第2話 神様が悔やむ少女

 翌日から俺は峰倉に積極的に話しかけた。

 と言っても煌森先輩から聞いた噂では、村人は峰倉を良く思っていないらしい。余計な仲介に入ってこられると困るので、可能な限り二人きりになれる状況を狙った。

「この場所が好きなのか?」

 昼休みになると同時にさっさと教室を出ていった峰倉を追いかけ、屋上の塔屋とうやの陰に座り込んだところで声をかけた。

「……ストーカー」

「まぁそう言うなって。俺もここは好きなんだ」

「そう、それは良かったわね。なら私になんて話しかけていないで、景色を存分に堪能しなさい」

「一人で見るより誰かと見たほうが気分が良いだろうさ」

「なら、お友達でも連れてきたらどうかしら。私はあなたと景色を見たいだなんて思わない」

 そう言って持ってきた昼食に手をつけることなく去ってしまった。

 場面は変わって放課後。

「一緒に帰らないか」

「帰らない」

 坂を下っていた峰倉に駆け寄り、愛想の良い声で話しかける。

 歩く速度を上げられたが、こちらも速度を上げて隣を確保する。

「付いてこないで」

「帰り道が同じなんだから仕方無いじゃないか」

「隣を歩く必要は無いでしょう」

「別々に歩く必要も無い」

「私にはある」

 すると峰倉は立ち止まり、眉根を寄せて俺を睨め付けた。

「私に関わらないで、ストーカー」

 声を一段低くして拒絶の意思を強く示し、言葉で俺を足止めして立ち去っていった。

 アプローチの方法を変えたほうがいいだろうか。などと考えていると、背後からクックックッと抑え切れていない笑い声が聞こえてきた。

「いやはや、熱心だねぇ」

 後ろを振り向くと、一部始終を見ていたのであろう煌森先輩が笑いを堪えて立っていた。

「彼女のほうも、相変わらずのようだけど」

「……まぁ、こんなことで仲良くなれるとは思ってませんけれど、積み重ねって大事だいじですからね」

「キミ、さっきまでと表情が違うよ」

「……」

 言われて気が付いた。峰倉の前では愛想良く振る舞っていたし、煌森先輩の前では偽っても仕方が無い。無意識のうちに表情を切り替えていたようだ。

「目が死んでいる。望みが叶うかもしれないというのに、喜びの感情を一切感じられない」

「そりゃそうですよ。俺は生きたくないから死にたいだけで、死ぬこと自体に目的意識なんてありません」

「キミはどうしてそこまで生きたくないんだい? 何か悩みがあるのなら、お姉さんが聞いてあげようじゃないか」

「べつに、話すほどの理由なんてありませんよ。生きることに意味なんて無い。そう気付いてしまったから、無駄な人生を早く終わらせてしまおうと思っただけです」

「ずいぶんとまぁ極論だね」

「なら、先輩は反論出来ますか?」

 難しい問いを投げられた煌森先輩は目を閉じた。そして、じっくり考えたのであろうその後に薄目を開けて返答をする。

「いいや、出来ない」

 煌森先輩が瞼の裏に何を見ていたのかは分からない。けれど、この理論を覆せるはずもなかった。

 俺は全身で振り返って背中を向け、会話を終わらせる意思表示をする。

「俺はまだ、目しか死んでいないんですね」

 そう言い残し、立ち尽くす煌森先輩を置いてその場を後にした。



 だが、そんな日常も長くは続かなかった。

 さすがに毎日峰倉のもとへ訪れていると、和樹が疑念を抱いたらしい。

「弘人は峰倉さんに気があるのか?」

 四時限目が終わって教室を出て行った峰倉を追いかけようとした俺に、待ったの声をかけて話を切り出してきた。

「いや、べつに……」

 そういや、そういう目線で見られることを考慮していなかったな。

「なになに、ひろとくんがあやのちゃんのことを気にしてるってー!? ひょっとして好きなの? 愛の告白をしちゃうの? あたしのひろとくんが奪われちゃうのー!?」

「だから違うっつの。そんで話を盛るな」

 和樹の言葉だけが聞こえたのであろう天音が、さほど広くもない教室内を駆け寄って来た。昼食前にそれほど元気が残っているのが羨ましい。

「ならすでに恋仲になってるって訳でもないんだな。なぁ弘人、それなら峰倉さんに冷たくあしらわれてるんじゃないのか?」

「あぁ。ほとんどまともに会話も出来てない」

「それなのに諦めず近寄っているのは、何か理由があるのか?」

「ある……、ある」

 あるけれど、まさか正直に「死にたいから」なんて言えるはずもなかった。だが、無いと嘘をついた場合の誤魔化し方が思い浮かばなかったので、口ごもりつつも素直に答えてしまった。

「そっか……。弘人は転校してきて日が浅いから知らないと思うが、峰倉さんには有名な噂話があるんだ。まずはそれを聞いてくれ」

 和樹は表情を暗くして、語り始める気構えをとる。けれどすまないな、その必要は無い。

「その話なら先輩から聞いた」

「! ……そうなのか。どこまで聞いたんだ?」

「あいつに深く関わったら死ぬ。までだ」

「ちゃんと最後までか……。それで、なんで弘人はその話を聞いてもなお峰倉さんに構うんだ?」

「…………」

 マズイ、誰かに訊かれた時のための言い訳を考えていなかった。上手いこと回避するためのセリフが咄嗟に出てこない。

「まさか、死にたいからだ。とか言わないよな」

「それは……」

 肯定する訳にはいかなかった。もし自殺に失敗した場合、俺はここで引き続き学校生活を送ることになる。その際に、自殺志願者ですよ、といった自己紹介が知られているのは交友関係のマイナス要素になりかねない。

