まらせ、この後に続く展開を想定して口を開く。
「……働くかどうかは一旦抜きにして、楽しく生きたいとは思わないか?」
「思わなくもないけどー、そう思うことも無意味だよねー」
将来の夢などから話を掘り下げる行程はお互いに不要だと判断し、命の真理を問う霞ヶ丘の深層心理へと潜り始める。
否定されることは分かっていても、会話には必要な流れがある。
「楽しいと思っていたら、無意味だから死にたいとは考えないんじゃないか?」
「そうかもしれないねー。でもー、これから先の人生をずーーーっと死にたいなんて考えずに生きられるのかなぁー」
「それは霞ヶ丘が心持ちを改めれば可能だ。少なくとも、死にたい"なんて"って言ってるんだから、自殺が愚かしいとは思ってるんだろ」
「感覚的にはねー。だけどそれはー、ただの本能だよー。人生自体が無意味なことなんだからー、そんな本能も無意味だよー」
「なら、心持ちを改められなくてもいい。霞ヶ丘が無意味だと思いながらでも生きていけるのなら、それでいいとさえ言える」
「そうやって嫌な思いを抱えながら生きることを考えたらー、早く死にたくもなるよねー」
「っ……」
先日の俺と月城の口論を
月城はそれを敏感に察知して表情を険しくした。
「……そう考えることすら無意味だ。無意味だと理解しつつも自殺していないんだから、理論が破綻している」
「痛いのは嫌だからねぇー。眠ってる間とかに誰かがスパーッて殺してくれるならいいけれどー、自分で痛いことをするのは最後まで耐えられそうにないかなー」
「痛みを伴わずに自殺する方法はある。練炭自殺でも入水自殺でも、身体を傷付けずに死ぬことは可能だ」
「苦しむのも嫌だよー……。そもそもー、そう行動すること自体が怖いもんー」
「安楽死なら、痛くも苦しくもない」
「それも同じかなー。わたしはー、自殺を決断することが怖いんだよー。自分の意思で死のうと思うほどー、強い心は持っていないんだー」
「くっ……」
月城は言葉を詰まらせた。
そもそも、月城は霞ヶ丘に自殺をさせたいわけではない。
自殺をする方法へと霞ヶ丘に話を誘導されたため、会話の流れに淀みが生まれた。
自分の流れに引き寄せた霞ヶ丘は、隙を見せた月城になおも畳み掛ける。
「痛いとか苦しいとかを感じることも無意味にはなるけどー、わたしはまだ生きてるんだもんー。死に脅える恐怖に逆らってまではー、死にたくないんだよー」
「なら……、スパッと死ねる機会が訪れれば、霞ヶ丘は死を選ぶのか」
「そうだねぇー……。自殺はできないけどー、他殺は嬉しいかなー。恐怖に負ける自分の意思に反して殺してくれるんだもんー。誰かがわたしを殺してくれるならー、多少の勇気を出して命を差し出したいとは思ってるよー」
「……!」
月城は恐怖に目を見開く。あの時の俺も、同じ表情をしていたに違いない。
死にたいけど、死ねない。けれど死ぬ機会があれば簡単に死を選ぶ。
どこにも、生きることを主軸に置いた思念が無い。
月城は会話の流れを断ち切るため、使いどころではないと分かりつつも切り札を口にする。
「心の拠り所となる人はいないのか……? 例えば家族と一緒にいる時も、そんなことを考えるのか?」
「もちろんだよー。わたしはー、わたしが望んで両親の子供として生まれてきたわけじゃないからねぇー。べつに嫌ってはいないけれどー、無条件に生きたいと思わせてくれる相手ではないかなー」
「っ……」
いとも
月城の場合はここで口論が終わった。だから、効果的な言葉だと信じて温存していた。
けれど霞ヶ丘は違う。
生きる上で悩む月城と、死ぬ上で悩む霞ヶ丘には決定的な差異がある。
生に重点を置いた理論展開など、通じない。
だがそれでも月城は、まだ諦めずに言葉を絞り出す。
「なら……、恋人ならどうだ。決められた両親ではなく、自分で選ぶ最高のパートナーなら、生涯一緒に居たいと思うはずだ。今はいないのかもしれないけど、これから見つければいい……!」
苦し紛れでも、熱のこもった確かな思い。
しかしそれを霞ヶ丘が一言で切り伏せる。
「無意味だよ」
いつもの間延びした声を潜ませ、明確な拒絶と共に
「月城くんだって分かってるよね。わたし達の人生無意味理論を解消するには、それこそ人生の意味を見つけるしかないって。……でも、わたしはもう、人生に意味が見つかることは無いと諦めてる。だって、今までどれだけの人が生まれてきて、どれだけの人が死んできたと思う? 一説では、約千八十億人くらいだって言われてるらしいよ。それだけの人類がいて、わたしなんかは比べ物にもならない天才がたくさんいて、それでも人生の意味を見つけられてないんだよ。なら、わたし一人が
これほどまでに
のんびりとしている普段とのギャップが、より霞ヶ丘の真剣さを表している。
秘めたる思いを正面から受け止めた月城は、言い返せない自分を悔いて歯を食い縛った。そして最後に、苦し紛れですらない、紛らわしきれていない苦しい言葉を口にする。
「……べつに、全てに意味を見出ださなくてもいいんじゃないか」
「それを月城くんが言っても説得力が無いよ」
「…………」
これで月城は、言葉を全て封じられた。
……同じだ。俺もここで言葉を返せなくなった。
悔しさに目を落とす月城を見て、霞ヶ丘が瞳を閉じる。
「……終わりだね」
霞ヶ丘には生きる理由が無い。
