6-2

 エディが王宮に出仕するようになってから、十日が経った。

 この日、ジェイラスは視察のため不在だった。エディが同行すると、護衛の数を増やさなければならないという理由で、彼女は留守番を任された。


 ジェイラスが不在でも、エディにはするべきことがたくさんあった。

 女官のマーサ・ハットンが常に控えていて、喉が渇けばお茶を、お腹が空けばチョコレートを用意してくれる。

 時々、他部署の文官が書類を持ってやって来る。それを受け取り、必要ならジェイラスとの面会の時間を押さえる。そんなふうに過ごしていたのだが――。


「カーシュ夫人からの誘い、か……」


 ハットンが、カーシュ夫人付きの女官から手紙を預かってきた。

 手紙には、ジェイラスが不在ならば、暇だろうからお茶の時間を一緒に過ごそうと書かれていた。


「どうなさいますか?」


「行ってくる! ……夫人とは直接話をするべきだと前々から思っていたところだ。まったく、私は職務で王宮に上がっているのだ! 話があるのならまず休日を確認するべきではないのか」


 ジェイラスが不在なら暇だと決めつけられたことに、エディは憤る。

 話をしたいからといって、好きに呼びつけるのは言語道断だった。

 カーシュ夫人は下級貴族の出身であり、今でも身分は低いままだ。自身が国王の愛妾となってから、その父親が男爵位を得ている。

 当然、侯爵夫人であるエディのほうが、ずっと身分が高い。だから本来ならば呼び出しに応じる必要はないのだが、それは建前である。

 実際には、国王が王宮に部屋を与えて、王妃に準ずる扱いをしているのだから、臣もそれに従う必要がある。

 だからエディとしても「用があるなら、そなたが来い」とは簡単には言えないのだ。


「いい機会だ。……夫人にはいろいろ言ってやりたいことがある。楽しいお茶会になりそうだな」


 夫人を格下として扱うのは許されないが、へりくだる理由もエディにはなかった。

 彼女を諫めることができるのは、国王とジェイラス、同性ではエディだけだ。しかもジェイラスですら、夫人にはどこか甘いところがある。

 悪気がないからといって、なんでも許されるわけではない――つまりエディは説教をするために申し出を受け入れることにしたのだ。


 約束の時間の少し前、エディは一人でカーシュ夫人のところへ向かった。

 夫人は南の宮と呼ばれている場所で暮らしている。ティリーン王国の王宮内には大小十を超える数の建物が存在している。

 小さな建物ではあるが、一つの建物がまるごと夫人の居住空間となっているのだ。――もちろん、正式ではないものの、ほぼ国王の私邸と同じ扱いだった。


 宮の女主人――アビゲイル・カーシュは、少し垂れ目で優しそうな印象の女性だ。エディの王子時代から、挨拶や当たり障りのない会話をする程度の関係で、一対一で会うのははじめてだった。


「エディ王女殿下――いえ、失礼いたしました。メイスフィールド侯爵夫人がいらっしゃいました」


 夫人付きの女官の案内で、エディはサロンに通された。


「一度エディ様とは、ゆっくりお話をしてみたかったの。ふふっ」


 挨拶程度の仲だとしても、夫人から敵意を感じたことは一度もない。どこかふわふわとしていて、夫人の中では敵や悪人など誰一人として存在しないのではないかと思わせるほどだ。

 だからこそジェイラスと夫人には、甘い蜜を吸おうとする者が寄ってくるのだろう。


「カーシュ夫人、それは私も同じですが――」


「まぁ! 嬉しい。最近のジェイラスはどうかしら? なんだか避けられてしまって……反抗期なのかしら?」


 エディは、「職務で王宮に出仕しているのだから、私的な誘いはやめてほしい」と咎めるつもりで訪問したのだ。

 けれどそれを言い出す前に、カーシュ夫人の話がはじまってしまい、圧倒される。

 エディはしかたなく、出されたカモミールティーに口をつけ、心を落ち着かせた。


 エディは女性同士のおしゃべりの場というものをほぼ経験していない。

 ニコラやヴィヴィアンは話好きではあるものの、エディはいつも二人との会話で苦痛を感じたことはなかった。

 もともと苦手意識のある相手との会話は、エディが考えていたよりも精神をすり減らす。


 政の邪魔をするな、血縁を甘やかすなときっぱり言うつもりだったのに、雑談が終わる気配がない。


(悪い人ではない……それは間違いないのだが……)


