第1話 その相談者、主人公

・1話 その相談者、主人公



 とは言え主人公なんてやつは、そうそう存在するものではない。主役しかいない学芸会が成り立たないように、大多数のサブキャラと数人のメインキャラに囲まれて一人だけ存在している。

 最近は主人公が複数存在する作品もあるが、物語を進める都合で何となく中心になってしまうキャラは決まってくる。

 そうなるとやはり、事実上の主人公は一人だ。

 あぁそうだな、創作物だと主人公ってのはハッキリしている。

 だがこれが、現実ならどうなのだろうか。誰が主人公で、誰がサブキャラなのか。

 自分の人生の主人公はいつだって自分だ。なんて言葉もある。人生を創作物に例えるならば、視点キャラである自身は間違い無く主人公である。

 確かに間違ってはいないと思う。けれど、正しくもない。

 人生を創作物に例えるというならば、朝起きてご飯を食べて授業を受けて夜に眠るだけの毎日を繰り返している作品が、面白いわけが無い。そんなものはただの日記だ。

 つまらない人物に対して、主人公らしさなど感じない。

 要するに、面白い人生を歩んでいなければ主人公ではない。

 何に対して面白いと感じるかは人それぞれかもしれないが、少なくとも俺の人生は当てはまらない。

 たまに来る相談者と話をするだけの俺は、仮に物語として書き記しても面白くはない。

 万が一面白い物語になったのだとしたら、それは俺の面白さではない。

 きっと、主人公の物語を隣から見ているような、他人の力にあやかった面白さなのだろう。

「……」

 鞄から取り出したライトノベルの表紙を見つめ、俺的主人公論を脳内に垂れ流した。表紙にでかでかと描かれている美少女は、このライトノベルのメインヒロインなのだろう。

 もうね、主人公がこの美少女とキャッキャウフフする想像をしただけでも妬ましさが込み上げてくる。俺にもこんな幼なじみがいたら良かったのに。

 顔も名前も設定すらも知らない主人公に嫉妬した後、適当にプロローグを流し読みして一話に目を通した。

「……」

 ペラリ、とページをめくる。

「…………」

 ペラペラとページをめくる。

「…………はぁ」

 数ページほど読み飛ばしたところで、俺は浅く溜め息をついた。

 このライトノベルはハズレだな。主人公が転校してくるタイプではないと言うから読んでみたものの、心理描写に納得がいかなかった。

 なんで主人公は作中で初登場のキャラの特徴を事細かに述べているんだよ。お前らは教室で会うたびに、毎回そんな感想を思い浮かべているのか?

 俺ら読者はキャラと初対面だが、お前らは違うだろう。読者への説明をしたいがために、日常会話が不自然になっている。幼なじみの可愛さを改めて認識するのなら、それだけで毎日が終わってしまうじゃないか。

 俺はほとんど読みもしなかったライトノベルをパタリと閉じ、鞄を漁って別のライトノベルを取り出した。

「……」

 表紙に数秒目を落とし、ペラリとめくって読み進める。

「……」

 静かな時間が流れている。グラウンドで活動している運動部の発声を聞きながら、一定のリズムでページをめくる。

 物語へと没入し、真剣に読んでいるという自覚すら意識の外へ追いやる。

「……」

「今日は誰も来ないねー」

 黙々と序章まで読み終えたところで、週刊誌を読んでいた霞ヶ丘かすみがおかが声をかけてきた。

 ライトノベルから視線を外し、長机の左隣に座っている少女に返事をする。

「そうだな」

 二人きりの部室に、ようやく話し声が響き渡った。

 霞ヶ丘かすみがおかは薄ぼんやりと眺めていた週刊誌を閉じ、無気力な半眼で虚空を見つめて呟きを漏らす。

「暇だぁー」

「暇でいいんだよ。相談者が多かったら、それはそれで問題があるだろ」

「そうだけどさー、もしかしたら相談する勇気が無いだけかもしれないじゃんー」

「そこまでの面倒は見きれない。そもそも、ほぼ同い年の俺らに相談しようって思うほうが珍しいだろ」

「確かにそうなんだよねぇー」

 霞ヶ丘かすみがおかは机に顔を伏せ、淡く青みがかっている長髪を手持ちぶさたにもてあそんだ。細く白い指先が、ふわりと髪を絡め取る。

 無理して仕事を作る必要も無いのだが、部活で何も活動をしないというのも良くはない。こんな時、物語のメインキャラなら何か有益な行動をするだろうか。

「……」

 俺は活動内容を再確認し、その補助になる事柄を思い浮かべる。

「なら、宣伝ポスターでも書くか? どれだけ効果が出るかは知らんが、何もしないよりはマシだろ」

「うん、それいいねー」

 活動事項ができた霞ヶ丘かすみがおかは、わずかに元気な声を出して顔を上げた。いつも間延びした声を出しているため気付かれにくいが、付き合いが長くなると感情の起伏が分かるようにもなってくる。

 俺は作業行程を大雑把に想像し、必要な物を口にする。

「黒の油性マーカーは部室にあるから、ポスター用の丈夫な紙を貰ってこよう。掲示する時の画ビョウもいるな」

「ねーねー、いろんな色のマーカーも借りてきてー。どうせならカラフルにしたいなー」

「何がどうせならなんだよ。雰囲気ぶち壊しじゃねぇか」

 つか借りてきてって、俺一人に行かせる気まんまんかよ。べつにいいけどさ。

「いいじゃーん。こてーかんねんにとらわれないことも大事だいじだよー」

「分かった分かった、借りてくるよ」

「やったー」

 こういう時、自身の絶望的なデザインセンスが恨めしい。実際に描くのは霞ヶ丘かすみがおかに任せなければならないため、機嫌取りという訳ではないが好きに描かせたほうが良い仕上がりになるだろう。

 しのライトノベルにしおりを挟み、鞄に入れて立ち上がる。

「それじゃあ、皿糸さらいと先生のところに行ってくる」

「行ってらっしゃーい」

 霞ヶ丘かすみがおかは両手でスカートを握り、パタパタとはためかして返事をした。それはもしかして、手を振っているつもりなのか?