月城がそう確認し、俺がそう再確認したところで口論終了の一言が告げられた。
その後は何も無く部活が終了し、鍵をかけて部室を後にした。会話も、笑い声も、何一つ無かった。
「せんせー、さよーならー」
「はい、それではまた明日」
霞ヶ丘が職員室に部室の鍵を戻し、皿糸先生に別れの挨拶を告げる。
すっかりいつもの調子に戻った霞ヶ丘が廊下を先導し、正面玄関で靴を履き替えて学校を後にした。
俺達三人は途中まで下校路が同じため、肩を並べて共に歩く。
いつもは霞ヶ丘のゆっくりな歩調に合わせて俺達も歩く速度を落とすが、今日は意識するまでもなく月城の足取りが重い。俺はあらかじめ知っていた気持ちを隣で聞いただけなので、精神的なダメージはほとんど無い。
「だんだん日が伸びてきたねー」
「そうだな」
霞ヶ丘が口にする他愛の無い会話にも、いつも通りの心持ちで返答した。
線路沿いの道を夕陽に照らされながら歩く。通り過ぎていく電車の音が、弾まない会話を簡単に掻き消していった。
重苦しい空気を背負ったまま、遮断機の隣に来たところで俺は足を止める。
「じゃあ、おつかれさん」
帰路が同じなのはここまでのため、霞ヶ丘と月城に短く別れの挨拶を告げた。
「おつかれー」
「……あぁ、また明日」
霞ヶ丘はいつも通りに、月城はやや遅れぎみに反応して返事をした。
三人がほぼ同時に振り返り、霞ヶ丘と月城は線路沿いをそのまま真っ直ぐ、俺は踏切を渡ってそれぞれの家を目指す。
「……はぁ」
重苦しい空気からようやく解放され、安堵に思わずため息が出た。
相変わらず霞ヶ丘は容赦無いな……。普段ののんびりとした印象に騙されてしまうが、心の奥では死を求めているのだから恐ろしい。それでいて自殺願望は無いのだ。口論をする上で、これほど厄介な相手はいない。
悩みを抱える人の多くは、感情がマイナスになって自殺願望をチラつかせる。死んでしまえば苦しいことから逃げられると安易に考える。
しかし霞ヶ丘は、感情にプラスもマイナスも無い。人生自体に興味が無い、無。
月城ならば俺とは違う結末を見せてくれるかもしれないと思いもしたが、勝手な期待のもとに生まれた買い被りだったのだろうか。
自身の鑑識能力に疑いをかけながら五分ほど歩いていると、スマートフォンがポコンと音を鳴らした。
立ち止まってポケットから取り出し、画面を確認する。
「……?」
チャットアプリのLIONに、先ほど別れたばかりの霞ヶ丘からメッセージが届いていた。
『そこで待っててあげて』
タスクバーをタップして会話画面を開き、霞ヶ丘のアプリ画面に既読をつける。するとそのタイミングで追加メッセージが届いた。
『ごめんね。埋め合わせは明日するよ』
「……いや、なんだよ」
主語が抜けているため、霞ヶ丘が何を伝えたいのか分からない。
少しばかり話を掘り下げよう。そう思って文章を入力していると、後方から不意に声をかけられた。
「渡刈!」
呼び声に反応して後ろを振り向くと、同じく先ほど別れたばかりの月城が駆け寄ってきていた。
…………あぁ、そういうことか。
俺は霞ヶ丘のメッセージの意味も、月城が駆け寄ってきた理由も理解した。
俺の下校路を知らない月城が追い付けるように、霞ヶ丘は気を遣って足止めをしたのだろう。
けれど長文を打つ時間も無いから、手短に、俺が理解できると理解した短文を送信した。
そしてそもそも何故霞ヶ丘が月城のことで気を回したのかというと、それは今から月城が口にするのだろう。
俺は霞ヶ丘の気遣いを月城に悟られぬよう、静かにスマートフォンをポケットに戻して素知らぬ声を出す。
「どうした、さっき別れたばかりじゃないか」
「そうなんだけどさ……、ちょっと話をしないか?」
「わざわざ追ってくるぐらいなんだから、話ぐらい聞くさ」
「ありがとう」
月城は走って乱れた鞄を肩にかけ直し、言葉を探すように目を上下左右へと動かす。
「えっと……、なんてーか……」
それは、どう話し始めればいいのかを考えあぐねている仕草だった。
ならばここは、遠回りなどせず単刀直入にこちらから切り出してしまおう。
「霞ヶ丘のことなら、気にする必要は無いぞ」
「!」
月城はいきなり確信を突かれ、驚きに肩を跳ねさせた。
切り出した話題が当たりだと確信して言葉を続ける。
「前に俺が相談に乗った時もそうだった。確かに解決はできなかったが、だからってべつに仲が悪くなるわけじゃない。何も変えられなかったけど、何かが変わる訳じゃない。月城がそこまで気負う必要も無い」
月城の気持ちは充分に分かる。問題解決に身を乗り出したのに、力量不足で解決できなかった。安易に心の闇を覗いた愚かな自分を呪いたくもなる。
けれど、霞ヶ丘はそれを気にしない。初めは気を遣われているのかとも思ったが、そうではない。
苦悩が解消されなかったことも、こちらが勝手に気負うことも、霞ヶ丘にとってはどうでもいいのだ。
死んでしまったら全て無意味。その考えを完全に消し去らなければ、俺達の関係は壊れもしなければ良くもならない。
気休めにもならない言葉を聞き、月城が俺を追いかけてきた理由を語る。
「今……さ、霞ヶ丘に言われたんだ。本当に心から誰かを愛したら、わたしは変わるのかな。って」
俺が一人別れた後、霞ヶ丘も月城に気休めの言葉をかけたらしい。
「……なぁ、渡刈ももちろん、心の拠り所となる人はいないのかって訊いたんだろ?」