 俺が返事に困っていると、意外な助け船が現れた。

「違うよねー、そんな話信じてないんだよね」

 天音にしては真面目な声音で、和樹の疑念を否定した。

「あたしもそんな話は信じてないもん。皆が勝手に言ってるだけだよ」

「……あぁ、そうだ。噂はあくまで噂だろ。本当だって証拠が無い。それに、随分と突飛な発想じゃないか、現実味が薄い」

 天音の言葉に乗っかり、和樹の疑念を否定する言葉を並べた。

 決して、嘘は言っていない。

「あいつとも仲良く出来たら良いなって思ってる。それだけだ」

 仲良くなって死ねたら良いなって思っている。それだけだ。

「だけどあやのちゃんは手強いからねー。ひろとくん、諦めずにお互い頑張ろうよ!」

「あぁ」

「まぁ、そういうことなら……」

 和樹は釈然としていない様子だったが、反論する言葉も無いのかそれ以上の追及は無かった。

 天音のおかげで助かった。けれど悪いな、俺はお前の味方ではない。声に出していない部分では、峰倉の噂を利用しようと思っているんだ。

 裏切りにも等しい思考だとは分かっているが、これは各人と上手くやるための処世術にすぎないのさ。

 自分の非を有耶無耶にする言い訳を考えつつ、和樹からの疑念をなんとか誤魔化した。

 けれど、翌日すぐに事が起きる。

「屋上に行こう!」

 今日は和樹達と共に昼飯を食べようと思っていたところで、いきなり天音がそんなことを言い出した。

「理由は……訊くまでもないな。峰倉さんか」

 和樹が思考を読んで答えを先に言い当てる。

「そう! やっぱりね、このままじゃ駄目だよ。あたしはあやのちゃんと仲良くなりたい!」

「オレ達はさんざん罵倒されたじゃないか。なんでそんなに峰倉さんに拘るんだ?」

 乗り気ではない和樹は、理解出来ないといった様子で天音を制そうとした。

「だって、前はあんなんじゃなかったじゃん。おかしくなったのは家族が死んじゃってからなんだよ。絶対寂しいに決まってるよ!」

「寂しかったらオレ達を無下にしないだろ」

「かずきくんはこのままでもいいの!?」

 こうなってしまった天音はもう手に負えない。それを察した和樹は、降参の声を出した。

「どっちかったらそりゃ仲良くやれるほうがいいさ。……あぁもう分かったよ、付き合ってやる」

「やったー!」

 天音の勝利宣言でその場は収まり、俺達三人は屋上へと向かった。

 階段を登って扉を開けると、天音が真っ先に塔屋とうやの陰へ駆けて行く。

「あやのちゃん!」

 俺と和樹が数秒遅れて追い付くと、天音はすでに峰倉の両肩を鷲掴みにしていた。突然の事態に驚いたのであろう峰倉は、弁当箱と箸を持つ手が宙で固まっている。

「またあなた達なの……、いったい何の用かしら」

 逃げようにも逃げられないと察した峰倉は、観念した声で会話に応じた。

「あやのちゃんはどうしてあたし達を避けるの?」

「前にも言ったじゃない。関わってほしくない、ただそれだけよ」

「それだけじゃ理由になっちゃいない。関わってほしくないって、いつもそこで終わらせるよな。何故その先を言わないんだ?」

 和樹の追い討ちに峰倉は一度口を閉じ、言葉に迷ったのか二、三回ほど瞬きをした。

「……言わなきゃいけない理由なんて、無い」

 僅かながらも動揺していたようだが、素直に返答はしなかった。

「あやのちゃん!」

「無理して私に関わる必要なんて無いじゃない。放って置いてほしいと言っているのだから、話しかけてこないで」

「あたしはあやのちゃんと遊びたい!」

「私は遊びたくない」

「皆といたほうが楽しいよ!」

 俺が一言も会話に参加出来ずにいると、峰倉は箸をケースにしまって弁当箱の蓋を閉めた。

 立ち去る準備をして、天音の拘束を解くために冷たい声を出す。

「楽しさなんて必要無い。私の価値観を、あなた達が勝手に決めないで」

 冷然とした態度に怯えた天音は見るからに悲しそうな表情になり、立ち上がる峰倉の肩から手を滑り落とした。

「もう二度と関わらないで」

 俺達は立ち去る峰倉を、ただ見送ることしか出来なかった。最後まで何の役にも立たなかった俺には、天音を励ます言葉すら思い浮かばない。

 そしてこの時を境に、峰倉は俺達を無視するようになった。

 天音は和樹に説得されて再び構わなくなったが、俺は二人の知らないところで話しかけ続けた。俺なりの笑顔と愛想の良い声を意識し、返事の無い相手にアプローチを続ける。

 けれどある日の放課後、峰倉が立ち去った後に現れた煌森先輩に思いがけない言葉をかけられた。

「キミは自分で気付いていないのだろう。だから教えてあげるけれど、とても酷い顔をしているよ」

 心配……というよりは、警告するような口調で言われる。

「べつにいつも通りですよ」

「いつも通りというのは、友人の前では常識人を装い、彼女の前では愛想良くを装い、ボクの前では急に素を吐き出すことを言っているのかい?」

 煌森先輩は少し強めの口調で言った。叱責するような表情には、その場しのぎの適当な言葉は返せない。

 俺は先輩の誠意を受け止めて、ここ最近の自身の異常さを振り返った。

 和樹や天音の前では普通の友達であろうとし、峰倉の前では仲良くなろうと笑顔を絶やさない。唯一俺の心情を知っている煌森先輩には、落差の激しい素を見せる。

 相手によって顔を使い分けるなんて誰でもやっているが、俺の場合は無駄が多かった。

 その最たる相手は峰倉だ。本当に死ねる保証なんて無いのだし、普段以上に気持ちを取り繕っていては心が休まらない。俺は努力してまで死にたい訳ではないのだから、こんなことに労力を費やす必要は無い。

「…………そうですね、先輩の言う通りです。少し疲れました」

 今思えば、本当に何で呪いなんてものを信じようとしたのかが分からない。あの時は煌森先輩の話術に乗せられてしまい、冷静さを欠いていたのだろうか。

「先輩の思惑は知らないままですけど、知ったこっちゃありません。苦労してまでは死にたくないので、不必要に峰倉に接触するのはやめます」

「そうかい。結局、キミの自殺願望なんてその程度なのさ」

「そうですよ。どうしても死にたい理由なんてありません。全てが無駄になるんですから、生きる努力も死ぬ努力もする必要が無い」

 あぁそうさ、努力なんて俺らしくもない。適当に生きて、適当に死を迎えればそれでいい。

「どちらを選ぶにせよ、努力は必要になるんじゃないかな。自殺する為には恐怖に打ち勝つ心が必要になるし、生きる為には労働しなければならない。キミはまだ学生だから実感が無いかもしれないが、生きる為には働いてお金を稼がなければならないのだよ」

