第3話 その相談者、片想い

 命がおびやかされるほどの非日常的な事件など、そうそう出会でくわすこともない。

 そもそも非日常が頻繁に発生するならば、それは最早日常だ。

 相も変わらず相談者の訪れない命相部では、少しばかり変化の起きた日常を謳歌おうかしていた。

「なぁ須美すみ、この問題は……」

「あぁー、それはねー」

 月城は宿題を広げ、霞ヶ丘が回答のヒントを与えている。校内でもトップクラスの学力を持つ霞ヶ丘に面倒を見てもらえるのなら、すぐに片付けられるだろう。

 先日起きた事件、セイコーマートで強盗犯と出会でくわしたその一件以来、二人の距離は精神的にも物理的にも近くなった。月城が霞ヶ丘に相談を受けてくれと切り出し、部室で多くの言葉を重ねたのだろう。

 その場に居なかった俺は、どんな話をしたのかは知らない。けれど、二人が恋仲になったことは暗に伝えられている。

 強盗事件を乗り越えただけで霞ヶ丘が心を開くとは思えない。月城は元々、いろんな場面でフラグを立てていたのかもしれない。

 しかしそれらも、俺は知らない。知らないと嘆いたりもしない。主人公とメインヒロインが二人で青春物語を繰り広げるなど、ラブコメの王道展開だ。

須美すみの説明はスゲー分かりやすいから助かるぜ」

「そう言ってもらえるとー、教え甲斐もあるよー」

 生きる理由を見出だした霞ヶ丘は、何だか少しだけ普通の女の子に近付いた気がする。のんびりとした雰囲気はそのままだが、心の底から感情を表すようになった。

 とはいえべつに、俺の前でイチャついたりするわけでもない。せいぜい月城が霞ヶ丘を名前呼びするようになったくらいだ。もちろん俺の居ないところでの様子は知らない。

 まったく……、これで俺を邪魔者扱いしてくれるなら、空気を読んで部室に来なくなるぐらいのことはするんだけどな。

 二人は俺を邪魔者扱いせず、変に気を遣って無理矢理一緒にいるといった雰囲気すらも感じさせない。月城にも霞ヶ丘にも、そしてそこに何故か存在する俺にとっても、命相部の距離感は悪いものではない。

 ……とは言え正直、居心地の悪さが完璧に無くなるわけではない。

 たまには理由を付けて居なくなったほうがいいのだろうか。俺が居ても良いのかもしれないが、居なければもっと良いということもあり得る。

「月城くんの学力はー、渡刈くんの少し下くらいかなー」

「マジか。学力で渡刈に負けてんのは、何かちょっとショックだぜ」

「月城は俺をどういう目で見てるんだ」

 けれどやはり、下手に空気を読もうとする発言などしない。

 俺が居なくなろうとすることを、二人が認めないだろう。

 緩い空気が蔓延まんえんする中、コンコンコンと控えめなノックの音が鳴った。

「どうぞ」

 俺は扉に顔を向けて声を出す。すると、ノック音に負けず劣らずの控えめな動作でゆっくりと扉が動き出した。ガラガラといった開閉音すら聞こえない。

「……、…………」

 来訪者は少しだけ開かれた扉から頭をちょこっと覗かせ、ギリギリ両目が見えるくらいまで顔を出す。そわそわと目を動かして、部室内の様子をうかがっているようだった。

 灰色の髪に包まれた小さな顔と扉に添えられている小さな手から、女生徒だろうと想像できる。

「……!」

 しかし俺達と目が合った途端、顔を引っ込めて扉に隠れてしまった。

 人見知りなのか対人恐怖症なのかは分からないが、そんな様子では相談すら始められない。

 どうしたものかと思っていると、再び顔を覗かせてチラと俺達を見た。わざわざ部室に来るぐらいなのだから、立ち去るつもりは無いのだろう。

「……」

 声をかけるべきかどうか迷っていると、霞ヶ丘が静かに立ち上がった。

 女生徒は一瞬体を強張らせたが、そんな様子などお構いなしにゆっくりと近付き、扉を開けきって女生徒の背中に両腕を回す。

「怖がらなくてもいいよー。落ち着いてー」

 霞ヶ丘は聖母のように柔らかく抱き寄せ、声をかけてなだめ始める。

「大丈夫だからねー」

「あっ……、あのっ」

 すると女生徒は、霞ヶ丘の胸に顔をうずめたままくぐもった声を出した。

 霞ヶ丘は抱擁ほうようを解き、柔らかい瞳で女生徒を見つめる。

「どうしたのー?」

「えとっ……、その……!」

 女生徒はチラと俺と月城へ目を向けながら、何を言おうかと迷っている風に口を開閉させていた。

 そんな様子を見て、霞ヶ丘は回したままの手で背中をさする。すると徐々に落ち着いてきたのか、女生徒は霞ヶ丘を遠慮がちに見上げて口を開く。

「あ……、ありがとう、ございます……」

「どういたしましてだよー」

 そして霞ヶ丘の耳に顔を近付けて、何事かを伝えていた。

「……うんー、分かったよー」

 言葉を受け取った霞ヶ丘は、女生徒に意志が伝わったと返事をしてこちらに顔を向ける。

「月城くんー、渡刈くんー、ちょーっとだけ席を外してもらえるかなー」

 声音に申し訳なさを少しだけ混ぜ、様子をうかがっているだけの俺達に指示を飛ばす。

「分かった」

「……あぁ、分かった」

 俺はすぐに返答し、月城も一拍遅れて返答した。

 俺はライトノベルを、月城は教材を鞄に入れて立ち上がる。

 部室に扉は前後二ヶ所あるのだが、後方の扉は机や椅子が積み上げられていて使用できない。退室するには前方の扉、つまり、先ほどから俺達に怯えている女生徒へ近付くことになる。

 それを察した霞ヶ丘は、背中に添えた手で女生徒を軽く押して誘導し、俺達から距離を取らせた。

「……」

「!」

 月城がチラと顔を向けると、女生徒は過剰に反応して霞ヶ丘の背中に回り込む。隠れる際に灰色のリボンが胸元で揺れて、一年生だと確認できた。

 開け放たれている扉を抜け、振り返って霞ヶ丘に声をかける。

「終わったら連絡をくれ」

「分かったー」

 次いで月城が不安げな表情を向ける。

「他にも何か、解決できないような内容があれば連絡してくれ。すぐに戻ってくる」

「大丈夫大丈夫ー」

 しかしそれを、霞ヶ丘がすげなく断る。

「女の花園にはだんしきんせー。乙女の秘密だよー」

 多干渉を完全に遮る言葉と共に、命相部の扉が閉められた。

 隣に立つ月城を横目に映し、心の中で予想外の事態に対する悪態をつく。

 おい、ラブコメの神様よ。組分けを間違ってないか? なんで男女で分けるんだよ。月城と霞ヶ丘を二人っきりにしてやれよ。ここは俺だけを除外する場面だろ。

 などと理不尽な誹謗ひぼうを思い浮かべてみたが、月城はまったく気にしていない様子だった。部室を追い出された不安と寂しさを振り払い、気持ちを切り換えて俺に顔を向ける。

須美すみが大丈夫って言うなら大丈夫だよな。とりあえず、どっかで時間を潰そうぜ」

「あぁ」

 目的地は決まっていないが、階段を下り二階の廊下を歩く。月城が腕を組んで思案顔で言葉を投げてくる。

「さっきの一年生は男性恐怖症ってところかな」

「かもしれないな」

 確証は無いが、俺達と霞ヶ丘に対する反応に差があり過ぎた。俺も月城も、あの子に怯えられるような何かなど無い。霞ヶ丘には安心感を抱いていたようだし、ほぼ間違いないだろう。

 そのことを霞ヶ丘がいち早く気付いてくれて助かったな。

 俺が短い言葉で返答すると、月城がだからこそ生まれた疑問を口にした。

「女子高に行かなかったのは、何か訳でもあるんかな」

「分からん。けれど少なくとも、共学の差江崎さえざき高校に来てるんだから重症ではないんだろ」

「もしかしたら、家の都合とかで仕方なくここに通ってるのかもしれないじゃん」

「そういった可能性も無くはない。けれど何にしても、今回の相談相手は霞ヶ丘だ。俺達がこの場で気にすることじゃない」

「そりゃそうなんだけどよ……」

 月城が理屈ばかりの返答に若干不服そうな表情を浮かべたその時、ヴヴヴッと低いバイブ音が鳴った。これはLIONでメッセージを受信した時の音だな。

 月城がポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作してメッセージを読む。

「……ごめん、ちょっと用事ができた。須美すみから連絡が入ったら戻るよ」

「そうかい」

 引き留める理由も無いので、早足で廊下を去っていく背中を見送った。時間を潰せる何かができたようで羨ましい。

「さて、俺はどうするか……」

 一人廊下に立ち尽くし、自分に問いかけるための一人言を呟いた。

 霞ヶ丘から連絡が入るまでは部室に戻れないし、時間潰しの相手になりそうな月城はどこかへと行ってしまった。完全に手持ちぶさただ。

 女生徒の相談がどれぐらいの時間を要するのかは分からないが、何をするにしても中途半端になりそうだ。ならばやはり、一人で静かにくつろげる場所がいい。

「……てな訳で、図書室しかねぇよなぁ」

 最適解の読書を選び、止めていた足を動かして廊下を進む。すると、不意に後ろから声をかけられた。

「おや、調しらべじゃないか」

 声に反応して後ろを振り向くと、三人の男子生徒を引き連れた水華すいか姉がそこにいた。

 十メートルほどの距離をお互いに歩み寄り、廊下の一角で姉弟が顔を合わせる。

 通常であれば部室にいるはずの俺と会ったことを、水華すいか姉が不思議そうな視線で問いかける。

「今は命相部の活動時間ではないのか?」

「そうなんだけど、一年の女子が来て男共は放り出された」

「なるほど……。ふむ、女には男に聞かれたくない話もあるからな」

「そっちは……何か用事があって出歩いてたのか?」

「その通り。ちょっと先生方に相談があってな、職員室に行ってきた帰りだ」

 相談と言うのは、部活に関係することなのだろう。水華すいか姉の後方で待機している男子部員達が、こちらの様子を気にしてチラチラと視線を送ってきている。

 水華すいか姉はそんなことなど露知らず、何かを考えているのかじっと俺を見つめてきた。

「…………」

「な、なんだよ……」

調しらべよ、しばらく時間は空いているのだろう。少し手伝ってくれ」

 視線の意味を問うやいなや、水華すいか姉は返事も聞かずに俺の右手を掴んできびすを返した。強制連行に逆らえず後を付いて歩くものの、多少の不満を口にする。

「いや、俺まだ何も言ってないんだけど」

「返答を聞く必要も無いだろう。どうせ断られないと分かっているのなら、このまま連行したほうが早い」

 人権が無いのではなく、問答が必要無いと判断したらしい。

「用件しだいでは断るんだけどな……」

 とは言え、何のために駆り出されるのかは知りたいところである。水華すいか姉を信用していない訳ではないが、状況を理解するためにもう少し情報が欲しいところだ。そんな思いを言葉に込めて一人ごちた。

「では」

 すると水華すいか姉は足を止め、凛とした表情で俺に問いかける。

「姉の柔肌を、他の者に見せてもいいと言うのか?」



 水華すいか姉の後方で待機していた男子生徒と合流し、動向する意思を伝えたところで右手が解放された。

 五人集団の先頭を歩く水華すいか姉の隣に俺が並び、三人の男子生徒が後に続く。何だかむちゃくちゃ背中に視線を感じる中、水華すいか姉が連行理由を述べる。

「去年の夏に使用した衣装を今回も着る予定なのだが、少しばかりサイズが合わなくなってしまってな。仕立て直すかどうかという話をしていた時に、ちょうど調しらべが現れたのだ」

