第1話 神様に嫌われた少女

 などと語りながらも、俺は普通に生活を送っている。

 過去に一度だけ自殺を試みたのだが、俺には決行するだけの勇気は無かった。マンションの屋上に立つだけで心拍数が上がり、あと一歩踏み出せば死ねるというその状況で怖じ気づいた。

 そもそも俺は、自殺しなければならないほど苦しい人生を送っているわけではない。

 多少の自殺願望を持っている以外は、特に語るような事も無い普通の人生を送ってきた。おそらくはこれから先もそうなのだろう。

 だから、こんな無意味な人生なんて早めに切り上げてしまいたかった。

 けれど、たったそれだけの理由では身体が言うことを聞いてくれなかった。

 当たり前だよな。

 生きる理由は無いけれど、死ぬ理由も無い。

 全てが無意味になるのなら、死に急ぐことすら無意味だ。適当に老いて死んだって同じことである。

 今すぐに死ねないというのだから、とりあえずは普通を装って生活するしかない。と、最近思い至った。

 これでもいろいろ考えたんだぜ。

 私物を全て無くせば生活出来なくなる。だから死ぬしかない。家族や友人に嫌われればコミュニティが無くなる。だから死ぬしかない。身体の一部を欠損させれば働く時に大きなハンデとなる。だから死ぬしかない。

 ……などと考えたが、実際は難しい。

 私物が無くなっても頼れる人は少なからずいるだろう。家族や友人がいなくなろうと、助け舟が無くなるだけで一人で生きていける。身体の一部が欠損しようと、そういった人達の就職場所もある。

 つまり、死ぬために自分を追い込んでも逃げ道はどこかしらにある。

 そんな中途半端な決意では、結局自殺など出来ない。それを知らなかった頃の俺は、クラスメイトや教員のほとんどを敵に回して失敗した。

 自殺するための原動力として期待していたのだが、俺はそれだけでは死ねなかった。

 その結果、ただいたずらに学校での居場所が無くなっただけだった。

 そして、逃げ場が残っていた俺は逃げた。

 今度は失敗しない。気持ちを切り替えて、表面上だけでも常人に合わせよう。

 自殺は簡単には出来ないのだから、わざわざ嫌われたりせずにいたほうがいい。

 少なくとも生きているうちは感情があるのだから、つらいのは嫌だ。

 俺は……、いつまでこんな人生を送らなければならないのだろう。

 そんなことは、誰にも分からない。

 早く解放されたいと願いながら、今日も普通の朝を迎える。

「ふぁ……」

 眠い。

 今日は高校二年生の五月上旬。通常であればテストも行事も何も無いこの時期に、俺はそわそわした気持ちで起床した。

 始めに違和感を抱いたのは匂いだ。本来の自室の床はフローリングなので、イグサの香りが漂ってくることはない。

 次に布団。ほとんど使われていないのか、新品のような手触りである。

 最後に目を開けて現状を確認する。視界に入ってきたのは見慣れない天井だった。

 そして上体を起こし、欠伸あくびを一つしたところでふと思う。

 これから新しい生活が始まるのかな、と。

 ここは祖父母の家だ。昨日は二時間ほどバスを乗り継ぎ、そこから荷物を担いで山道を歩き、太陽が沈んですっかり暗くなった頃にようやく到着した。

 実家を離れ、今までとは違う生活を送ることになる。これで平時と同じ気持ちでなどいられるはずもない。

「新たな環境、か……」

 今日から通う学校がどんな環境かは知らない。けれど、少なくとも初対面から俺を敵視するやつなんていないだろう。

 クラスメイトとの交友関係は適度な距離を作りたい。以前のように、嫌われるための行動はしなくていい。

「……そう、普通でいい」

 過去の失敗を胸に留め、新しい生活を送る為に普通という言葉を再確認する。

 制服に着替えを済ませて部屋を後にし、ギシギシと音を立てながら廊下を歩く。古い床板に時代を感じつつ居間へと進み、特に何を思うことも無く扉を開けた。

「おはよう」

 挨拶をしながら中に入り、テーブルの前に座る。

「おう、おはよう」

 同じくテーブルの前に座り、新聞を広げていた祖父が顔を上げて返事をした。こちらから見える限りでは新聞は逆さまになっている。一体何をどう読んでいるのだろうか。

「あら弘人ひろと君、おはよう」

 台所から祖母が盆にご飯と味噌汁を乗せて運んで来た。食欲をそそる美味しそうな香りが鼻孔を掠め、それに気付いた胃袋が空腹を訴える。

「おはよう、手伝うよ」

 立ち上がって台所へ行き、もう一つの盆に漬物と山菜の煮物を乗せて居間に戻る。

「まぁまぁ、どうもありがとうね」

 そんなお礼を言われるほどの事はしていないのだが、それをそのまま口にするのも失礼なので、

「あぁ」

 と軽く受け取っておいた。

「学校までの道は分かるのかい?」

「分からん訳あるまい。家の先にある大きな道を左にずーっと行けばそのうち見えてくるんじゃから」

 祖母の質問に俺が返事をする前に、祖父が新聞を床に置いて答えた。

「とはいえ、知らない道を一人で歩いて行くのは心配じゃろう」

「何を言っとるか。弘人ひろとはもう高校生じゃぞ、婆さんに心配されなきゃならんほど子供ではないわい」

「それに学校は山の上にあるんじゃよ、じいさんは心配じゃないのかえ?」

「また災害が起こったらその時はその時じゃ。そんなことを言っとったら、村でなんぞ暮らせんわ」

「そうは言ってもねぇ……」

「経験が人を成長させる。そうやって立派な人間になっていくもんよ」

 俺、会話に入るタイミングが無い。

「儂だって若い頃は……」

「はい、煮物」

 昔話が始まってしまうと終わるまで相当の時間を費やすのは世の理。これは誰しもが経験のあることだろう。そのような事態は避けたいので、無理矢理言葉を被せて話を中断させる。

 べつに面倒だから聞きたくないなどという理由ではない。今日は高校転校初日であり、そんな日に遅刻をしては新しい高校生活が始まる前に終了しかねないからだ。そこを勘違いしないでくれよ?