「のだよ……って、先輩だって学生じゃないですか」

「確かにボクも働いたことは無いけれど、労働には努力が付きものと理解しているだけキミより利口なつもりだ」

 煌森先輩のあざけりには言葉を返せない。俺の人生論は世の中を馬鹿にしていると再認識させられる。

「キミは今後、どうやって生活していくんだい?」

「正直、将来のことなんてほとんど考えていません。けれど、俺は生き方を変えるつもりなんてありません。働きたくないと思ったら自殺を考えて、自殺が嫌なら働く。きっとそう選択するでしょう」

「それは選択とは言わない。選択とは、良くも悪くも望んで選んだ手段のことを言う。努力から逃げて残された道を進むのは、ただの敗走だよ」

「人生に勝ち負けなんてありませんよ。人なんてたかだか数十年生きて、勝手に死んでいきます。生きている間に何があろうと関係無いんですから、生き方に優劣なんて発生しません」

 ……たとえ俺の生き方が間違っていると言われても関係無い。間違いも正しさも、全てが等しく無意味となる。

「キミはあれだね、楽をしたいだけだ。目の前の楽だけを選び続け、全体の最善手が見えていない」

「そうかも知れません。けど、そんな計算だって無意味でしょう」

「やれやれ、無意味理論は強いねぇ」

 煌森先輩は諦めたような声を出し、不毛な言い合いはそこで終わった。



 その後は少しだけ平和な日々が続いた。和樹や天音と普通の学生らしく楽しく過ごし、峰倉を見かけても絡みになんて行かなかった。

 けれど、事件ってのは望んでいなくともやってくる。

 とある日の放課後。

 登下校時にはいつも煌森先輩が現れていたが、今日は珍しくいなかった。

 久方振りに一人で帰路につく途中、楽しそうなはしゃぎ声に釣られて水車小屋の方へ顔を向ける。そこには一人の小学生とおぼしき子供がいて、水車の近くで川遊びをしていた。

 俺にもあんな時期があったのかな……。何も考えずに遊んでいられるなんて羨ましいな……。

「……って、子供相手に嫉妬してどうするよ」

 大人げない自身を内省しつつ水車小屋を通り過ぎようとしたところで、「バキンッ」と大きな音が聞こえた。それとほぼ同時に「バシャン」という水音も聞こえ、大きな何かが川に落ちたことを想像させる。

 さすがに嫌な予感がした俺は、小屋の向こう陰にある水車を見に行った。すると、回転する軸が折れたのであろう水車が立ったまま川に落ちていて、その近くで先ほどの小学生が仰向けに倒れ込んでいる。

「マジかよ……!」

 俺は鞄を投げ捨てて川の中に飛び込んだ。水深は膝下までしかないので間違っても溺れはしないが、子供も同じとは限らない。

 頭部は川面から出ていたが、鼻口びこうはちょっとした波に覆われてしまうほどギリギリの状態だった。飛び込んだ際に波を起こしてしまったことを自省するも、早く助けにいったほうが賢明だと思い直す。

 しかし俺が助けるよりも先に、子供は後ろ手をついて自力で上半身を起こした。

 起きてすぐは何が起こったのか理解出来ていない様子だったが、俺が近くに来たところで泣き出してしまう。

「うわぁぁぁぁぁぁん!」

「…………」

 とりあえず無事なようで一安心したが、泣いている子供の相手は正直面倒くさい。

 などと、悠長に構えていたのが悪かった。

 垂直に落下した水車が、だんだんとこちら側に傾いていた。

「ヤベェ!」

 身の危険を感じた俺は、徐々に迫っている水車の側面に手を付いて横倒しを防いだ。

「セーフ……」

 反応が間に合ったおかげで下敷きにはならなかったが、どうせならもう少し早く対応すれば良かった。重心がこちら側に寄ってしまっていて、支えるだけで手一杯だ。とてもじゃないが退かせやしない。

「ひとまず助かったが、これからどうすりゃいいんだ……?」

 状況判断が遅れたことを呪いつつ、後悔よりも現状の打破に思考力を注ぐ。

「……」

 けれど取れる選択肢なんて堪える以外に無かった。

 仕方がない、まずはこいつに自力で脱出してもらおう。

 そう結論付けたところで、相も変わらず泣いている子供に声をかけた。

「おい、泣いてないで早く逃げろ!」

「うわぁぁぁぁ! いだぁぁぁぁい!」

 しかし子供は俺の言葉など完全に無視して、その場を一歩も動かなかった。

 いや、動けなかった。

 よく見ると、子供の右足は水車の真下付近に延びていた。水車の下部と足は川の中にあるのでよく見えていないが、最悪の事態を想像して血の気が引く。

 川に血が流れているようには見えなかったが、出血が無いからといって安心出来る訳ではない。万が一足が潰されてなどいたら、子供は自力で脱出なんて出来るはずもない。それどころか、一刻も早く水車を退けてやらなければならない。

 危機感を力に変えて水車を隣に倒そうとするも、多少ぐらつくだけでその場から動きはしなかった。

 原因はいくつかある。

 まず、幅広の側面から横にスライドさせるには、正面から押すよりも強い力が必要になる。俺にそこまでの筋力は無い。

 次に、倒れかかっている重みを支えるだけで精一杯なので、横に動かす余力はそもそも残っていない。

 最後に、この水車は厳密な円形ではなかった。水車には水の流れを受ける板が円の外まで出ているものがある。俺が支えているコレはそのタイプで、水受け板が川底に突っ掛かっていて簡単には転がせなかった。