 国王は彼女のどこに惹かれたのだろうか。もしかしたら、政のことをまったく理解しない部分がよかったのだろうか。

 私的な時間くらい、面倒な話を一切せずに癒やされたかったのだろうか。

 エディがついそんなふうに考えたくなるほど、カーシュ夫人は自由だった。


 嫁いで早々、国王から冷遇されていたエディの母は隣国の王族だった。かつてのエディがそうだったように、極端に私的な感情を押し殺していたのではないか。

 少なくとも、嫁いだばかりの頃はそうだったはず。でなければ、愛してもいない相手に嫁ぐわけはないのだから。

 自身が王族としての役割に徹しているのに、夫が愛するのはただの〝女〟だった。

 その絶望が、狂気を生みだしたのかもしれない。


 エディの心の中には、悪意や醜い感情がたくさんある。

 この女性と話していると、そういった思いを抱いている自分が、とても狭量に感じてしまう。だから、カーシュ夫人が苦手なのだとエディははっきり理解した。


「先日、フォーブスとエディ様が喧嘩をしてしまったと聞きましたが?」


「喧嘩……ですか?」


「ええ、違うのかしら? なんだかあなたを怒らせてしまったと聞いているのだけれど」


 エディはいつも偉ぶっているが、身分の低い者を蔑んでいるわけではない。奉仕されるのが当然だと思っているのとも違う。

 王女で侯爵夫人だから――と身分を笠に着た感情は持ってはいけないのだと思っている。

 それでもつい、考えてしまうのだ。

 侯爵夫人であるエディと、ただの侍従であるフォーブスのあいだに喧嘩は成立しない、と。

 相手が身分の高いエディだったから不敬というだけで終わったのだ。

 エディには男の発言に反論する力があった。もし、立場の弱い女官に同じ発言をしたら、それは完全な犯罪であり、最低な男のすることだった。


 そろそろ我慢の限界に達したエディは、カップをソーサーに戻し、夫人にきっぱりとあの一件は喧嘩ではないと言おうとした。


「……あ、れ……な……」


 ところが、急な目眩に襲われる。まずは舌が痺れ、冷や汗が噴き出す。少し遅れて、体から血の気が引いていき、力が入らなくなっていく。

 気がつけば、ソファに横たわり、身動きが取れなくなってしまう。


「まぁ、エディ様? どうされましたの? 誰か! 誰か来て」


(……毒? カーシュ夫人が……? そんな人ではないと……見誤ったか……)


 体の自由は利かないのに、まだ意識ははっきりしていた。

 明らかになにかの毒を盛られたとしか考えられない。テーブルの上に菓子があったが、エディは食べていない。


 だとするとカモミールティーだ。


「どうなさいましたか?」


「あぁ、フォーブス。大変なの……エディ様が体調を崩されて」


「それはいけませんね」


 聞いたことのある男の声と名だった。今、男について話していたばかりだ。


「ばかな……そな……た……なぜ……?」


 ぞわりと鳥肌が立つ感覚。体が動かないというだけで、今起こっているのが現実なのか夢なのかが曖昧になる。

 エディは意識を集中して、男の様子を眺めた。ニヤニヤと笑いながら、近づいてくる。


(ばかなのは私だ。……なぜ王子付きから外されたこの男の配属先を確認しなかった……本当に……愚かだ)


 左遷されたフォーブスを使いたがる者はいない。

 推薦したカーシュ夫人のところへ戻し、彼女に管理責任を負わせるのは自然な流れだった。


 エディは、常に警備が行き届き人目のある王宮内で、命の危険にさらされる可能性はないと考えていた。

 けれど数少ない例外的な場所が王族やそれに準ずる者の私的な部屋ではないのか。

 エディはかつて毒殺の当事者だったのに、優しい人たちに守られて、油断していたのだろうか。


 それでも、やはりおかしい。エディには確かに、男に恨まれる理由がある。

 フォーブスはエディに対し無礼な振る舞いをしたせいで、ジェイラス付きの侍従から外されたのだから。

 そのエディがジェイラス付きの書記官に任命されたら、逆恨みだとしても憎まれるのは当然だった。


(なんで……こんな場所で……)