「いただきます」

 余裕を持って登校したいので、少し急いで朝ごはんを食べた。



 部屋に戻り準備を整え、祖母から弁当を受け取って家を出る。草木の香りに包まれながら、視界のほぼ全てを緑と青で埋め尽くす道を歩いて行く。

 ここ錦織村は、土地のほとんどを山と畑で占めている。コンビニもデパートもゲームセンターも無く、野菜の無人販売所があるほどの絵に描いたような田舎だ。

 都会のような、空を隠す高いビル、車や工場の喧騒、排気ガスの臭い、常に忙しそうにしている人々、そういったものが一切無い。

 あるのは透き通るような青い空、川のせせらぎ、森の清らかな空気、ゆっくりと落ち着いた時間の流れ。街の便利な生活も良いけど、田舎の安らぎを感じる暮らしも悪いものではないと思える。

 村の中心を通る広い道に出て左に曲がる。

 すると、少し手前にいる一人の少女が目に入った。腰の下まである長いナチュラルストレートの黒髪を靡かせ、制服を着て右手に鞄を提げて歩いている。

 終着点の見えない広大な大地を一人で歩き続けることに少なからず不安や寂しさを感じていたので、一緒に登校してもらえればありがたいなと思いながら小走りで近付いて声をかける。

「おはよう、始めまして」

 軽快な挨拶で良い第一印象を与え、快調な滑り出しで転校生活をスタートさせた。

 挨拶に間違いなんて無い、相手も軽く挨拶をしてくれるだろう。そう思っていた。

 しかし、

「うるさい」

 返ってきた言葉は軽快さなど微塵も感じさせない拒絶だった。

 ……え? …………え?

 思考が追い付かない。そのまま十秒は立ち尽くしていた。

 そして彼女は俺の事などお構い無しに、何事も無かったかのように去って行く。

 快調な滑り出しなんてものは無い。ただただ滑ってしまった。

 ……俺、あの子の機嫌を損ねるようなことをしただろうか。

 フリーズしていた頭を再起動させ、現実を受け止めて必死に考える。

 普通に挨拶をしただけで、何も変なことは言っていないはず。会って二秒で人に嫌われたのは初めてだ。

 聞き間違いや勘違いの可能性もあるが、俺に原因があるとは考え難い。きっと彼女はたまたま機嫌が悪く、いきなり話しかけられて驚いたからあんなことを言ってきたのだろう。

 でなければ、今現在も平然と歩き続けている理由が分からない。

 もう一度彼女に近付き、先ほどよりも愛想の良い声で話しかける。

「おはよう」

「話しかけないで」

 ……いやいやいや。

 ここでまた硬直しても仕方が無いので、ひとまず疑問をぶつけてみる。

「えっと、俺、何か気に触るようなことした?」

「……」

 今度は無視された。誰か助けて。

 ここまで彼女は一度も俺の方を見ていない。眉間にシワを寄せ、一心不乱に正面を向いている。この状況はどうしたものだろうか。

 何はともあれ、初対面の人にいきなりこんな態度を取られて何も思わない訳ではない。

 無礼な態度を一貫する少女に、俺は不服な気持ちを隠さずに言葉を投げる。

「なぁ、おい」

「あーもう、うるさいわね!」

 投げた言葉は打ち返され、怒りに満ちた迫力満点の返事がきた。

 少女は立ち止まり、そのまま俺を鬼の形相で睨み付けて言葉を続ける。

「さっきから一体何なのよ、人のことベタベタ付きまとって! 分かった、あなたストーカーね、そうなんでしょ。でもお生憎様、そんな人を雇った覚えは無いのでどうかお帰りください!」

 罵倒の嵐にも驚かされたが、それよりも彼女の容姿に目が釘付けにされた。

 細身ではあるが出る所はそれなりに出ており、高校生という幼さを感じさせないあでやかな体躯。鋭い瞳には長いまつげ、目鼻立ちは整っており、固く引き結んでいるはずの唇は柔らかそうだ。極め付きに腰下まで真っ直ぐ落ちるつやのある長い黒髪。

 怒りに表情は歪んでいるが、誰もが認める美人がそこに立っていた。

 いろいろと衝撃が大きい。たぶん俺は今、さぞかしマヌケな顔をしているだろう。

 すると彼女は、呆けている俺を見つめて少しだけ目を見開いた。しかし射貫くような瞳に気圧されたのも束の間、

「ふんっ!」

 すぐに視線を外し、左に延びている道へ歩き出した。

「あっ、おい!」

 聞こえているであろう大きさで叫んだ言葉は無視され、そのまま立ち去られてしまう。そろそろ心が折れてしまいそうだ。

 だが先に考えなければならないことがある。学校までは一直線に進めばいいので、途中の交差点や脇道で曲がる必要は無いはずだ。

 彼女はどこへ向かうのだろう。もしかして本当はそっちが正しい通学路なのか。とも考えたが、制服を着た男女三人組が不審者を見る目で俺を遠巻きに眺めながら真っ直ぐ歩いて行ったので、やはりこちらの道が正解らしい。

 彼女の事は気になるが、あんな調子では深追いしても無駄だろうな。大人しく学校へ向かうとしよう。



 それから更に山道を三十分ほど登ったところで校舎に到着した。なんだよコレ、軽いハイキングじゃないか。

 正面玄関から入っても自分の下駄箱がどこにあるのかは分からないので、教員玄関で靴を履き替えた。

 生徒玄関で履き替えてもいいのだが、どこをどの学年が使用しているのかが分からない。あるかも分からない下駄箱を探すより、教員玄関に放置してしまえば徒労をいくらか回避出来る。

 来訪者用の校内地図に目を通し、階段を上って職員室前に立つ。三回ノックをして中に入ると、すぐ近くの机で作業をしている先生に声をかけられた。

「やぁ、初めまして」

「初めまして、希條弘人きじょうひろとです。これからお世話になります」

「私は担任の松平まつだいらだ。よろしく」

 筋肉質な身体に半袖と日焼け気味の肌は、誰がどう見ても体育の教師だと分かる風貌だ。

 この後の予定を聞いているとホームルーム開始のチャイムが鳴り、先生と共に教室へ向かった。

 合図があるまで廊下で待機し、その間に自己紹介を頭の中で何度も繰り返す。

 ぶつくさと小さく声に出して練習し始めた辺りで室内から声が掛かった。扉を開けて中に入る。緊張の瞬間だ、分かるだろ?

