3-6

 遠乗りで疲労を感じたエディがそろそろベッドに入ろうとしたところで、ハロルドの訪問を受ける。

 彼も疲れているのだろうか。初日と二日目はエディが熟睡したタイミングを見計らって忍び込んでいたのに、もう堂々とやって来るようになってしまった。


 エディはその図々しさに腹を立てつつ、眠気に勝てず、ベッドにもぐり込んだ。

 体の大きな彼のために、場所を半分空けてやる。


「今日は楽しかったけれど疲れた。……ハロルド殿も早く寝たほうがいい」


 エディはトントン、とシーツを叩き、不本意ながらここで眠っていいのだと伝えた。

 彼は部屋の明かりをいくつか落としてから、エディのほうへ近づいてくる。


「なんだ? 重――」


 エディは気を遣って、ハロルドが寝られる場所を用意している。けれど彼は空いている場所ではなく、エディの上に覆い被さってくる。


 いったいなんの嫌がらせだろうかと彼に問いただそうとした。

 ところが、ハロルドはエディとの距離を詰めて、唇同士が触れあった。

 口づけをされたのだと一応認識できたエディだが、理由がわからず混乱する。


「私が隣にいることに、三日で慣れるのはいくらなんでも早すぎますよ。エディ様」


 ゆっくりと離れたハロルドは、なぜか怒っている。

 いくら言っても、彼はエディの私室に入ってくるのだ。無駄な拒絶は互いに疲れるから、抵抗をやめただけなのに、理不尽だった。


「――今、口づけをされたみたいなんだが」


「ええ、しました」


「そうなのか……」


 頬が熱くなり、心臓の音がうるさい。それから胸のあたりがギュッと詰まって、喉が苦しい。

 ただ唇同士が触れただけだというのに、熱が出たみたいだった。


「なんだか、嫌だった。今度許可なくそんなことをしたら許さない。怒るからな……」


 この胸のザワつきは不愉快だ。だからできるだけベッドの端によって、彼に背を向けた。

 するとハロルドがエディの腹のほうへ腕をまわして引き寄せた。

 ここ二日ほど、眠っている最中にそうされたときは、ぬくもりが心地いいとさえ感じていた。けれど、目が覚めているときはだめだった。

 胸のあたりが痛くて、なぜこんな気持ちになるのかわからない。ただ彼のせいでそうなっているのだということだけはわかっていた。


「……誰も見ていないのに、こんなことをする必要があるのか?」


 毎晩ハロルドがやってくるのは、離婚の理由を奪うためだったはず。

 だったら今の行為にどんな意味があるのだろうか。


「人に見せつけるのは悪趣味ですが、あなたがお望みなら明日からは皆の前でもいたしましょう」


「嫌だと言った! 最初から離婚したいと話したじゃないか」


「私に離婚するつもりがないのもご存じのはずです。エディ様は、なぜそこまで拒むのでしょうか?」


「だって、損しかないだろう? 不幸になるぞ」


「なりません。エディ様の幸福は、金や地位で手に入れられるものではなかったはず。私も同じです」


 もし身分や財産があることで誰かの心を手に入れられるのなら、どんなによかっただろうか。

 そんな世界があったとしたら、偽りだったとしても第一王子と呼ばれていたエディは、誰よりも幸せでなければおかしい。実際にはいつも一人で、秘密を打ち明けられる者すらいなかった。


