4-1 冷たい空気が頬を刺す
馬車から降りると、冷たい空気が頬を刺すようだった。
今朝の屋外はティリーン王国の真冬よりもずっと寒い。これでもアーガラムでは冬のはじまりの季節なのだから驚きだ。
エディは、男装のままアーガラム王宮の奥に位置する王太后の宮へと進んだ。
王太后は一昨日と同じように、ゆったりとソファに腰を下ろしてエディを出迎えた。
「まぁ、エディ様。先日とは別のお方みたいですこと……」
王太后は口元をほころばせるが、目が笑っていなかった。
とくに驚いている様子もない。それでエディは王太后が前からエディの男装を知っていたのではないかという予想を、確信に変えていった。
「お祖母様、ご心配をおかけしております」
促されるままエディもソファに座った。
今日はハロルドもヴィヴィアンもいない。慎重に――と心に言い聞かせた。
「わたくしに見せてくださったお姿は偽りだったのね?」
「決してそうではありません。……いつもこの姿でいるわけではありませんし、友好国の王族であらせられる方々を前に、無礼のないよう振る舞うのは当然のことと考えます」
王子であったとき、エディにとって男装は仕方なくしているものだった。
本当の姿は、天蓋のついたベッドの中にのみ存在していると思っていた。エディはリボンも、ドレスも、花や宝石も大好きなごく普通の少女だったはず。
王子でなくなってからも男装を続けたのは、ハロルドと離婚するため。
そして今では文官としての制服という認識でいるからだ。ジェイラスを支えるというエディの覚悟を示すものである。
男のままでいたいなどとエディは考えていなかった。王女で侯爵夫人の彼女もきちんと存在している。
王太后にはあえて女性らしい部分だけを見せたのは事実だが、偽りとは違う。
「メイスフィールド侯爵もそれを許しているというの?」
「夫は、私に自由をくれる方です」
「自由? 王族に認められた自由と、単なる身勝手は違います」
「お祖母様……それは、わかっています」
「あなたは、育ち方が特殊だったからこそ、誰よりも完璧でなければなりませんよ。今からでも遅くはありません」
王太后は、一昨日も同じような言葉を口にした。
彼女にとって、孫の過去は否定しなければならない恥ずかしいものなのだろう。
きっと周囲が特殊なだけで、一般的にはそう思われて当然だという認識は、エディにもある。
それでもエディは今、過去を否定しないで生きていく方法を模索している。
心を偽って、ただ祖母の言葉を肯定するのはもう無理だった。
「私は王族だからこそ、次期国王であるジェイラス殿下を支えるために責任を果たしたく思います。私のせいで、ほころびそうになったものを直すのが、王族としての使命です」
生まれたときからつかされていた嘘を、誰も罰しなかった。
けれどエディの真実は、王位継承や政を少なからず混乱させた。その責任を取るのは大人たちだとジェイラスはよく言っているが、それでもエディは当事者だ。
だから、少しでも国をいい方向へ導きたいという思いが今でもある。
王子として得た知識を、文官として役立てるという決意は、誰かに否定された程度では揺るがない。
「だとしても、……あなたは王女として、侯爵夫人として至らぬ部分はないとおっしゃるの? そのような格好で剣を振るうあいだに、優先すべきことは一つもないというの?」
「それは……。ですが、お祖母様だって……ずっと国王陛下を支えてこられたのではないのですか?」
女性でありながら、政に積極的に関わってきたはずの王太后ならば……。そんな気持ちから飛び出した発言だ。
けれど王太后には伝わらない。若い息子を裏から操り、支配した影の国王――そう言われていると思ったのだろう。あからさまに顔をしかめた。
「わたくしはかつての王妃であり、今は国母です。その職務に常に忠実でした。……あなたはどうですか、エディ様? 王女であり、侯爵夫人として常に正しくあるというのですか?」
エディの言葉は一歩間違えば、現アーガラム国王を貶めてしまう。王太后はそれをよく思っていないのだ。
彼女はエディに厳しい。そしておそらく自分にも厳しい人だ。