 生徒数は二十人くらいだろうか、そのほぼ全員の視線を浴びながら黒板の前に立ち、練習した自己紹介を台本を読むように言う。

「差江崎高校から転校してきた希條弘人きじょうひろとです。これから二年間よろしくお願いします」

 噛まずに台詞を言い終えたところで先生が、皆仲良くやってくれよ、分からないことがあったら何でも訊いてくれ、等の補足事項を述べて最後に、

希條きじょう君の席は、一番後ろの空いている所だ」

 と促した。最後列の窓際から二番目。ふむ、まぁまぁ良いポジションだ。

 席に着いて椅子に座ったところで、右側に座っている男子から声をかけられた。

「オレ、二ノ宮和樹にのみやかずきってんだ、よろしくな」

 人の良さそうな明るい笑顔で言われ、これが普通の挨拶だよなぁ……と自分の常識を確かめる。

「あぁ、よろしく頼むよ」

 こちらも笑顔を浮かべて返事をし、左側にいる人にも挨拶をしようと振り向いた。

 と同時に朝振りに驚いた。

 教壇からクラスメイトを大雑把に見た時は気が付かなかったが、この艶のある長い黒髪には見覚えがある。右肘を机に乗せて頬杖をつき、窓の外を見続けているこの少女は、俺をストーカー呼ばわりしたあの女だ。

 不機嫌オーラを全力で放出しており、俺との交流を完璧に断絶しようという確固たる意思を感じる。

 これは、どうするべきだろうか。

 振り向いておきながら何も言わず前に向き直るのは明らかに不自然だが、この雰囲気では挨拶をしても無視される。どちらを選んでも教室内に不審の念を込めた空気が蔓延するだろうな。バッドルートしか用意されていない選択肢なんてルール違反だろうよ。

 ……いや、先程と違ってここは教室の中だ。クラスメイトもいるので、体裁を保つ為に返事をしてくれるかもしれない。

 そんな淡い希望を抱き、後者を選択して声をかける。

「これからよろしくな」

「…………」

 無視。泣きたい。誰か俺を慰めて。

 しかし皆はあまり気にしていないのか、教室内が妙な空気に包まれることはなかった。過剰に意識する必要は無かったのかな。

 日直がホームルーム終了の合図をし、号令を終えて先生が教室を後にする。

 早速右隣に座っている男子生徒、二ノにのみやに話しかけようと思ったその時、前の方に座っていた一人の女の子が弾丸のように飛んできた。

「ヤッホー! おはよう、ひろとくん。あたしは新堂寺天音しんどうじあまね天音あまねって呼んでね! んんっ、なんだか元気が無いね。分かった、来たばっかりだから緊張しているんだね! 大丈夫、皆優しいからすぐに馴染めるよ。不安なんて吹き飛ばして、共に楽しい学校生活を送ろうじゃないか!」