「それで俺に、身体部位の計測をしてくれと」

「そういうことだ」

 話をしながら一階に降りて廊下を進む。正面玄関と体育館の入り口を素通りし、ほとんど来ることの無い目的地にたどり着く。

 水華すいか姉や同伴していた男子生徒が所属している部活、演劇部の部室だ。

 水華すいか姉が扉を開けて中に入り、その後に続いて俺も入室する。

「お邪魔します」

 完全な部外者であるため、少しばかり居心地の悪さを感じてしまう。

 後に続く男子生徒の邪魔にならないようすぐに脇に避け、逃げ場を求めるように水華すいか姉に視線を向ける。

 しかしそこへ、元々部室内に居た数人の部員が駆け寄ってきた。

「お疲れ様です。水華すいかさん、提案のほうはどうでしたか?」

「うむ、上手いこと話を進めて納得させてきたぞ」

「さっすが渡刈先輩!」

 水華すいか姉は職員室でしたのであろう会話の報告をしていた。誰かが言った渡刈先輩とは、もちろん俺のことではない。

 駆け寄ってきた部員は四人、こちらも全員が男子生徒だ。水華すいか姉と共にいた三人の男子生徒と合わせて、七人の男共が水華すいか姉を囲む。

 何あれ、アイドルの交流イベントかよ。

 男子生徒全員がお互いに牽制し合い、必死に水華すいか姉の好感度を稼ごうとしている。実に馬鹿馬鹿しい光景だった。

 水華すいか姉は一通り返事をして部員達の輪から抜ける。

「それと衣装の件なのだが、採寸して仕立て直しを依頼することにした。偶然調しらべが暇を持て余していたのでな、予定外だが今から済ませてくる。皆はそれぞれ、自分のやるべきことをやっていてくれ」

 まとめ置いていた荷物の中から体操着袋を掴み、入り口付近で所在なげにしていた俺のところにやってきた。

「自己紹介の必要も無いだろう。さぁ、こっちだ」

 再び右手を捕まれ、部屋の一角にある扉の前まで連れられる。

「少々散らかっているが、勘弁してくれ」

 部室内からさらに別の部屋に通じるそこには、『演劇部準備室』と書かれたプレートがかけられていた。

 水華すいか姉が扉を開けて中に入り、手を捕まれている俺もそのまま入る。

 その際に、残された男共が声を潜めて何事かを話しているのが聞こえた。

「あの男誰っすか?」

水華すいかさんがたまに話してただろ、弟の調しらべだ」

 聞こえはしたが、だからといって何か反応する必要も無い。ドアノブに視線を送り、何も聞こえていないというていで扉を閉める。

 準備室には背景などで使う劇道具が壁際に散乱していた。床は部屋の中央に少しだけ見えており、完全に物置小屋と化している。よくこれで散らかり具合を少々などと言えたものだ。

 水華すいか姉が扉の鍵をかけ、俺から離れて準備室内を奥へと進む。そして乱雑に置かれている備品の山に手を伸ばし、ガサゴソと音を立てて物色し始めた。

「確かここに……うむ、あった」

 整理されているとは言えない物の中から的確にテープメジャーを探し当て、俺に投げ渡す。

 飛んできたそれを片手で受け止め、他に必要な物を推測して口を開く。

「計測するんなら、何かにメモしたほうがいいよな」

「そうだな。では、その辺にある紙と鉛筆を使ってくれ」

「どの辺だよ」

 水華すいか姉は分かって当然のように部屋の角を指差したが、やはりそこも物が積み上げられているため何がどこにあるのか分からない。

 軽く文句を呟きながらも指示された場所へ向かうと、埋まっている机の上にスケッチブックと鉛筆があった。

 それらを手にして振り返る。すると水華すいか姉はセーラー服のリボンを外し、左脇腹付近にあるチャックを上げ、襟元を掴んで一気に脱いでいた。

 俺はスケッチブックをパラパラとめくり、空白のページを見付けて疑問を漏らす。

「服の上からじゃ駄目なのか?」

「絶対に駄目というわけではないが、地肌に当てて計測したほうが正確な数値を出せるだろう。このままジャージに着替えるつもりでもあるから、都合も良い」

「だからって学校で派手に脱ぐなよ」

「ここで着替えるなどいつものことだ。それに、調しらべ以外の誰が見ている訳でもないのだからよかろう」

 水華すいか姉は話をしながらもスカートのチャックを下ろし、羞恥も何も感じさせずに脱ぎ下ろす。

 ハンガーラックからハンガーを手に取り、制服をかけてハンガーラックへと戻す。僅か一分ほどの時間で下着姿となってしまった。

「さっさと終わらせてしまうぞ」

「はいはい」

 腰の下まである長い黒髪をヘアゴムで一纏ひとまとめにする水華すいか姉に、生返事で従う意思を伝えた。

 計測場所と計測方法を指示されながら、健康的で柔らかな肉体にテープメジャーを当て続ける。半裸で直立しながらも威風を感じさせる姿は、一つの芸術品だとさえ思わせた。

 すると何を思い出したのか、水華すいか姉がフフッと笑みを溢す。

「いやはや、複雑な気分だな」

「何がだよ」

「私も成長しているとはいえ、調しらべのほうが成長速度が早いではないか。弟の成長を喜ぶ反面、身長を抜かされて悔しさ半分といったところでな」

 ウエストを測るために片膝立ちになっている俺の頭に、水華すいか姉が左手をポンと乗せる。

「こうやって頭を撫でていたのも、遠い昔の出来事だな」

「俺は身長を抜けて一安心したところだ。姉相手とは言え、女より身長が低いのは男として格好悪いからな」

「格好良さも捨てがたいが、小さくて可愛かった調しらべも魅力的だったぞ」

「いつの話をしてんだよ……」

「小学生の頃、校内でかくれんぼをしたことがあるではないか。一人で隠れるのが心細いからと、一緒にロッカーへ入ったのはいつまでも忘れぬな」

「頼むから忘れてくれ」

 幼い時のことなど思い出したくもない。身長が低く自分に自信も無かった頃の俺は、いつも水華すいか姉に守られてばかりだった。

 思い出話に花を咲かせながら、水華すいか姉が準備室に置かれているロッカーへ顔を向ける。

「どうだ、今一度二人で入ってみるか」

「無理に決まってるだろ」

 俺はそれをすげなく断った。お互いに大きくなった体では、せいぜい一人しか入れない。そもそも入る理由も無い。

「次はどこを測るんだ?」

「ヒップラインだ。頂点で水平に一週させてくれ」

 雑談を交わしながらも計測は止めない。毎日のように見ている水華すいか姉の肌には、今さら何も思わない。誰に見せるつもりでもない黒の下着を流し見しながら、テープメジャーのメモリを真剣に見据える。

 最後の股下まで計測し、全ての記録を終えたスケッチブックに目を落とす。

「そんで、仕立て直しは誰に頼むんだ? まさか、演劇部員にこのデータを渡すってことはないよな」

 念のため、水華すいか姉に問いかけてみた。

 本人が自覚しているかどうかは微妙なところだが、好意を寄せる男子生徒はかなり多い。水華すいか姉の身体計測記録など、他人を殴り殺してでも手に入れたいデータだろう。つまり、俺の身が危ない。

 水華すいか姉は体操着袋から学校指定のジャージを取り出し、着替える片手間に返答をする。

「まさかだな。さすがに、そこまで羞恥心を失ってはおらぬさ。今回は被服ひふく部の女生徒に依頼するつもりだ。仕立て直してついでに装飾も足してもらえば、いくらか見映えも変わるだろう。もちろん、別途お礼も用意する」

「なら、その人に計測してもらえばよかったじゃないか」

 そこまで計画を立てているのなら、採寸もついでにやってもらえばよかっただろうに。

 幾ばくかの徒労を言葉に乗せると、水華すいか姉がほんのりと頬を赤く染めた。

「同性と言えど、身体の隅々まで見られるのは恥ずかしいではないか」

「男の俺に見られるほうが恥ずかしいはずなんだけどな……」

調しらべは男である以上に、弟だからな。家族に恥じらう体など持ち合わせておらん」

「さいですか……」

 よく分からない感覚に力無く返事をし、水華すいか姉が上着を羽織り終えたのを確認して扉の鍵を開ける。

 ガチャっと音を立てて演劇部準備室の扉を開けると、その瞬間に部室にいた部員が全員俺に顔を向けた。

 七人の男共は各自の作業も忘れ、各々の感情を視線に込めて俺を見る。

 ……ふむ、嫉妬が四つ、悔しさが一つ、怒りが一つ、それと純粋な殺意が一つ、か。

 どうでもいいけど、めっちゃモブキャラっぽい反応だぞ、それ。つか殺意ってなんだよ。頼むから持っているカッターナイフを手放してくれ。

 ……とは言え、それらの視線の意味が分からないような鈍感系主人公ではない。いや主人公ですらないんだけどさ。

 壁一枚の向こうで俺と水華すいか姉が何をやっていたのかは分かっているのだし、羨ましがられるのは理解できる。

 水華すいか姉はそれなりに運動神経が良く、それなりに学力が高い。突出しているわけではないが、文武両道と言って差し支えはないだろう。

 そしてプロポーションもそれなりに良い。胸がもう少し大きければ完璧だとも思うのだが、現状でもスレンダーと言えばとてもなまめかしい曲線美を誇っている。

 性格もそれなりに良いだろう。キッパリと物事を判断する豪胆ごうたんさもあるが、冗談も通じるので会話相手にはもってこいだ。

 そんな人間が演劇部の部長で花形をつとめている。これでモテないほうがおかしい。

 さらに、花形ではあるが高嶺たかねの花ではない。ほとんどのパラメーターがそれなりで止まっているため、ギリギリのところで庶民感が残っている。手を伸ばせば届いてしまいそうな位置にいる分、好意を表す男が余計に増える。

 だから、そんな渡刈水華とがりすいかという人物と肌も見せ合う関係の俺は、姉弟という条件を無視させるほどに羨ましい存在なのだろう。

 ……けれど、俺にとって水華すいか姉は姉でしかない。一つ屋根の下で過ごして肌が触れ合おうが下着姿ですれ違おうが、恋愛対象としては見れない。

「どうした? 早く出るのだ」

 俺と部員達が視線を交錯させていると、背後から水華すいか姉が声をかけてきた。不毛な争いを見せるわけにもいかないので、スッと視線を外して準備室から歩み出る。

 後を追って退室してきた水華すいか姉が部員達の元まで歩み寄り、腰に手を当てて指示を出す。

「よし、では体育館へ移動するとしよう」

 次いで俺の方へと向き直って言葉を続ける。

調しらべはたまに、練習風景を見ていくか?」

「いや、普段家で付き合ってるからいいよ」

「まぁそう言うな。本番さながらだと、また一味違うものだぞ」

「断れないのなら問いかけるように言うな。いつも通り、決定事項として言えばいい」

「うむ、確かにそうだな。では、練習風景を見ていくがよい」

「はいはい」

 豪胆ごうたんだが、決して相手の気持ちを考えないわけではない。俺が嫌だと感じていないと分かっているからこそ、キッパリと物事を口にする。

 まったく、弟で良かったとつくづく思うよ。こんな人を好きになどなってしまったら、恋敵がたくさんいて苦労しそうだ。



 水華すいか姉に付き添い、他の演劇部員も引き連れて体育館へと移動する。

 広い空間は運動系の部活が場所を取り合うこともあるが、さすがにステージ上までは手を伸ばしてこない。なので演劇部は可能な限り、ステージを使って本番さながらの演技練習を行っている。

