2-1 旅立ちまでにできること
旅立ちまでにできること――それは、淑女レッスンだ。
エディは日中、いつもどおりジェイラス付きの書記官としての職務に勤しむ。そして侯爵邸に帰宅してから、ヴィヴィアンから淑女のマナーについて学ぶ。
隣国訪問が決まってからそんな生活を続けて四日後。はじめての休日が訪れた。
この日は朝から国王に謁見する場面を想定しての、立ち居振る舞いの確認をする予定だった。
ハロルドは、片づけなければいけない仕事がたくさんあるとのことで、午前中は書斎兼執務室に籠もるという。
「エディ様。午後からは私と一緒にダンスのレッスンをいたしましょう」
朝食を終え、さっそくヴィヴィアンと空き部屋に移動する直前、ハロルドが声をかけてきた。
「忙しいのなら、ダンスのレッスンより執務を優先したほうがいいと思う」
今のエディは自分の役割を果たすために行動するべきだ。
だから、レッスンを中止してエディ自らハロルドの手伝いをしようとは思わない。けれど、明らかに忙しいのにハロルドを付き合わせるのは申し訳ない。
「いいえ、男性のパートを踊れるものがいないと効率が悪いでしょうし、私のほうは問題ありません。あなたの夫は、それなりに有能ですよ」
エディを安心させるため、彼は笑ってみせた。
「今の言葉、そなたらしくないぞ!」
ハロルドが有能なのは疑いようがない。けれど、たとえ真実だとしても自画自賛をするタイプではない。今の言葉は、エディを心配させないための強がりに思えた。
案の定、彼の笑みが困惑に変わる。きっと、図星なのだろう。
「……でしたらエディ様。あなたの夫はこうと決めたら絶対に曲げない性格なのもご存じですよね?」
忙しいのを認めつつ、それでもダンスのレッスンについては譲らない。そういう宣言だ。
「わかった。なるべく短い時間で終わるように、私も頑張る」
時間が惜しいときに、押し問答を繰り返しても不毛だった。誰か――夫であるハロルドには、甘えたり、頼ったりしていいのだとエディはもう学んでいるはずだった。
ハロルドはエディの言葉に満足し、執務室のほうへ歩き出した。
ハロルドがいなくなったところで、エディたちも部屋を移動して、淑女レッスンを開始した。
空き部屋には、ティリーン王国の謁見の間を参考にして、玉座に相当する場所に椅子が置かれている。
本番は、おそらくジェイラスにエスコートされるはずだが、今日はニコラが代理を務めてくれている。
ニコラの腕に軽く手を添えて、エディは部屋の中央に敷かれた絨毯の上を進む。
玉座に見立てた椅子には扇子を持ったヴィヴィアンが座っている。
エディは、少し離れた場所で立ち止まり、淑女の礼をした。
「アーガラム国王陛下におかれましては、ご即位二十年の節目を迎えられましたこと、お喜び申し上げます。また、このようなめでたき慶事の場にお招きくださった陛下のお心遣いに感謝申し上げます」
挨拶を言い終えたエディは、ゆっくりと顔を上げる。
するとヴィヴィアンは持っていたセンスをパタリと折りたたみ、廊下へと続く扉のほうへビシッ、とそれを向けた。
「ダメダメですわ、王女殿下。残念ですが……お辞儀も言葉も、もっとゆっくり丁寧にしてくださいませ。最初からやり直し!」
ただドレスの裾を抓んでわずかに腰を落とす淑女の礼。それから短い挨拶。この部分だけでも、すでに四回目だ。
「そうは言うけれど、ヴィヴィアン殿だって先ほどから扇子をビシッ! と私に向けてくるじゃないか」
ヴィヴィアンも優雅さが足りていないとエディは頬を膨らませた。
「……わたくしは、必要なときに淑女になれるからよいのです」
ヴィヴィアンはゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、普段の活発そうな印象がスー、と消え去った。それからエディに手本を見せるために、ドレスの裾を少しだけ摘まみ、お辞儀をした。
伏せ目がちな瞳は、睫毛の長さが強調される。挨拶を終えて目が合うと、同性のエディでもドキリとしてしまう。
男性だったら、彼女とダンスを踊りたいとか、もっと話をしたいと考えてしまいそうだ。
「――どうです? わたくし、これでも歴史あるメイスフィールド侯爵家の娘ですもの!」
扇子をバッ、と広げてヴィヴィアンが自信ありげな笑みを浮かべた。
確かに完璧なお辞儀だったが、一瞬でいつもの彼女に戻ってしまい、幻になった。
けれどエディは、そんなヴィヴィアンが可愛らしいと思った。
「うん、よかった。とても参考になる。……でも、私は普段の元気なヴィヴィアン殿のほうが好きだな」
「うぅっ! 王女殿下はまたそうやって……」
ヴィヴィアンが真っ赤な顔をして怒っている。
「なにかしてしまったか?」
「もういいですわ。早く続きをいたしましょう」
エディはツン、と横を向くヴィヴィアンに促され、ニコラと扉の付近まで移動した。
