6-1 はじめて雪を見た
エディは生まれてはじめて雪を見た。まだ積もるほどの勢いはない。けれど手を広げると、手袋の上にはっきりと雪の結晶が見える。
吐く息は白くなり、空もどんよりと曇っている。曇り空や悪天候でわくわくしてしまうのは完全に子供の発想だ。
それでもエディは、はじめての雪に心が躍った。
この日、エディとハロルドはアーガラム国王とロードリックから事件についての説明と謝罪を受けた。
正式な謁見ではなく、国王からの個人的な招待というかたちで、同じテーブルを囲む。
ある程度予想はしていたが、今回の事件は大規模な組織――ルガランドの領主や貴族が関わっているものではなかったという。
もし、ルガランド出身の兵が組織立って動いていたら、おそらく王宮警備の抜け穴からの侵入を抑えきれず、アーガラム王宮は占拠されていただろう。
実行犯は重い罪に問われる。
ただし、規律違反をしていた王宮勤めの者たちは、それぞれ減給などの処分で終わる見込みだ。
彼らは昔からあった慣習を継承しただけにすぎない。責任者もこの件を知りつつあえて見過ごしていた。
そして、アラーナは謀反に関わってしまったが、最終的に鍵を開けず、抵抗している。
これらの理由により、重い罪は科せられないこととなった。
今後は、解放すべきところと死守すべきところを明確にし、利便性と安全性の両面で折り合いをつけていく必要があるというのが、アーガラム国王やロードリックの考えだという。
最も難しいのは、ルガランド出身者に対するこれからの扱いだ。
今回の事件を理由に、いつ反乱を起こすかわかったものではないと遠ざけるか、彼らの不満の原因が王宮内にはびこっている不当な差別意識にあったと認めるか――王家は判断を迫られている。
「まずは、ルガランドの有力者と対話の場を設けるつもりだ。少なくとも今回の事件をきっかけに、無関係の者たちがさらなる不満を募らせることだけはないようにしないと……」
やはり、ロードリックは前向きだった。
すべてが明日から変わるなどという実現不可能な夢は語らない。
けれど彼は、王太子として正しく、できるだけ平等でありたいと願っているようだった。
「それにしても、随分と今日の王女は凜々しいな」
必要な説明が終わったところで、アーガラム国王がエディに声をかけてきた。
彼が凜々しいという感想を抱いたのは、エディが男装をしているからだ。
「本日は、文官として参りました。これが私の正装です」
アーガラム国王は、懐の深い人物だった。
エディの男装を見て驚きはするものの、笑って歓迎してくれた。
今日のエディは、ティリーン王国の文官としてこの場にいる。これから会う予定の王太后にも、本当のエディを見せるつもりだった。
前回は、問題になりそうなことを隠そうという気持ちが先んじて、エディもどこかで自分を恥じていたのかもしれない。
今度こそ、堂々と王太后に自分の気持ちを伝えたかった。
国王との話し合いが終わると、エディは王太后の宮を訪ねた。
王太后の宮に向かうのは、エディとハロルド、そしてなぜかロードリックも一緒だった。
「その服装だと、本当に昔と変わらない……。どれだけ謝罪しても足りないが、だからこそ今日も言わせてもらおう! すまなかった、可憐でか弱い女性と見間違えてしまって……」
「あなたという人は! 私はこれでも――」
同じような言葉を、彼は昨日も口にしていた。
もう可憐でか弱い女性に見えなくなったという宣言は、褒め言葉なのだろうか。断じて違うと思ったエディは、今こそロードリックに抗議しようとした。
ところが、ハロルドがエディの耳もとに唇を寄せたせいで、途中までしか言葉にならない。
「わざわざ訂正など必要ありませんよ。あなたがほかの男性からいやらしい視線を向けられるのすら、私には耐えがたい苦痛ですから。ね、エディ?」
エディだけに聞こえる声で、ボソリとつぶやいた。
べつにいやらしい視線ではなかった気がしているエディだが、ここでロードリックを庇うとハロルドが不機嫌になるのはなんとなくわかっていた。
ハロルドにとって、エディが誰かに異性として意識されている事実そのものが苦痛だから、女性だと思われていないほうがましという意味だ。
「……ムッ!」
「どうしたのだエディ王女。早くお祖母様のところへ参ろう!」
いつの間にかロードリックが代表者のように振る舞いはじめる。
「ロードリック殿下はなぜ王太后様のところへ? なにか、ご用があるのですか?」
ハロルドが指摘した。
明日は式典で王太后と個人的な会話をする余裕がないだろう。
明後日は王宮訪問をせずに町へ出かける。三日後の早朝に帰国する予定のエディにとって、今日が王太后と話す最後の機会だ。
エディたちが王太后のところへ向かうのは当然だが、ロードリックにはとくに理由がない。
「……エディ王女が男装でお祖母様と対決するのだろう? 私だって見届けたい」
堂々とした野次馬だった。
ロードリックは、おもしろそうだという理由でついてくるつもりのようだ。エディにとってはいい迷惑だった。
やがて王太后の宮が見えてくる。
数日暮らしただけで、なんとなく親しみを持てるようになったこの宮とも、今日でお別れとなるのだろう。
エディは女官に案内され、王太后が待っているサロンの前にたどり着く。
「お祖母様、エディです」
「お入りなさい」