 水華すいか姉が真っ先に、事前準備の邪魔になる俺へ顔を向ける。

「では調しらべよ、ステージから少し離れて待っているがよい。客観的な意見も知りたいのだから、しっかりと感想を考えておくのだぞ」

「分かったよ」

 返事をして演劇部員達から少し離れた。

 水華すいか姉がテキパキと指示を出し、部員が三人と五人の二組に別れる。三人の組はステージ上で小道具のセットを行い、水華すいか姉を含めた五人の組は台本を広げて何やら打ち合わせをしている。

 劇が始まるまで俺は特にやることも無いので、床に座り込んで準備の様子をボーッと眺めていた。

 すると、後ろの方から女生徒の声が聞こえてきた。暇を持て余しているだけの俺は、体を捻ってそちらへ振り向く。

「もっと前後に素早く動いて!」

 ステージの反対側、つまり体育館の入り口側では、女子バドミントン部がハネを打ち合っていた。上級生が得点ボードの後ろに立ちながら、下級生の練習試合をコーチしている。

「判断を迷っちゃ駄目! 一瞬の遅れが失点に繋がるのよ!」

「はい!」

 的確なアドバイスを出し、女子部員も返事をする。

「いいじゃんいいじゃん! まだまだっ!」

 その中で一つ、明らかに女のものではない声が聞こえた。

 奇妙に思いつつも体育館の左角へ目を向けると、女子部員に混ざって月城が練習試合をプレーしていた。

 えっ、あいつ何やってんの。何でバドミントンやってんの。しかも女バドで。

 さっき廊下で別れて、まさかこんなところで居合わせることになるとは思いもしなかった。

 しかし月城のほうは俺に気付いていないのか、こちらへ一瞥いちべつもくれることなく練習試合に熱中していた。

 にしてもあいつ、バドミントン上手いな。正規の部員相手によく渡り合えるもんだ。

 などと考えている間にステージ上でのセットが終わり、水華すいか姉が満足げな声を出す。

「よし、準備は整ったな!」

 とは言え全ての小道具をセットするのは手間がかかりすぎるのか、必要最低限と思われるものだけが配置されている。中央にそびえ立っている城の背景は、今回の演目で重要な役割を果たすのだろう。

「では最初から通してやってみよう!」

「はい!」

 水華すいか姉の合図と共に、部員達が各々の持ち場に移動する。ステージを見渡すのにちょうど良い位置にいる俺の所にも、二人の部員がやってきた。

 一人は紙と鉛筆を手に持ち、すぐに指摘をメモできるように構える。

 もう一人はストップウォッチを右手に持ち、左手を上げて声を出した。

「それでは始めます。五、四、三……」

 指折りと共に口頭でもカウントダウンをし、全ての指が折り畳まれた瞬間に静かなバックミュージックが流れ始める。

 それと同時に一つのスポットライトが点けられ、ステージ中央に立つ水華すいか姉が照らされる。寂しげな瞳で見つめられ、不覚にも心臓の鼓動が早まった。

「お父様……、お母様……、カグヤは、ここにいます……」

 儚げなセリフと共に通し稽古が開始され、普段とは違う雰囲気にのまれて夢中で劇を見続けた。

 その途中、劇が中盤に差し掛かったあたりでヴヴヴッとスマートフォンが唸りを上げる。

「……ん」

 通知をタップしてLIONを起動すると、命相部のグループチャットに霞ヶ丘からメッセージが届いていた。

『帰っておいで』

 どうやら、一年の女生徒との相談が終わったらしい。

 俺は、どう返事をするか少しだけ迷った。

 予定外の出来事とは言え、水華すいか姉に劇の感想を伝えると約束をしてしまった。感想自体はどうでもいいのだが、交わした約束を破るような人間ではありたくない。

 画面を開いたまま十秒ほど文面を考えていると、もう一つのメッセージが受信された。

『すぐ戻る』

 それは、つい先ほどまでバドミントンをプレーしていた月城のものだ。

 後ろを振り向いて女子バドミントン部の方を見ると、気持ちのいい汗を流して走り去る後ろ姿があった。

 月城が戻るなら、俺は急いで戻る必要もないだろう。

『少し遅れる』

 そう入力してグループチャットに送信し、スマートフォンをポケットに入れてステージ上へ顔を戻す。

 二人いれば相談は成り立つし、内容の記入まで同時にできるのであれば一人でも構わない。そもそも相談者なんて、あんまり訪れないしな。

 部室に戻らない言い訳を自分に言い聞かせ、月城と霞ヶ丘を部室で二人きりにする。

 そして劇を全て見終えた後に感想を水華すいか姉に伝え、部活終了時間のギリギリに命相部へと戻った。



 刺激的な劇を目に収めた翌日の放課後。

 ホームルームが終了すると同時に、教室を出て図書室へと移動した。新刊コーナーへと足を運び、一冊のライトノベルを手に取って裏表紙に目を落とす。

 推理小説か……。好きなジャンルではあるのだが、どうしても気になってしまう事柄が一つあるんだよな。

 作中で発生する事件の解決に奔走するのは、当たり前だが主人公だ。長期連載している作品の中にはマンネリ化を避けるために、たまにサブキャラが活躍する物語が書かれることもある。けれど基本的には、活躍するのはいつも主人公である。

 そこはいい。それは主人公という創作物における絶対のルールなので、守られて然るべきだ。主人公以外のキャラばかりが活躍しているのなら、それらのキャラを視点にして物語を書き直したほうがいい。

 俺が言いたいのは、たまにサブキャラの扱いがぞんざいな推理小説がある。ということだ。

 先日読み終えたライトノベルがまさにそれだった。主人公以外のサブキャラが、事件解決の手掛かりを主人公にタイミングよく渡すだけの存在となっていた。

 これでは周りの人間は、急展開する事態に取り残されるばかりだ。その証拠に、周囲が新事実に驚く描写が何度も書かれていた。

 探偵たる主人公にとって都合がいいだけのキャラ。それは、とてもむなしい存在に思えてしまう。そいつにとっては、事件が勝手に進んで勝手に終わるようにしか映らない。自分も関与しているにも関わらず、蚊帳の外のような感覚を抱いているに違いない。

 主人公が話を収束し、事件を終息させる。

 それが当たり前の書き物だというのはもちろん理解しているが、もう少しサブキャラにも配慮した展開は作れないのだろうか。

 そんな益体も無いことを思い浮かべ、その他に宣伝文句で気になったものを二冊ほど手に取った。

 受付に向かい、書類に何事かを書き込んでいた図書委員に声をかける。

「これ借りてきます」

「では、こちらに必要事項を記入してください」

 指示に従い、学年、クラス、名前、今日の日付を記入する。

 貸し出し手続きを済ませてライトノベルを鞄に入れ、何の変哲も無いやりとりを終えて図書室を後にした。

 こういった寄り道ってのは、主人公がやるとすぐに物語が始まるよな。俺みたいな人間が日常を語ろうとしてみたところで、本当にただの日常で終わる。

 物語があるから主人公が存在するのか、主人公が存在するから物語が生まれるのか。そんな主人公論を思い浮かべながら命相部へ向かう。

 階段を上がり、廊下を曲がり、日常的に訪れる部室の扉を開ける。

「やぁ、調しらべ。二分ほど待っていたぞ」

 すると突然、非日常が俺の目に飛び込んできた。

 水華すいか姉が霞ヶ丘を抱き止め、首だけこちらに回して俺に顔を向ける。

 虚を衝かれて一瞬動揺したが、情報を集めるために当然の質問を口にする。

「……なんでここにいんの?」

「命の子供相談部に来ているのだから、相談事に決まっておろう」

 そんな馬鹿な。この水華すいか姉が何を命で思い悩むことがあるのだろうか。

 常に善を選び、道を間違えず、明るく快活に人生を歩んでいるじゃないか。俺的人間ランキングでも、命に迷わなさそうな人部門で堂々の第一位に輝いている。絶対にただの相談で終わるわけがない。

 俺がいぶかしげな視線で水華すいか姉を見ていると、近寄ってきた月城が声を潜めて疑問を口にする。

「この先輩は知り合いなのか? ずいぶんと親しそうじゃんか」

「姉ちゃんだ」

「姉ちゃん!?」

 月城は声を潜めて訊いたことも忘れ、予想もしていなかったのであろう返答に驚愕していた。美少女の身元判明で驚く主人公のテンプレートな反応、ありがとうございます。

 そんな俺達のやりとりを眺め、水華すいか姉が月城に声を投げる。

「ふむ、確かに自己紹介がまだだったな。私は調しらべの姉、渡刈水華とがりすいかだ。新入部員がいたとは聞いているが、君のことで間違いないな?」

「はい、そうです。初めまして、月城赤羽と言います」

「どれほど付き合いがあるかは分からぬが、一つよろしく頼むよ」

 水華すいか姉と月城が挨拶を交わし、霞ヶ丘が抱き付いたまま顔を上げる。

「すい姉が来るなんて珍しいねぇー」

「そうだな。普段から休日を共にしている分、ここに来る機会は少ないものな」

 俺の姉と俺の友達、という関係性を抜きにしても、二人はとても仲が良い。わざわざここで顔を合わせなくとも、充分なコミュニケーションは取れている。

 百合百合ゆりゆりしい光景を流し見しつつ、定位置に鞄を置いて椅子に座る。

 すると水華すいか姉が霞ヶ丘を引き剥がし、俺達に向けて声を出した。

調しらべも来たことだし、本題に入らせてもらおう」

 相談者用の椅子に腰かけ、膝に手をついて凛とした表情を浮かべる。とてもじゃないが、これから命の相談をする人の顔じゃない。

 それを霞ヶ丘も感じ取り、対面の椅子に座りながら質問を口にする。

「すい姉が相談するようなことってあるのー?」

「うむ、私の相談……というわけではないな。だがまずは、これを見てくれ」

 水華すいか姉は長机に置かれていた鞄を引き寄せ、中から折り畳まれた一枚の紙を取り出した。

 それを見て俺は素っ気ない声を出す。

「何それ、ラブレター?」

「まずは中身を見てもらいたい。今朝、下駄箱に入っていたところを見つけたのだ」

 水華すいか姉が紙を広げて長机に置く。そこには、短い文章がボールペンで書き出されていた。

『叶わない恋だと分かっています。だから、死を乗り越えるその時まで、待っていてください』

「……なんだ、やっぱりラブレターじゃないか」

 俺がつまらないものを見たという反応をすると、水華すいか姉が可哀想なものを見る目で俺を見た。

「この文面でも愛情を感じるほど、調しらべは愛に飢えているのか? どれ、こっちに来い。お姉ちゃんからの愛でよければ受けとるがいい」

「いらねぇ……」

 抱き締められる姿を想像してげんなりとした返事をすると、水華すいか姉は冗談だと破顔はがんさせる。

「案ずるな。異性としては見れぬが、家族愛はいつも全力だ」

 姉弟の仲睦まじい様子を静観していた月城が、話を進めようと声を出す。

「で、この手紙なんですけど……、何て言うか……何なんでしょうね」

 声に出したはいいが、困ったように曖昧なだけの疑問を呟いた。

 その気持ちは理解できる。文面と宛先から察するに、水華すいか姉が好きだけど付き合えないから死ぬしかない。みたいな内容だとは思う。けれど、この手紙はあまりにも杜撰ずさんだ。