 職員室へ向かおうと一歩を踏み出す。するとそのタイミングで、扉からコンコンコンとノックの音が聞こえてきた。

 普段なら「どうぞ」とでも声をかけて入室を促すところだが、せっかく立ち上がったので直接扉を開けに向かった。

「はいどうぞ」

「やっ、こんにちは」

 扉を開けると同時に気持ちのいい笑みで挨拶をしてくれたその男に、見覚えは無かった。かっこよさに少しばかりの可愛さを足したような、人に好かれやすそうな顔をしている。

 紺のネクタイ……。てことは、同じ二年生か。

 見覚えがあろうが無かろうが、学年の認識さえできればそれでいい。

 俺は脳内に思い浮かべた台詞をタメ口に変換し、来訪者に向けて声を出す。

「ここに来たってことは相談者ってことでいいんだよな」

「まぁそんなところ。入ってもいいか?」

「あぁ」

 断る理由は無いが、表情が明るいというのは不可解だった。ここはお前みたいな陽気キャラが来るところじゃないぞ。

 などと思いはしたものの、相談者だと言うのならば仕方がない。ポスターは後回しにしよう。

 俺は先導するように部室を歩き、長机の前にセットされている一脚のパイプ椅子に手を添えた。

「ここに座ってくれ」

「分かった」

 来訪者の返事を聞き流しながら長机の反対側に座る。隣に座っている霞ヶ丘かすみがおかが、翡翠ひすい色の瞳で来訪者を見つめていた。

 これで会話の準備は整った。さて、まずは恒例の決まり文句からだな。

「命の子供相談部へようこそ。あなたの悩みが解決するとは限りませんが、きっと何らかの答えが見つかるでしょう」

「なぁ、先に訊きたいんだけどさ、なんで部活名に子供って入ってるんだ? 命の相談部じゃダメなのか?」

 やっぱり今回も訊かれたか。

 いつも訊かれる質問に、俺はいつも通りの言葉を返す。

「君達高校生なんて、世間的にはまだまだ子供です。……って、顧問の皿糸さらいと先生が言ってるんだよ」

「あの先生にか……。納得できるようなできないような、複雑な気分になるな」

「異議申し立ては皿糸さらいと先生に頼む」

 この場では解決しない問題を放り出し、相談開始の前に連絡事項を述べる。

「先に確認しなきゃならんことがある。この相談はあくまで部活動だから、相談者の許す限り記録を残したいんだ。むやみに言いふらしたりなんてしないが、望むなら名前や内容を伏せて記録するがどうする?」

「それはべつに気にしないかな」

「分かった」

 個人情報記載の許可を得られたところで、霞ヶ丘かすみがおかが記録用ノートをめくりながら相談者に質問を投げる。

「じゃーまずはー、クラスと名前を教えてー。きみはこの前の転校生だよねー?」

「あぁ、二人とはほぼ初対面だよな。初めまして、二年C組の月城赤羽つきしろあかばだ。漢字も細かく言ったほうがいいかな。空に昇るつきに松前城のしろ、色のあかと千羽鶴の月城赤羽つきしろあかばだ」

 城で松前城を選ぶとは北海道民の鏡だな。

「はいはーい、月城つきしろ……赤羽あかば……っとー」

 霞ヶ丘かすみがおかは声に出しながら月城つきしろの名前を記録用ノートに記入し、日付と曜日も書き足して顔を上げた。

「おっけーだよー」

「了解だ」

 準備完了の合図を受け、早速相談を始めようと月城つきしろに視線を送る。けれど月城つきしろにはもう一つ済ませたい事柄があるらしく、相談とは別の言葉を口にする。

「なぁ、オレも二人の名前を聞きたいんだけどいい?」

「いいよー。わたしはー、霞ヶ丘須美かすみがおかすみだよー。名字でもすみすみでもー、好きに呼んでー」

「俺は渡刈調とがりしらべだ」

霞ヶ丘かすみがおか渡刈とがり、な。うん、覚えた」

 月城つきしろは名前を飲み込むように軽く頷き、そういえば、と前置きして言葉を続ける。

「相談は二つあるんだけどいいか?」

「問題無い」

 相談はいくら持ちかけられようとも構わない。部活の活動実績が増えるのは良いことだ。

 お互いが必要な情報を交換し終えたところで、俺は月城つきしろの目を見据えて口を開く。

「それじゃあこれから相談を開始する。思っていることや悩んでいること、その胸の内を話してくれ」

「おう。まず一つ目なんだけど……、オレは勉強が嫌なんだ。苦手とはちょっと違うし、必要なことだってのも理解してる。記憶力も悪くない……と思う。覚えること自体じゃなくて、覚えるために楽しくもない時間を過ごすことが嫌なんだ」

 霞ヶ丘かすみがおかが、『勉強が嫌。楽しくない』などと要点を拾って簡潔に書き残す。月城つきしろがその様子をチラと横目で確認し、俺に視線を戻して言葉を続ける。

「勉強以外にも大切なことはたくさんある。それこそ遊んでいたほうが、精神衛生的にも良いだろ? オレはもっと遊んでいたい。……けど、それじゃ駄目だってことも分かってる。勉強しなきゃ将来苦労するもんな。だから、どうすればこの葛藤が消えるのか教えてほしい」

 ん……? 言いたいことがずいぶんスッキリとまとめられているな。通常この手の相談は、思い悩んでいる事柄をこぼすように口にするものだ。だというのに、こちら側が返答しやすいように問題点を理解して伝えてくれている。あらかじめ相談内容を整理してきたのだろうか。

 ……しかしまぁ、今はどうでもいい。質問への返答を優先しよう。

「ふむ……、理解した。まず始めに言っておくが、勉強自体に対する結論なんてのは個人個人で違うんだ。それで、なんで勉強しなければならないか。だが、これは自分でも言っていた通り将来のためだ」