「あぁ」
「そしてやっぱり、いないってきっぱり言われたんだよな」
「そうだ。それがどうした」
「渡刈は……、霞ヶ丘の心の拠り所になろうとは思わなかったのか」
月城は意を決し、俺と霞ヶ丘の仲に口を挟んだ。不躾だとは分かっていると目で訴えているが、それ以上に解決策を求めて必死な表情を浮かべている。
やけに霞ヶ丘のことを気にかける月城に、俺は目を見返して言葉を返す。
「心の拠り所だなんて、わざわざ言葉をぼかす必要は無い。俺は男で、霞ヶ丘は女だ。つまりは、恋仲になるって選択はしなかったのかと訊きたいんだろ」
「……あぁ」
「はっ、ありえねぇよ。霞ヶ丘と俺は、ただの部活仲間だ」
「その割には、仲がめっちゃ良さそうじゃんか」
「友達としてな。間違っても、恋愛感情が混ざっちゃいない」
「どうしてそこまで言い切れるんだ?」
「人生相談を受けてるとな、相手の心情を読めるようになるんだ。相手が俺のことを好きなのか嫌いなのか、恋愛感情で好きなのか友人関係で好きなのか、それくらい見分けられるようになる」
「そんなことって……、あるのかよ」
「信じるか信じないかは自由だ。もちろん、俺が相手の心情を見誤ることもある。けれど、霞ヶ丘は特別だ。自分の命すらもどうでもいいと思っているやつが、心の底から誰かを好きになんてなれると思うか? 自分すら愛していないやつが、他人を愛せるわけがないだろ」
「自分の命を、人生をどうでもいいと思っているから本気で人を好きになれないんじゃないか……? そっから間違ってる……!」
月城は俺の冷めた態度に、声を荒らげて
けれど俺の心までは熱くならない。あくまで冷淡に、現実をそのまま口にする。
「なら、霞ヶ丘の人生無意味理論を突破できるのか?」
「っ……」
月城は、痛いところを突かれたと呻き声を漏らした。
「間違ってると豪語するぐらいなら、正しい心情を持てるように教えてやればいい。そもそも恋愛事情は人の勝手だ。少なくとも、打算や同情で恋仲になんてなれるわけがない」
「……命がかかっていてもか」
「あぁ」
「それは……冷酷過ぎるだろ」
「人生なんて無意味なんじゃなかったのか」
「……!」
月城は再び墓穴を掘られて顔をしかめるが、今度はすぐさま言葉を返してきた。
「あくまで理論上だけだ。感情では違うと分かっている……!」
苦し紛れにしては上手い切り返しだが、根本が変わっていない以上俺の言葉は止まらない。
「一つ理解させてやる。月城が言う、語り手が相談者の心の拠り所になる、つまり恋仲になって救うってのは、一人にしかできない。心の拠り所を求めている相談者なんて、ごまんといるんだぞ」
月城の睨み付けるような視線を真っ向から受け止め、怯むことなく現実を突き付ける。
「浮気を隠して全員と恋仲になるってのなら別だが、そもそも非効率だし不確かに過ぎる。それと、俺には一人を選んで助けるなんてできねぇよ」
大勢の中から誰かを一人を救えるのだとしても、俺は誰も救わない。
救わなかった大勢に恨まれたくはないし、同情で救った一人の人生を背負いたくない。
「理想は生きる上で必要だが、理想だけじゃ人は生きられない。気持ちを重んじる月城の性格は分かるが、まずは冷静になれ」
「…………」
月城は何も言い返さない。ならばこの話も、これで終わりだ。
「月城が霞ヶ丘に抱いている感情は、何だ?」
そう言い残し、立ち尽くす月城を残してその場を後にした。
背中に感じる無言の意思に、胸の中でそっと言葉を続ける。
べつに、月城の恋路を邪魔するつもりは無い。
翌日の放課後。
霞ヶ丘も俺も、昨日の口論は特段何とも思っていない。しかし、月城はそうもいかない。
部室に来て本を開いてはいるものの、霞ヶ丘の方をチラと見ては俯いてを繰り返していた。その目に宿しているのは、単一の感情ではない。
そうだな……、興味関心と、畏怖、それと少しの負い目……か。
興味関心は簡単だ。少なくとも霞ヶ丘は、黙ってそこにいるだけでも異性の目を引く容姿をしている。今さら言葉を尽くして説明せずとも、誰もが美人と認めるだろう。
そして畏怖も分からないでもない。自分と同じ理論を持ち合わせていただけでなく、自分よりも強固な意思で人生は無意味だと提唱されたのだ。全記モードといった特技や優れた容姿を備えているにも関わらず、それらをどうでもいいと言葉を尽くして説明された。
さらには、一ヶ月に満たない時間とはいえ談笑まで交わした相手だ。人生無意味理論が本心だと分かるからこそ、かける言葉を見つけられない。そこから相談を失敗してしまったことにより、負い目も感じているわけだ。
今、月城の脳内ではこれらの感情が渦巻いている。あんな様子では、読書はおろか霞ヶ丘を気にかけることすらも中途半端だ。
そして当の本人、霞ヶ丘はというと、月城のそんな苦悩を気にかけた様子もなく机に上半身を預けている。
いつもと変わらないだらーっとした姿には、悩むだけ無駄なことだ、という意思表示を表しているようにすら思える。やはり、俺の時となんら変わりはしない。
まったく……、昨日あれだけ冷淡に言葉を紡いでおきながら、今日は無気力に腑抜けた顔をしているのだ。これで同一人物なのだから恐ろしい。
そのまま相談者の来訪はおろか、会話もほとんど無いままに部活の終了時間となった。