 悪い状況が積み重なり、しだいに焦燥感が募っていく。こんな状況は初めてなので、どう対処したらいいのかが分からない。

「おーい! 誰かいないかー!」

 助けを求めて呼び掛けてみるも、誰からの返事も無い。 

 くそっ、煌森先輩はいないのか? いつも唐突に現れるくせに、こういう時には姿を見せないのかよ。

「おーい! 助けてくれー!」

 諦めずに再度声を出した。水車が想像以上に重い。足場が悪く踏ん張りが利かないため、そう長くは堪えていられない。

 押し倒されて溺れる想定をしていると、何者かが川に飛び込んできた。水音の聞こえた方をすぐさま振り向く。

 するとそこには、スカートをたくし上げて走り寄ってくる峰倉がいた。

 予想外の人物の登場に少々面食らったが、この際どうでもいい。助けてくれるというのであれば、誰であろうと構わない。

「こいつの足! 水車が!」

 俺は簡潔に状況を伝えようとした。けれど峰倉は慌てふためいている俺の発言を無視し、現状の全体図を一目で把握して水車に手をかけた。

「私が正面から押すわ」

「わ、分かった!」

 峰倉は俺から見て右側に位置取った。滑りやすい川底で足を動かし、しっかりと固定出来る場所を探し当てて少し腰を落とす。両手で水車の円形部分をしっかりと掴み、押し出す構えを取った。

「いくわよ、せーの!」

 掛け声に合わせて力を込め、二人で水車を左へ押す。

 するとほんの少しだけ動いたが、退かすまでは至らない。

「それなら……」

 峰倉は横に押すだけではこれ以上動かないと判断したのか、今度は左の掌を水受け板の下側に当てて掌底打しょうていうちの構えを取った。左手から右足までを一直線にして、僅かな力も逃げないように体勢を構え直す。 

「すーっ、ふっ!」

 そして呼吸を整えて、左手を斜め上に突き出した。

 俺も力を込める向きを修正する。峰倉みねくら側にある右手は上に、反対側にある左手は下に力を加える。すると水車はゆっくりと転がり、ついに子供の足が解放された。

 出来ることならその勢いのまま安全な場所まで転がしたかったが、動く度にこちらに傾いて重心がますます偏ってきた。このままではいずれ倒れてきてしまう。

「せめて……、もうちょい……!」

 それでも何とか子供に直撃しなくなる位置まで転がし、俺自身もすぐに逃げられるように心の準備をする。

「もういいだろ! 倒すぞ!」

 俺は峰倉に合図を送り、左手を放して右横へすり抜ける。すると支えの失われた水車は重力に従い、倒れて側面を川面に激しく叩きつけた。

 その際に上がった水飛沫で俺と峰倉は全身ずぶ濡れになったが、それでも大きな危機は脱した。

「この子を小屋まで引き上げるわよ」

 ようやくの脱力感に浸る間もなく、峰倉は俺に次の指示を与えた。

 そうだ、こいつの足は大丈夫なのだろうか。

 俺と峰倉で子供を抱え、水車小屋横に座らせて容態を確認する。足首は多少腫れてはいたものの、大きな怪我は見当たらない。素人判断ではあるが、骨折もしていなさそうだった。

 おそらく、水受け板が円の外まで出ている作りだったのが良かったのだろう。板と外郭に隙間が生まれ、その空間に足が入っていて無事だったのだと想像出来る。

 これだけの事故にも関わらず、子供が軽傷で済んでいて一安心した。

「……大丈夫みたいね」

 峰倉も無事を確認し終えて満足したのか、傍らに放り出されていた鞄を持って立ち上がる。 

「じゃあね」

 その一言を残して立ち去ろうとしたが、事態はまだ終息していない。

「待ってくれ、こいつを家まで送り届けたい」

 留まってくれるかどうかは分からなかったが、子供を引き合いに出して峰倉を呼び止める。

「……送り届ければいいじゃない」

 すると多少渋った様子ながらも、歩き去りはしなかった。会話を進めても大丈夫だと判断し、続けて要望を述べる。

「こいつは念のため抱えていく。俺の鞄やこいつの虫取網とか、荷物を運ぶのを手伝ってくれ」

「なんで私がそんなことを……」

「頼む」

「……………………分かったわ」

 わがままを通している状況ではないと思ってくれたのか、かなり思い悩んだ末に了承してくれた。

 泣き終えてようやく落ち着いた子供を抱え、家の場所を訊きながら峰倉と共に歩く。まさか再び肩を並べて歩く日が来るとは思っていなかった。おそらくはこいつも同じことを考えているだろう。

「ここだよ」

 十分ほど歩いた後に、子供がとある家を指差した。塀から玄関先までは数メートルの距離があり、敷石に水滴を落としながら敷地内を進んだ。

「すみませーん!」

「はーい!」

 玄関前で家人に呼び掛けると、中から女性の声が返ってきた。

「もういいわよね」

 数秒も待てば出てくるだろうと思っていたその時、峰倉は俺の鞄と子供の荷物を玄関先に置いた。

「私はこれで失礼するわ」

「あっ、おい!」

 そしてそのまま立ち去って行く。後ろ姿に声をかけたが止まりはしない。

 塀の向こうへ行って姿が見えなくなったところで、母親とおぼしき人物が玄関の戸を開けた。

「おまたせしましきゃあ!」

 驚かれるのも無理はなかった。全身ずぶ濡れの男子高校生が、同じく全身ずぶ濡れの子供を抱えて玄関先に立っているのだ。尋常な光景ではない。

 峰倉のことも気になるが、今はこの女性に状況説明をするほうが優先だ。

「突然すみません、実は……」

 俺は事態の経緯を整理して、簡潔に要点を説明した。女性は終始驚きっぱなしだったが、やがて情報を整理し終えたのか深々と頭を下げた。

「うちの子がたいへんご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。おかげさまで助かりました、ありがとうございます」