「つってもさ、学校の授業で学ぶことなんてほとんど必要無いらしいじゃん。専門校なら別だけど、一般校でいろんな分野を漠然ばくぜんと学んでもしゃーないだろ」

「否定はしない。正直なところ、俺もまだ働いたことは無いから実体験を元にした話はできない。ただ周りの大人の意見だと、必要な知識は社会で失敗しながら学んでいくらしい。始めから完璧な社会人なんてほとんどいないそうだ」

「だろ。だったら今は遊んでいてもいいじゃんか」

「遊ぶこと自体も否定はしない。無駄なことを考え続けるより、気分転換でもしたほうが精神的に良い」

「だよな。……って、そうは分かってるんだ。けど、遊んでいても、オレはこのままでいいのか……ってふと我に返るんだよ」

「なるほど、そうやって勉強も遊びも中途半端になるのか」

「そういうこと。どっちかったら遊びの時間が長くて、自己嫌悪して勉強に取りかかることのほうが多い。けど、そんな焦燥感しょうそうかんに駆られて勉強しても、全然身にならなくてさ」

 話している内容は悩ましいものだが、月城つきしろの表情は悩ましさよりも解決したいという強い意思に満ちていた。

 俺は聞いた情報を整理し、誰にでも当てはまる普遍的ふへんてきな回答を述べる。

「問題解決に必要な点は二つある。まず一つ目は、決断力の無さが原因だ」

 できることなら、その人の性格に合わせたより具体的な解決案を提唱したい。

 けれど人の性格や性根は複雑で、どうすれば頑張れるのか、何が心を折る原因になるのか、その細かな匙加減さじかげんは会ったばかりの人間では分からない。だから、思考の方向性を指し示してやるしかない。

「遊ぶなら遊ぶ、勉強するなら勉強すると、きっぱり決めたほうがいい。遊びだってストレスの発散に必要だし、必要無さそうな勉強もしないよりはいい。知識ってのは、想像もしないひょんなところで役に立ったりするもんだ。無駄なことかも……なんて悩む時間が一番無駄だということを理解しろ」

 決断力、決行力は、悩む人間と悩まない人間で人生の時間に大幅な差を生む。何も考えずに即決するのは良くないが、必要な情報が揃っているのなら本来は悩む必要すら無いはずなんだ。

「それともう一つの原因。それは、将来の想像が足りていないだけだ」

 こちらは何となく思い浮かべる人は多いが、具体的に計画を立てる人はとても少ない。

「遊びはいいぞ。さっきも言ったが、心の余裕のために必要なことだ。だけど、未来の自分ってのは過去の自分からできてるんだ。つまり、今の自分だ」

 過去があるから今があり、そこから未来が作られていく。なら後は、どういった未来を作りたいかだ。

「必死に努力して将来を良くしようが、遊び呆けて将来を駄目にしようが、全ての責任は自分で背負うことになる。人生を失敗するリスクを背負う覚悟があるのなら、好きなだけ遊べばいい」

「おぉぉ……。なんてーか、想像してたのより全然言葉が優しくねぇな」

 月城つきしろは話の内容よりも、俺の口調に若干戸惑っていた。確かに通常のカウンセリングは、優しい口調で語りかけるもんだよな。それを期待されていたのであれば、残念だったなと言わざるを得ない。

「俺はべつに心理カウンセラーじゃないからな。カウンセリングっぽく、相談内容に的確だと信じている助言をしているだけだ。親身で優しい言葉を求めているなら、本職の人間に相談したほうがいい」

「いやまぁ、本職でも結構ズバズバ言ってくる人はいるんだけどよ」

 月城つきしろは心当たりがあるのか、少し苦い顔をした。

 そして霞ヶ丘かすみがおかが記入を続けている記録用ノートに視線を向け、誰に聞かせるでもなくポツリと呟く。

「悩んでいる時間が一番の無駄、ね……。まぁ、やっぱりそうだよな……」

「……?」

 俺はその発言に疑問を抱いた。

 やっぱり、だと……? ここまでは自力で考えてたどり着いていたのか。だとすると、何故答えの分かっている質問をしたのだろう。自分の考えとは別の答えを期待されていたのか?

 月城つきしろは記録用ノートから視線を外して俺へと向き直る。

「ありがとう。それじゃあ、もう一つのほうの相談もいいか?」

「あぁ、話してくれ」

 月城つきしろは浅く息を吐いてわずかな間を作り、目の奥に強い意思を灯して言葉を告げる。

「人間って絶対に死ぬだろ。極論もいいところなんだけど、どうせ死ぬなら努力も何もしなくていいんじゃないかと思ってさ」

「……!」

 月城つきしろのこの発言に、俺は驚いたと同時に納得した。

 相談者にしては明るかったり、相談内容が整理されていたり、やっぱりという言葉にも全て説明が付く。

 俺は自分の想像が正しいのだと確信した。

「ちょっとすまん。話の腰を折って悪いとは思うが、その前に再確認させてくれ」

「いいぜ。なんだ?」

「本当に、会話内容の全てを記録に残していいんだよな」

「あぁ、大丈夫だぜ」

「分かった」

 俺は相談を一時中断し、ここまで黙ってボールペンを動かしていた霞ヶ丘かすみがおかに顔を向ける。

「そっちのノートに切り替えてくれ。ここから先は、全記モードで頼む」

「おぉー、久しぶりだねー」

「だな。今回の報酬は、スイーツプリンセスの新作パフェで良いか?」

「いいよー」

 霞ヶ丘かすみがおかは記録用ノートを閉じ、記録用ノート〔渡刈〕を開いた。

「な、なんだ、何が起こるんだ……?」

 月城つきしろが不思議そうに俺達の会話を聞いていたが、答える必要は無い。説明してもどうせ驚かれるのだから、ここで話すのは時間の無駄だ。

「こっちの話だ。すぐに分かる」

「そうか?」

「中断して悪かったな。再開しよう」

「あ、あぁ」

 霞ヶ丘かすみがおかは鞄から伊達だてメガネを取り出し、こくんと頷いて準備完了の合図をする。俺がそれに頷き返すと、伊達だてメガネを装着してキリッとした視線をノートに落とした。