月城にとっては、相談者の一人くらい来てくれたほうが良かったのかもしれない。決して居心地が良いとは言えないが、逃げ出すのも理屈が通らない、そんな現状だ。気を紛らせる何かが無かったこの時間を少々
各々が鞄を肩にかけ、扉に鍵をかけて部室を後にする。
霞ヶ丘は職員室から鍵の返却を終えて退室してくると、背中で両手を組んで月城に体を向けた。
「なんだかー、あまーいお菓子を食べたくなっちゃったなー。ねーえ、ちょーっとコンビニに寄って行こー?」
霞ヶ丘の背中側に立つ俺には、別の意思が伝えられていた。
背中に回された手にはスマートフォンが握られていて、月城からは見えないように隠されている。悟られないように画面へ目を向けると、昨日の下校中に送られてきたLIONのメッセージが表示されていた。
予定に無かった寄り道の誘いと合わせ、コンビニで昨日の埋め合わせを買うという合図を受け取る。
「……」
秘密のやりとりには、声に出しての返事はしない。俺は指先を動かして、霞ヶ丘のスマートフォンに『いく』と入力する。
「あぁ……、いいぜ」
月城が誘いを受け入れ、俺達三人は高校を後にした。
駅前の表通りからは少し離れ、
昨日の件は貸しだとも何とも思っていないが、あの場では誘いを断るほうが不自然だ。
物を奢られに付いていく自分に言い訳をし、コンビニ特有の妙に高い入店音を鳴らして自動ドアを抜ける。
セイコーマートに入店してすぐさま、霞ヶ丘はレジ台の隣に置かれている新作スイーツに目を奪われた。
「なにあれー、おいしそー」
跳ねるようにそちらへ向かい、男二人が取り残される。
店には俺達の他に客がおらず、レジで中年の男性が霞ヶ丘に視線を注いでいた。いかにも盗難を警戒していますよといった目付きをしているが、鋭い眼光は間違いなく豊満な胸元へと向けられている。こんな汚れた大人にはなりたくない。
俺は霞ヶ丘の埋め合わせとは関係無く、自身の買い物を済ませるためにドリンクコーナーへ向かった。月城も付いてきて、二人で店の奥へと進む。
購入する飲み物は悩むまでもない。やっぱ北海道民たるもの、ガラナを
喉を突き抜ける刺激的な炭酸、それでいて余韻を残すあの甘味、栄養価も高く集中力が上がる。他県ではなかなかお目にかかれない、北海道限定販売の炭酸飲料だ。
ガラニンと呼ばれるカフェインの一種が代表的な成分で、コーヒーの約四倍ほどのカフェイン含有率を誇る。それでいてゆっくりと時間をかけて体に吸収されるため、負担が少なく穏やかに覚醒作用を促してくれる。
運動能力向上や疲労回復の効果も期待されているため、ワールドカップに出場したブラジル代表の有名選手も毎日飲用していたほどだ。
エナジードリンクにガラナエキスが含まれていることもあるため、知らずお世話になっている人は意外と多い。
まさに、頑張る若者のベストパートナーである。
販売各社で特色が違い、ご当地ガラナまで存在するので自分に合った一本を見つけ出すのもまた一興。
ちなみに、北海道民に「なにこれ、コーラのパクり?」などと言ったら戦争が起こる。
冷蔵庫のガラス戸を開けてガラナを掴み、未だ何を購入しようか迷っている月城を残しておつまみコーナーへと向かう。ガラナの相棒を柿ピーに決め、下の方に陳列されている商品を取ろうとしゃがみ込む。
するとその時、誰も予想していなかった事件が発生した。
「お前ら全員動くな……!」
先ほども聞いた入店音が流れたのとほぼ同時に、男のものと思われる声が店内に響き渡る。
俺は柿ピーを取ろうと中腰になった体勢で動きを止めたため、ちょうど陳列棚に身を隠す状態となっていた。
「こ、この包丁は本物だぞ! 死にたくなかったら、大人しくしてろ……!」
……うそだろ。視認できてはいないが、こんなもの確認するまでもなく分かる。
俺は物音を立てないようにそっと身を起こし、陳列棚の隙間からレジ付近を覗き見る。
店で作られている弁当が並ぶ温暖機の前には、二十代前半と思われる男が
誰がどう見たって客ではない。疑いようもない強盗犯だ。
そいつは見せつけるように右手で包丁を構えながら、レジ近くにいた霞ヶ丘にずかずかと迫る。
「きゃっ」
そして、セーラー服の襟元を掴んで強引に引き寄せた。不意に漏れ出た霞ヶ丘の悲鳴が脳に響く。
「そこのお前……! 動いたらこの女の命は無いもんだと思え!」
強盗犯は、包丁を霞ヶ丘の首元に突き付けて月城を脅迫した。
「おっさん、あんたはこの鞄に金を詰めろ」
次いで右肩にかけていたショルダーバッグのストラップを掴み、レジの中でおろおろしていた中年の店員に投げ渡す。あちこちに
突然の異常事態に戸惑う店員は、とりあえず強盗犯に逆らうまいと命令に従う。しかし激しい動揺が手元を狂わせ、チャックを開けられずにあたふたとしている。
「なにモタモタしてやがんだ……!」
そんな様子に怒りを叫ぶ強盗犯は、握り込んでいる包丁の
「早く……、早くしろ! 女がどうなってもいいのか……!」
強盗犯は霞ヶ丘の首元に包丁を突き付け直し、いつでも刺殺できるというアピールを見せつける。
男は先ほどから、言葉を震わせながら恐喝をしていた。初めて犯行に及ぶ場合は、強い緊張から声が小刻みに震えるということがある。この男もそのパターンだろうかとも考えたが、どうやら少し焦っているようだった。
「っ……」
俺は……、何をするのが正解なんだ……?
