6-4(最終話)
「……ん……?」
気がつくと、そこはエディの部屋だった。
瞼が重く、やっとの思いで目を開ける。部屋の暗さから、もう日が落ちたあとだとわかった。
「エディ、大丈夫ですか?」
「やしき? ハロルド、殿……?」
まだ、口を動かすのに普段の倍の力が必要な感覚だった。
エディはおぞましい記憶と同時に、ハロルドが助けてくれたことも思い出す。指先が震えるのは、毒の影響か、それとも恐怖心からか……。
「ええ、私です。慣れない場所にいるのは不安でしょうから、医者の許可を得てお連れしました」
「……わたし、どくを……また……」
あれが命を奪う目的で使われたものではなかったのは察していたが、それでも怖かった。
エディは進んで毒を飲んで、自分の体が蝕まれていないか今でも不安を抱いている。
今回、フォーブスに飲まされたのだとしても、もっと男の危険性を認識していれば、こんな目には遭わなかった。――そう考えると後悔ばかりだ。
「あれは、あなたの体の自由を奪う目的で使用されたものです。医療行為の際に、患者が暴れないようにする目的でも広く使われています。毒ではありません」
毒と薬に差などない。薬も多用すれば毒となるのだ。
ハロルドの言葉はエディを不安にさせない配慮だった。そして彼は根拠もなくその場限りの励ましをする人ではない。ハロルドの言葉は誰よりも信じられる。
「うん……、ありがとう……そなたがいなければ、わたし……」
服を脱がされそうになっただけで、最悪の事態は免れた。なぜハロルドがタイミングよく現れたのかは知らないエディだが、とにかくほっとしていた。
「私だけの力ではありません。今回は女官たちが機転を利かせてくれた結果です」
「女官?」
「マーサ・ハットン殿と、南の宮の女官も……危機を察して私を呼びに来てくれたんです」
それからハロルドは、ハットンの訪問を受けてからの出来事を詳しく説明してくれた。
エディはベッドの上に座った状態でクッションにもたれながら、その話を聞いた。
すこし慣れてくると舌のしびれから解放される。疲労や怠さはまだ残っているが、なにも知らないでいると、あの鳥肌が立つような感覚が戻ってきて恐ろしかった。
だから、どうやってハロルドが助けて、あの男が今どういう状況にあるのかを知るのは重要だ。
「そう、だったのか……」
南の宮の女官たちが連携して、知らせを出し、証拠保全をしてくれた。
フォーブスやカーシュ夫人に逆らう力を持たない彼女たちが、精一杯エディのために動いてくれたのだ。
思い起こせば、客間が使える状況にあると言った女官は、不自然なタイミングでいなくなったのだ。
言葉を発せない状況で目が合ったのは、気のせいではなかった。けれど一つ、エディは疑問に思うことがある。
「あなたには、彼女たちが助けてくれた理由がよくわからないのでしょう?」
「うん」
よほどわかりやすい表情をしていたのだろうか。ハロルドはまたエディの心の内を言い当てる。
「マーサ・ハットン殿は、以前エディ様に心ない言葉をぶつけたらしいですね。そのときのあなたの堂々とした態度に心を打たれたようです。それ以来、王宮勤めの者のあいだの一部では、エディ様は人気者なのですよ」
「……なぜ、あんなので好意的になるのか、よくわからない」
たしかに、ジェイラス付きの女官も侍従も、エディに優しかった。けれど彼女としては、脅しが効いたからという解釈をしていたのだ。
降嫁してからはじめて王宮を訪問した日。エディはやりたい放題の悪妻を演じたはずだった。確かに間違ったことは言っていないのだが、侯爵である夫の身分を笠に着た発言だったのに、なぜ――。いくら聞いても、よくわからなかった。
「エディ」
急にハロルドがエディを抱きしめる。
彼に抱かれると、清潔な石けんとお日様の香りがする。一番安心できるエディの居場所だった。
「……あたたかい」
「最悪の事態を免れたのは、あなたの力です。あなたの以前の行いが、彼女たちを突き動かしたのだから。きっと、心の強いあなたに憧れる者はたくさんいるのでしょう」
「それを言ったら、事件も……」