 久しぶりに見た霞ヶ丘かすみがおかの真剣な表情に釣られて、俺のやる気スイッチもオンになる。

「……?」

 月城つきしろ霞ヶ丘かすみがおかの急な様子の変化に疑問を抱いているのを感じるが、関係無い。

 ここから先は相談じゃない、口論だ。

「相談内容は、死ぬから努力をしなくてもいい、だったな」

「はっ!? はぁ?! マジかよ……!」

 俺は先ほどの話を再確認した。そしてそれとほぼ同時に、月城つきしろが驚愕の声を上げる。

「何それすげぇ……」

「そうやって驚く人が多いから、相談の妨げになりやすくて普段はしない。けれど、月城つきしろは別だ」

 月城つきしろ霞ヶ丘かすみがおかの手先、記録用ノート〔渡刈〕に目が釘付けとなっていた。

 驚愕に目を開き、口を開いて驚愕を言葉にする。

「さっきまでは要点しか書いてなかったじゃんか。けど今は、会話を全て記入してる……!?」

 霞ヶ丘かすみがおかは自身が話題の中心になっていることなど意に介さず、俺達の発言と同時にボールペンを走らせて言葉の全てを記入している。いつ見ても凄まじい早さだ。

 先ほどまでののんびりとした印象は見る影も無く、ただじっとノートを見つめて次の言葉を待つ。

 その姿に心を奪われている月城つきしろの意識を引き戻すために、仕切り直しを口にする。

「こういうこともできるって話だが、説明は後だ。気になるのは分かるが、まずは俺と口論しようじゃないか」

「あ、あぁ」

「改めて訊こう。死ぬから努力をしなくてもいい。と、そう思い至った経緯いきさつや理論を聞かせてくれ」

 俺が話の根幹になる部分を問うと、月城つきしろが気持ちを切り替えるために目を閉じた。ふぅっと短い息を吐いて体から余計な力を抜き、開いたその目で俺の目を真っ直ぐに見つめる。

「人間は必ず死ぬ。この世に生を受けて、それぞれ人生を歩み、一人の例外も無く死を迎える。だったら、生きている間にどんなことをやっても無意味だ。周りの人には何か影響を与えるかもしれないけど、人生ってのは結局自分を中心につむがれていくものだ。でもそれも、死んで無の存在となってしまったら意味が無い。努力しようが堕落しようが、死んじまったらそこで終わり。人生に、生きることに意味なんて無い」

 月城つきしろが口にしたのは、予想通り人生無意味理論だった。

 この理論に気が付いた人間は、人生無意味症候群という精神病に罹患りかんする確率が非常に高い。通常であれば、将来の夢や人生設計を考えるだけで人は満足する。中には、自分が死んだ後に周りへの対処をどうするかということまで考える人もいるだろう。

 けれど、この人生無意味理論は別だ。人は必ず死ぬのだから自分は生きる意味が無いという、自分の人生のみを支点に置いて理論展開していく厄介な思考だ。その厄介さの最大の特徴は、絶対に論破できないところにある。

 久し振りに面白い口論ができると確信し、あふれ出る喜びが口元にわずかな笑みを作る。俺はその笑みを誤魔化すように、口を開いて言葉を投げた。

「そうだな、基本的にはその意見に同意する」

「ならオレが、人生は無意味だから死にたい、と考えていることも理解してくれるよな?」

「あぁ、もちろんだ。けれど、それじゃあつまらないよな。だから俺は、お前を生かせてやる」

 この人生無意味症候群は、端的に言ってしまえば「死ぬ自分にとっては無意味だ」という理屈を貫き通すだけだ。

 しかしその単純さゆえに圧倒的な説得力を持つ。その説得力の強さは、自分の人生を犯罪や自殺で捨ててしまうほどだ。都市伝説では、日本はこの人生無意味理論に情報規制をかけているとすら言われている。人生の夢や目標を語るなら、その先に必ず待ち構えている死までをも考えるのが本来正しいはずだ。

 けれど、そこまで書き記している記事はほとんど無い。何故なら、人生は無意味だと人類全員が気付いてしまっては、人間社会は壊れてしまうからだ。

 犯罪や自殺が当たり前になれば、社会の仕組みなど意味を成さない。だから、生命の真理にさえ近付こうとするこの議題が、ネット上には大した情報が載せられていない。

 月城つきしろが俺の「生かしてやる」という真っ向から歯向かう言葉に反応して臨戦態勢に入る。

「生き甲斐を持たせてくれるってのか?」

「若干違うが、まぁそんな感じだ」

「生き甲斐に意味なんて無い。やり手応ごたえのある人生を送ろうと、死んじまったら意味が無い」

 そして早速、その理論で俺の発言を否定した。

 なあ霞ヶ丘かすみがおか、ずいぶんと懐かしい気もするよな。あの日をきっかけに、俺も人生無意味理論について少しは勉強したんだぞ。

 とりあえず今は、月城つきしろ相手にどれほど通じるのか試させてもらおう。

 俺は脳内で会話のルートを組み立て、自分が優勢になる展開を選び出す。

「なぁ、人生で楽しいと感じたことはあるか?」

「もちろんあるさ。だけど死んじまったら意味が無い」

「つらいことを乗り越えた時に、達成感を抱いたことはあるか?」

「それもある。だけど死んじまったら意味が無い」

「なら、つらさに耐えられなくて逃げ出したことはあるか?」

「あるよ。今でも悔やんでる。だけど、死んじまったら意味が無い」

 俺だって、感情に意味が無いことくらいは分かっている。だが口論には順序立てが必要だ。

 まずはせいぜい、その最強の理論を好きなだけ使うがいいさ。

月城つきしろ自身には何も残らないかもしれない。けど、月城つきしろが関わった人間には影響が残るだろ。例えば近所の子供と遊んだりしただけで、そいつの人格形成や記憶には一生残り続ける」