入店したコンビニで強盗犯が友人を人質に取るなど、今までの人生で一度も想定したことが無い。予想外の事態に行動を決めあぐねる。まずは何から始めればいい……?
誰もが非常事態に心身を怯ませる。しかしそんな中で、現状に似つかわしくないのんびりとした声が放たれた。
「べつにー、殺してもいいよー」
「……はぁっ!?」
強盗犯は想定外のセリフに驚いていたが、俺も驚きに目を見開いた。
「でもー、首はうまく切らないと即死できないんだよねー。だからー、心臓のほうがいいなー」
霞ヶ丘は強盗犯の右手に両手を添え、ゆっくり包丁を移動させ始めた。切っ先を自身の胸元左側へと突き付け直し、両手を離して強盗犯に顔を向ける。
「こっちならー、一突きで即死するよー」
人質となっている人間が一番落ち着いている。生存を諦めたが故に
霞ヶ丘は、殺すなどと脅されることになんら恐怖を抱いていなかった。
確かに俺は霞ヶ丘の思想を知っている。だから、死を望むこと自体は不思議でもない。
けれど、死に方ぐらいは選びたいだろう。
いくら人生が無意味だと考えていても、コンビニで強盗犯に襲われて最期を迎えるなんてそんな結末でもいいのかよ。
「やるなら
「はっ!? あぁ?! ……んあっ!?」
強盗犯は発言の理解が追い付いていないのか、言葉にならない声を途切れがちに出していた。
霞ヶ丘の異常な言動に
入店時から声が小刻みに震えていたのは、犯罪を行うことに対して気持ちが追い付いていないからだと考えていた。しかしそれ以上に、強盗犯の目には畏怖や怒りが混じっている。
畏怖は分かりやすい。殺すと脅した人質に、殺していいなどと言われれば恐れもする。
だが、怒りを抱いているのは分からなかった。
俺が一筋の光明を探し迷っていると、あろうことか月城も声を出した。
「だそうです。アテが外れましたね」
「……!?」
強盗犯は当然月城に目を向けるし、俺だって向ける。何考えてんだこいつ。
立て続けに起こる異常事態に思考の整理が間に合わない。
けれど事件は気持ちの整理を待ってくれることはなく、月城は焦りを目に浮かべながらも行動に移った。
「彼女は死にたがっているんです。だから、そんな
霞ヶ丘は通常の神経ではなかったが、月城も負けてはいない。
一秒もあれば友人が殺されてしまうというこの状況で、強盗犯に言葉を投げ掛けた。
「なっ……! お……!」
強盗犯は予想外な言葉にたじろいだが、すぐに虚勢を構え直して声を荒らげる。
「脅しじゃねぇぞ……! マジで殺してやるからな!」
強盗犯は霞ヶ丘の首元に包丁を突き付け直して月城を睨み付ける。その手は畏怖に震えていて、切っ先が皮膚に触れてしまいそうで危険だった。
その様子を月城も見つめながら、僅かに深呼吸をして口を開く。
「……もう、殺す気が無いのに脅すのは止めにしませんか?」
語調に
動けば霞ヶ丘を殺すと脅されたその状況下で、自ら危険性を高めにいく。
「あなたはずっと、苦しそうです」
月城は強盗犯に言葉を投げ掛けながら、ゆっくりと前進している。音を立てず、突然走り出すのでもなく、じっくりと確実に距離を詰める。
「い……いきなり何を言ってやがる!」
「あなたの目的はお金であって、殺人じゃない。その
「っ……!」
強盗犯は図星を突かれて動揺を見せた。
けれど月城は表情を変えず、なおも優しい口調で語りかける。
「包丁を持つその手、ずっと震えていますよ。殺しても意味が無いことくらい、始めから分かっているんじゃありませんか?」
「う、うるせぇ! それ以上近付くな……!」
強盗犯は迫り来る畏怖から逃れようと、包丁の切っ先を月城へ向けた。
二人の間には距離があるとはいえ、自分が標的となって月城は足を止める。
その様子に強盗犯が勝ち誇った声を出す。
「はっ……! 自分が殺されそうになった瞬間それかよ! 結局はお前も、自分の命が惜しいだけのクズじゃねーか!」
しかし、月城の表情は変わらない。
「さっきから包丁を振り回していますけど、あまり過信しないほうがいいですよ」
表情を変えないのではなく、焦りを悟らせないために変えられない。言葉を紡いで自身を偽り、平気なフリをして強盗犯に語りかける。
「確かにオレは、人質がいる状況で行動するクズかもしれません。けど、一つ間違ってます。オレは……いや、オレもそこにいる彼女と同様に、いつ死んでしまってもいいと思っているんです」
決して臆することなく、再び足を動かしてまた一歩進んだ。
「たとえ殺されても構わない。けど、それもオススメはしません。オレ一人を殺したところで、あなたを取り巻く事態は好転しません」
自分の身を説得の材料に使い、強盗犯を穏便に無力化させようとする。
「その包丁には、何の力も無い」
人質の霞ヶ丘が、人生を無価値だと思っている。そして月城自身も、同じく人生を無価値だと思っている。
二人が本当に死んでも構わないと思っているからこそ、月城はゆっくりと着実に歩を進められる。
誰にとっても想定外の異常な光景に、強盗犯が震える声で怒りを叫ぶ。
「な……、何でだよ……! 何でお前らはそんな簡単に死のうと思うんだよ!」
その間も月城は徐々に近付き、包丁を構えている強盗犯の目前で立ち止まる。
強盗犯は右手に包丁を握り、右腕を伸ばして月城の接近を拒むはずだった。しかし今や、その切っ先は月城の左胸に当てられている。