 声にして直接伝える勇気が無いからと、手紙という手段を選んだことまでは理解しよう。しかし、自分の名前を書いていないのはアウトだ。ただの脅迫文なら書かれていないのが普通だが、恋文のようなこの文面ならば名前の一つくらい記入していたほうが良い。

 加えて文章の内容も独り善がりだ。相手を不安にさせるだけでしかない。想いを自分の中に秘めたままにできず中途半端な形で伝えるという、およそ最悪な結果となっている。

 ……いや、この手紙に善なんてどこにも無い。言うならば、独り悪がりだ。

 水華すいか姉は腕を組み、難しい表情で手紙に視線を向ける。

「私もイマイチ、この手紙がどういった意図で送られたものなのかは分かっていない。だが死を乗り越えるなどと書かれている以上、放っておくわけにもいくまいよ」

 死、ねぇ……。

 俺は心の中だけで一つの単語を呟いた。

 死を乗り越える。とは、何を示しているのだろうか。人間は死んだらそこで終わりだ。輪廻転生や天国地獄など、死んだ後の世界が実在しているならば話は別だが、存在の確認できていないものなど乗り越えるも何も無い。

 全員の視線が手紙に集中し、月城がいくつかの予想を立てる。

「まぁ……、自殺しようとしてるのかもしれませんし、誰かを犠牲にしようとしてるのかもしれません。けどそもそも、イタズラって可能性はありませんか?」

「それを言われると弱いな」

 月城の指摘に水華すいか姉が嘆きの声を出した。確かにこれが、何者かの悪ふざけという可能性は大いにある。

 しかし、俺達三人の疑いを一蹴する声が放たれた。

「たぶん違うよー」

 霞ヶ丘は空気に流されることなく、手紙をジーっと見つめて言葉を続ける。

「手紙のあちこちにー、ほとんど見えないけどいくつかのシミがあるんだよー。これはー、涙が落ちた跡じゃないかなー」

「マジで……?」

 月城が半信半疑の声を出す。俺だってそんなもん見えはしない。

「ふむ……確かに」

 しかし水華すいか姉は気付いたようで、納得した声を出した。

「こうすれば見えるだろうか」

 次いで手紙を手に取り窓側へとかざす。室内に入り込んだ日光が手紙を照らし透かし、直径一センチほどのシミがいくつか浮かび上がって見える。確かにそれは、零れ落ちた涙が乾いてシミになって残っているものと想像できた。

 男二人も納得し、月城が霞ヶ丘に感嘆の声をかける。

「よく気付いたな……」

「じーっと見てたらー、そう見えたんだよねー」

 色彩感覚は男性よりも女性のほうが鋭い。霞ヶ丘が特に鋭敏えいびんなのかは分からないが、男の俺と月城が気付かなかったのは仕方がないとも言えた。

 霞ヶ丘は隠れていた気持ちを拾い上げ、文面の信憑性しんぴょうせいを保証する。

「とにかくー、涙ながらにこの手紙を書くぐらいなんだからー、イタズラじゃないと思うよー」

 涙の理由は失恋だろうか。叶わない恋に泣き崩れるなど、どの世界でもありふれた話だ。

 水華すいか姉が腕を下ろし、手紙を長机に置く。

「うむ……。気付かれるかどうかも分からない細工などする必要も無い。これは本物だろうな」

 霞ヶ丘の推理に同意していたが、根本の話は全然進んでいない。

 俺は、誰か個人ではなくその場にいる全員に向けて声を出す。

「で、つまりこれからどうしようってんだ」

 手紙がイタズラではないと分かり、話はようやくスタート地点へと進んだ。

 今後の方針を決めるべく行動案を求めると、月城が真剣な面持ちで口を開く。

「とりあえず、この手紙の差出人を判明させるなり、接触するなりしてみたほうがいいんじゃないか。なんか命が絡みそうな文面だし、放っておけないだろ」

 当たり前のように、目的すら分からない手紙の差出人を探し当てるといった発言をした。これが主人公たる所以ゆえんなのだろうか。

 おそらく本人達の多くは無意識なのだろうが、事件とは本来、ただの面倒くさい厄介事でしかない。ましてや自分自身にほとんど関係が無い相手の話ならば、首を突っ込む理由も無い。

 今回は確かに、部活動で依頼を持ちかけられたという建前がある。しかし持ち込んだ水華すいか姉自身にとっても判然としない内容で、極論無視して構わなそうな内容だ。

 知りもしない人間がどこでどう死のうと、俺にとってはどうでもいい。

「これは案件として正式に受理していいよな?」

 けれど月城はそう考えない。あくまで動いて当然だと、俺に活動許可を求めてくる。

 ……まぁ確かに面倒なだけだなのが、特段断る理由も無い。それと一応、家族の相談をすげなく断るほど無情なつもりもない。

「あぁ」

 なので、短い返事で受理を許可した。

 やる気を漲らせた月城が、解決案を模索するべく声を出す。

「まずはどう動くかだな」

 どのような行動をするにしても、俺は一番始めに修正したい事象があった。

「姉ちゃんは手紙の差出人に、心当たりは何も無いんだろ」

「あぁ、特段何も思い当たらぬな」

「ならとりあえず、姉ちゃんは演劇部に戻ったほうがいい。部活に限らないけど、いつも通りの行動をとっているほうが差出人に怪しまれずに済む」

「うむ、分かった」

 水華すいか姉から情報を得られないのなら、この場に留まらせず普段通りの日常に戻したほうがいい。

 あんな手紙を寄越すくらいなんだから、差出人はどうせ近くでストーカーをしてるに決まっている。日常から非日常に外れた時、それを見たストーカーがどのように行動するのか予測を立てにくくなってしまう。

「俺達で方針を決めて行動する。詳細はLIONで伝えられるし、家でも十分に話をする時間がある。心配するな」

「頼りっきりになってしまいそうですまないな。手紙はそちらに渡しておこう。差出人と繋がる唯一の手掛かりだ」

 水華すいか姉が手紙残して立ち上がる。

「では、よろしく頼む。何かあったら連絡してくれ」

 流れ落ちる黒髪を颯爽とひるがえし、部室を後にして演劇部へと向かった。

 ふむ……。

 閉じられた扉に視線を向け、今回の件を別角度から考えてみる。

 こういったミステリー的な語り出しは、ライトノベルでも鉄板の展開だ。

 そして今回の重要人物は渡刈水華とがりすいかで、俺の姉だ。必然、俺との接触時間は多い。これはもしかすると、俺を主人公とした青春物語が始まるのではないだろうか。

 手紙の送り主にたどり着くためのヒントも、創作の例に習えばすでに散りばめられているはずだ。

 俺は主人公ではないと諦めるのは、まだ早いのかもしれない。

 ……よし。

 水華すいか姉には悪いけれど、青春物語の扉が開かれて少しばかりやる気が湧いた。案件解決に向けて頭を回そうではないか。

 目下の行動方針を決めて二人に顔を向ける。

「まず、差出人を探す実働班と、部室に残る待機班を決めよう。この件がいつ解決するとも分からないし、他の相談者が来ないとも限らない。どっちも疎かにはできないだろ」

「そうだな」

 無難な意見に月城が賛同し、霞ヶ丘もこくんと頷いて意思を述べる。

「ならわたしが部室に残ってるよー」

須美すみは動きたくないだけだろ……」

「否定はしないー……」

 真っ先に一番楽そうな役割に立候補し、その真意を月城に看破されていた。

 月城はそれ以上の追及をせずにこちらへ顔を向ける。

「つっても、べつに異論は無いんだよな。須美すみが待機班でオレと渡刈が実働班ってことでいいか?」

「構わない」

 俺も別段異論は無いため軽く返事をし、手早く組分けが終わった。

 行動メンバーが決まったなら、次は行動方針だ。

 月城が顎に手を当てて考える仕草をする。

「渡刈の姉貴は演劇部員なんだよな」

「あぁ。ついでに部長だ」

「なら、演劇部へ向かってみないか? 今できることったらそれぐらいだろ」

「同意だ」

 どう行動するにしても、いつまでもここで悩み続けるのは愚策だ。水華すいか姉を日常へと戻した以上、その様子を観察するのが一番いい。

 月城は早速立ち上がり、手紙を手に取って霞ヶ丘に声をかける。

「それじゃあ行ってくる。何かあったら、LIONでお互いに連絡し合おうぜ」

「分かったー。月城くんー、渡刈くんー、行ってらっしゃーい」

「おう」

「あぁ」

 俺も立ち上がり、霞ヶ丘の送り出しに返事をして部室を後にした。

 廊下を歩きながら月城が行き先の確認をする。

「演劇部ってあれか、体育館のステージで活動してるんだよな」

「あぁ」

「たぶんだけど、ああやって手紙を送る人は案外近くに居たりするんだよな。例えば今の時間なら、遠巻きから演劇部の活動を見てたりするんじゃないか」

 月城も俺と同じ考えのようだ。そもそも下駄箱の位置を把握しているくらいなのだから、差江崎さえざき高校の関係者で間違いない。関係者ならば、同じ校内にいるというアドバンテージを十分に利用するだろう。怪しまれない程度に、できるだけ近くに居たいと考えるはずだ。

 俺は差出人の心理を想像し、先の展開を想定する。

「とは言え、短期間でケリをつけたいな。内容はどうあれ手紙という形を選んだんだから、受け取った水華すいか姉がどんな反応をするのかを観察したいはずだ。どんな反応を求めているかは分からないが、望み通りの結果でなかった場合は再度何らかの行動をしなければならない。だけど」

 一旦の間を溜め、続く言葉に重みを乗せる。

「望み通りの結果なら、その後も側に居続けるとは限らない。それに加えて死をも臭わせるあの文面だ。失恋したやつが何をするかは、理屈が通らないから予測しにくい」

「なんか犯罪心理学みたいだな……」

 予想外の思考に若干引き気味の声を出していたが、どちらかと言うとそういった心情を掬い上げるのは月城の領分だろ。

 階段を降りて一階へと向かい、昨日もたどった廊下を歩いて体育館へと向かった。もう少し歩けば演劇部の部室もあるが、部員達はすでにそちらにはいない。

 体育館の扉を開けて中に入る。

 女子バドミントン部の邪魔にならないよう横切ろうとした時、月城が練習試合中の一グループに顔を向けた。

「ん?」

「どうした?」

 さっそく何か気になることでも発見したのかと問いかけた。月城は視線を離さず、言葉だけで疑問に答える。

「昨日部室にやって来た、一年の相談者がいる」

「……どれだよ」

 目線の先に俺も顔を向けてみるが、誰が誰だか分からない。そもそも、一回会った程度じゃ顔も何も覚えねぇよ。

 月城が言うには、左奥から二番目のコートで左手にラケットを持っている子がそうらしい。相も変わらず激しい指導の中、必死にコート内を駆けてハネを追っている。

 だが、今はどうでもいい。

 月城もそれ以上は話題にするつもりは無いらしく、顔を戻して意識を逸らした。

 壁際を歩き、体育館の半分ほどまで来たところで立ち止まる。

 演劇部の活動しているステージまでは少し遠いが、俺達が乱入して活動を邪魔する訳にもいかない。

 ステージ上では水華すいか姉と他の部員が劇の練習をしている。役になりきっている水華すいか姉は真剣そのもので、昨日俺が見たものと変わらぬ意気を感じた。

 おそらく今は、俺の存在に気が付いていないだろう。俺が居ようが居まいが、舞台が学校の体育館だろうが全国大会だろうが、水華すいか姉の気概は変わらない。

 いつだって凛としていて、いつだって人を惹き付ける。心を震わせるその生き様は、関わった人間を魅了する神秘を持ち合わせている。

 その美麗な姿に月城が素直な感想を漏らす。

「渡刈の姉貴は、かっこいいな」

「否定はしない」

「素直じゃない言い方だな」

「なら俺が、姉ちゃんマジスゲェだろ大好きだぜ! とか言ったら納得するのか? んなもん気持ち悪いだけだろ」

「あっはっは! そりゃあ確かにキモいな!」

「このやろう……」

 自虐ネタを提供しておいて何だが、ここまで爆笑されると恨みたくもなるな。

 しかし実際、身内を褒められるとどう反応すればいいのか分からない時がある。

 子を褒められた親であれば、誰しも誇りに思うものだろう。けれど俺にとって、水華すいか姉は姉だ。弟の俺よりも一年早く生まれていて、俺からの関与がどれほど成長に影響しているのかは分からない。