「それは……」


 彼の言葉はそうやってエディをすぐに傷つける。

 見たくないものから目を背けるな、聞きたくない言葉に耳を塞ぐなと言っているようだった。

 けれど完全に突き放すわけでもない。頼るべき相手は誰なのかを教えようとしている。


「もう少し、あなたはいろいろなものを望んでもいいはずだ。なぜ、なにも望まないのが正しいと思っているのか理解できません」


「そちらこそ、なぜ私にこだわるんだ。……私のことなんて放っておけばいいのに……」


 ハロルドさえいなければ、エディの心は穏やかでいられるのではないか。

 そんな結論に至りそうなほど、妙な気分だった。そこまで酷い言葉を投げかけられてはいないし、むしろ彼はエディのことを一番に考えてくれている。

 わかっているのに、泣きそうな気分だった。


「考えてください。なぜ私があなたを庇ったのか。それから、どうすれば私が幸せになれるか――」


 これ以上聞いてはいけない。誰かに守ってもらう権利など、なにも返せないエディにはない。だというのに、ハロルドはそんな彼女をどこまでも否定する。

 まわされている腕を全力で振り払い、エディは急いで身を起こす。

 力では彼に敵わないが、不意打ちだったためなんとか逃れることができた。


 そして彼女は、そのまま部屋の外へ走り出す。


 裸足で寝間着という格好で廊下に出るのは、ほめられた行為ではなかったが、このままでは取り返しがつかなくなりそうだった。


 向かったのは西側にある部屋だった。


「……ヴィヴィアン殿!」


「ちょ、ちょっと……夜更けにノックもなしに。それでも王族ですか?」


 ヴィヴィアンは、鏡台の前に座って、長い髪の手入れをしていた。

 すぐに立ち上がり、腕を組んで頬を膨らませる。


「すまない。今夜はここに匿ってくれ!」


「どうしてですの?」


「ハロルド殿が。私を困らせて、いじめて、ぜんぜん寝かせてくれないんだ……。今日は久々に体を動かして疲れているのに……」


 扉が再び音を立てる。ハロルドが追いかけてきたのだ。

 エディはもう彼の存在を頭の中から消し去りたくて、許可も取らずにヴィヴィアンのベッドにもぐり込んで、頭から毛布をかぶった。


「疲れているのに、寝かせてくれない? ……お兄様、最低ですわ」


「いや、……あの。誤解だ」


「出ていってくださいます? お兄様」


 長い沈黙のあと、扉が閉まる音が響いた。

 エディは恐る恐る毛布の中から顔を出してみた。部屋の中にいるのは、呆れた顔をしたヴィヴィアンだけだ。


「ありがとう。恩に着る。……危うく離婚できなくなってしまうところだった」


 ハロルドの言葉は、魔法のようにエディの心に深く入り込む。

 あのまま流されていたら、後戻りできない決定的ななにかを聞かされるのではないかと不安だった。


「男って、ほんとうに仕方のない生き物ですこと」


 フー、とため息をついたヴィヴィアンは、また鏡台に向かい、今度は肌の手入れをはじめた。

 細工の施された瓶を取り出して、中の液体を顔に塗りつける。すると、わずかに薔薇の香りが広がった。

 鏡台にはたくさんの瓶が並べられている。エディは興味を持って、ベッドの中からそれぞれの用途をヴィヴィアンにたずねた。

 ヴィヴィアンは、面倒くさいと言いながらも律儀に答えてくれた。同じものがほしいのならば、買い物に付き合ってくれるという。

 同じ歳のはずだが、姉がいたらこんな会話をするのだろうかと思うと、エディは嬉しくなった。

 先ほどまでの胸の痛みはいつの間にか消えていた。


「なんだか楽しいな。私には友と呼べる者がいないから、離婚が成立したら友人になってくれないか? 手紙を書くから……」


 修道院に行けば、自由に出歩けなくなるだろう。

 それでも手紙くらいは書けるはずだ。


「そうですわね。離婚が成立したら、友人になりましょう。今のところ、あなたのほうがお姉様なのですから、もっとしっかりなさってくださいね」


「うん、わかった……おやすみなさい、ヴィヴィアン殿」


「おやすみなさい、王女殿下」


 ヴィヴィアンの自分磨きの時間は長かった。

 エディは本当に疲れていたのだろう。鏡台に向かうヴィヴィアンの後ろ姿をぼんやりと眺めているうちに、いつの間にか眠りについた。

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