 この場でエディが死亡すれば、真っ先に疑われるのはフォーブスだ。

 それに、カーシュ夫人の責任は免れず、たとえフォーブスが犯人だという証拠がなかったとしても彼は後ろ盾をなくす。

 だからやはり、カーシュ夫人の私室でエディが暗殺されるのはおかしい。


「エディ王女殿下。……どうなさったのですか? 医者を呼びましょうか?」


 ソファで横たわるエディに、フォーブスが近づいてくる。

 急速に体から力が抜けていくというおかしな症状のままでは、それを阻むことができない。


「近、……よくも…………、ゆる、さ……」


 近づくな、よくも私に毒を盛ったな! 絶対に許さない――そう言おうとしても声にならない。意識はあるのに体にまったく力が入らないという状況だ。


「持病……? 王宮にいらしゃったときからの……?」


 エディの声は一番近くにいるフォーブスにしか届かないのだろうか。ボソボソとした声を拾ったと見せかけて、男がエディの言葉をねつ造する。


「……ちが……」


「カーシュ夫人。エディ王女殿下は、以前から患っておられる持病で、休息が必要なようです。私もジェイラス殿下を通じて多少王女殿下のご病状は存じ上げておりますゆえ、心配ご無用ですよ」


「まぁ! では休んでいただけるように部屋を用意いたしましょう。客間はすぐに使えるわね?」


 サロンの中にいた、女官二人と視線が合った気がした。エディは目配せすらうまくできない状況で、自らの危機を伝える術がない。

 女官の一人は、客間が使えることをカーシュ夫人に伝えてから、足早に部屋から出て行ってしまう。

 もう一人は紅茶のカップを片付けはじめた。これでは証拠が消されてしまう。


「ええ、そのほうがいいでしょう。このフォーブスにすべてお任せください」


「ありがとう頼りになるわ。二人が仲直りをしてくれたら嬉しいの。フォーブス、失礼のないようにね」


 エディはゾッとした。まるで、具合の悪くなった彼女を介抱すれば、わだかまりが解消されるかのような発言だった。


「は……なせ……」


 せめて、声だけでも上手く発せられたのなら、拒絶できるのに。

 毒を盛った犯人に、エディは抱き上げられ、そのまま別室へと運ばれる。

 途中、女官の誰かが同行しているようだったが、フォーブスが用を言いつけて、追い払った。この宮でも彼はカーシュ夫人との血のつながりを利用して、他者を従えているのだ。


 ただ気持ちが悪く、悪寒がしてどうしようもない。


「さぁ、こちらでお休みください」


 なぜ、体が動かないのか。

 なぜ、声が出ないのか。

 なぜ、男は医者を呼びに行かないのか。

 なぜ、首もとのボタンに手が掛けられたのか……。


 わからないことだらけでも、この状況が男によって故意に引き起こされ、そしてエディの望まない結果をもたらすものだというのはよくわかった。


 震える腕を懸命に持ち上げ、男を遠ざけようとするが、まったく意味がない。


「……あぁ、王女殿下の涙は美しい。しゃべらない人形ならば最高ですよ……。口を開くと最悪ですがね」


「きも……わ……」


 ひたすらに気持ちが悪い。エディはこの先起こりうるいくつかの可能性を考え、恐怖した。


「殿下は体調不良で倒れられ、介抱されたことに感謝をして、私に褒美を与えたのです……ははっ! なにせ、爵位を持たぬ私ですから王女殿下の命令には従うしかないのでしょう」


 介抱されたことに感謝し、体を許した――そんな筋書きだ。


「……う、ぅっ」


「あとから、どんなに合意はなかったと言い張っても、それは侯爵閣下に対する言い訳の演技でしかないし、説得力が皆無ですね? ――あなたは侯爵さえも傅かせる女性なのだから」


 盛られたのは命を奪うための毒ではないと推測できても、なんの喜びもなかった。

 エディには流れる涙を止める力すら残されていない。


(ハロルド殿……助けて……助けて!)


「王女殿下が悪いのですよ。ジェイラス殿下をそそのかし、私を王宮から追い出そうなどと企むから。どうせやめさせられるのなら、道連れは多いほうが愉快だ……ハハッ!」


 声を出して笑うフォーブスの表情は歪んでいた。

 エディがもし、王宮内で不貞を働いたとする。それが同意だったのか、無理矢理だったのかは他人からすればどうでもいい。

 王宮内で職務中にふしだらな行為に及んだら、間違いなく出仕はできない。

 やはり女性の文官など取り立てるからこんなことになったという結論に至り、エディの夢は叶わなくなる。


「さて……そろそろ完全に効いている頃合いだろうか……」


 きっと、ハロルドにも嫌われてしまう。

 絶望的な気持ちになっても、気を失うことすら許されない。エディは無力だった。

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