 水華すいか姉がかっこよくなるように俺が育てたわけじゃない。だから、どう反応していいのかが分からないんだ。

 俺は複雑な気持ちを表すように、複雑な言葉で水華すいか姉を称賛する。

「いっそ恋人だったら、自慢の彼女だってくらいは言ったかもな」

「渡刈に恋人か……。誰かから告白されるのも、誰かに告白するのも、どっちも想像つかねぇな」

「俺もだ。とは言え、水華すいか姉相手ならどう足掻あがいてもフラれる未来しか見えないな」

 姉弟という関係が無くなってしまえば、水華すいか姉は今ほど俺を好いてはくれないだろう。触れ合う時間も仲の良さも、あくまで姉弟という前提の下に成り立っている。

 フラれて落ち込むようなことにならなくて良かった。

「……ふむ」

 そこまで想像して、俺は一つの可能性に気が付いた。

「それこそ、告白してフラれたやつが差出人ってことはないか?」

 叶わない恋という文面は、フラれたから出てきた言葉ではなかろうか。

「いや、その線は薄い」

 と思ったのだが、即座に月城が否定した。

「叶わない恋と分かっている。って表現の仕方から、告白もせずに諦めているのは明白だ。もし告白してフラれたなら、叶わなかった恋だから、みたいなはっきりとした言葉になるだろう。分かっている、という想像上での言葉を使っているから、何らかの事情でフラれると思い込んでいるんじゃないかな」

「なるほど……」

 文面を『恋文』というカテゴリーだけに留めず、何故その単語を使ったのかまで細かく分析している。

 これは、月城ならではの考察だ。

 雑談もそこそこに演劇部とその周囲を眺めていたが、この日は何の情報も得られなかった。



 翌日。

 午前中の授業を全てこなし、弁当をかき込んで教室を後にした。廊下を歩いて正面玄関へと向かい、生徒用の下駄箱から水華すいか姉の名前を見つけ出す。

 試しに扉を開けて中を覗いてみたが、上履きが入っている以外何も見つけられなかった。

「上履きがあって外靴が無いってことは、今は外にいるのか」

 正面玄関口の反対には、グラウンドへと通じる大きなガラス戸がある。学校外への用事でなければ、こちらから出ていった可能性が高い。

 俺は外靴に履き替え、ガラス戸を開けて外に出た。

 グラウンドへと向かう道すがら、水華すいか姉ともう一つの事柄を求めて周囲を見渡す。

 推理ものの事件が発生した時、解決に繋がるヒントは日常の何気ない出来事に隠されている。

 偶然入手した物、不自然に感じる唐突な会話、たまたま覚えていた景色など、些細だが重要な手がかりを見逃してはいけない。

 それらを偶然という名の運命力で引き寄せるのが、主人公だ。

 俺は自分の主人公力を信じて目を凝らす。

 不自然に陳列されているカラーコーン、物干し竿に天日干しされているカーテン、物品庫から女生徒と共に荷物を運び出している月城。などなど、普段とは違う光景を記憶する。

 つかさらっと流しそうになったけど、月城は何してんだよ。

 雰囲気から察するに、隣の女性から仕事の手伝いを頼まれたのだろう。厄介事を引き付けるのは体質なのかもしれない。

 いくつかの場面を視界に入れてみたが、事件解決の決め手となりそうな情報は無い。

「……もう少し探してみるか」

 他に得られる情報はないものかと、そのまま校舎裏へと移動する。

 見るものが変われば、得られる情報も変わる。期待を込めて目を動かす。

 整理されているとは言い難い自転車置き場、各運動部の倉庫が立ち並ぶ裏通り、その倉庫の屋根から屋根へと跳び移っている猫、同じく屋根を走り跳んで追いかける水華すいか姉。

「はぁ……。やっぱ、そう都合よく特別な情報が手に入るわけもないか」

 珍しくもない光景に溜め息をつき、なんの成果も得られないまま昼休みが過ぎ去った。



 午後の授業を終えた放課後。

 昨日に引き続き、水華すいか姉からの依頼を解決するために教室を後にした。今日は始めから部室には向かわず、月城と体育館の入り口で待ち合わせをしている。

「もう少し具体的な方針を決めなきゃな……」

 偶発的な恩恵に頼ろうとして自分を恥じ、意思を改めるために気持ちを呟く。

 誰も居ない体育館を薄ぼんやりと眺めていると、スマートフォンがヴヴヴッと唸りを上げた。ポケットから取り出して画面を確認すると、LIONに月城からメッセージが届いていた。

『わりぃ、少し遅れる』

 何か不測の事態でもあったのだろうか。

『了解』

 短い言葉で意思の疎通を行うと、颯爽と風を切りながら水華すいか姉が歩いてきた。

 鞄を肩にかけ、立ち姿一つにすら威風を感じさせる。

調しらべよ、今日は演劇部全体の様子を観察するのだったな」

「あぁ、身近な人間ほど水華すいか姉のことを考えるきっかけが増えるからな。第一容疑者達を観察しながら作戦会議をするよ」

「そうか。では私は、鞄を置いて準備室でジャージに着替えてくる」

 そう言って演劇部の部室へ向かい、扉を開けて中へと入って行った。そして五分ほど過ぎた辺りで着替えを終えた水華すいか姉が出てくる。

「ではな」

「あぁ」

 体育館へと入っていく後ろ姿を見送り、入り口と反対側の壁に背を預ける。

 入り口の扉は開け放たれたままのため、水華すいか姉の行動は全て筒抜けだ。柔軟体操一つ取ってみても、凡人とは身にまとう雰囲気が違って見える。

「……ん?」

 その様子をしばらく眺めていると、静かにカラッという音が聞こえた。

 聞き逃しそうなほどの小さな音に反応して顔を向けると、演劇部の部室の扉がゆっくりと開いていた。次いで中から一人の男子生徒が出てきて、俺と目が合う。

「……!」

 男子生徒は僅かに肩を跳ねさせて動揺を見せたが、すぐに目を閉じて平静を取り繕った。

 開ける時とは異なりガラッと扉を閉め、無表情を装ったまま部室を後にする。

 ボストンバッグを肩にかけ、廊下をこちらの方向へ歩み進む。進行先にいる俺との距離が徐々に縮まっていた。

「っ……」

 そして俺の前を通過する際、少しだけ目を開いて俺を改めて視認した。しかし次の瞬間にはフイと目を逸らす。

 ただ目を逸らしただけじゃない。ほんの僅かだが、眉間にシワが寄っていた。あれは、嫌いな人間から目を逸らした時の仕草だ。

 おそらく本人は無意識なのだろう。けれど無意識だからこそ、人間の反射的な行動には深層心理が表れる。

 俺は穏やかではない気配を感じて声をかける。

「なぁ」

「……なんだよ」

 ぶっきらぼうな返事をして立ち止まったそいつは、振り返り際に手をボストンバッグに添えて位置を調整した。俺の視線から外すように体で隠す。

 加えて、反応がほんの少し遅かった。この遅れは俺の相手をするかどうか迷った時間だ。迷った末に、無視はしないほうがいいと判断して対応した。

 俺は、こいつが隠し事をしていると確信した。

「部室で何してたんだ?」

 紺色のネクタイを下げる同級生に疑いの気持ちを隠さずに質問を投げる。演劇部の生徒だとは思うが、名前どころか何も知らない。同じ学年ではあるが、興味も無い人間のことなんて覚えない。

 男子生徒は眉間のシワを深くし、怒りを込めた目で俺を見る。

「お前には関係ねーだろ」

「今から演劇部の活動があるだろ。なのに、鞄を持って帰るのか?」

「あぁ、そうだよ」

「なら、何で一度部室に立ち寄ったんだ?そのまま帰りはしなかったのか」

「だから、それがお前に何か関係あるのかっつーんだよ」

 隠しきれていない苛立ちを抑え、必死に何かを隠そうとする。

 確かに、本当に俺には何も関係が無い可能性もある。けれどそもそもやましいことではないのなら、さらっと言ってしまったほうが話もスムーズに終わるというものだ。

 言えないからこそ、嘘を考えていなかったからこそ、言わないという選択しかできない。

 俺はもたれかかっていた壁から離れて一歩近付く。

「最近な、姉ちゃんに不可思議な手紙が送られてきたんだ。内容が不明瞭な部分もあるから、どうしたものかと相談も受けてる」

「あっそ」

「だから、姉ちゃんの周囲で妙な言動をしてるやつがいないか探しているんだ」

「そうかよ、そりゃご苦労なこった。んじゃな」

 男子生徒は強制的に話を終わらせ、前に向き直って視線を外した。

 早々に立ち去りたいという意思は疑いようもない。……疑いようもないのだが、決定打が無い。

 ボストンバッグの中を見せてみろなどと言っても、こいつが素直に応じる理由が無い。明らかに怪しいとは感じていても、強行手段を正当化する道理が無い。

 次の一手が見つからずに苦悩していると、事態を先へと進める光が差し込んだ。

「おや、春川はるかわよ。今日は部活を休むのではなかったか?」

 開け放たれた体育館の入り口から、不思議そうな顔をした水華すいか姉が近寄ってきた。

「……!」

 歩き去ろうとしていた春川はるかわなる男子生徒が足を止める。けれどそれ以上に、明らかに身体をビクつかせたことを見逃さなかった。

 春川はるかわはぎこちない動きで振り返り、愛想の良い表情を作って水華すいか姉の質問に答える。

「い、いやぁ、部室に忘れ物をしていたので、取りに来てたんですよ」

 けれど、目が笑えていない。

 その隙を逃さず俺が追撃をかける。

「今部室から出てきたんだし、中で会ってたんじゃないのか?」

 仮に部室内で会っていたのなら、休むのに何故いるのかと水華すいか姉が今問うのはおかしい。

 二人のどちらでも答えらえる質問に口を開いたのは、水華すいか姉だ。

「いや、会っていないぞ」

「そりゃあ変だな。姉ちゃんは部室に入って、着替えるために準備室にも行ったんだろ。春川はるかわも部室にいたはずなんだから、中で会っていてもおかしくない」

「ふむ、それは妙だな。部室でも、その隣の準備室でも見かけなかったぞ」

 俺と水華すいか姉が春川はるかわに視線を向ける。

 水華すいか姉が現れたことにより空気が動き始めた。黙って何も答えない春川はるかわに、再度質問を投げ掛ける。

「姉ちゃんが部室に入ってから出てくるまでに約五分、そのあとさらに数分経ってからお前が出てきた。つまり、最低でも十分以上は部室内に居た計算になる。忘れ物を取りに来ただなんて言ってたが、そんなにも時間をかける必要があったのか?」