月城が、自ら左胸を当てに行った。
霞ヶ丘の様に、いつでも命を差し出すと意思表示をする。
「簡単ではありません。オレを殺してあなたが満足するなら、殺してもらって構いません」
「ふざけるな……!」
「ふざけてもいません。それに……、ここまで接近したのですから、実力行使で取り押さえることも不可能ではありません。それをしないのは、あなたと話をしたいからです」
「話……だと?」
「包丁は突き付けたままで構いません。あなたの気持ちを、聞かせてください」
月城は強盗犯の目を真剣に見つめ、敵意が無いと証明する。
すると強盗犯も紳士な態度を感じ取ったのか、幾分か呼吸を落ち着けて言葉を返した。
「……なんだよ」
「あなたはオレらに、どうしてそんな簡単に死のうとするのかと問いましたよね。これは、お金を得ること自体が目的ならば出てこない発言です。何か命のことで、悩みがあるんじゃありませんか?」
思いもよらない問いかけに、強盗犯が視線を落として素直に答える。
「…………そうだよ。俺の妹が、
「
「あぁ。それで高額な医療費が必要なんだ。けど親はすでにいないし、頼れる親戚もいない」
月城は、強盗犯が強盗に及んだ理由を大人しく聞き続ける。
「俺は必死に働いて金をかき集めた。けどよ……、全然足りねぇんだよ。そしたらあいつは……、あいつは……!」
強盗犯が目に悲しさと怒りを浮かべる。
「私が死んだら治療費も必要無いよね。なんて言いやがったんだ……!」
妹に対する不条理な怒りは、本気で思いやっているからこそだ。
「俺は……! あいつのために必死で頑張ってたんだ! でもあいつは、金が無いから死ぬって言ったんだ。金が無いやつは、病気を治すことすらできねぇのかよ……!」
治療という人間社会が定めたルールに怒り、理不尽な病に嘆きを叫ぶ。
強盗犯の本音を聞き取った月城が、自分達に向けられた怒りを理解する。
「だからオレらが、簡単に殺されようとして怒ったんですね」
「あぁそうだよ! お前らは健康そうじゃねぇか! 生きるのに苦労しなさそうじゃねぇか! 命がいらねぇってなら、俺の妹にくれよ!」
「……それはできません」
「ならせめて、俺の邪魔をするな!」
「……こんなことをして得た金で治療を受けて、妹さんが喜ぶと思いますか?」
「んなこたぁ訊かれるまでもねぇよ! 分かってる……、喜びはしないって、分かってるよ……! でも、死なれるよりは良いだろ! 怒られようが、
「妹さんが大切なのですね」
「当たり前だ!」
「なら……」
月城はそこで間を溜め、続ける言葉に重みを持たせる。
「妹さんの気持ちにも気付いたほうがいいですよ」
「……!」
強盗犯は驚きに目を開いて言葉を失う。
「お金がかからないようにするために死ぬと言ったのは、妹さんなりの想いです。あなたがどんなことをしてでも、それこそ命をかけてでもお金を集めてくるだろうと分かっているからこそ、あなたが苦しまないように自ら重荷を無くそうと考えたんです」
月城は強盗犯の言葉から、病に伏す妹の気持ちを掬い上げる。
「死ぬなんて言うのは、正しいとは言えません。でも、妹さんもあなたを大切だと思っていて、迷惑をかけたくないのです。それほどの決意で自殺を考えたのだということは、理解してあげましょう」
「っ……!」
強盗犯が目元に涙を浮かべる。月城に突き付けていた包丁を下ろし、霞ヶ丘の襟元から左手を放す。
けれど、まだ話は終わりではない。
「でも……! 金がなきゃ何も解決しない……!」
強引犯が根本の問題を泣き叫ぶ。
そう、事態は何も解決はしていない。
この男の気持ちが変わっただけで、お金や妹の現状は何も変わらない。
まだ話は終わりではない。……そう、月城の言葉はまだ続く。
「妹さんは
「だいたい三百万だってよ……。頑張って百万ぐらいまでは貯めたけど、まだまだ足りねぇよ……」
「三百万……? それは、医療保険が適応されてですか?」
「いや、先進医療だから、保険の適応外だって言われた」
「
月城は何かが引っかかったのか詳細を求めた。
すると強盗犯は、思い起こしながら一つの単語を呟く。
「確か……、コツニクシュだって言ってた」
「……!」
月城はその言葉を聞いて目の色を変えた。
「それ……、医療保険が適応されるはずですよ」
「!」
「病に詳しいわけではありませんが、数年前に医療保険の適応範囲が広くなったんです。その際に、
「……なら!」
月城の説明を聞き、強盗犯の表情に希望の色が浮かぶ。
月城も頷いて声音を明るくする。
「それが可能なのであれば、治療費はぐんと下がります。おそらく、百万円ぐらいになるでしょう」
「あ……、あぁ…………!」
自分で集めた金額で足りると知り、強盗犯が歓喜の声を漏らす。
一番求めていた言葉が、月城の口から告げられる。
「妹さんは、助かりますよ」
強盗犯は膝から崩れ落ち、その場に座り込んで泣き崩れた。
その後五分もしないうちに、パトカーがサイレンを鳴らしてセイコーマートへと到着した。どうやら店の奥に居た他の店員が、強盗犯が現れてからすぐに警察へ通報を入れていたらしい。
男の身柄を警官へ引き渡す際、強盗犯が霞ヶ丘に頭を下げた。
「嬢ちゃん……、迷惑をかけた、すまねぇ。謝って許されるとは思ってねぇが、俺には謝ることしかできねぇんだ……」