 偶然居合わせたから助けられたものの、俺や峰倉が近くに居なかった場合は手遅れになるところだっただろう。

「この子を下ろしたいのですが、玄関まで入ってもいいですか?」

「もちろんです。いつまでも抱えていて重たいですよね、気が利かずにすみません」

 脇に避けた母親を横切り、玄関に子供を寝かしつける体勢で下ろす。

「病院に連絡したほうがいいかもしれません。大きな怪我は見当たりませんが、素人の判断なんてアテにならないので」

「はい、すぐに電話します」

「では、俺はこれで」

 要件は伝え終わったので玄関から出たのだが、母親はまだ満足していないといった様子で俺を呼び止めた。

「すぐにお風呂を沸かすので、身体を温めていってください。服も乾燥させます。これぐらいのことはさせてください」

「風呂は俺よりもその子が優先です、早く入れてあげてください。あぁでも、患部はお湯につけないほうが良いでしょう」

「ですが!」

「それに、一緒に助けてくれたやつがさっさと居なくなってしまったんですよ。そいつのことが気になるので俺も失礼します」

「……分かりました。お引き止めして申し訳ありません。ですが、せめてあなたのお名前だけでも教えてもらえませんか?」

「希條です」

「希條さん、ですね。この度は本当にありがとうございました。もう一人の方にも、何卒お礼を伝えてもらえれば」

「分かりました」

 短い言葉を残し、頭を下げる母親に見送られながら塀に近付いた。玄関の扉が閉まる音を聞いて、誰もいなくなったことを確認して声を出す。

「終わったぞ」

「そのようね」

 俺は、峰倉の鞄の端が塀からはみ出ていることを見逃さなかった。こいつは玄関先から立ち去りつつも、塀の向こうで会話を聞いていたのだろう。

「関わるなと言っていたのに、私から関わってしまって悪かったわね」

「悪いなんてことあるかよ。ここに居たなら聞こえてただろ、感謝してたぞ」

「…………」

「俺からも言っとく。一人じゃどうにもならなかった。ありがとう、助かった」

 素直にお礼を伝えると、峰倉は唇を噛んで不機嫌さを表した。

「あなたのために助けた訳ではないわ。さっきの母親共々、感謝なんてしないで」

 峰倉は表情を険しくして俺を睨み付け、それだけ言い残すと今度こそ本当に立ち去ってしまった。

「……分かんねぇヤツだな」

 人助けを通じて多少は印象が良くなったのも束の間、いつもの不機嫌さを取り戻して拒絶されてしまった。あいつは何をしたいんだ。

「人に関わるなとか言うくせに、自分から関わりにいくのは良いのかよ」

 感謝はするなと言いつつも、危機的状況に迷うことなく助けに入ってきた。他人と関わりたくないというのであれば、俺と子供を見捨ててもおかしくはない。

 何て言うか、和樹達に対する態度と違和がある。いや、態度は同じか。行動が矛盾している気がする。

 深く関わったら死ぬ? だから関わらない? だけど子供は助ける。そして感謝はされたくない。

 行動に一貫性を感じられなかった。それとも、俺の思考が足りていないだけなのだろうか。

 理由も目的も分からないが、峰倉が何かの信念を下に言動を選択しているのは間違いない。

「それはお前が望んでる選択なのか……?」

 聞こえるはずもない背中に問いを投げ、寂しげに去っていく姿をいつまでも見守っていた。



 帰宅して祖母に制服を洗濯してもらい、シャワーで身体を温めた。制服はドライヤーを使えば明日までには乾くだろう。

 電気代の心配をしながら部屋に戻ると、外からガラス窓をコンコンコンとノックされた。

「誰だ?」

 家のチャイムが鳴らされるわけでもなく、部屋にピンポイントで俺に訪ねてくる人物に心当たりが無い。不思議に思いながらも近付くと、そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべている煌森先輩がいた。

「……」

 正直、窓を開けるかどうか少しだけ迷った。家にまでやって来るというのは、何か特別な用事があるのだろう。

 けれど相手は煌森先輩だ。その余裕そうな笑顔には何か裏を感じる。

 しかし無視する訳にもいかないので、不満を顔に出さないように心がけて窓を開けた。

「ボクの相手をするのは不満かい?」

 開口一番に図星を突かれてしまった。俺の葛藤は無駄だったらしい。

「顔に出したつもりは無いんですけどね」

「人の感情はなにも顔だけに表れるわけではない。手の動きから足の運び方まで、全身に細かい情報が散りばめられているのさ」

 ほら、もうすでに悪い予感が的中している。

「分かりました、俺の負けです。で、どうしたんですか?」

「ちょっと込み入った話をしようじゃないか。付き合ってもらいたい場所があるんだ」

「敗者はおとなしく勝者に従うのみですよ」

 たとえ断ったとしても、どうせいろいろと理由を重ねて強制連行されるのは目に見えていた。だったら始めから適当に付き合うほうが得策だろう。

 玄関に移動して靴を履き、扉を開けると煌森先輩が待ち構えていた。

「行こうか」

「はい」

 素直に隣を歩きながらも、一応疑問に思ったことを訊いておく。

「何で家の場所を知ってるんですか。あそこまで付いてきたことは無いですよね」

「錦織村に希條姓の家はキミのところしかないからね」

「わざわざ調べたんですか……」

「いや、元々知っていたんだよ。そもそも村に住んでいる世帯数は多くないから、全家庭の名字と家の場所を記憶しているよ」

「いや、さも当然のように言わないでくださいよ。何ですか、そんなことの記憶に時間を費やすって、先輩は暇人なんですか」

「暇……という訳ではなかったけれど、出来ることが限られていたからね。村のことは何でも知っているよ。工事中の道や、事故が起こりそうな危険な場所とか……ね」

 そう言いながら煌森先輩は立ち止まり、前方を指差した。

 遠目にも何を示しているのかが分かるその場所は、先ほど事故が起きたばかりの水車小屋がある。幾人もの人が集まっており、何が起きたのか現場検証中だった。

「先輩はあの水車が近いうちに壊れるって知っていたんですか」

「さすがにどのタイミングになるかまでは分からなかったよ。子供がほぼ真下に居たあの瞬間だったのは肝を冷やしたけれど、偶然キミが居合わせたおかけで助かったじゃないか。お疲れ様」

「…………」

 確かに運良く最悪の事態は回避出来た。

 けれど、それを煌森先輩にねぎらわれるのは納得がいかない。

「……何で、先輩が事件の内容を知っているんですか」

 俺が水車を支えている時、応援に来てもらえる人物として真っ先に思い浮かんだ人物は煌森先輩だった。とはいえ神出鬼没なこの人でも、いつも都合良く近くにいるとは限らない。その時はたまたま居合わせなかったのかな、とも思った。

 しかし、

「事件を始めから知っていて、助けに来なかったんですか……!」

 子供が危険な目にあっていたというのに、俺の呼び掛けにも応えず傍観していたと言うのであれば話が違う。

「あの時は峰倉が来てくれたから良かったですけど、先輩だってあの場に居たなら助けてくれたって良かったじゃないですか」

「キミの怒りはごもっともだが、ボクにも事情があるんだ」

「事情ってなんですか。子供の命より重要な事情って、なんなんですか……!」

 俺はあの時、どれだけ水車の重みに耐えられるかが分からなかった。もしも峰倉の助けが入らなかった場合、水車は俺と子供を巻き込んで倒れてきただろう。そうなると水面から顔を出せずに呼吸が出来なくなり、溺死していた可能性が高い。