「だから、お前には関係無いっつってんだろ……!」

 あくまで俺の質問には答えるつもりは無いらしく、語気を荒らげて突っぱねる。しかし今は、平の演劇部員に強く出られる存在がいる。

「ならば私も質問をしてみよう。部室には遮蔽物しゃへいぶつになるような物は何も無い。それこそ、故意に隠れていなければ私の目に入るはずだ。何をやっていたのか、部長の私にも答えられないと言うのか?」

 俺と春川はるかわの緊迫した雰囲気を察した水華すいか姉が、状況を察して疑いの眼差しを向ける

「う……」

 春川はるかわは俺達二人に問い詰められて立場が苦しくなってきたのか、苦し紛れに言葉をひねり出す。

「せ……、先輩にドッキリをしかけようと思ってたんで、見つからないようにカーテンの中に隠れてたんですよ……!」

「カーテンならば、汚れが気になっていたから洗濯したぞ。休み時間のうちにグラウンド前へ干しに行ったのだから、今は部室に無いはずなのだがどうだろうか」

「……!」

 春川はるかわは浅はかな嘘を看破され、動揺をなおも激しくして目を泳がせる。

 嘘を探し、嘘に嘘を重ね、嘘に溺れて道を見失う。

 典型的な愚者の姿だった。

「あ……、やっ…………」

 冷や汗を流して言葉を詰まらせる。もはや、やましい何かのために身を隠していたのは疑いようもない。

 俺は右足を一歩踏み出し、ほんの少しだけ春川はるかわに詰め寄る。

「もう一度訊くぞ。お前は、部室で何をしてたんだ?」

 しかし春川はるかわにとっては、隠したい本心へと踏み込まれる大きな一歩だ。

 今頃、内心は焦燥感が溢れているだろう。もう一押ししてやれば心を折れる。しかし、その押し方を間違えてはいけない。

 俺は次の言葉を慎重に探す。

 けれどここで、想定外の事態が起きてしまった。

 ピピピピッ!

「!」

 機械的な高い音が突如廊下に鳴り響く。それと同時に、春川はるかわが体を大きく跳ねさせた。

 その音は、春川はるかわの持つボストンバッグから聞こえたように感じた。

「……!」

 明らかに焦りが増し、挙動不審に磨きがかかる。

「くっ!」

 そして次の瞬間、春川はるかわは唐突に走り出した。

「なっ!」

 突然の行動に少々面食らってしまったが、このタイミングで逃げ出されては追いかける他無い。

 俺が走り出すのと同時に、水華すいか姉も走り出す。

「待て!」

 廊下を駆ける春川はるかわの背中に水華すいか姉が制止を呼び掛けるが、待てと言われて待つ逃走犯なんていない。

 春川はるかわは体育館前の廊下を抜け、正面玄関も通り過ぎる。下校や部活へ向かう生徒を強引にはね除けながら、校内へ逃げ隠れようとしていた。

 俺達も追ってはいるが、生徒を避けながらではなかなか追い付かない。

 二手に別れようかと考え始めたところで、廊下の先によく知る顔を見つけた。

「そいつを捕まえてくれ!」

 俺は説明を最小限まで省いて必要な言葉を叫ぶ。

「はぁっ!?」

 するとそいつ、月城は驚いた声を出した。突然の出来事に少しだけ困惑を見せる。

「……まかせろっ!」

 しかし、自分に向かって走ってくる男子生徒と俺達を見て状況を察してくれたようだった。

 廊下の中央に立つ月城が、右足を右前へ大きく踏み出す。すると必然左側に空きが生まれるため、そちらを走り抜けようと春川はるかわが進行方向を調節する。

 しかし月城は間髪をいれず、踏み出した右足に力を入れて床を蹴り、左後ろへと跳躍した。右足を踏み出したのはフェイントだ。左右のどちらから抜けられるか分からないため、月城はわざとに右を塞いで左へ誘導した。

 真横を通り抜ける瞬間だった春川はるかわに、後ろ跳びで月城が迫る。そして左手を伸ばし、春川はるかわが肩から下げているボストンバッグの持ち手部分をしっかりと掴む。

「おわっ!」

 すると強制的に待ったをかけられた春川はるかわが悲鳴を上げ、勢いそのままに二人が倒れ込んだ。しかし月城はすぐさま春川はるかわの制服を掴み、柔道の寝技をかけるように押さえつける。

 組伏せられた春川はるかわが怒りを叫ぶ。

「このっ! 何だよテメー! 邪魔すんな!」

「渡刈が何の理由も無く、人を捕まえてくれなんて言うとも思えないから……、な!」

 月城が組伏せるのに邪魔だと判断したボストンバッグを掴み取り、床を這わすように放り滑らした。

「あっ! ふざけんなっ……! 放せ!」

 拘束から逃れようと春川はるかわが叫ぶが、せっかく取り押さえたってのに放すやつもいない。

 そこへ俺達が追い付き、ひとまず月城へ礼を述べる。

「助かった」

「それで、何の罪状でこいつを追いかけてたんだ?」

「それは今から確認するところだ」

 俺と月城の隣に水華すいか姉が仁王立ちし、なおも抵抗を続ける春川はるかわに声をかける。

「何故逃げるのだ? それでは、やましいことがあると自白しているようなものだぞ」

 俺はしゃがみ込んで声をかける。

「だいたい、顔も学年も名前も全部割れてんだ。逃げたって無駄だ」

「……チッ」

 匿名性など無いという事実を突き付けると、逃亡しても意味が無いと理解して大人しくなった。

 水華すいか姉が片膝をついて質問を再開する。

「何をやったのかは知らぬが、あの手紙と関係があるのか?」

「っ!」

 手紙という単語に春川はるかわが反応し、右手をギュッと握りしめて憤怒の形相で俺を睨み付けた。

 あぁ。この殺気立った目には思い出すものがある。先日、水華すいか姉の身体計測をした後に殺意の視線を向けてきたあの演劇部員だ。

 うつ伏せ状態の春川はるかわが、左頬を床に付けたまま怒りの声を叫ぶ。

「そうさ……! テメーさえ、テメーさえいなければ……!」

 すぐにでも殺してやるという意思さえ感じる。しかし、俺は春川はるかわに殺意を向けられる理由に心当たりが無い。

「俺、お前に何かしたか……?」

 ほとんど接点も無い相手から恨まれるほど、不徳な学校生活を送ってはいない。

 次いで春川はるかわ水華すいか姉に顔を向ける。

「先輩も先輩ですよ……! 手紙を読んだうえで無視したんですから同罪です!」

「無視はしておらぬ。ただ、誰が書いたものか分からぬ上に内容も不明瞭だったのでな、少々対応に困っていたところだ。春川はるかわよ、あの手紙をお主が書いたと言うのであれば、内容を噛み砕いて教えてはもらえぬか?」

「今さら何を……!」

 春川はるかわは苦悩に表情を歪ませ、再び俺を睨み付ける。

「……先輩が誰とも付き合わないのは、テメーがいるからだ! 俺は……、俺は先輩が好きなだけなのに、好きでいることも許されないってのかよ! 俺だって強行手段に出るつもりは無かったさ! だけど! 偶然とはいえチャンスがきたんだ。これはもう、テメーを制裁しろっていう使命だ!」

 俺に制裁……? 何言ってんだこいつは。

 水華すいか姉を好きなのは勝手だが、俺は何も関係無いだろう。

 男と言っても俺は弟だ。自分の中だけで盛り上がって逆恨みされても困る。

 ようやく垣間見せた本音の一端を聞き、水華すいか姉が春川はるかわをすごむ。

春川はるかわ、お主は調しらべに何をするつもりだったのだ? 返答しだいでは学校にいられなくなると思え」

「そ、それは……」

 鬼気迫る態度に気圧され、春川はるかわが口を重くする。

 俺はその様子を見て、口を割らせるよりも実力行使に出たほうが早いと判断した。

 立ち上がって数歩移動し、先ほど月城が投げ滑らせたボストンバッグに近寄る。

 すると春川はるかわが無理矢理首を捻って怒号を叫んだ。

「テメェ! それに触るんじゃねえ!」

 どれだけ吠えたって無駄だ。お前の言動は、罪を認めているだけに過ぎない。

 構うことなくチャック開けて中を確認すると、明らかに教材ではない黒い機械が入っていた。

 取り出してよく見てみると、最新型のビデオカメラだと判明する。

 液晶モニターの右上にはバッテリーのメモリが赤く表示されており、ピピピピッと機械音を鳴らして充電の残量が少ないと警告をした。

 なるほど、春川はるかわはこの音でビデオカメラの存在がバレたと思って逃げ出したのか。

 ボタンを押して画面を操作し、複数の再生データを表示させる。すると、ほとんど同じ背景のサムネイルがいくつも並んだ。その全てが動画で、背景から録画場所は演劇部の準備室と分かる。

 そしてその中で一つ、同じ背景ながらも明らかに様相の違うものがあった。撮影された日付は二日前で、サムネイルには二人の学生が映っている。

「……はん。そりゃあ逃走もするよな」

 その画面を見て、春川はるかわが何を隠そうとしていたのかを理解した。

 内容は分かりつつもそのサムネイルを選択して再生し、映像と音声を確認する。

『服の上からじゃ駄目なのか?』

『絶対に駄目というわけではないが、地肌に当てて計測したほうが正確な数値を出せるだろう。このままジャージに着替えるつもりでもあるから、都合も良い』

『だからって学校で派手に脱ぐなよ』

 それは、水華すいか姉の身体しんたい計測をした際の会話だった。

 動画はしばらく続き、水華すいか姉の下着姿や計測光景が鮮明に録画されている。

 言い逃れのしようも無い、盗撮映像だった。



 月城と水華すいか姉に盗撮のことを説明し、春川はるかわを職員室へと強制連行した。

 入り口付近で三人を待機させ、俺は演劇部顧問の先生を呼びに行く。話があると言って付いてきてもらい、ついでに皿糸先生にも声をかける。

「すみません、ちょっといいですか」

 盗撮された証拠を確認してもらいたかったのだが、演劇部顧問の先生は男だ。まさか女生徒の下着姿を見せる訳にもいかないので、動画の確認は皿糸先生にお願いすることにした。

 補足程度に状況の説明も行った後、すぐに緊急会議が開かれた。

 生徒指導室で俺、水華すいか姉、月城、春川はるかわ、皿糸先生、演劇部顧問が席に着き、春川はるかわの自白をもとに事情聴取が行われる。

 とは言え事件にあまり関係の無い俺と月城は、話せることを話してすぐに退室させられた。部屋を後にする際、皿糸先生に部室での待機を命じられる。

 二人で命相部の部室へと向かい、のんびりと虚空を見つめていた霞ヶ丘と合流した。

「さて……、どこから話そうか」

 椅子に腰かけて一息つき、何も知らない霞ヶ丘に一騒動ひとそうどうがあったと伝える。月城もほとんど突発的に巻き込まれただけなので、二人が理解できるように言葉を選択して説明した。