 ただの銃弾ではなくマシンガンによる乱れ撃ちだった。その勢いに気圧されて弾詰まりを起こした俺は、

「あ、あぁ、よろしく、天音あまねさん」

 と、返すのが精一杯だった。

「んもー、さん付けなんてしなくていいって! 同い年なんだから、呼び捨てでいいよ。それか、あまねちゃんでもオーケーだよ!」

 新堂寺天音しんどうじあまねと名乗ったこの少女。アンテナみたいな二本の大きいアホ毛が特徴的で、せっかくの長髪が自由自在に跳ね遊んでいた。

 しかし乱雑な髪とは正反対に、輝きを放たんばかりに大きく見開いている瞳はとても綺麗だ。ずっと見ていると、吸い込まれてしまいそうな感覚に陥ってしまう。

 何よりスタイルが素晴らしい。全力で自己主張をしている胸部の膨らみには幸せがたくさん詰まっているだろう。

「落ち着け天音あまね。初っぱなからお前のテンションに付いていけるヤツなんてそうそういないぞ」

「何を言ってるのさ! かずきくん、転校生だよ転校生! あたしは始めてだよ! これが落ち着いていられる訳無いよ!」

「オレだって始めてだ。てか、小中高と同じ学校なんだから言われるまでもない」

「ねーねーひろとくん、転校ってどんな感じ? やっぱり、俺は特別な人間だぜ! とか思ったりするの?!」

 こいつはアレだ、ブレーキが壊れているタイプの人間だな。

「そこまで自意識過剰なつもりは無い。けれどまぁ、特別感が無いと言えば嘘になるな」

「きたー! いいなー、あたしも転校してみたいなー。ねぇかずきくん、一緒に転校してみない?」

「する訳無いだろ。そもそも、この学校から離れたくはない。それは天音あまねも同じなんじゃないのか?」

「確かに! ひろとくん、この学校は凄いんだよ! 何年居たって飽きないんだよ!」

「高校に何年もは居たくねぇなぁ……。それで、何が凄いんだ?」

「見たい? 見たい? しょうがないなー。よし、早速見に行こう!」

 そう言うやいなや、天音あまねは俺の手を取って教室を出ようとする。

「待つんだ天音あまね、もうすぐ一時限目が始まるぞ。学校案内は昼休みにしよう」

 しかし、二ノ宮にのみやが制止の声をかけたところで授業開始の予鈴が鳴った。



 授業合間の休憩時間を利用し、クラスメイトに軽く声をかけて回る。いくつか空席もあったが、一人を除いた全員と挨拶を出来た。

 なるほど、天音あまねの言っていた通り皆笑顔が明るくて優しい感じだな。

 人は第一印象で相手の人間性を感じ取れる。個人差はもちろんあるが、これが意外と外れない。

 三回目の休憩時間を終えて四時限目の授業が始まり、適当に板書をしながら左隣を盗み見る。

 ほぼ全員と普通に挨拶が出来たからこそ、唯一話の通じない不機嫌女のことが気にかかった。

 これだけ不機嫌なのは、何かしらの理由があるのだろう。けれど、クラス自体からは異様な雰囲気を感じない。

 仮にイジメが起きている場合は、イジメっ子が醸し出す空気に触れただけで分かる。

 これはイジメられっ子の多くが当たり前に身につけているスキルでもあり、俺も当然のように習得している。こんなスキルを習得しない人生が良かったなぁ……。

 ともあれクラスに問題が無い以上、こいつは勝手に不機嫌な態度を取っているのだと予想出来る。

 ……まぁ、関わってほしくないと暗に示しているのなら、こちらから首を突っ込む理由は無い。

 そう結論付けた辺りで授業が終了し、それと同時に天音あまねが視界に入ってきた。

「さぁ学校案内に行こうじゃないか! どこに行きたい? 体育館上部の管理部屋? あまり使われてない倉庫の中? 誰も近寄らない秘密の地下室?」

「それはどんな選考基準で決まったオーダーだ?」

 体育館にしたって、管理部屋に限定する必要は無いだろう。どうして上から下までそんなピンポイントなんだよ。

「先に飯を食べようぜ。希條きじょうもそのほうが良いだろ?」

「あぁ、賛成だ」

「ねーかずきくん、きじょーくんって何か堅くない? ひろとくんのほうが呼びやすいよ!」

「それはそうだけど、逆に天音あまねはよく初対面から相手を名前呼び出来るな」

 二ノ宮にのみやの言い分はもっともだ。親密度が上がるまでは、互いに名字呼びで相手との距離を測るものだろう。

「そんなの決まってるじゃん! あたしとひろとくんは大親友だからだよ!」

 俺はいつの間に天音あまねと大親友になったのだろうか。

「他人なんかでいる時間はもったいないよ! 早く友達になったほうが、早く楽しさを分かち合えるんだから!」

天音あまねにしては珍しくスジが通っている気がする……。そんじゃあ、弘人ひろとって呼んでいいか?」

「あぁ、構わない」

「オレのことも和樹かずきって呼んでくれ」

「はいよ」

「よし、これで皆仲良しだ! 喜びの握手!」

 天音あまねは嬉しそうに俺と和樹かずきの手を掴み、ブンブンと激しく上下に振った。なにこれ、新しい宗教?

「時間がもったいないってんなら、弘人ひろとのために早く学校案内に行かないとな」

「そうだね! マッハで食べてマッハで行こう!」

 その宣言通り、天音あまねは一番早くに昼飯を食べ終えた。雑談のネタもいくつか考えていたのだが、早く食べろという視線を送られては満喫する余裕も無かった。



 食べ終えて空になった弁当箱を鞄にしまおうとした時に気が付いた。あの不機嫌女の姿が無い。教室を見回しても居ないので、どこかへ行っているのだろう。どこかは分からないが。

 てか、どこに行っていようと俺には関係無いか。

 「特に珍しい場所がある訳でもないし、普通に端から教えるか」

 そう言って和樹かずきが先頭に立ち、俺と天音あまねも付いて教室を後にする。

「えぇー、それじゃつまらないよ。秘密の実験場とか行かないの?」

「そんなもんねーよ。そんで面白い校舎案内なんてあるのかよ」

「一歩踏み間違えると床が崩れ落ちたり、本を二ヶ所同時に引っ張ったら隠し通路が現れるとか、三週間行方不明だった野良猫の万次郎と再開したりだよ!」

 その万次郎さんはずいぶん短い期間で帰国したな。

「だからそんなアドベンチャーは無いっての。すまねーな弘人ひろと、薄々気付いているとは思うが、こいつは頭の中がアレなんだ」

「案ずるな。完璧に気付いていた」

「何のはなしー?」

天音あまねはいつも明るく元気ですねって話だ」

「わーい! ひろとくんに褒められたー!」

 こいつに揶揄やゆは通じないようだ。

「なぁ、特別な場所は無いのか? さっき天音あまねはどっかを見せたがっていたようだったが」

「あるっちゃあるんだが……、そこだけには限らないからなぁ。なぁ弘人ひろと、窓の外を見てみろよ」

 和樹かずきに促されて視線を外へと向ける。

「良い景色だろ?」

「あぁ」

 山の上に建っている校舎からは、下に広がる村の全体を眺めることが出来た。

 どこまでも立ち並ぶ雄大な山々、川の流れに合わせて回る水車、段々に区切られている茶畑は一つの広大な絵のようだ。

 都会では決して見ることの出来ない、自然の風景がここにはあった。

「学校のどっからでもこんな景色を見られるなんてのは、なかなか無いと思うぜ」

「そう……かもな」

「ひろとくん! 驚くのはまだ早いよ! あたしはまだ切り札を残しているんだから!」

「そうなのか?」

 確認の意味を込めて和樹かずきに訊いてみる。

「そんなにハードルを上げないでくれよ……。屋上からの景色のほうが、もう少し感動出来るってだけだ」

「そうか、そりゃ楽しみだ」

「期待に応えられることを願うのみだな……」

 和樹かずき天音あまねの後を付いて歩き、まずは教員玄関に向かって外靴を回収した。

 二年生が使用している下駄箱に俺の名前を見つけ、中に入れてその場を離れる。

 一階から三階までを説明付きで見て回り、最後の場所である屋上の入り口に着いた。

 余談だが、屋上が解放されている高校って実はほとんど無いんだよな。いくら柵で囲っていようとも、転落してしまえば大事故は免れない。ましてや教員の目の届かない場所であるため、事が起こった際の責任問題は一筋縄では解決しない。

「ここで最後だ」

 そんなことを考えていると、和樹かずきは特別もったいぶるでもなく扉を開けた。

「うはー!」

 真っ先に天音あまねが叫びながら駆け出し、和樹かずきと俺も後を追って屋上へと踏み出す。

「うん、ここはいつ来ても良い景色だ」

「すげぇ……」

 呆気にとられながらも和樹かずきの言葉に賛同する。

 この村は美しい。それは道を歩きながらでも校舎の窓からでも実感出来る。けれど、少しずつ足りなかった。

 山の下にある道からでは村全体を見渡せない。校舎の窓からでは見える景色が狭まってしまう。

 しかしこの屋上は違う。景色が狭まってしまうことなく村全体を見渡せ、吹き抜ける風に晒されながら錦織村を全身で感じられた。

 空がいつもより少しだけ近くにある。そう思わせてくれるここは、二人がオススメするだけのことはあった。

「あたしはここが大好きなんだ! 晴れの日も雨の日も雪の日も、いつだって何度だって来ても飽きないよ!」

「雨の日は勘弁だが、錦織村は季節毎に違う景色を見せてくれる。ここの自然を知っちまったら、別の高校に行きたいとは思わないさ」

 二人の意見には大いに賛同出来た。この景色を見られただけでも、転校してきて良かったと思える。

「けどまぁ、今はもう時間が無いな。もうすぐ昼休みが終わっちまう」

 和樹かずきが腕時計を確認したところで、五時限目開始を知らせる予鈴が鳴った。

「校舎のほぼ全部を見てからだったしな。今度の機会にでもゆっくり堪能させてくれ」

 そう言って校舎内へ戻ろうと出入り口へ振り返る。するとその時、階段を下り始めた不機嫌女の姿が一瞬だけ見えた。

 なんだ、あいつ居たのかよ。

 とは思ったが、だからどうしたという話だ。それ以上は深く考えず、和樹かずき天音あまねと共に教室へと戻った。

 午後の授業も無難にこなし、放課後を迎える。

 教材を鞄へしまっていると、松平まつだいら先生が教壇から俺を呼び寄せた。

希條きじょう君、ちょっといいか?」

「はい、大丈夫です」

「では、ちょっと付いてきてくれ」

 先生と共に教室を後にして廊下を歩く。各部屋の様子を流し見しながら付いて行くと、生徒指導室に招待された。

 えっ? 俺、転校初日から何かやらかした?