「俺が死にたいってのを知っていても、関係ありません。子供は助けなきゃいけないでしょう……! 始めから見ていたのなら、すぐにでも助けに来れたじゃないですか!」

 俺は自分の命なんてどうなってもいい、そう思っている。けれど、他人の命を軽んじる人間は許せなかった。

 自身でいきどおりを感じながら言葉をぶつける。すると煌森先輩は、こんな状況にも関わらず笑みを一層深くした。

「キミのその目、良いよ。命が輝いている」

「なに訳の分からないことを……!」

「事情は話すよ。その為にキミを連れ出したんだ。ボクもようやく、心の準備が出来たからね」

「そこまでもったいぶるなら、俺が納得出来る理由なんですよね」

「納得してもらうほか無い、といったところだ。気持ちは察するが、ひとまず落ち着いてはもらえないだろうか」

「……分かりました」

 傍観していて救助に参加しなかった理由は想像もつかない。けれど、煌森先輩が何の理由も無く子供を見捨てるなんて思いもしなかった。

 多少の怒りをあらわにしつつも、俺は煌森先輩の人間性を信用していた。

 先走る気持ちを抑えきれずに早足で水車小屋へ向かっていると、煌森先輩は立ち止まって待ったをかけてきた。

「ここで曲がるよ」

 てっきり水車小屋まで行くものと思っていたのだが、どうやら違うようだ。

「この道に覚えはあるかい?」

 十字路を左に曲がり、一度も利用した記憶の無い道を進む。

「いや、べつに……」

「ここは峰倉さんが登下校中によく訪れる道だよ」

「……あぁ。って、分かるわけないですよ」

 そんなことまで逐一覚えてなどいない。

「登校時と下校時の二回、ほぼ毎日ここを訪れているのさ」

「何だってまた」

「気になるのかい?」

「……いえ」

 煌森先輩と話していると調子が狂う。会話の主導権を完全に握られているようで落ち着かない。

 そのまま山の麓まで辿り着くと、一枚の看板が視界に入った。そこには風化した文字で『立ち入り禁止』と書かれている。

 道の両脇の木にチェーンを架けて人の進行を妨げていたが、煌森先輩はそれを気にもめず跨いで行った。

「入ってもいいんですか。おもいっきり立ち入り禁止って書いてあるんですけど」

「良いか悪いかだけでは物事を判断出来ない時もある。そしてこの山に登るのは、必要なことだ」

「正直面倒です」

「本当に正直だねぇ。申し訳ないが、もう少し付いてきてほしい」

 煌森先輩に習って俺もチェーンを跨ぎ、僅かながらも罪を犯している気分を抱いて歩を進める。

 ……あれ、話によると峰倉はこの道に通いつめているんだろう? 山を登っているのかまでは知らないが、途中で目的地になりそうな場所も無かったからこの先へ行っているのは間違いない。立ち入り禁止区域に通い詰めるとは、一体どんな用件があるというのか。

 峰倉と煌森先輩の目的地が同じなのかは分からないが、とりあえず訊いてみよう。

「この山には何があるんですか」

「そうだねぇ……、最後の答えを言ってしまう前に、途中式から説明しようか」

 そう言って煌森先輩は俺の隣に並び、道の先を見つめながら真面目な顔つきで口を開いた。

「六年前、この山で数人の子供がかくれんぼをしていたんだ。当時小学五年生の男の子が鬼で、子だったボクは結構上の方まで隠れに行った。太くて立派な木の上に登っていたのだけど、いつまで経っても見つけてもらえなかったよ」

 六年前……となると、煌森先輩は小学六年生か。小学生の先輩と言えど、この人がかくれんぼなどしている姿は想像も出来ない。

「暇を持て余していると、雨が降り始めた。小雨くらいなら問題無いと思っていたのだが、その判断が甘かったね。あっという間に豪雨になってしまった。これは中止だと判断して木を下りようとしたのだが、雨に濡れた木は滑りやすいんだ。案の定、ボクは足を踏み外して落下してしまった」

 自身の幼さを叱責する声音に、いつもの余裕そうな態度は見られない。

「着地に失敗して足首を痛めてしまってね、ボクは木の陰から動けずにいた。これはどうしたものかと悩んでいたその時、事件が起きた」

 少しだけ強く言われた語尾に、俺の不安感が煽られる。

「当時の錦織村は雨が多く、土が脆くなっていたのだろう。周囲の木が次々と倒れて、山崩れが起きた。逃げられなかったボクは、抵抗も出来ずに巻き込まれてしまったんだ。足場が崩れ、大量の土砂と共に流されたよ」

 煌森先輩は足を止めた。

 俺達の目の前には行く手を阻むように土石流が道を横切っており、自然災害の驚異をまざまざと見せつけている。

「当時のことは今でも鮮明に覚えている。怖くて、寂しくて、痛かった。ボクはここで死んでしまうのだと理解したよ」

 そこで煌森先輩は言葉を区切り、俺の目を見つめてきた。話の感想を求める視線に考えを巡らす。

 先輩がそんな危機に見舞われたなんて知らなかった。けれど俺は、あまり緊迫感を抱いていない。なにせ、話している当の本人がここにいるのだ。最悪の事態を回避したのは分かりきっている。