 十分ほどかけて話を終えると、霞ヶ丘が女の立場として怒りを表す。

「それは許されないねー。ふつーに犯罪だよー」

「あぁ。まさか盗撮事件にたどり着くとは思わなかったけれど、手紙の件はこれで終了だろ。後は俺達が介入できることじゃない」

 そんな中で月城は、会話に混ざらず何事かを考え込んでいた。

 思案顔のまま鞄から例の手紙を取り出す。その際、一緒に出てきた一枚の写真が俺の足元へ滑り込んできた。

 拾い上げた拍子に写っていたそれが目に入る。

「……なんで月城がこの写真を持ってるんだ?」

 その内容の写真が月城の鞄から出てきたことが、不思議でならなかった。

 写真を手渡しながら、理由を求めて顔を向ける。

「これか? 一昨日相談にきた一年生がいるだろ。部室に戻る時にオレとぶつかってさ、この写真を落としてったんだ。返そうとしても、すぐ逃げられるからなかなか返せないんだ」

 月城のほうも、俺が写真の内容が分かっていることを不思議がる。

「この写真はコスプレ……いや、演劇か? 渡刈は何なのか知ってるのか?」

「あぁ。これは去年、演劇部が地域イベントで演劇を披露した時の写真だ」

 街の多目的ホールを使って行われたイベントで、演劇を終えた後に出演者と観客が一緒になって写真撮影会が行われた。

 集合写真ばかりになってしまう中で、この写真は珍しく女子二人だけの撮影となっている。

 片方は印象にも残らない地味な女の子で、もう片方は劇衣装を身にまとった派手な女。

 アンバランスな二人組が手を握って写っていた。

「ちなみに、この派手なほうの女は姉ちゃんだ」

 白粉おしろいや華美な衣装で分かりにくいが、俺もその場で劇を見ているから正体を知っていた。いやそれどころか、これが初見でも水華すいか姉だと見破っている。十六年も弟をやっていれば見間違うはずも無い。

 月城はこれが水華すいか姉と誰かの写真だと知り、顎に手をやって考える仕草を取る。

 かと思えば、何かに思い至ったのか突然立ち上がった。

「ちょっと出てくる」

 そして止める間も無く、部室を出ていった。

 待機命令を無視した月城が戻って来ないまま、霞ヶ丘と雑談を交わしながら時間が経つこと十分。先に皿糸先生がノックを鳴らして入室してきた。

「あれ、月城君は居ないのですか?」

「はい。ついさっきどこかへ行きました」

「待機と言っていたのにまったく……」

 皿糸先生は手近にあった椅子に座り、若干の不満を呟いて言葉を続ける。

「会議はまだ終わっていないのだけど、映像確認に協力しただけの私は無関係に等しいの。離席して生活指導の先生に引き継いできた身なので、伝えられる情報は少ないわ」

 月城君にも伝えてもらえるかしら。と前置きを終え、自白された内容を簡潔に語った。

 盗撮現場は映像の通り、演劇部の準備室。溢れかえる物の中にビデオカメラを隠していたため、意識して探さなければ見つけられなかったとのこと。

 専用のアプリをダウンロードしたスマートフォンと繋がっていて、遠隔操作でいつでも録画を行えた。水華すいか姉はいつも準備室で着替えをしていたため、魔が差して盗撮を始める。

 そして一昨日、水華すいか姉の身体計測が行われた。偶然撮影できたその映像を加工して、『下着姿の女生徒を襲う男』としてネットに流すつもりだったらしい。

 けれどビデオカメラを回収できるタイミングが訪れず、先ほどようやく誰もいないうちに準備室へ侵入した。その時、すぐに水華すいか姉が部室に入ってきた。

 見つからないよう咄嗟にロッカーに隠れてやり過ごし、水華すいか姉が退室した後に様子を見計らって自身も退室。

 しかし廊下の先で俺に見つかって、後は知っての通り……という話だ。

 まったく……、今回は春川はるかわの迂闊な行動に助けられたな。

 俺に言わせれば、ロッカーに咄嗟に隠れるというのが理解できない。休むとあらかじめ告げていても、演劇部の部員なのだから準備室に居ても不自然ではないだろう。ビデオカメラさえボストンバッグに隠してしまえば、たとえ鉢合わせてしまっても堂々としていればいい。それこそ、忘れ物をしたという言い訳でも切り抜けられる。

 悪いことをしていると自覚しているから、当人に見つかりたくなくて身を隠してしまう。

 罪の意識からくる判断ミスだ。

 皿糸先生は説明を終えて補足事項を述べる。

「申し訳ないけれど、後は職員会議の結果を伝えるのみとなるわ。渡刈君はお姉さんから詳細を聞けるかも知れないけれど、他の生徒に言いふらしてはいけませんよ」

「分かってます」

「霞ヶ丘さんも、喋っちゃ駄目よ?」

「はーい」

 皿糸先生が霞ヶ丘にも念押しし、役目は終えたと立ち上がる。

「それと……」

 そして、人差し指を立てて俺に叱責の表情を向ける。

「ここは自宅ではないのよ。あなた達の仲の良さは承知していますけど、学校で肌を露出させた女性に触れるのは不健全です」

「……すみません」

 有無を言わさぬ瞳に、下手な言い訳をせずに謝った。

 皿糸先生が職員室へと戻り、部室に寂寥感せきりょうかんが訪れる。

 終わってみればあっけないくくりだったな。推理も伏線回収も無く、偶発的に犯人の失態と鉢合わせる。なんとも適当なシナリオだ。

 春川は良くて停学、悪くて退学といったところだろうか。どちらにせよ、俺には関係の無いどうでもいいことだ。

 霞ヶ丘と共に暇な時間を過ごす。そろそろ部活の終了時間だなと思ったところで、扉を開けて月城が戻ってきた。

「ただいま」

「おかえりー」

 霞ヶ丘が帰還を迎え入れたが、俺は時計へと目を向けて帰宅を促す。

「もう帰る時間だぞ。それと、皿糸先生から伝言がある」

 詳細や口止めに関する話を手短に伝えると、あっさりと飲み込んで了承の意を示す。

「うん、分かった」

 そしてどうやら月城にも、話さなければならないことがあるようだった。

「説明も無しに抜け出して悪かったな。ちょっと今、体育館に行ってきたんだ」

「体育館?」

「あぁ、気になることがあったからさ。半信半疑だったけど、予想通りいなかった」

「何の話だ……?」

「それはこれから話す。それと、渡刈に協力してもらいたいことがあるんだ」

 月城は俺と霞ヶ丘の注目を集め、作戦とやらを語り始めた。



『うむ、承知した』

 LIONで水華すいか姉にメッセージを送ると、すぐに返事が受信された。

 ついでに、『春川はるかわの件は災難だったな』と少しは心配してみたのだが、『不埒者に構う時間は無い』と返された。

 緊急会議も時間を割く価値が無いと判断したらしく、途中で切り上げて演劇部の活動へと戻ったらしい。盗撮の被害者が凛とし過ぎているだろ。

 俺と月城と霞ヶ丘は、正面玄関へと通じる廊下の曲がり角に身を潜めている。

 部活を終えた水華すいか姉が、靴を履き替えて学校を後にするのを見送った。

 その僅か十秒後。

「……来た」

 月城が俺達だけに聞こえるよう潜めた声を出した。予想通りに一人の生徒が体育館側の廊下から現れ、靴を履き替えて小走りで玄関から出ていく。

「……オレ達も行くぞ」

 月城がタイミングを見計らって飛び出し、俺達三人はその生徒の後を追った。

 高校を出てかげながら尾行する。水華すいか姉の後を追っている生徒を追っているため、俺にとっては普段の下校路を通っているだけに過ぎない。

 水華すいか姉が線路沿いの長い道に曲がり、例の生徒が追って曲がる。

 ……タイミングはここでいいだろう。

 俺はスマートフォンを取り出し、あらかじめ入力していた文章を送信する。

『後ろにいるぞ』

 続いて三人で曲がり角まで駆け寄り、塀の陰から線路沿いの道を覗き見る。

 すると道の先では、水華すいか姉が立ち止まってこちらに振り向いていた。

「お主が私の下駄箱に手紙を入れたのだな?」

 こちら、正確にはストーカーをしていた生徒に向けて言葉を投げる。

「……! ぁひゃっ!」

 突然の問いかけに動揺した生徒は、体をビクッと跳ねさせて反射的に逃げようとした。

 そこをすかさず、俺達三人が塀から飛び出して道を塞ぐ。

「いきなりで申し訳ないけど、とりあえず落ち着いてもらえないかな」

 月城が優しく語りかけたその生徒とは、一昨日命相部へと人生相談にやって来た女の子だった。

 俺と月城は相変わらず恐怖心を抱かれているが、それ以上に挟み撃ちを食らった現状に驚愕している。

 この状況を作り出した、月城の作戦とはこうだ。

 ーーーーーー

「渡刈の姉貴に手紙を送った人物は、一昨日相談に来た女子バドミントン部の一年生だ」

 皿糸先生の言い付けを破って部室を出ていた月城は、件の女性徒を探しに体育館まで行っていたらしい。

「どうしてそう言い切れるんだ?」

 犯人特定までの思考経路がまるで分からないため、説明を求めて疑問を口にした。

「細かい理由がいくつかある。まず、さっき見た写真の女性は渡刈の姉貴だって言ってただろ。その隣に写っているは、その一年生だ」

 月城が写真を俺と霞ヶ丘に改めて見せる。

「うんー、そうだねー」

 霞ヶ丘は納得して頷いていたが、顔もロクに覚えていない俺は言われたところで分からない。

 月城は俺に構わず説明を続ける。

「次に、昼休みに女子バドミントン部の友達から、同性愛ってどう思うって相談されたんだよ。今思えば、話の発端はその一年生だったんだろうな」

 そんな情報知らねぇ……。

 とは言えこれはさすがに仕方がない。必要そうな情報はLIONでの連絡も可能だが、そもそも事件に関係無さそうな世間話なんて逐一報告しない。

「それと、さっき女子バドミントン部の活動を見に行った時は体育館にいなかった。じゃあどこにいたのかと言えば、生徒指導室の近くの階段にいた。渡刈の姉貴が盗撮事件で体育館にいなかったからそこまで探しに来たんだろうな」

 月城の提示した情報は、どれも女性徒が真犯人だと関連付けて説明をしている。確かに間違っていない気もするが、情報を今聞いただけの俺にはこじつけのようにすら感じられた。

 けれど俺一人が疑ったところで月城の意思は変わらない。話を進めるために続きを促す。

「それで、作戦とやらは何をすればいいんだ?」

「渡刈に姉貴と連絡を取ってもらって、下校中にあのを挟み撃ちにしようと思う。悠長にしていたら何があるか分からないし、今日中に終わらせたい」

「そんな都合良く現れるのかよ」

「たぶん大丈夫だ。昨日部活が終わった後、忘れ物をしてたから学校に戻ってきたんだよ。そしたら玄関で渡刈の姉貴と、それを追うようにあの子が下校して行ったのを見たんだ。まず間違いなく今日も同じ行動をする」

 そんな情報まで得ているとか、偶然にしても出来過ぎな気がする。

 しかし確信を持って話す月城を否定する理由は無い。

 かくして、作戦決行の運びとなった。

 ーーーーーー

 結果から言って、ここまでは月城の思い通りに事が運んだ。ここから先は女性徒の反応しだいだ。

 俺達三人と女性徒の間には五メートルほどの距離があり、女性徒と水華すいか姉の間も同じくらいの距離が空いている。話をするには少しばかり遠いが、これ以上近付いてしまうとさらに怯えられてしまいそうなので仕方がない。