「そう気構えないでくれ。今日一日過ごしてみて、何を感じたのか話してほしいだけだ」

「あっ、そうでしたか……」

 校舎や生徒の印象をいくつか質問され、先生が満足したところで解放された。

 生徒指導室を後にし、生徒玄関で外靴に履き替えて校舎を後にする。

 周りには誰も居ない。先生と話している間に、生徒のほとんどが帰宅もしくは部活へと向かったようだ。

 微かに届く運動部の発声を聞きながら、校門まで歩いて振り返る。

「……」

 この学校は悪くない。それどころか、自然を身近に感じ取れる素晴らしさがある。卒業するまでの向こう二年の間に死ねないならば、ここは大事だいじにすべき場所だ。

 そう心に刻んで転校初日の高校生活を終えた。



 下校中。

 道行きを誰と共にするでもなく、一人でただひたすらに足を動かす。

 そうだ……これを忘れていた。

 校舎からの景色が良いのには理由がある。それは、山の上にあるということだ。今は下り坂だから楽なものだが、これを週五で登り下りするとなると少し気が滅入るな……。

 せっかくの感動に水を差されながらも山を下りきり、平坦な道に出たところで不意に声をかけられた。

「お疲れかい?」

「!?」

 つい先ほどまでは周りに誰も居なかったので、声をかけられる気構えをしていなかった。

 少々、あり得ないと思った事態に驚いてしまう。

「そこまで驚かなくてもいいじゃないか。そんな反応をされてしまうと、悪いことをした気持ちになってしまう」

 唐突に声をかけてきたこの女性。風に流されるボブカットの髪を手でそっと押さえ、薄く笑みを浮かべて俺を見つめていた。

 身長は俺よりも少し低いが、同じ高校の制服が似合わないほどに大人びた雰囲気を醸し出している。

 肌なんて白を通り越して透明感すらある。実際にはあり得ないが、そう錯覚させるほどに幻想的な美しさを纏っていた。

「……いえ、俺が勝手に驚いてしまっただけです。すみません」

 自然と言葉が敬語になっていた。これで年下だったら笑い話だな。

「こちらこそすまない。もっと、声をかけるのに相応しい流れを考えておくべきだった」

「先に確認しておきたいのですが、先輩……ですよね」

 その言葉を聞いた彼女は、少しだけ不思議そうに返事をした。

「どうしてそう思うんだい?」

「クラスメイト全員の顔や特徴を覚えているわけではありませんが、少なくともあなたは見覚えが無い。つまり二年ではない。それと、初対面の俺に敬語を使ってこなかった。つまりあなたは、自身が俺より上の学年か少なくとも同級生だと分かっているということ。だから、消去法で三年の先輩であるとみた訳です」