「それでも、先輩は無事だったんですよね」

 でなければ、この話は辻褄が合わなくなる。

 そう考えていたのだが、煌森先輩はあろうことか首を横に振った。

「先ほどの質問に答えよう。ここには何があるのか。それは、ボクの墓がある」

 煌森先輩は道の脇に置かれていた長方形の石に近付き、しゃがみこんでそっと手を添えた。

 それは通常よりも小さめの墓石であり、正面には『煌森凪』と彫られている。

「…………冗談ですか?」

 信じられる訳が無かった。今の話か墓石のどちらかが嘘でなければ、あり得ない光景だ。

「いいや、全て真実だ」

「では、先輩の名前が煌森凪ではないとか」

「ボクは正真正銘、煌森凪その人だ。同性同名などでもなく、山崩れに巻き込まれて命を落とした、本人だ」

「……信じられません」

 無理もないだろう。私は死んだと話す人間なんてあり得ない。

 けれど煌森先輩の目は真剣で、嘘などついていないと主張している。

「まぁ、簡単には信じてもらえないだろうね。さらに残念なことに、ボクが煌森凪だと証明することも出来ない」

「ドッキリなら、もう少し設定に気を配ったほうがいいですよ」

「気を配ったほうがいいのはキミのほうだ。もしかしたら不思議に思われるかもしれないなどと考えていたが、キミは気にもめなかったようだね」

「なんのことですか……?」

 煌森先輩は墓石から手を離し、立ち上がって俺の近くまで戻ってきた。

「ボクの足元を見てごらん、何か違和感に気付くはずさ」

 言われて足元を見る。が、特に何もない。煌森先輩は俺の影に重なるように立っているが、違和感を抱くものは見当たらなかった。

 と、思ったその時だ。

 俺の正面に立っていた煌森先輩が、三歩ほど歩いて俺の左横に移動した。それにより、影が二人分になる……はずだったのだが、そうはならなかった。

 煌森先輩の足元、と言うより、煌森先輩には影が無い。隣には俺の影がそのまま残っているので、片方だけ影が差されていないこの光景は異常だった。

 影なんて普段は気にしないが、確かに今まで気が付かなかったなんて注意力不足だ。

「さらにもう一つ」

 立て続けに煌森先輩は手を伸ばし、俺の左手を掴んでゆっくりと持ち上げた。そのまま自身の胸元へと近付け、照れも恥ずかしさも一切感じさせずに手の平を押し当てる。

「どうだい、感じないだろう」

 そもそも影が無い時点で尋常ではない。それだけでも動揺を隠しきれていないのに、女性の胸元に手を触れているというこの状況は男子高校生の身に余る事態だ。

「なっ……」

 俺はキャパシティの限界まで動揺していたが、それでも分かる。

「心臓の鼓動が……無い」

「これはボクが死人であるという証拠になるだろう?」

 さらに付け加えるなら、手にも胸元にも体温を感じない。温かくも冷たくもないため、生き物と触れ合っている気がしなかった。

「これでも信じてくれないのなら、もう証拠は用意していないのだがどうだろうか」

「信じます……。信じるしかありません」

「そうかい、それは良かった」

 煌森先輩は俺が納得して満足したのか、掴んでいた手を離して一歩下がった。

 影が映っておらず、鼓動も感じない。加工された映像ならば信じないところだが、目の前でこうも立ち振舞われては疑う隙が無い。

「ボクがこの世で触れ合えるのはキミだけなんだ。他の人には姿が見えないし、声も聞こえない。だから、先ほどの子供は助けられなかった。すまないね」

 煌森先輩は珍しく弱気な声音を出した。己の無力さを嘆く言葉に、俺がかけられる慰めの言葉なんて無い。

「……どうして、俺は先輩と触れ合えるんですか。どうして、俺なんですか?」

「さぁ。それは神様が決めたことだから、ボクにも分からない」

「また神様ですか」

「ボクがこうしてここにいるのは、神様のおかけだと信じてもらえないかい?」

 神様が存在するか否かはともかく、煌森先輩の言い分は信じるしかない。俺がどれだけ疑ったところで、目の前の現象が嘘にはならない。

「今ならこの言葉も信じてもらえるだろう」

「まだ何かあるんですか」

「前に約束をしたよね、キミが知りたがっていることを教えるって」

「……中距離走をした時の話ですね。何を教えてくれるんですか?」

「命の意味について、だ」

「……!」

 通常であれば、どんな言葉を言われようと簡単に信じられるものではない。

 しかし煌森先輩の存在が通常ではない以上、この人の言葉には説得力が生まれる。

 煌森先輩は両手を胸元に当て、厳粛げんしゅくな雰囲気のもとに言葉を告げる。


「ボクが断言してあげよう。命に意味は、無い」


 それは俺が最も信じていた言葉で、最も確定させたくない言葉だった。

「悟りだのスピリチュアルだのと語るつもりは無い。キミの考えた結論通り、人生に意味なんて無いんだ」

 これでは本当に、何故生き物が生きているのかが分からない。

「じゃあ、何でこの世に生命なんて生まれたんですか。生きる意味が無いのなら、最初から生まれる必要が無い」

「それは少し考え方が違う。全ての事柄には因果があるけれど、意味もあるとは限らない。生命なんて、たいした意味も無くたまたま生まれてしまったんだ」

「それはちょっとなげやり過ぎじゃないですか」

「では、この世と一口に言っても世の中というのはどの規模で言っているんだい。地球? それとも、太陽系だろうか? 宇宙の果てまでの広い空間を考えれば、生命体の存在なんてバグみたいなものだよ。それこそ、宇宙にとってはどうでもいいレベルの無意味なバグさ」