フォーブスがあんなことを企てるきっかけになったのも、同じようにエディの行動が原因ではないのか。
最初に仕掛けてきたのはあちらからであり、エディは追い払っただけだ。それでも、もう少し控えめにするか、徹底的に叩きのめしておけばこんな事態にはならなかった。
「違います。気色の悪い逆恨みですよ」
悪い出来事は他人のせい、よい出来事はエディの普段の行いが招いたもの――そんな都合のいい解釈をして、ハロルドはいつも妻を甘やかすのだ。
「あの男やカーシュ夫人はどうなる? 夫人はどこまで知っていたんだろう?」
「……カーシュ夫人は、なにもご存じなかったようです。それでどうしてあの男とエディ様が二人っきりになる状況を許したのか、理解に苦しみます」
「そうか、ならカーシュ夫人は」
ふわふわとしていて、夢の世界に住んでいるような人だとエディは感じていた。
近い将来にやって来るジェイラスの治世において、夫人が害悪となるのは以前からわかっていた。けれど、将来どころではなく、今まさに夫人の存在が障害となっていた。
それでも直接悪事を働いたわけではないから、罰を受けることなどないのだろうか。
「いいえ、罰を受けていただきます。あの男を王宮に上げたのは、夫人ですから。推薦したものには、その責任がある。しかも、ご自身の宮の中で、夫人付きの侍従が事件を起こしたのですから」
侯爵家として正式に抗議し、夫人の処分を求めるのだろう。
相手は実質的な王妃だから、一歩間違えば国王の不興を買う危険な行為だ。
「うん、あまり無理をしないでくれ」
エディは以前にそうしろと言われたとおり、彼の背中に腕をまわした。ギュッ、としがみつくと一方的な関係ではないのだと認識できて心が落ち着く。
「大丈夫です。私はあなたを守るため、無茶をしないように躾けられていますから。……さあ、もう少しお休みになったほうがいい」
彼はまた自分を飼い犬に例えた。エディに対しては、どこまでもプライドのない青年だった。
ハロルドに促され、エディは再びベッドに横になる。
彼は真横に置いてある椅子に座り、しっかりと手を握ってくれた。
「ハロルド殿……。私は負けない。これから先、あの男のような考えを持つものはまた現れる可能性がある。……だから、次はもっと気をつける。信頼できる者を増やして頼るようにする……でも――」
こんなことでエディは夢を諦めたくなかった。回復したらすぐに書記官の仕事に復帰するつもりだ。
そういう決意は揺らがない。けれど、どれだけ強くあろうと心がけても恐怖心はある。
「――今だけ、いっぱい甘やかしてくれないか?」
「仰せのままに……」
彼はエディが望めば、いつでもぬくもりをくれる人だった。
ハロルドと一緒ならば、エディは怖い夢を見ずに眠れる気がした。
◇ ◇ ◇
翌日、侯爵邸はジェイラスの訪問を受けた。
「申し訳ございませんでした、姉上。あの男を母に返したのは、私です」
一晩眠ると、エディの体は軽くなった。
ゆったりとしたドレスに着替えて、応接室でジェイラスを出迎える。
真面目な弟は、ソファには座らず、立ったままで謝罪の言葉を口にした。
「ですが、ジェイラス殿下に決定権がなかった幼い頃に選ばれた侍従でしょうから、殿下に罪があるとは思えません」
「いいえ。私の侍従からはずすときに、次に預ける者を見誤ったのは、私の判断ミスです」
「では、ジェイラス殿下はどうされるおつもりですか?」
きっと彼の責任の取り方は、彼の次期国王としての資質が問われる。
「母と、それから父上にも責任を取っていただきます。私は人事を刷新し、次期国王としての職務をまっとうします」
ジェイラスはただ謝罪をするのではなく、職務をまっとうすることで、失敗を取り戻すという決意を語る。
エディは臣としては心強く、姉としては誇らしく、その言葉を受け止めた。
「もうカーシュ夫人の処分は決まっているのでしょうか? それに国王陛下も……?」
「はい、母には修道院へ入っていただきます。都から追放し、離宮での生活を強いたところで、それではただの隠居だ。母が役立てるとしたら、もう奉仕活動に従事していただく以外にないと考えました」