 俺の推理を黙って聞いていた彼女は、考えるように数回頷いてから口を開いた。

「ふふふっ。少し雑だけれど、半分正解だ」

「半分てなんですか」

「ボクはキミより早く産まれているし、キミと同じ学年ではない。うん、そうだね。先輩と呼ばれておこうかな」

「まさか退学した先輩、なんてオチじゃないですよね」

「そんなつまらない答えは、ボク自身嫌だよ」

 彼女……先輩は、興味の無いものでも見たかのように目を伏せた。

 そして右手を胸元にかざし、しっかと目を開いて気持ちの切り替わりを表した。

「自己紹介がまだだったね。ボクはなぎ煌森凪きらもりなぎだ」

「俺は希條弘人きじょうひろとです。知ってるのかもしれませんが、今日転校してきました」

「もちろん知っているさ。これからよろしく頼むよ」

「はぁ……、よろしくです」

 学年が違うのならば、接する機会も少ないのではなかろうか。

「とりあえず、今日のところはこの辺で。以降の話相手は彼女にお願いするといいよ」 

 そう言って煌森きらもり先輩は一本の道に顔を向けた。

 俺も振り返ってその道を見る。すると、教室内で左隣に居座る不機嫌女がこちらに向かって歩いていた。

「いや、あいつには話が通じなくて……」

 と、顔を戻しながら声を出したが、言葉をそれ以上続けられなかった。

 たった今、今の今までそこに居た煌森きらもり先輩が居なくなっていた。急いで周りを見渡してみるも、どこにも姿が無い。

 不思議な人だ……。などと思っているうちに、不機嫌女がこちらまで歩み寄ってきた。

「……」

「……」

 けれど俺はかける言葉を持っていないし、こいつも俺と話をする気など無いだろう。不機嫌女は俺に一瞥いちべつすらもせず、無言で立ち去って行った。

 話しかけられると期待していた訳ではないが、ここまであからさまに拒絶されると思うものもある。

 しかしまぁ、考えても仕方がない。放っておいてほしいというならそうするさ。

「何であっちから歩いてきたのかも気になるけどな……」

 不機嫌女が歩いてきた道は、学校から延びる下校路ではない。あいつはどっかに立ち寄って、その帰りに俺と遭遇したのだろう。

「朝に別れてった道もここだったかな……」

 そんなことを考えながら、止めていた足を動かして家へと向かった。



 翌朝の通学中。

「やぁ」

 特に何を考えるでもなく田んぼ道を眺め歩いていると、後ろから煌森きらもり先輩に声をかけられた。

「おはようございます」

「うん、おはよう。昨日は残念だったね」

「何がですか?」

 本気で何のことか分からない。

「彼女とお話しでもしていれば、一人寂しく下校することもなかっただろうさ」

 彼女……、あの不機嫌女のことか。

「昨日の朝、あいつに話しかけて突っぱねられたばかりなんです。俺に原因があるとは考え難いですけど、なんか話をしたくないっぽい雰囲気でしたよ」

「まぁ、その通りなのだけれどね」

「なんですかそりゃ。てか、人に一人寂しく~とか言う割りに、先輩は一緒に帰ってくれなかったですよね」

「ふふっ、キミはボクと帰りたかったのかい? それは期待を裏切ってしまって申し訳ない」

「いやべつにそこまでは言っちゃいませんけど……」

「キミはボクといるより、彼女といたほうが有意義な時間を過ごせるというものさ」

 そう言って煌森きらもり先輩は歩く足を止めた。

「俺的には、話の出来る先輩といたほうが有意義ですけどね」

 俺も合わせて足を止める。少しくらい立ち止まろうとも、遅刻するような時刻でもない。

「おや、ずいぶんと嬉しいことを言ってくれるねぇ」

「さいですか」

「けれどそれでは駄目なんだ。止まっている時間に浸るより、止まっている時間を動かさなければ前に進めない」

「……はぁ」

 言っている意味が欠片も分からない。言葉の裏に意味を乗せるなら、ギリギリでも伝わる言い方をしてほしい。

 そんな気持ちが表情に出ていたのだろう。煌森きらもり先輩は堪えるようにクックッと喉の奥で笑い声を出した。

「あはは、キミは素直だね」

「それは褒めてるんですか?」

「さぁ、どっちだろうか。っと、そろそろ時間だ」

 煌森きらもり先輩は急に真面目な雰囲気になり、談笑は終わりだと暗に示す。

「そろそろ学校へ向かいますか?」

「うん、キミも彼女も、遅刻したら駄目だよ」

「彼女?」

 煌森きらもり先輩がとある道に視線を向けた。その目の動きに釣られ、俺もそちらの道へ視線を向ける。

 それは昨日も促された道であり、またあの不機嫌女がこちらに向かって歩いていた。

「いや、だからべつに……」

 そう言いながら煌森きらもり先輩に視線を戻そうとしたが、また唐突に姿を消していた。

 先輩自身はあの不機嫌女と関わりたくないのだろうか。気持ちは分からないでもないが、俺に丸投げしてさっさと消えるのはやめてほしい。

 煌森きらもり先輩に多少の不満を抱きつつも、これ以上立ち止まって遅刻してしまうのは避けたかった。不本意ながらも足を動かし、曲がって来た不機嫌女と共に学校へ向かう。

「……」

「……」

 何の会話もねぇ……。

 女子と肩を並べて通学するという心が浮かれるその状況で、こんなにも楽しくない気分になるとは思っていなかった。

「……」

「……」

 えっ、ちょっ、えっ。もしかしてこれは学校に着くまでこのままなのか? 何それ、何の罰ゲーム?

 今さらではあるが、隣に並ばれる前に走り出してしまえば良かったんだ。遅刻を避けられて、こいつとの間合いもとれる。

 後悔しても遅いし、今から走り出す訳にもいかない。重い空気に負けて逃げ出したとなれば、敗北感に苛まれてしまう。

 どうしよう、話しかけてみるか? 会話を出来るならそれでいいし、拒絶されたならそれを理由に距離をとるのも自然だ。よし、そうしよう。

 自分を納得させるだけの理論展開をして、現状を打破するべく声を出す。

「よう」

「話しかけないで」

 一応返事はきた。そういえば、無視された場合の行動を考えていなかったな。

「何でそんなに会話を拒否するんだよ」

「話をしたくないからよ」

 理由になってねぇよ。

「そういやまだ名前も聞いてなかったな、なんて言うんだ?」

「個人情報を探りに入るとは、やっぱりストーカーなのね。あぁでも、直接訊き出そうとするのはストーカーの範疇を超えているかしら。再確認したわ、あなたは危険な人ね」

「そんなんじゃねぇよ、てかストーカーでもない」

「ねぇ、そこの危険な人。そろそろ口を閉じてくれない?」

「バッサリ言いやがりますねぇ。同じクラスで学校生活を一緒に過ごす仲間同士、仲良くしようじゃないか」

 そう言った瞬間だ。不機嫌女はいきなり立ち止まり、俯いてしまった。

「……じゃ……」

「?」

 何か言ったようだが、何も聞き取れなかった。だが、何をする間もなく次の言葉は発せられた。

「ふざけるんじゃないわよ! 私がいつあなたの仲間になんてなったのよ? 勝手な妄想はやめてもらえないかしら。ましてや一緒になんて過ごさない、迷惑だわ!!」

 昨日以上の迫力で怒鳴られ、俺は再び気圧されてしまった。そして不機嫌女は不機嫌さを増して早歩きで去って行く。

 一体何が彼女の逆鱗に触れたのだろうか。発言のどこに問題があったのかが分からない。

 ともあれ、一応当初の目的通り間合いは取れた。怒気を帯びた無言の背中を眺めながら、妙に長く感じる山道を登った。



「キミは中距離走に自信はあるかい?」

 放課後の下校中。学校からの下り坂を少し歩いたところで、またもや煌森きらもり先輩は唐突に現れた。

「なんで中距離をチョイスしたんですか……。一般的なのは短距離か長距離のどっちかじゃないですか?」

「いやなに、今から走る距離は中距離ぐらいかと思ってね」

「えっ、なんですか、今から走るんですか。もしかして俺もってことはないですよね」

「もちろんキミにも走ってもらうよ」

「嫌ですよ、一日の授業で疲れているんです。走るのは体育の授業だけで充分ですよ」

「まぁべつに、走りたくないと言うのであればそれも構わないのだけど」

「どっちなんですか……」

「見てごらん」

 煌森きらもり先輩はそう言って空を指差した。

「あの雲が分かるかい? あれは雨雲だ」

 パッと見は良い天気だが、一つだけあからさまに薄黒い雲がある。

「このままだと、じきに通り雨が降るだろう。濡れなくなかったら走ることをオススメするよ」

「そりゃどうせなら濡れたくはないですよ」

「なら走ろうか」

「はいはい、分かりましたよ」

「ずいぶんとなげやりだねぇ。そうだ、せっかくだし勝負をしよう」

「また唐突な……」

「この下り坂の先には水車小屋があるだろう。そこにキミがボクより早く着いたら、キミが知りたがっていることを一つ教えてあげよう」

「は? それはいったいどういう……」

「それでは、スタートだ」

 そう言って煌森きらもり先輩は、俺の言葉に取り合わずいきなり走り出した。

「ちょっ! ズルいですよ!」

 などと言いながら、釣られて俺も走り出す。

「あははっ! ボクが勝っても褒美は無いからね、このぐらいのハンデがあってもいいだろう!」

 煌森きらもり先輩は顔だけ振り向いて笑いながらも、結構な速度で山を下っていた。

 俺が知りたいこと? なんだそりゃ。そもそも、煌森きらもり先輩は俺が何を知りたいのかを知っているのか。

 考えても分からないし、話をどこまで信用していいのかも分からない。

 勝負そのものを放棄してしまおうかとも思ったのだが、煌森きらもり先輩との距離は徐々に縮まっていた。

 ギリギリ追い抜けるか? どうせなら勝ってしまいたい。そのほうが俺の立場が強くなる。

「はぁっ、はぁっ!」

 もう少し……! もう少しで追い抜ける!