 ずいぶんと身勝手な理論だが、反論の余地は無い。

「バグでも良いじゃないか。死にたくないという本能が備わっている以上、キミは生きるしかない」

「……分かりました。そこまで広大な考え方はしていませんでしたけど、俺の考えが正しいってのなら素直に受け入れますよ。生きるしかないってのは釈然としませんけど」

「なら死んでみるかい? オススメの自殺スポットを紹介するよ」

「……結構です」

「よろしい」

 俺が誘いに乗らないことまで想定して発言しているのだから、思い通りに弄ばれていた。

「なら、どうして先輩は死んでもこの世に留まっているんですか。俺から言わせてもらえば、無意味な人生を延長する理由がありません」

「ボクには役割があるんだ」

「役割?」

「あぁ。心当たりはあるんじゃないかな。死にたがりのキミを、故意に関わらせようとした彼女のことだ」

 彼女……ここで峰倉が出てくるのか。

「彼女を救ってほしい。ボクは彼女に関われないから、キミにお願いするしかないのさ」

「……意味が分かりません。救うって、何からですか」

「運命からだ。彼女は運命の歯車が少しだけずれてしまっている。それを正しく修正してほしい」

「ちょ、ちょっと待ってください! 説明が飛躍し過ぎですし、なにより勝手過ぎます」

 何故俺がそのようなことをしなければならないのだろうか。よく分からない不可思議な面倒事に巻き込まないでほしい。

「その話は俺にメリットがありません。そっちの都合で俺を利用しないでください」

「では問おう。メリットは必要かい? 全てが無意味になるのなら、メリットを求めて行動する必要も無いんじゃないかな」

「くっ……」

 自分で思い至った完璧な理論故に、俺はその理論に反論出来ない。

 抵抗する議題を間違えた。論点をずらして別角度から抵抗しよう。

「……意味が無いのなら、救う必要だって無い」

「そうだね。では、何故キミは先ほど子供を助けたんだい。キミの理屈で言うならば、見殺しにしてしまってもよかったはずだ」

「そ、それは……」

 痛いところを突かれた。またも反撃する言葉が思い浮かばない。

「人生は無駄だというのであれば、あの子を死なせてあげればよかったじゃないか」

「それは……駄目……です」

「他人に当てはめず、自分だけに言い聞かせるのは理論でも何でもない、ていのいい言い訳だよ。その言い訳が子供には無効で、彼女には有効だというのは実に都合のいい話じゃないか」

 駄目だ……、口論では煌森先輩に敵わない。言っている内容は酷いものに感じるが、俺の言動を利用して発言しているのだから納得するほか無かった。

「キミは自身にそんな言い訳をしながらも、自分以外の人間が命を粗末に扱うのを許せないのだろう。これはまた、なんともおかしな感性をもっているね」

 思考の矛盾点まで指摘され、俺は完全に言い負けたことを自覚した。

「……降参です。先輩って結構容赦無いですよね」

「キミが人生を甘く見ているだけだよ。ねぇ、キミは気付いているかい」

「何にですか?」

「キミが彼女を利用して死ぬというのは、つまり彼女を人殺しにしようということなんだよ。それは、命を粗末に扱うのを許さないというキミの理念には反さないのだろうか。彼女に命を粗末に扱うような、非人道的な人間になってほしいのかい?」

「あっ……」

 俺は、俺の命について一方的な見方しかしていなかった。俺が死ぬということは、峰倉が俺を殺すということだ。

 俺自身はそれでも構わない。しかし、峰倉に殺人を強いるのは間違っている。

「キミはキミの言い訳で死ねたとしよう。けれど、意図せず人殺しに荷担してしまった彼女はどう思うだろうか。今はまだ少なからず言葉を交わしているし、最低限の交流もある。だが、そんなことになってしまったら完全に心を閉ざしてしまうだろうね」

 俺は自分の理念が間違っているとは思わない。だが、それに相手を巻き込むのは間違いだと思っている。人生の考え方なんて人それぞれで、誰かに押し付けられるものではない。

 自分が死ねればそれでいい、他のことなんて関係無い。そう思っていたのは確かだ。けれど、そもそも俺の理論は俺にしか通じない。他の人には、他の人なりの理念があるだろう。

 生き方に正解なんて無いのだから、俺の理論が正しいとは限らない。


 死。


 それを言葉の上でしか理解していなかった。いや、そもそも理解すらしていなかったのかもしれない。

「俺が……間違ってました」

「それが言えて、人間としてようやく半人前だよ」

「先輩は始めから、俺を殺すつもりなんて無かったんですね」

「当たり前じゃないか。キミが盲目的に死を望む人間でないことは分かっていたよ。ボクだって殺人の加担者にはなりたくない」

 当然といえば当然の心理だった。

「キミの自殺を願う気持ちは、生きていくうえで少しばかり厄介な障害になる。けれど、その気持ちが思いもよらない形で運命に影響を与える可能性だってある。命を捨てようとするキミだからこそ、彼女を救えるんだ」

「さっきから口にしてますけど、峰倉を救うって具体的には何をすればいいんですか?」

「彼女は今、自らの人生に絶望してしまっている。そこに語りかけて、生きていて良かったと思わせてほしい」

「……いや、無理です」

「どうしてだい?」

「どうしても何もありません。俺はカウンセラーでも聖人でもない。他人に人生を説けるような人間ではありません」

 それどころか、多少の自殺願望を持っている以外は常人と何ら変わりがない。

 しかし煌森先輩は俺の反応など想定済みだと言わんばかりに、滞ることなく言葉を返す。

「カウンセラーや聖人では彼女を救えない。彼らには欠点がある」

「欠点?」

「生に重点を置いた話はしてくれるけれど、死に重点を置いた話はしてくれない。対してキミは、死に重点を置いて生きてきた。これは彼らに勝るキミの利点だよ」

「その利点とやらを利用して、峰倉を死に誘えばいいんですか」

「それはちょっと考え方が極端じゃないかい。生き方を説くには、見方は一方的ではないという話さ」

「……なんとなく話は理解しました。けれど、強制はされたくありません。俺の言動は俺が決めます」

 煌森先輩の要求を献身的に叶える理由は無い。俺のこれからの行動が何にどう影響するのかは分からないが、峰倉に人生を捧げなければならない道理なんて無いだろう。 

「あぁ、それでいい。ボクがどれだけキミを頼りたくとも、キミの人生はキミのものだ。強要はしないし、していいものではない」

「もしかしたら、峰倉を救えないかもしれませんよ」

「人生に正解なんて無いのだろう? なら、ボクと彼女の人生が失敗してしまっても意味は無い」

「ここまで口論しておいて、そんなあっさりと諦めてしまえる発言をするんですか」

「諦め……とは違うかな。言うならば、信頼しているからこんな軽口も言えるのさ。ボクは人間の心が素晴らしいものだと信じているよ」

 煌森先輩は再び胸元に両手を当て、慈しみを体現して言葉を続ける。

「ボクも彼女も時間は止まっている。けれど、彼女の時間は前に動かせる。神様が選んだキミなら、きっと良い未来が待っているだろうね」

 穢れ無き想いで人を信じるその姿は、聖母のようだとさえ思わせた。



 生きる理由は無いが、死ぬ理由も無い。不本意ではあるが、俺はもうしばらくこの世にいることになりそうだな。

 しかし、心の片隅では考え続けていた。

 結局意味は無いのかな。俺自身がどう思おうと、無意味に死ぬという結末は変わらないのだから……と。

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