「そうだな。けど、その子供だっていつかは死ぬんだ。なら、オレにとってもその子供にとっても、人生なんて意味が無い」

「その子供はさらに、友達と関わったりするだろう。成長して大人になり、子孫を残すかもしれない。月城つきしろが関わったその子供の関係者は、世の中に何かを残し続ける」

「それも同じだ。影響がどこまでも続いていくのだとしても、最終的には皆死んじまうんだ。なら、オレ達全員に意味は残らない」

「人間には残らなくても、世界には残るかもしれない。例えば月城つきしろが世紀の発明を残したとしよう。そうすれば、今後ずっと世界に意味が残り続ける」

「それも意味は無いな。結局、人生ってのは個人のものだ。なら、生きている間にその人自身に何があるか、でしかない。オレが影響を残す意味も、影響を受けて生きる人も、全部全て意味が無い」

 ……ふむ、人生無意味理論をきちんと理解しているな。馬鹿の一つ覚えに無意味と言い散らかすのではなく、きちんと理由を結びつけて無意味と言い返している。

 予定通りの返答に満足し、俺は次の段階へと話を進める。

「俺も人生に意味なんて無いとは思っているが、もしかしたら分からないだけかもしれないじゃないか。輪廻転生りんねてんせいは存在していて、前世や来世があるかもしれない。今の人生で徳を積めば、来世はもっと良い人生を送れるかもしれないぞ」

「仮に前世や来世があったんだとしても、その人生に意味は無い。結局無意味に生まれて、無意味に死んでいくだけだ」

「それが永遠と続いていくかもしれないじゃないか」

「無意味な人生を繰り返して、そこに何が生まれるんだ? 永遠と繰り返す無意味に、意味は無い」

 ……合格だ。人生に関することを全て否定するのは案外難しい。特に、来世の人生までも無意味と割り切ってしまえるのは生半可な思考じゃない。

 だが、ここまで完璧に切り返してくれたからこそ、俺は反撃の台詞を言える。

「なら、この質問をさせてもらおう。月城つきしろ、お前はそこまで考えられているのに、どうしてまだ生きてるんだ?」

「……! そ、それは……死ぬのが怖いからだ」

 俺の狙い通り、月城つきしろの言葉に少しだけよどみが生まれた。

 生きる理由が無いのなら、死んでしまえばいい。けれど死んでいないのは、死ぬ理由を見つけられていないからだ。

 人生が無意味だと思う理由と、死にたいと思う理由はイコールじゃない。

 月城つきしろの心に、隙を見付けた。

「その怖さってのは、どこからくるものだ?」

 俺は質問の系統を変えた。今までは「世界の一部の月城つきしろ」に対して外堀を埋める質問をしてきたが、ここからは「月城つきしろ自身のみ」に対する質問をしていく。

「脳とか……、心じゃないのか」

 無意味だ、と返せない質問に対し、月城つきしろは少しだけ考える素振そぶりを見せた。

 俺は予想していた質問にすかさず言葉を返す。

「そうだな。じゃあ、何故そんな感情を抱くのか。それを考えたことはあるか?」

「そりゃ生命体なんだから、死にたいと思うよりも生きたいと思うほうが正しいだろ」

「そうだな。それで、そこまで分かっていて何故死にたいと思うんだ?」

「そうやって本能に従って生き延びたところで、やっぱり無意味だからだ」

「つまり、理性と本能が矛盾しているんだな。理性では無意味を主張していても、本能では生存を求めている。けれどまぁ、理性は本能に勝てないよな」

「そうかもしれない。意味の無いことだけど」

 月城つきしろの言葉は十分に引き出した。

 ここから先は、俺が攻勢に移る番だ。

月城つきしろ、お前は一つ勘違いをしている」

「勘違い?」

「あぁ、その人生無意味理論は正しい。けど、完成していない」

「どういうことだ……?」

 最強だと信じていた理論を不完全だと否定され、月城つきしろが疑念の声を漏らす。

 信念に疑いの気持ちが芽生えたならば、後は言葉選びを間違えずに騙し通すだけだ。

「それだけ無意味と唱えておきながら、今こうやって月城つきしろは生きているじゃないか。つまり、人生無意味理論が完璧ならばこの会話にも意味が無い。さっさと死んでしまえばいいんだ」

「いや、だから……、死ぬのは怖いんだって」

「怖いと思うことに意味は無い。目先の恐怖から逃れて人生を送ろうと、いずれ死ぬ。遅いか早いかの違いでしかない」

「そうだけどさ、死ねないんだからしょうがないじゃんか」

「そうだ。だから無意味とは分かりつつも、生きるしかない」

「けど全てが無意味だと気付いたから、何をやっていても脳裏を過るようになるんだよ」

「じゃあ何故、無意味で死にたいと考えるのか。それは、そう考えるだけの余裕があるからだ」

「余裕?」

 俺の発言に興味を持ち、月城つきしろが意見を聞きたいという声音で言葉を繰り返した。こうなってしまえば主張を擦り込ませるのは容易い。

「そうだ。この人生無意味理論は、程度はよりけりだが誰しもが考える。けれど、理論を考えて生きる意思を失うなんてのは、すでに通常とは言えない。人生無意味症候群は、鬱病うつびょうや不安障害などの精神疾患と同じ扱いだ」

 宗教などに思想を伸ばせば、また違った教えを説かれるだろう。けれど、信憑性しんぴょうせいの無い勝手な妄想を信じられるかどうかは人それぞれでしかない。今必要なのは、心地よい理想ではなくただの真実だ。

「なぁ月城つきしろ、お前には親友とか家族とか、大切な相手はいるか?」

「親友……って言えるほどの友達はいないかな……。家族は大切だと思ってるよ」

「なら家族と一緒にいる時に、人生は無意味だから死にたいとは考えるか?」

「…………いや、ほとんど考えない」

 よし。その言葉を引き出せた時点で、この口論は終了したも同然だ。

 あふれ出ようとする充足感を内心に押し留め、最後の詰めを口にする。

「なら何故、考えないのだろうか。それは、心が満たされているからだ。幸福度の高い人間が精神疾患になりにくいのと同様に、精神的に満たされている時は形の無い不安に襲われることが少ないんだ」