 下り坂を全力で走り、煌森きらもり先輩の隣に並ぶ。横目にチラと顔を見ると、涼しい顔をして水車小屋を見ていた。俺に追い付かれても余裕の表情を崩さない。そのことを少し不思議にも思ったが、今はどうでもいい。

 そして、追い抜いて少しばかり差をつけたところで俺は水車小屋横に辿り着いた。

「しゃあっ!」

「ひゃっ!」

 勝利の雄叫びを上げた途端、声に驚いたのか誰かの悲鳴も上がった。

「はぁっ、はぁっ、あぁ……?」

 悲鳴が上がった方向、小屋の向こう陰になっている場所を覗いた。すると、あの不機嫌女が視線で射殺さんばかりにこちらを睨みつけていた。

「驚かしちまったか、わりぃな」

「……べつに」

 こいつは帰りのホームルームが終わったと同時にさっさと教室を出ていった。俺は途中までのんびりと歩いていたが、煌森きらもり先輩の勝負に乗せられて走ってきたため追い付いてしまったのだろう。

 ……あれ、その煌森きらもり先輩はどこだ。もしかしてまた消えたのだろうか。

「何かの意図があるのか……?」

「……」

 不機嫌女は俺の一人言に構うことなく川に手を突っ込んだ。握られているペットボトルに、コポコポと水が入っていく。

 どうして川の水を補給しているのかは疑問だが、俺はそれよりも不機嫌女の近くにある木造水車が気になった。

 直径四メートル近いこの水車は、老朽化が進んでいるのか回る度にギィギィと音を立てている。大丈夫かよコレ、突然壊れたりしないだろうな。

 俺の心配を余所に、不機嫌女は水の補給を済ませていた。キャップを閉めてハンカチで水気を拭き取り、鞄の中へしまう。

 そして立ち上がって去っていこうとする。が、三歩ほど歩いたところで立ち止まった。

 どうしたんだ? などと思いながら俺もその場を動けずにいると、

峰倉絢乃みねくらあやの

 唐突に何かを言われた。

「なんだ?」

「私の名前。あなたが訊いてきたのでしょう」

 それはそうだが、何故今このタイミングで言う?

「座席表を見たら分かることだからべつに隠すつもりは無かったのだけど、朝はその……言いそびれたのよ」

「そうか」

 なんだかやっと会話らしい会話が出来たな。と思ったのも束の間、

「でも勘違いはしないで。黙っていても調べれば分かるから名乗っただけであって、仲間になったつもりも、一緒に過ごすつもりも無いわ。仲良くなれるだなんて思わないで」

 と、言い残して早足で去ってしまった。

「……さいですか」

 呟くように言った返事は聞こえなかっただろう。俺自身が満足するための言葉に過ぎない。

 本当に、何故あんなに他人を拒絶するのだろうか。

「……いや」

 考えても仕方が無いし、俺が気にする必要も無い。

 結局その場には俺一人取り残され、空を見ると雨雲はあちらの方へと流れされていた。



 転校してから一週間ほどが経過した。

 上級生との関わりなんてあまり多くないと思っていたが、どうも煌森きらもり先輩には当てはまらないらしい。

 登下校中にいつも現れ、適当に会話をしていつの間にか消える。それだけならまだ日常的とも言えるやりとりなのだが、俺は少し疑問を抱いていた。

 煌森きらもり先輩は時にはゆっくり歩いたり急ぎ足で歩いたりと、俺の歩くペースを調節しているようだった。加えて、消えた直後に必ず峰倉みねくらと遭遇している。

 偶然が重なる時もあるかもしれないが、さすがに毎日そんな状況が続くと意図を察しもする。

「先輩は俺を峰倉みねくらに接触させようとしてますね」

 放課後の帰り際、煌森きらもり先輩が行動を起こす前に先手を打った。

「あはは、さすがにバレたか」

「隠すつもりなんて無かったくせに」

 その証拠に、悪びれた表情すら浮かべやしない。

「その意図には気が付けました。けれど、その先が分かりません。何でそんなことをするんですか?」

「そうだねぇ……、もう話してもいい頃なのかな」

 そう言って煌森きらもり先輩は後ろ手を組み、少し前屈みになって見上げるように俺を見つめた。

「話を変えるつもりはないけれど、その前に一つ。交友関係を築くのに必要な時間はどのくらいだと思う?」

「そんなもん、状況しだいじゃないですか。クラスでずっと一緒でも会話をしなかったり、短い時間でも密な付き合いをしたりと、時間よりも内容だと思ってます」

「ふむ、一理ある。では、キミとボクが出会ってから一週間ほどの時間が経過したわけだが、ボク達の友好度はどれぐらいのものになっただろうか。キミが言うところの、密な付き合いはしていただろうか」

「またいきなり何を……」

「真剣に答えてほしい」

 言葉にして話をする内容ではないだろう。そう思ったのだが、煌森きらもり先輩の声音は真剣そのものだった。

「……友好度なんて数値化出来るもんじゃないですよ。けれど強いて言うならば、先輩のことは悪い人間ではないと思ってます」

「そうか、それはとても嬉しい。では、今からボクが話すことも信じてもらえるだろうか?」

「それこそ内容しだいですね」

「それでも構わない、聞いてほしい」

 煌森きらもり先輩は上体を起こし、首を少し捻ってとある山を見つめた。

「彼女……峰倉みねくらさんには、村で噂話が流れているんだ」

「噂話?」

「あぁ。いつも不機嫌でほとんど誰とも関わっていない、それを不思議には思わなかったかい?」

「不思議っちゃ不思議でしたけど、関わりたくないってならべつに好きにしてくれって感じです。こっちから近付く理由も無い」

「ごもっともだ。では何故不機嫌なのか。それは、他人を寄せ付けないようにする為だよ」

「何の為にですか?」

「それを語るには少し過去の話をしなければならない」

 煌森きらもり先輩は一度そこで言葉を区切り、俺の目を見つめて口を開く。

「今から六年ほど前に、家族が皆亡くなっているんだ。両親と、お兄さんの三人が」

「……え」

 予想もしていなかった唐突な不幸話に、俺は間の抜けた声を出してしまった。

「その時はしばらく塞ぎ込んでいてね、家に引き籠って何ヵ月間も不登校だったよ。誰かが様子を見に行っても、口も開かずに首を振って家から出るのを拒むんだ。そして、問題はここからだ」