どこかの離宮に追放しても、彼女にとってはただの隠居にしかならない。
おそらく神に仕える身となって慎ましく暮らすこと、それから国王と離れることが、私的な理由で国益を損ねた罰になるのだ。
「でも、国王陛下がそのような処分をお許しになったのですか?」
離宮への追放ならば、定期的に会いに行ける。けれど、修道女となればそれすら叶わない。
「息子としての責任で、強く進言いたしました。これは父上の罪でもあるのです。臣たちも厳しい処分を望んでいますので、父上も頷かざるを得ません」
結局、エディの件も含め、根本的な原因は国王にあるのだ。
愛妾と離れることが国王にとっての罰となる。
「国王陛下に迫ったのですか……? ジェイラス殿下は強くなりましたね。姉として、あなたの成長を嬉しく思います」
「姉上」
「私は明日からまた、書記官としての任に戻りたいと考えます」
誇らしい次期国王を支える存在になりたいというエディの夢は、まだはじまったばかりだ。嫌いな男のせいで挫折するのは、絶対に許せない。
「姉上だって、強いですよ。昔から、私の憧れでした」
エディが決意を語ると、ジェイラスは近くまで歩み寄り、握手を求めた。エディはそれに応じ、彼の手を握った。
物心ついたときから、彼のほうが長身だったが、エディにとってはあくまで弟だった。
握った手のたくましさは、彼が立派な次期国王に成長していることを教えてくれた。
◇ ◇ ◇
「エディ様、本当にそのお姿で出仕されるのですか?」
いつものように支度を手伝ってくれているニコラが、妙に困惑している。
それもそのはず、今朝のエディは久々の男装だったのだから。
「うん。女性文官にふさわしい服装というのは、私が決めればいいと考えたんだ。あぁ、でも……」
エディはベッドに置かれているラベンダー色のウサギを手にした。人形の首に巻かれている紫紺のレースリボンをスルリとほどく。
それから髪を一つにまとめて、リボンで括ってみた。
「うん、やっと髪をまとめられる長さになったな」
整髪剤を使わないと、時間が経てばポロポロと落ちてきてしまうが、エディの髪はやっと一括りにできる長さになった。
想像していたのとは違う使い方のような気もしたが、そのリボンはエディにとてもよく似合っている。
支度を終えてから、いつものようにダイニングルームに行く。
ヴィヴィアンは口をパクパクとさせて、ハロルドはまったく動じることなく、男装のエディを出迎えた。
「おはよう。……この姿、どう思う?」
エディが自信ありげに腰に手をあててみると、ハロルドはまなじりを下げた。
「凜々しくて、可愛らしいですよ。さすがはエディ様です」
「そうだろう。私の戦闘服にしようと思う」
性別を隠す目的ではなく、それでも動きやすい男装が、文官としてのエディが選んだ闘うための服装だった。
ヴィヴィアンは頭を抱えているが、ハロルドの反対はなかった。
彼はそういう人だという確信があったから、エディは迷わず信じた道を進めるのだ。
「ですがエディ様……」
「なんだ?」
「お休みの日、私の前だけでもかまいませんので、贈ったドレスにも袖を通してくださいね」
「うん。そなたの前でだけというのも、なかなかいいだろう?」
ヴィヴィアンがブツブツと文句を言っている最中、メイスフィールド侯爵夫妻は、今日も仲睦まじく、朝の時間を過ごすのだった。
エディの男装は、王宮勤めの者たちから驚かれたものの、比較的好意的に受け入れられた。
けれど一ヶ月ほどすると、ジェイラスのもとへ『メイスフィールド侯爵夫人の男装禁止』についての陳情が数件寄せられた。
曰く、『女官をしている娘が会員活動ばかりに熱心で、婚期を逃してしまいそうなのでどうにか男装をやめさせてほしい』というものだった。
エディはその陳情書に『そんなもの、男のほうが私より魅力的になる努力をすれば解決する』という回答を添え、不受理の印鑑を押したのだった。
おわり
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