 リア充、と言ってしまうと、彼氏彼女がいるかどうかという判断基準が広まっているが、本来はただ充実した生活を送れているかどうかということでしかない。

 それを確かめた上で言えるのは、リアルが充実している人間は死にたいなんて考えないということだ。

「親友でも、恋人でも、家族でも、最愛の動物でもいい。大切な相手と一緒にいる時は、その幸福な時間に浸っていたいだろ? なら、そういった時間を大切にして生きてみろ」

「……いや、そう思って生きても意味が無い」

「けれど、相手と共有する楽しい時間を手放してまで死にたいと思う人はそうそういない。大雑把に言えば、月城つきしろはただ心が満たされていないだけなんだ。自分だけの人生ではなく、誰かと心を共有する人生を歩んでみろ」

「無意味なのにか……?」

「無意味を証明したいなら、今すぐ死ぬんだな」

「……それはできない」

「なら、無意味を背負って生きろ」

「………………分かった、……オレの負けだ」

 月城つきしろは視線を外して顔をわずかに俯かせる。返す言葉を失い、口元が悔しさに歪んでいた。

 俺はふぅっと短く息を吐き、無意識に力んでいた全身を解きほぐす。

 次いで霞ヶ丘かすみがおかの方へと身体を向け、左手で背中にポンと触れる。

「ありがとう、ここで終わりだ」

 あらかじめ決めている全記モード終了の合図を受け取った霞ヶ丘かすみがおかは、伊達だてメガネを外して長机にしなだれかかる。

「ふにゅー……。渡刈とがりくんー、お疲れぇー…………」

 先ほどまでの気迫は完全に消失し、普段通りののんびりとした雰囲気に戻った。いや、全記モードで蓄積された疲労度も合わさり、普段以上にだらけている。

 集中力を研ぎ澄ませ、聞いた言葉をほぼ同時に書き記す。特殊能力とも言えるそんな技能を発揮した後には、脱力感から腑抜けてしまうのも無理は無い。

 目立たないながらも労力を一番費やした彼女に、触れた左手で背中をさする。

「いつも言ってるが、疲れるのは霞ヶ丘かすみがおかだけだ。すまないな」

「それは言わないお約束だよー」

 ただ一つの誤字脱字も無く、会話の全てを記入する。そんなことなど常人にはまず不可能だ。

 俺みたいな凡人に対して、才気を行使するに値すると認めてくれているのだからありがたい。

 月城つきしろは言葉を返し切れなかったことにショックを受けているのか、ただじっと記録用ノート〔渡刈〕を見つめていた。

 その目には、戸惑いや羨望といった様々な感情が入り交じっている。

「正直……、言い負けるとは思ってなかった。人生無意味理論は完璧だと思ってたよ……」

 いや、これが実際ほぼ完璧なんだ。俺がどれだけ屁理屈で言い返そうと、最後まで無意味だと返され続けたら反論できない。

 ただ今回は、月城つきしろの心に隙を見つけられた。そこに上手く付け入っただけに過ぎない。

 けれどそれは口にしない。せっかく騙し通せたのだから、わざわざネタバラシをする必要は無い。

 ついでに、ニマニマと面白いものを見る目を向けてくる霞ヶ丘かすみがおかの相手もしない。

 さて、口論も一段落がついたところで確認しなければならないことがある。

「なぁ月城つきしろ。今はもう、人生を思い悩んじゃいないだろ」

「……!」

 言い当てられることを想像していなかったのか、月城つきしろはあからさまに驚愕の表情を浮かべた。

「……どうして分かったんだ?」

「理由はいくつかある。まず、月城つきしろは発言が快活すぎる。悩み苦しんでいる人間の口調じゃない」

 挨拶を交わした時点で不思議に思っていたが、そもそも悩みに自分で答えを出していたのだから苦しんですらいない。

「次に、勉強の相談が簡潔過ぎた。相談自体はどうでもよくて、俺がどういった答えを返すのかうかがっていたんだろう。その証拠に、相談が終わった時に、やっぱりって言ってたよな」

「うっ……」

 月城つきしろは無意識に呟いた言葉を拾われていたと知り、落ち度を悔やんで苦しさを漏らした。

「最後。勉強の相談が終わった後に、人生そのものについて相談を始めただろ。これは致命的なミスだ」

 俺は霞ヶ丘かすみがおかの手元にある、二つの記録用ノートに目を向ける。

「生きていくうえでつらいことがあって死にたい。と相談している流れで、どうせ死ぬから生きたくない。と気付く人は稀にいる。けれど、つらい悩みと人生無意味理論をスッパリと割り切って、別問題として突然提示するなんてあり得ない」

 そして証明をくくる、最後の言葉を告げる。

「この二つの問題は、両方同時に抱えていられない。死ぬから生きたくないのなら、生きるうえでのつらいことを相談する必要が無い」

「マジか…………、そこまで言われちゃ反論のしようも無い」

 月城つきしろは息を吐き、パイプ椅子の背もたれに上半身を預けた。

 力無くゆっくりと顔を動かし、記録用ノート〔渡刈〕に目を向ける。

「試すような真似して悪かったと思ってるけど、相談内容自体も嘘じゃないんだ。特に二つ目の相談……ってか口論したことは、ずっと悩んでた。死ねないから生きるしかない。とは一応割り切ってたけど、そう割り切ることも無意味だ。と、誤魔化すことすらできなかったんだ。だから、そもそも考えないようにしたんだ」