 始めから大問題な状況のような気もするが、これ以上の問題が起こるのか。

「周りの人達が可哀想に思って気を遣っていたのだけれど、一向に良くならなかった。中には、一人だけ生き残るくらいなら一緒に死んでしまったほうがよかったのかも、なんて言った人もいてね。彼女の境遇を廻って村人達が言い争いを始めてさ、その頃になってようやく口を開いたんだ。何て言ったと思う?」

「……さっきの前フリから考えると、私に関わるな、ですか」

「おしい、もう少し足りない。正解は……」

 煌森きらもり先輩は目を閉じ、一拍の間を置いて言葉を続ける。

「皆大っ嫌いだから私に関わらないで」

「……は?」

 目を開けた煌森きらもり先輩の表情は真剣なままだった。嘘偽りなど無いと、その表情が物語っている。

「良くも悪くも、彼女を心配していた人達がこの言葉を聞いたんだ。どんな反応をしたかは想像出来るだろう?」

「そりゃ……激怒したんじゃないですか」

「正解だ」

 その光景は想像にかたくない。心配していた人達の気持ちを無下にしたんだ。いくら何でも酷過ぎる。

「晴れて彼女は希望通り、誰も関わろうとしなくなって独りになれた。まぁ、未だに影ではいろんな声が上がっているけれどね」

「何でそんなことを言ったんですか」

「それは是非とも本人に訊いてみてくれたまえ」

「いや、あの調子じゃ無理でしょう……」

「あぁ。今までも訊き出そうとした人はいたけれど、全員が拒絶されて返り討ちさ」

「ならべつに、それこそどうでもいいです。それで、間怠まだるっこしい前置き期間まで置いて、なんで俺にこの話をしたんですか?」

「この話は有名だから、ボクが語らずともいずれキミの耳には入っていただろう。本題はこの先だ。これからの話を信じるかどうかはキミしだいだ」

 煌森きらもり先輩は真剣な表情を崩さず、あくまでも嘘は言わないといった意思表示を貫く。

「運命というものが存在するならば、彼女に定められた人生は孤独、だ。大切な家族を失い、周りからも嫌厭けんえんされる。そしてそれを、本人も望んでいる。そうでなければ、優しくしてくれていた人達まで遠ざけるなんておかしいだろう? そんな彼女についたあだ名が」


「神様に嫌われた少女」


 ……ここで神様が出てくるとは思っていなかった。

「キミは、神様はいると思うかい?」

「……分かりません。いないとは思ってますけど、いてもおかしくはない。といった感じです」

「まぁそんなところだろう。けれど、キミがどう思っていようと現実は変わらない。いるならいるし、いないならいないんだ。さらに言うなら、この問答に意味は無い」

「話を振っておいてずいぶんと曖昧なことを言いますね」

「分かった。では、いると言っておこう。けれどキミは、この言葉を信じるのかい? 友好度は稼いだつもりだけれど、ボクの言葉一つで神様を信じられるのかい?」

「…………」

 返す言葉が無かった。意味の無い問答というのも納得だ。いると言われようといないと言われようと、俺はその言葉を素直に信じない。

「話を戻すとだね、彼女が人を遠ざけるのには理由があるんじゃないかって憶測があるんだ。優しい人達まで遠ざけるのは、彼女が周囲に及ぼす呪いのせいだと」

「神様の次は呪いですか」

「噂なんて曖昧なものさ。けれどキミは、この噂を無視出来ない。それは……」

 煌森きらもり先輩はじっと俺の目を見つめ、機微きびの一つも見逃さないといった表情で言葉を続けた。

「彼女に深く関わったら死ぬ」

「……………………」

 その言葉を聞いた俺は、すぐに言葉を返さなかった。

 代わりに、脳をフル回転させて思考を巡らせる。深く関わったら死んでしまうから、家族が亡くなった。村人を殺してしまわないように、関わらせずに遠ざける。

 突飛な発想であるということに目を瞑れば、理屈は通っている。

 けれどそれら以上に、もっと重要な事項がある。


 死。


「…………そんな峰倉みねくらに俺を接触させようとしている先輩は、俺に死んでほしいんですか?」

「ここでの返答も意味が無い。キミはボクの言葉の真偽を確かめられないからね。けれど、キミはキミの思いに嘘をつけない」

「何を言って……」

「キミは死にたいのだろう?」

「!!」

 射貫くような視線と共に告げられたその言葉は、的確かつ重みを伴った強烈な一撃だった。

 胸中にくすぶらせているこの思いは誰にも話していない。だから、俺以外の人間が知っているはずがなかった。

 俺が衝撃を受けて動揺していることなどお構い無しに、煌森きらもり先輩は言葉を続ける。

「違うとは言わせないよ。ボクに嘘は通じないと思ったほうがいい」

「……何故、俺が死にたいと知っているんですか?」

「神様に教えてもらったから」

「……馬鹿馬鹿しい」

 強がった言葉を返すだけで精一杯だった。実際は動揺を抑えるだけで手一杯だ。

 経緯は分からないが、煌森きらもり先輩が俺の願望を言い当てたのは真実だ。ここに真偽の問答をする余地は無い。

 この人は本当に分からない。もしかしたら、ただ俺に死んでほしいというだけではないのかもしれない。嘘も本当も、この人の前では意味が無い。

 考えても仕方がないので、気持ちの整理だけを済ませて言葉を返す。

「…………分かりました。先輩の言葉を完全に信じた訳ではありませんが、俺はこれから峰倉みねくらに関わりにいきます」

「そうかい」

 正直、死ぬのは今だって怖い。けれど、この話にはリスクが無い。あいつと仲良くなるだけで死ねるというならば、マンションの屋上で足踏みするよりよっぽど死にやすい。

 仮に嘘でも、クラスメイトの友人が一人増えるだけだ。

 また、確証も突拍子も無いってのがいい。死に怯える自分自身を、そんな事はあり得ない。と簡単に誤魔化せられる。



 まさかこちらから峰倉みねくらに絡みに行く時が来るなど、つい先ほどまで想像もしていなかった。

 けれどこんな身近に死が転がっているのなら、利用しない手は無い。

 煌森きらもり先輩の思惑は分からないが、それも関係無い。

 俺は死ねる。その希望があるだけで充分だ。

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