「わたしはー……、いやー、何も言わないでおこうかなー。恨んだりとかはしてないから大丈夫だよー」
霞ヶ丘にとっては自殺チャンスだったとも言えるため、余計なことは伝えずに話を流す。
次いで強盗犯は、口を引き結んでいる月城に感謝を伝える。
「俺はこの通りバカだからよぉ……、難しいことは何も分からないんだ。こんな形だったけど、あんたに会えて良かった」
「……正直、言いたいことはたくさんある。だけど、今は言わない。いつか妹さんの隣で怒ってやるから、覚悟しとけ」
「おう……、ありがとう」
男は警官達に連れられ、パトカーに乗り込んでこの場から去っていった。
そして俺達も他人事ではない。事件に関わった人物として、調書作成のために事情聴取を求められた。任意同行という名の強制連行で警察署へと連れて行かれ、俺、月城、霞ヶ丘、レジ係の中年男性は、それぞれ別室に案内される。
そこでは何度も似たような質問をされた。どうやら、嘘や
事情聴取は二時間ほどもかかった。事件にほとんど関わっていない俺でもこれだけかかったのだ。月城達はまだかかるだろう。
時刻はすでに午後八時を過ぎていた。窓から見える黒いだけの景色が、やけに物寂しさを感じさせる。
それから十分ほど経過した頃に、レジ係の中年男性が待合室に現れた。しかし別段会話をするつもりも無いのか、軽く会釈をして去っていった。あのセイコーマートはいずれまた利用するだろうが、どんな顔をして買い物をすればいいのか分からない。
そしてさらに二十分後、重い足取りで月城が現れた。最後になったのは霞ヶ丘か。口調がのんびりとしているから、聞き取り自体に時間がかかっているのかもしれない。
「…………」
月城は無言のまま俺の右隣に座り、目線を膝に落として口を開いた。
「……ごめん」
気落ちした横顔に視線を向け、謝罪に対する返答をする。
「何に対して、俺に謝ったんだ?」
怒っているわけでも、煽るわけでもなく、純粋に何故謝られたのかが分からなかった。
月城は顔を上げないまま、言葉を付け足して再び謝罪を口にする。
「勝手な行動をして……、ごめん」
「商品の陳列棚に身を隠していただけの俺に謝らないでくれ」
「それは、オレと強盗犯の話を邪魔しないために、だろ?」
「買い被り過ぎだ。俺は、ただ何もできなかっただけだ」
事実、俺は現状の把握が追い付いていなかった。何をすればいいのか、何をしてはいけないのか、あらゆる判断を下せずにいた。そんな中で動き出した月城を止める手段は無いし、止めるのが正しいのかも分からなかった。ただ、流れを見守っていただけに過ぎない。
月城は顔を上げ、視線は合わせずに前を見る。
「警官にさ、言動が危険過ぎたって厳重注意された。ああいう時は大人しく犯人に従って、警官が到着するのを待つべきだって言われたよ」
「まぁ、そうだろうな」
「だけど霞ヶ丘が人質に取られた時、一瞬だけ目の前が真っ暗になったんだ。ただの錯覚なんだろうけどさ、包丁を喉元に突き付けられる霞ヶ丘を見て、止めろ! って内心で叫んでた」
冷静さを欠いていた自身の行動を振り返る。
「霞ヶ丘が、本当に死んでしまうかもしれないって思ったら、オレは……、怖くてさ、体の底から恐怖が襲ってきた。だから、一刻も早く開放させなきゃと思ったんだ」
「それで、男の説得に乗り出したのか」
「あぁ」
「嘘までついてか」
「! ……気付いてたのか」
月城は体をビクつかせ、嘘という不安要素の残る手段を選んだことを指摘されて再び視線を落とす。
罪悪感を滲ませる横顔に、俺は想定できる事実を口にする。
「当たり前だ。医療保険の話を医者が知らんわけがない。もしかしたら、
「それは俺も考えたさ。けど、一概に嘘とも言えない。もしかしたら本当に伝わってなかったのかもしれないし、医者が医療費を騙し取ろうとしてたのかもしれない。真実は分からないけど、あの場での最優先事項は霞ヶ丘の開放だ。強盗犯を無力化できるなら、不確かなことでも説得に利用するさ」
「ならそれこそ、警察に任せればいい。説得が成功するシナリオがあったから良かったものの、無ければどうなっていたかは分からない。あの男は殺人が目的ではないとは言え、何がきっかけで気が触れるかは分からない。本人の意思とは別に、殺してしまうことだってありえる」
「その通りだよ。けど、警官が来たからって霞ヶ丘の安全が確保されるとも限らない。開放に手間取っている間に、気が触れて……ってのもあり得る」
「まぁ……そうだな。警官が来たところで、男がどういう思考をするかは分からん。結局のところ、最善案がなんだったのかは分からない。たまたまうまくいったって事実が残っただけだ」
「それでも……、決して誉められることじゃないのは理解してるよ」
月城は両手を握りしめ、行き場の無い後悔を自身に戒める。
「オレはただ、冷静さを失ってただけだ。それは間違いない。霞ヶ丘に生きていてほしいと思って、暴走した。結果は抜きにして、オレの身勝手な判断が霞ヶ丘を危険に晒していたのも間違いない。だから渡刈にも、愚かな行動をしたなと怒られる覚悟はしてた」
人は必ずしも、常に最善手を選んで生きている訳では無い。その場の雰囲気に流されたり、その時の感情で判断を誤ったりする。
だから失敗が起こるし、後悔する。