 本当にただ誤魔化しただけだと気付かれないことを願うのみだな。

 俺と月城つきしろが口論の余韻に浸っていると、霞ヶ丘かすみがおかが足をパタパタさせて存在をアピールした。

「ねーぇ渡刈くんー、もーそろそろ部活終了の時間だよー」

「そうだな。今日はここでお開きにしよう」

 黒板の上にある時計を確認すると、意外と長い時間話し合っていたのだと気付かされる。窓から差し込む夕日が、部室を仄かに赤く染めていた。

 強制解散の物寂しさを埋めるように、月城つきしろに一つ提案をする。

「この後デザートを食べに寄り道するんだが、月城つきしろも一緒に行かないか?」

「オレも……?」

 予期せぬ誘いにほんの一瞬だけ迷った表情を見せたが、すぐに頷いて返事をする。

「付いて行く。まだ話したいこともあるしな」

「よーし、それじゃーれっつらごー」

 霞ヶ丘かすみがおかの気の抜けた返事で本日の活動を終了とし、帰宅の準備を済ませて部室を後にした。



 無気力に緩慢かんまんな足運びで歩く霞ヶ丘かすみがおかにペースを合わせ、夕日の傾きを如実に感じながら線路沿いの道を進んで街中へ向かった。

 駅前に立ち並ぶ雑居ビルの一つに入り、スイーツプリンセスと店名を掲げる店に入る。俺達同様に部活終わりに立ち寄る人が多いのか、客の多くは学生が占めていた。

「すぅー……、はぁー。すぅぅー……、はぁー……」

 霞ヶ丘かすみがおかが入店早々に深呼吸をし、店の奥から漂う甘い香りで肺を満たす。とろけきった瞳とこぼれ出るよだれは、とてもじゃないが人様にお見せできる顔じゃない。

 意識が旅立ちかけている背中を押してレジまで向かい、三本のドリンクと新作のパフェを一つ注文する。ドリンクだけその場で受け取り、適当に空席を見つけて腰を下ろした。

 ガムシロップがたっぷり入っているミルクティーを飲む霞ヶ丘かすみがおかに、月城つきしろが当たり前といえば当たり前の疑問を口にする。

「今の時間からパフェなんて食って、晩飯は食えるのか?」

「もちろんだよー。今日は頑張ったからねぇー、身体が糖分を欲しているのさー」

「確かにさっきのは凄かったな……。全記モード? だっけか、あんなん初めて見たよ。つか何より、それになってから別人のように雰囲気が変わったよな」

「集中する時とー、しない時をー、使い分けてるんだよー。疲れるから普段はあまりしたくないんだけどー、あまーいデザートを貰えるなら頑張っちゃうよー」

 霞ヶ丘かすみがおかいわく、全記モードは非常にエネルギーを消耗するらしい。依頼する際は甘味をおごると約束が交わされている。

「報酬が発生するぐらいの特別なことなのか……。切り替えた後のノートには、記録用ノート〔渡刈〕って書いてあったよな。それは何か関係があるのか?」

 月城つきしろがどうでも良さそうな疑問を口にし、答えを求めて俺へと顔を向けてきた。よくそんなところまで記憶していたな。

 俺個人の名前が書かれていたことに対する質問に、極めて私的な返答を述べる。

「記録用ノートは、あくまで部活の活動記録として残る程度に書かれていればいい。けれど、たまに俺の琴線に触れる有益な相談を持ちかけられることもある。そういう時は霞ヶ丘かすみがおかに依頼をして、俺専用のノートに書き残してもらっているんだ」

 独自の理論で面白い発想を聞かせてくれる相談者は稀に存在する。それら新しい着眼点を完璧に記録すれば、じっくりと後から読み返すことが可能だ。

 つまるところ、思考の柔軟性を高めるための教材にしているに過ぎない。

渡刈とがりが有益だと思う相談……、何それめっちゃ気になるんだけど」

 月城つきしろが全記されたノートに興味を持ち始めたところで、店員がパフェを届けにやってきた。

 霞ヶ丘かすみがおかが手を伸ばして受け取り、子供のように無邪気な瞳で甘味の塔を見つめる。

「わーい、いただきまーす」

 スプーンを差し入れてクリームを掬い、小さな口を開けて魅惑の一口を頬張る。

 その瞬間に、顔が幸せそうにほころんだ。

「あふぇー……、頑張った後のスイーツはさいこーだねぇー」

 満足してもらえたようで良かった。ありがとうございます、パティシエさん。

 期待を裏切らないデザートに感謝したところで、俺は月城つきしろに部室での会話の続きを促す。

「それで、まだ話したいことってなんだ?」

「っと、そうだったな」

 全記モードの説明を聞き終えて満足した月城つきしろが、口論をしていた時のような真剣な表情で口を開く。

「部活なら新入部員も受け付けてるだろ? オレを命の子供相談部に入部させてくれ」

 その言葉を聞いた俺と霞ヶ丘かすみがおかは、お互いに顔を向けて表情を確認した。

 気持ちの相互理解など一瞬の時間があればいい。霞ヶ丘かすみがおかはすぐに月城つきしろへと向き直る。

「いいよー」

 言葉も交わさず合議が行われ、あっさりと入部を許可した。

 あまりにもあっさり認められたため、月城つきしろは拍子抜けして目を丸くする。

「そんな簡単に決めていいのか……?」

「高校の部活一つにー、難しく悩む理由も無いよねー」

 霞ヶ丘かすみがおかは事も無げに言っているが、これでもれっきとした理由はある。

 今日が初対面とは言え、真っ向から口論をすれば人となりを把握できる。声音こわねや視線、指先の動きから呼吸の一つまで、月城つきしろが本気で言葉をつむぎ出したことは明白だ。

 人生という不透明で不鮮明な事象と真剣に向き合っていることは、俺も霞ヶ丘かすみがおかも充分に感じ取っている。

 それほどの人間に入部を求められれば、断る理由など何も無い。

 とはいえ俺達だけで納得しても仕方がない。月城つきしろ自身を納得させるために、入部希望の理由を問いかける。

「どうして命相めいそう部に入りたいだなんて思ったんだ?」

「結論から言えば……、オレは将来、心理カウンセラーになりたいんだ」

「おぉ……、また珍しいな」

 思いがけない志望に驚嘆の声が漏れた。

 男子高校生の将来就きたい職業ランキングでも、心理カウンセラーは万年ランキング圏外だ。業界で登録されているカウンセラーの数も、男性は女性の半分くらいしかいないのだという。