 焦燥感から顔をキョロキョロとさせている女性徒に、月城が優しく声をかける。

「言いたいことがあるなら、全部渡刈先輩に向かって言うんだ。逃げ隠れるばかりじゃ何も解決しないよ」

「……ぇ、と、その……っ」

 口ごもる女性徒に、水華すいか姉が凛とした声をかける。

「話し合いをする前に、自己紹介の一つくらい交わしたほうが良かろう。知っているとは思うが、私の名前は渡刈水華とがりすいかだ。お主もまずは名乗るがよい」

 女性徒は水華すいか姉の呼び声に反応し、体を震えさせながらも口を開く。

「うち……、うちは、道咲紗代みちさきさよ、です……」

「では道咲みちさきよ、問いかけに答えてもらおう。私の下駄箱に手紙を入れたのはお主だな?」

「はい、そうです……」

 道咲みちさきなる女性徒は自分が差出人だと認めたが、ここで一つ疑問が生まれた。

 それを水華すいか姉も抱いたようで、ふむと顎に手をやって考える仕草をする。

道咲みちさきの他にも私に手紙を寄越したという人物がいるのだが、私はその手紙のことを知らなんだ。お主は何か知っておらぬだろうか」

「……! …………はい、知ってます……」

 道咲みちさきは予想外の質問に体を強張らせて頷く。

 震える手で鞄を開け、中から茶色の封書を取り出した。

「うちが手紙を入れようとした時、先にこれが入っていたんです……。他の人からのラブレターを……、見られ……たくなくて、かっ……、隠しました……っ」

 罪悪感に押し潰されそうになりがらも、言い逃れはできないと犯行を白状する。

「悪いことだって……、分かってますけど……! 誰にも水華すいか先輩を取られたくなかったんです……!」

「私は誰かに取られるような物ではないし、直接告白する勇気も無い相手を恋人になどせぬ。それとおそらく、その封書の中身はラブレターなどではないぞ」

「えっ……?」

「私の物ではないが、私が開封を許可する。この場で中身を確認してはもらえぬだろうか」

 道咲みちさきは不思議そうな顔をしながらも、封書の上部を丁寧に破り開く。中身を取り出して文面を確認すると、しだいに手がプルプルと震えだした。

「こ……、これ! 脅迫文じゃないですか……!」

 怒りと焦りから手に力が入り、手紙が握り潰されてシワが入る。

 なるほど、あれは春川はるかわが入れていたほうの手紙だ。

 偶然ほぼ同じタイミングで水華すいか姉の下駄箱に二人が手紙を入れ、後に入れた道咲みちさき春川はるかわの手紙をラブレターだと勘違いして隠したのだろう。

 だから俺は春川はるかわが犯行を白状した際に疑問を抱かなかったし、月城は各所に散りばめられていたヒントに気が付いた。

 初めから、得ている情報に違いがあり過ぎた。

「うむ、やはりそうか」

 水華すいか姉も同じ結論に至り、納得して頷く。

「人の物を盗み隠すなど言語道断、許される行為ではない。……とは言え、そちらはもう解決しているのだ。私をつけ回していたのなら知っているだろう?」

「もしかして、さっき補導されていた先輩が犯人ですか……?」

「そのようだな」

 水華すいか姉と道咲みちさきが意思を共有して一件が落着した。

 残るはもう一件だ。

 水華すいか姉が道咲みちさきの目を見つめる。

「これで胸のつかえも取れてスッキリした。では、道咲みちさきの話を聞こうではないか」

「うちの話……?」

「叶わない恋だと分かっています。だから、死を乗り越えるその時まで、待っていてください。……だったな。その文面の意味を教えてくれ」

「!」

 水華すいか姉は手紙の文面を一言一句間違えず空読みし、道咲みちさきを決して軽んじているわけではないと意思表示をする。

「そ……れは…………っ」

 それを知った道咲みちさきは驚きに目を見開き、意を決して語り始めた。

「うちは……、臆病で引っ込み思案なんです。小さい頃から、何をやっても駄目でした。だけど一年前、友達に誘われて街のイベントに行ったんです。そこで、差江崎さえざき高校演劇部の劇を見ました」

 一年前の演劇部と言えば、今と部員があまり変わっておらず水華すいか姉が花形を務め始めた頃だ。

「うちはその劇を見て、感動しました。これだけ大勢の人の前で堂々と振る舞える人もいるのだと、素直に憧れました。主演女優の……、水華すいか先輩の姿が、眩しかったです」

 水華すいか姉の演技は見る者の心を魅力する。けれどそれは演技という偽りの挙動から生まれる魔法ではなく、元々の人柄が演技に滲み出すからこそ生まれる奇跡の産物だ。

「劇が終わった後の写真撮影会で、うちは端っこでもいいから一緒に写りたくて必死になりました。けど、周りの人達のほうが必死で、うちは写れないまま終わりそうになりました」

 道咲みちさきは胸元をギュッと握り締め、無力な過去の自分を呪うように顔を俯かせる。

「そんな時です。水華すいか先輩はいきなりうちの所へ来て、一緒に撮るぞ。って言ってくれたんです。しかも、二人きりで。うちは驚いて俯きっぱなしでしたけど、水華すいか先輩が手を握ってくれたんです」

 道咲みちさきの言葉は、月城が拾った写真そのままの状況だった。

「怯える必要は無い、私がついているのだぞ……って言ってくれて、すごく安心して、すごく嬉しかったです」

 緊張で震える道咲みちさきを励ます姿は容易に想像できる。

「うちは、水華すいか先輩に勇気をもらったんです。水華すいか先輩に、助けられたんです。だから感謝の気持ちを伝えようと、差江崎さえざき高校に入学しました」

 水華すいか姉にとっては、ごく当たり前で何の変哲も無い言動だ。人を率い、人を導く、道咲みちさきはその他大勢の中の一人でしかない。

「だけど水華すいか先輩の周りにはいつも人がいて、うちは話しかけることもできませんでした……。男の人が少しだけ苦手なので、演劇部に入ることすらできませんでした。同じ体育館で活動している女子バドミントン部に入って、近くから眺めるのが精一杯だったんです……」

 水華すいか姉にとって道咲みちさきは大勢の中の一人でも、道咲みちさきにとって水華すいか姉は唯一だ。お互いが見ている景色は違う。

「ずっと眺めているうちに、部活以外でも姿を追うようになったんです。いつも物陰から見ていました。その内、うちは気が付いたんです。これは憧れなんてものじゃない。恋心なんだ……って」

 水華すいか姉が好意を向けられることなど珍しくもない。誰もが恋仲になりたいと、本人の知らないところで多くの戦いが繰り広げられている。

「女同士なのに、こんな感情を抱くなんておかしいですよね……。だから……、だから、うち……、は…………」

「男に生まれ変わって告白しようとした、とでも言うつもりか」

 それでも、大勢の中の一人だと切り捨てる水華すいか姉ではない。

「!」

 道咲みちさきは続く言葉を言い当てられ、驚いて口をつぐむ。

 しかし水華すいか姉の瞳を見返し、決して逃げないと意思を表す。

「はい……! うち、生まれ変わりますから。十五年もすれば良い男になっているはずです。その時に、ちゃんと告白します……!」

 道咲みちさきの言葉が線路沿いの道に響き渡る。その向こうから、一本の電車がこちらへと向かって来ていた。

 水華すいか姉は言葉の一つ一つを全て受け止め、これから道咲みちさきが何を行おうとしているのか推測する。

「生まれ変わるということは、自殺するということか?」

「その覚悟です……!」

 道咲みちさきが電車へ視線を向ける。僅かに一歩を踏み出し、タイミングを合わせて飛び出そうとする気概を感じる。そんなことになれば大事故は免れない。

 けれど、俺は一切心配していなかった。

 徐々に電車が近付き、道咲みちさきが足を震わせて恐怖と戦う。それでも覚悟を決めて目を見開いたその時、夕焼けの道に怒号が響き渡った。

「この……、たわけ者が!!」

 電車の通過音が鳴り響く中でも、演劇部で鍛えられた水華すいか姉の声は鮮明に聞こえた。

 その場にいる全員の心を震わせ、あわや自殺する寸前だった道咲みちさきは一歩も動けずに立ち尽くす。

 電車が通り過ぎて残響が消えていく中、水華すいか姉は声を張り上げて怒りをあらわにする。

「死ぬほどの勇気があるのなら、今この場で告白するくらいできるだろう!」

 そもそも輪廻転生が存在するのかどうかという話にもなってくるのだが、水華すいか姉にとってはどうでもいい些末なことだ。そんな不確定要素など、今は話し合いに出す必要すら無い。

 対して道咲みちさきも引くつもりはないらしく、水華すいか姉に真っ向から立ち向かう。

「女でいるよりも、男になったほうがきちんとお付き合いできます……! だから、十五年だけ待っていてください!」

「十五年も待っていたら、私は三十二歳になっているぞ!」

「歳の差なんて関係ありません!」

「同意だ! だが私はそれまで誰とも結ばれないような、魅力の無い人間だろうか!」

「たとえ結婚していても、その人より魅力的なところを見せつけて水華すいか先輩を振り向かせてみせます!」

「乗り換えようなどと思う程度の相手なぞ、始めから選ばん! 私の判断力を甘くみるな!」

「ふぅっ……!」

 生まれ変わり、いては自殺する理由を完全に奪われて道咲みちさきが言葉を失う。

 悔しさと好意が混じり合い、愛憎にも似た視線で水華すいかを睨み付ける。

 水華すいか姉はその視線を全身全霊で受け止めながら、なおも言葉を畳み掛ける。

「性別が同じだからなんだと言うのだ! 世界には、同性愛を認めている国もある! そもそも生まれ変わったとしても、うまく巡り会える保証など無い! 生まれ変わって出直してくるよりも、今告白したほうが可能性もあるというものだ!」

 水華すいか姉は好意を寄せられていると分かりつつも、優しい言葉は使わない。

 それに対して道咲みちさきは、僅かに顔を伏せる。

「っ……、…………す……、です……」

 本当にその言葉を口にしていいのかと、消え入りそうな声で呟いた。

 けれど、そんな弱気を看過する水華すいか姉ではない。

「先程までの威勢はどうした! 私は、自分の気持ちもハッキリと伝えられない者は大嫌いだ!」

「っ……! す、好きです! 水華すいか先輩のことが、大好きです!」

「それしきのことなど、一年前から知っている! それ以上の望みはないのか!」

「うちと……! うちと付き合ってください!」

 夕焼け空の線路沿いに、少女二人の気持ちが響き渡る。

 熱の冷めぬ言葉のぶつけ合いを聞きながら、俺はくるりと踵を返した。

「渡刈くんー、どうしたのー?」

 それに気付いた霞ヶ丘が疑問の声を上げる。

 だが、どうしたもこうしたもない。

「これ以上やりとりを聞き続ける必要は無い。あとは当人同士だけで大丈夫だ」

 べつに、事件解決の立役者になれなかったと拗ねているわけではない。ただ純粋に、俺がここに残り続ける意味は無いと思っただけだ。

 青春の真っ只中をひた走る若人達に背を向け、やけに眩しい夕日に目を細めて歩き出す。告白現場を横切るわけにもいかないため、今日は少し遠回りをして帰宅しよう。

 道の角を曲がる際、夕日から逃れるように月城の背中へ視線を向ける。

 俺が得た情報なんてまるで必要が無かった。必要な情報は全て月城のもとに集約し、ちょこっと手助けをしただけで事件は解決された。

 そんな役回りしか与えられていない脇役は、山場でメインキャストに注目を集めるためにさりげなくフェードアウトするものだ。

 事件の真犯人を見つけ出した、物語の重要人物だけが最後まで残ればいい。


 やっぱり、俺は主人公じゃねぇよな……。

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