こういうときのヴィヴィアンは、どうせなにも答えてくれない。それに大して怒っていないこともなんとなくわかっていた。
それからお辞儀を続けて五回目、ようやくヴィヴィアンから合格点がもらえた。
「では、続いて……マーティナ王太后から、茶会に招かれたときの対応です。こちらは、難しいですわよ。なにせ決まった台詞では対応できないのですから」
ちょうど、午前のお茶の時間だ。今日は小春日和だった。
レッスン用に使っていた部屋からは、侯爵邸の庭園へ出られる。木陰の下にはテーブルと椅子が置かれている。そばにはグレンダがいて、色とりどりのお菓子が並べられていた。
「うん、わかった。気合いを入れて頑張る」
「違いますわ。『精一杯、努めさせていただきます』でしょう?」
もう王太后との茶会を意識しての発言をしてください、という意味だ。
「精一杯、努めさせていただきます……ヴィヴィアン殿」
「よろしいですわ。では参りましょう」
ヴィヴィアンはくるりと庭園のほうを向いて、歩き出す。
エディは、変わらずエスコート役を代行しているニコラと並んで、それに続いた。
(ゆっくり、優雅に歩くんだ……大丈夫、忘れていない)
油断すると淑女の倍の速さで歩いてしまうため、エディは先ほどのレッスンを思い出しながらお茶の準備がされたテーブルまでの道を歩む。
「王女殿下は、秋のお花ではなにがお好きでらっしゃるのかしら?」
この質問は、エディにとってそんなに難しいものではなかった。
花は昔から好きで、花言葉もそれなりに詳しい。誰かに花を贈るために、花言葉を調べるのは男性でも自然だ。
だから第一王子だった頃のエディも、花に関する本は好んで堂々と読んでいた。
「秋でしたら、ダリアの花が好きです。……ほら、このお庭にも咲いています」
エディはゆっくりと花壇に近づいた。
色とりどりのダリアは、切ってしまうよりも、この場所で眺めていたほうがより美しい。
「白のダリアの花言葉は『感謝』。ニコラにぴったりの花だと思います」
「え……、私ですか!?」
「今日も私のレッスンに付き合ってくださっているので、感謝のしるしにさしあげたいくらいです。ですが、こうやってほかのお花と一緒に咲いているところが美しいので、今は眺めるだけにしておきましょうか」
どうせ、嘘を言ってもボロが出るのだ。だから、本当に感じていることを丁寧な言葉遣いに直すだけでいい。エディは少し腰をかがめ、しばらく色とりどりのダリアを見ていた。
「そもそも、女性に花を贈る役割はあなたではないはずですが……と、突っ込みを入れたいですが、まぁ王女殿下に多くを求めても仕方がありませんわね。合格です」
ヴィヴィアンからの質問は、移動中の雑談という課題だったのだ。
「あら……、わたくしったら」
そのとき、ヴィヴィアンの手もとからポロリと扇子が落ちた。開かれていた扇子は、秋の風を受けて遠くまで転がっていく。
エディはとっさにそれを追いかけて、拾い上げる。
幸いにして地面は乾いていたから、多少の土埃を手で払うだけで、ヴィヴィアンの扇子は無事だった。
「ヴィヴィアン殿、ほら! 壊れてないぞ」
エディは拾った扇子を一度たたんで、また開いてを繰り返し、要の部分の破損を確認してから、ヴィヴィアンに手渡す。
「ち・が・い・ま・す! 今のは、王女殿下がどう対応されるか確認するために、わざと落としたんですの。そんなキラキラした笑顔でごまかしても、大股で走っていった事実は消せませんわ」
「……えぇ? 命と淑女と、どちらが大切なんだ?」
拾いに行けなくなるほど遠くに飛ばされる前に回収できたのだ。
緊急事態まで淑女でいなくてはならないのだろうか。エディは納得できずに唇を尖らせる。
「えぇ? じゃ、ありませんわ。扇子は命ではありません。王女殿下は基本的に女性にお優しいのです。それは美徳ではありますけれど、なぜ率先してあなたが拾いに行くのですか?」
「一番身軽だから、効率がいいだろう?」
普段から剣術の鍛錬をしているエディは、この場に集まる者の中でずば抜けて俊敏だ。
「きっと、王子様気質が染みついているのですよ。王女殿下とわたくしは、年齢も立場もほぼ同じ……。わたくしが落としたものをあなたが〝大股で〟追いかける必要はどこにもありません」
「大股を強調しないでくれ! ……いいえ、強調しないでください。次回からは、あくまで優雅に拾いに行くようにいたします」
「そうしてくださいませ。……ですが一つ、言っておきたいのですが、本当はわたくしだって、急いで拾いに行ってしまう王女殿下のほうが好きなんですから!」
ヴィヴィアンはそれだけ言って、歩き出す。
エディはパートナー役のニコラと顔を見合わせ、同じタイミングでにんまりと笑ってしまった。
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