通常であれば、人質が取られた状態で行動をした月城を責めるべきなのだろう。
けれど俺は、霞ヶ丘を通常の人間と同じ扱いはしていない。
「べつに、死にたいと思ってるやつが死んでも何とも思わないさ」
俺は霞ヶ丘に対して突き放した気持ちを述べる。
「自ら包丁を左胸に誘導するようなやつだぞ。放っておいたら、いつ死ぬとも分からん。それがあの場になっていたのだとしたら、それはただそれだけのことでしかない」
凡人の俺が、才覚のある霞ヶ丘を心配すること自体が間違っている。俺がどれだけ死に様を気にかけようと、本人がそれでいいと思うのなら止める道理は無い。
月城は思いもよらない言葉を告げられ、驚きに僅かな軽蔑を混ぜてこちらに顔を向ける。
「お前、案外酷いんだな」
「俺を酷いと思うなら、人生無意味理論で自殺を考える人間を否定することになるぞ」
「……あぁ、そうだな」
その僅かな軽蔑は、自分自身にも当てはまることだと気が付いたらしい。
「月城」
俺は一拍の間を開け、期待を込めて言葉を続ける。
「命のやりとりなんて滅多にあるもんじゃないだろうけど、霞ヶ丘に生きていてほしいなら説得するしかない。大切だって気持ちを真剣に伝えて、あいつの人生無意味理論を突破しろ」
凡人の俺では霞ヶ丘を救えなかった。
けれど月城ならば、もしかすると救えるのではないかと期待してしまった。抱いている感情の違いが、その人を想う決定的な差となる。
「……あぁ、分かってる」
何かを決意した表情には、大切なものを守りたいという強い意思があった。
午後九時近くになってようやく霞ヶ丘も開放され、俺達三人は揃って警察署を後にした。
それぞれの聴取の様子を話のネタにし、明日も普通に通学しなければならないのだと思い出しながら帰路に着く。
翌日。
事情聴取の際に通っている学校名も聞かれたが、今回は連絡を入れないと言われている。なので学校側は何も知らないため、俺達が話さなければ大きな騒動にもならない。
ただ一応、皿糸先生にだけは報告をした。部活メンバーで遭遇した事件でもあるし、黙っていても情報が流れていくのは目に見えている。いやもうそれどころか、うちの母親がLIONで話のネタにしているかもしれない。
放課後に部室へ来てもらい、事件の要点をかいつまんで説明した。
「話を大きくすると面倒そうなので、内密にお願いします」
「分かったわ」
部室を後にする皿糸先生を見送り、つかの間の沈黙が訪れる。それを破ったのは、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった月城だった。
「…………」
そのまま無言で歩き、俺と霞ヶ丘の対面となる相談者用の椅子に座る。
「霞ヶ丘、オレの人生相談を受けてくれ」
意思を固めた目で、力強く見つめた。
唐突に告げられた言葉に、霞ヶ丘は少しばかり戸惑った表情で俺を見る。
どういうこと……? と訴えるその視線に、事情を理解している俺は軽く後押しをする。
「受けてやれ」
そのままついでに、月城に向き直って言葉を投げる。
「記録係はいるか?」
「いらない」
月城は即座に返事をした。お互いに今の質問の意味は分かっている。これは、俺が部室から早々に立ち去るための理由付けだ。
立ち上がって扉から出る際に、月城が俺の背中に声をかける。
「勝手続きでごめん。それと、ありがとう」
不要な感謝に返事はせず、無言で部室を後にした。
適当に時間を潰すために図書室へと移動し、鞄からライトノベルを取り出してページを開く。
命相部の部室内では今頃、月城と霞ヶ丘が言葉を重ねて合わせているのだろう。
強盗事件を経て、月城は新たな想いを手に入れたはずだ。
けれど、俺には関係無い。クライマックスのシーンだろうと、その場にいなければただの部外者に過ぎない。
物語が盛り上がるのは、いつだってメインキャラクター同士の掛け合いだ。
ライトノベルを黙々と読み進め、三十分ほど経過した頃にスマートフォンがヴヴヴッと震える。ポケットから取り出して画面を確認すると、月城からLIONにメッセージが届いていた。
『終わった』
口論終了の合図を受け、ライトノベルを鞄に入れて命相部室を目指す。
扉を開けると、二つの笑顔に迎えられた。
「おかえりー」
特に、霞ヶ丘が今まで見たこともないほどの晴れやかな表情をしていた。
目尻は僅かに赤くなっており、涙を拭った跡が見てとれる。
「いやー、いつの間にかー、わたしの人生相談になってたよー」
月城が霞ヶ丘と何を話したのかは知らない。
けれど、霞ヶ丘の人生無意味理論を突破したのは間違いない。
難攻不落の霞ヶ丘が、攻め落とされた。
その対面、相談者用の椅子に座っている月城が穏やかな表情で声をかけてくる。
「オレは生きる理由が増えたよ。人生は無意味だなんて言ってる暇は無いな」
喜びを感じさせる声音には、一人の少女への想いが込められていた。
一組の男女が出会い、言葉を重ね、思い違いや事件を経て心を重ねる。
なんとも輝かしい青春物語ではないか。
誰にでも起こり得るわけではない、選ばれし人間にのみ与えられるそれは、運命。
月城、やっぱりお前は主人公だよ。
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