扉が開いてすぐ、王太后は当然エディが男装であることに気がついたはずだ。孫の服装をじっくりと確認してから口を開く。
「……エディ様は、わたくしより何倍も強情ですこと」
困惑しつつも、怒っている様子はなかった。
いつもと同じで、ソファに座るように促した。
「お祖母様のおかげで私に足りないものがなにか、よくわかりました。それはティリーン王国に帰っても忘れずにいたいと思います。ですが……」
性別を偽らなくなって以降、エディの世界は急激に変わった。
嘘のように自由で、そんなエディに好意を抱いてくれる人たちの支えで、この先もずっと歩んでいけるような気がしていた。
けれどいつか、優しい世界だけで生きるのに限界は来るのかもしれない。
それに備える大切さをエディは王太后から学んだのだ。
「わかっています。あなたの知識も、ありのままのあなたが持っている人徳も……すべては無駄ではないのだと言いたいのでしょう?」
「そうです……、それだけはどうしても譲れません」
「この度の件で、エディ様に助けられたのは事実です。……だから、認めねばなりません。あなたのおっしゃるように、わたくしは頭が固い分からず屋、なのでしょう。……フフッ」
ハロルドとロードリックが同じタイミングでエディに注目する。「そんなことを言ってしまったんですか?」、「うわぁ……エディ王女は怖いもの知らずだな……」――言葉にしなくても、彼らがなにを言いたいのか、よくわかる。
「……も、申し訳……ございません」
王太后は首を横に振る。
それから立ち上がり、ソファに座るエディの近くまでやってきた。
「エディ様と一緒にいると、些細な噂や他人からどう思われるのかばかりを気にしていたわたくしが、本当の分からず屋なのだと気づかされるわ」
「お祖母様……?」
膝に置かれたエディの手がギュッと握られる。
王太后の手は細く、頼りない。シワシワで、骨張っている。それでもとてもあたたかい手をしていた。
「また、いらしてね? そして今度はぜひ、メイスフィールド侯爵と一緒にこの宮に滞在してください」
「はい。必ず……」
王太后が手を離す。
エディは名残惜しくてギュッ、と王太后に抱きついた。
いつもの王太后ならば、淑女としてほめられた行動ではないとエディを咎めたかもしれない。
けれど今日は違った。ただエディの頭を撫でて、別れを惜しむだけだった。
エディは、王太后とも家族になれたのだとはっきりと自覚した。
◇ ◇ ◇
後ろ髪を引かれる思いで王太后の宮を去ったエディたちは、迎賓館へ帰るため、王宮内を歩いていた。
帰り道もなぜかロードリックが送ってくれる。
「あんなお祖母様は久しぶりに見た。……私や父上を遠ざけてばかりだから。君はお祖母様の特別なんだ……」
ロードリックはどこかさみしそうだった。王太后が同じ王宮内で暮らす彼よりも、エディと多くの時間を共有していたことに焼いているのだろうか。
エディは知っている。王太后は、息子や孫を誰よりも大切に思っているからこそ、遠ざけたのだということを。
「お祖母様のお気持ちを勝手に語っていいものかわかりかねますが、それは違うと思います」
完全に余計なお世話だとわかっているのに、エディはつい考えてしまう。
そんなに自分を追い詰めて、孤独でいる必要などないのに。
もっと甘えて、親しい誰かに頼ればいいのに。
最善でなくてもいいから、笑っていられる道を歩んでくれたらいいのに。
かつて一人ぼっちだったエディだからこそ、強く願うのだ。
「どういう意味だ?」
ロードリックが立ち止まる。
「お祖母様はご自分の評判をとても気にしておられました。ご自分のせいで、国王陛下が臣から侮られるのではないか……? ということを」
「いつも助言をして、父上を……この国の政を、影から操っているに違いない。つまりそう疑われる事態を避けるために、私たちを遠ざけたという意味だろうか?」
「私はそのように感じました。気になるのなら、ロードリック殿下がお祖母様におたずねになればいいのではないでしょうか?」
「そう……そうだな……一人目の孫は私なんだから。よし、私はお祖母様のところへ戻る! ありがとうエディ王女。また明日、会おう!!」
ロードリックはマントを翻し、颯爽と来た道を戻っていった。
「……あんなに大声を出して走っていったら……王太后様に捕まりそうですね……?」
ハロルドが笑う。
「そう……かもしれない。でもいいと思う!」
がさつだとか、ざまぁみろとか、彼からはひどい言葉をたくさん浴びせられた。
そのくせロードリック本人には悪意がない。エディをライバル視しているだけで、憎んでいるわけではないのが伝わってしまうからずるいのだ。
だからエディはつい意地悪な気持ちになって、いとこの不運を祈ってしまった。
翌日、アーガラム国王の即位二十年の式典は厳かに執り行われた。
うっすらと大地が白く染まる中、国王は次の十年に向けての決意を堂々と語る。傍らにはいつも以上に爽やかで凜々しい印象のロードリックがいた。
ハロルドの予想どおり、あのあと数時間に渡り、ロードリックが王太后に拘束されていたとエディたちが知ったのは、式典後のことだった。
妙にキリッとしていたのは、王太后の指導のたまものなのだろう。
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