「……至らない部分が多いのは認めます。苦手にしていることは多いです」
「でしたら式典が終わるまで、わたくしの宮でそれを学びなさい」
「え?」
エディは目を丸くした。
男装がバレれば王太后から批判される覚悟はしていたが、まさか隣国の王太后のもとで淑女レッスンをするとは考えてもいなかったのだ。
「ほかに重要なご用事があるのですか? それは、王女としてのあなたにとってなによりも優先すべきことなのでしょうか?」
そう言われると、エディは反論できなかった。
文官としての職務は、こちらに来てからはあまりできていない。明日から式典までのあいだでしたかったことといえば、ヴィヴィアンたちと祭に行くというものだ。
異国の町を楽しむだけの遊びだ。
息抜きが必要だとしても、遊びと祖母との関係――天秤にかけたら答えは決まる。
「お祖母様のお心遣いに感謝いたします。……短い期間ではございますが、よろしくご指導くださいませ」
エディがアーガラム国を訪問した一番の目的は、祖母の理解を得て、自分の性別詐称の件を外交問題にしないことだ。
できれば二国間の友好を強固なものにしたかった。
「よろしい。……それでは、迎賓館へ使いを出してエディ様のお荷物を運び入れましょう」
部屋の隅に控えていた女官に対し、王太后が指示を出す。
「お待ちください。荷物とは……?」
女官が王太后の命を受けて退室しようと動きだす。
エディは焦り、思わず立ち上がった。
「エディ様にはこちらへ移っていただくのですから、当然でしょう」
さっそくマナーがなっていない、と王太后は咎める視線を送ってくる。
エディはもう一度ソファに腰を下ろし、一度大きく息を吐いた。
「それは……夫であるメイスフィールド侯爵とも話し合わなければなりません」
迎賓館から毎日通うのであれば、エディ一人の意思で決定しても問題ないだろう。実際、王太后の考えはエディと相反する部分はあるものの、提案そのものは前向きだ。
けれど、王太后の宮にこれからずっと滞在するとなると、話は別だ。
(ハロルド殿が許すはずない……!)
エディは、キラキラの笑顔の背後になにか真っ黒な霧をまとっているハロルドを想像し、戦慄した。
「あの方がエディ様を甘やかすばかりだから、今のような事態になっているのではないのかしら?」
「そうではありません。……ジェイラス殿下と夫にはきちんと了承を得てからでないと筋が通りません」
「一度帰せば、あなたは式典まで引き籠もるのではなくて? ティリーン王国の代表者や侯爵とは、わたくしが話をいたしましょう。……さあ、時間は限られているのですから、さっそくレッスンをはじめますよ」
エディも、未熟なままの妻を自由にさせすぎているハロルドも、王太后は信じていない。
そして王太后の予想は、的を射ている。
ハロルドがこの件を知れば、血縁とはいえ他国の王族がエディの問題に口を出す権利などないと強く主張するに決まっていた。
絶対に一人で王太后の宮には行かせないだろう。
ハロルドが過保護だから、エディが侯爵夫人としてするべきことを放棄している――そんな王太后の指摘を否定できる強さが、今の彼女にはなかった。
これは、他国の人間であるエディに対する扱いとしては、完全に不当だった。
わかっているがエディには断れない。
なぜなら、王太后は国家のあいだで当然守るべきものをすべて無視してまで、孫としてのエディに問いかけているからだ。
「……それでは、私も夫とジェイラス殿下に手紙を書きますので、一緒に届けてください」
少しだけ時間をもらい、エディはハロルドへ手紙を書いた。
王太后の懸念には、エディとしても理解できる部分があること。王太后の宮に留まるのは、エディの意志であるため尊重してほしいということ。
だからくれぐれも、動かずにいてほしい――そんな内容だ。
エディは実際、王太后が時間をさいてくれるのだから、真面目に取り組みたいと考えていた。
優先順位を間違えるなという部分には、反論できないからだ。
ハロルドと王太后――エディのせいで二人が争う展開は、なんとしても避けなければならない。
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