 俺は奇異の視線を向けて言葉の続きを促す。

「最初は興味本意で顔を出しただけだったけど、霞ヶ丘かすみがおか渡刈とがりも想像以上に凄かった。二人と一緒にいたら、何か大切なものを学べる気がするんだ」

「入部を断る理由は無いけれど、一つだけ訂正しておく。俺は月城つきしろに凄いと思われるような人間じゃない」

 パフェを食べながら満面の笑みを浮かべている霞ヶ丘かすみがおかをチラと横目に映し、才能とは何かを再確認する。

「実際、俺と月城つきしろの対話能力に大した差なんて感じなかった。凄いのは、霞ヶ丘かすみがおかの書き取り能力だ。初めてみた衝撃的な印象とセットで記憶しているから、ついでに俺も凄いと勘違いしているだけだ」

「いや、言い負けたオレが言うのも変だけど、言葉の切り返しが凄かったじゃんか」

「勝ち負けとか言い出す時点で間違っている。月城つきしろは特別な例だが、命の真理について相談を持ち出してくる人も極稀にいる。なら、必要なのは勝ち負けじゃない。相談者が納得できるだけの言葉をつむげるかどうかだ。決して勝負事じゃあない」

「うっ……」

 月城つきしろは自身の勘違いを理解したのか、言葉を詰まらせてバツの悪そうな表情をした。

 とは言え、志自体はそこまで間違ってはいない。相談者に逆に言いくるめられるようでは、とても心理カウンセラーなど務まらない。

 少しばかり気落ちしている月城つきしろに、言葉を濁さず励ましの声をかける。

「入部希望は素直に嬉しいよ。相談者はそこまで多くはないけれど、俺と霞ヶ丘かすみがおかだけでは対応しきれない相談が寄せられるかもしれないしな。その時は月城つきしろに丸投げしてしまおう」

「いや……、オレはほとんど相談に乗った経験が無いんだ。前の高校の友人とか、ネットの募集で寄せられた数件とか、その程度でしかない」

「そうか。俺も似たようなもんだから大丈夫だろ。これからは、話し手としてよろしく頼む」

「本当にいい……のか?」

 月城つきしろは予想外だと言わんばかりの声を出した。駄目な理由があるのなら俺が教えてほしい。

「あぁ、相談者にも話し手との相性があるからな。話し手の選択肢が増えるのは、相談者にとってもありがたいことだ」

「いや、そうじゃなくて……、オレ程度の人間がいきなり話し手になっていいのかって疑問だ」

 月城つきしろは俺の的外れな返答を受け流し、自身の弱音を口にした。

 そっちの心配かよ……。なに訳の分からない心配をしているのか、俺のほうが分からない。

月城つきしろ、少しは自分に自信を持て。あれだけ俺と言葉を交わし合って、それでもまだ力量不足だと思っているのか」

「あ……あぁ、そうだよ。相談経験なんて無いに等しいし、さっき渡刈とがりにも言い負け……言いくるめられたばかりだ。自信なんてあるわけが無い」

 月城つきしろは悔しさに少しばかり怒りを混ぜた視線で俺を見た。

 これは、嫉妬の眼差しだ。

「俺なんかに嫉妬してどうすんだよ……。今回はたまたまこういう結果になっただけだ。けれど少なくとも、俺は月城つきしろが相談役に向いていると思ったから話し手を任せたいと言ったんだ」

「その理由は何なんだ……?」

「心理カウンセラーが一番分かってなきゃいけないこと。それは、苦悩を知っているということだ。まぁ、一番が何かは人によって意見の別れるところだが、俺は確信を持ってそう思ってる」

「苦悩を知っている……」

 月城つきしろは俺の言葉を確かめるように口ずさんだ。

「解決に導く豊富な知識も、相談者に対する適切な話術も、そんなものは学べばいくらでも吸収できる。けれど、相談者が思い悩んでどんな心理状態になっているのかってのは、同じく本当に思い悩んだことのある人間にしか分からないんだ。月城つきしろが人生は無意味だと思い悩んでいることは、本物だ。ならばこそ、薄っぺらさなど感じさせない親身なカウンセリングができる。これほどの適役は他にいない」

 俺は説明は終わりだとばかりにアイスコーヒーを手に取り、ストローを咥えて飲み干す。

「ホント、敵わねー……」

 月城つきしろが降参だとばかりに呟いたところで、途中から会話に交ざらずパフェを口に運んでいた霞ヶ丘かすみがおかがスプーンを置いた。

「ふぃー、ごちそうさまー。すごーく美味しかったよー。渡刈とがりくんー、ありがとー」

「作ったのはこの店のパティシエだ。俺に言うな」

「じゃあー、ゴチになりまーす。ありがとー」

「言い直す必要も無い。依頼に対する正当な報酬だ」

「ぶぅー。いっつもそう言ってはぐらかそうとするだからー。照れ隠しなのは分かってるんだぞー、このツンデレさんめー」

 ……べつに、感謝されることになれていないだけだ。それに決して、発言は嘘じゃない。報酬などと理由をつけて霞ヶ丘かすみがおかの笑顔を見られたならば、俺はそれだけで満足だ。

 ともあれ、この場で必要な会話は全て終わった。

「そろそろ帰るか」

 ポケットからスマートフォンを取り出し、現在時刻を確認して帰宅を提案する。

「そだねー」

「あぁ」

 霞ヶ丘かすみがおか月城つきしろも異論は無いようで、各々が空の容器や鞄を手にして立ち上がった。

 他愛ない会話を交わしながら店を出て、帰路の途中にある踏み切りの前で足を止める。

「それじゃ、俺はこっちだから」

 暗くなり始めた線路沿いの道で、二人に顔を向けて別れを告げた。

 月城つきしろも特に惜しむことなく、軽く右手を上げて別れを口にする。

「おう、そんじゃまた明日な」

 霞ヶ丘かすみがおかは胸の前で両手をゆらゆらと揺らし、別れを表しているとは思えない所作と共に声を出す。

渡刈とがりくんー、じゃーねー」

 軽く左手を上げて二人に背を向け、踏切を抜けて閑静な住宅街を一人歩いた。



 今日の部活は、久し振りに面白いと感じた。

 それはつまり、物語が生まれていたからだろう。

 ただ日常を繰り返すだけではない、特別な物語が。

 それは間違いなく、月城つきしろが現れたからつむがれたものだ。

 ならばこれは、誰の物語なのだろうか。

 俺か。それとも、月城つきしろか。

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