イマリの冒険⑨

 内臓が浮き上がる感覚。背筋を走る悪寒。


 一瞬の無重力を体感した僕は、


「うわあああああああ!!」


 叫びとともに落下した。


 死に物狂いで腕を伸ばすが、後ろに倒れるような姿勢で落ちているせいで、手の届く範囲は全て空気だ。


 下は芝生。石畳じゃないだけまだマシだけど、このまま落ちたら間違いなく……。


 そんなのは絶対に嫌だ!


「手がだめなら……足でっ!」


 タイミングを見計らい、ぎりぎり足先が届く距離に来た枝を蹴りつける。


 反動を利用して、体操選手のように身を捻った僕は、足から落下するよう体勢を整えた。依然として後ろ向きだけど、垂直落下ではなくなったし、これで背中や頭から落ちることは回避できる。


「あとは……」


 足先に全神経を集中する。


 迫る緑色の地面。


 足の裏が地に触れた瞬間、膝を極限まで柔らかく使って衝撃を吸収。同時に両手で頭を庇い、倒れこみながら尻、腰、背中を無理なく接地させる。


 最終的に、ボールのように丸くなった僕はものすごい勢いで地面を転がり、


「ぅあだっ!」


 校舎に両手を強打して停止した。そして、ころんと横に倒れる。


「~~~~~~~っ!!」


 庇ったとはいえ、頭にも相当の衝撃と痛みが伝わってきて、僕はしばらくの間悶絶していた。


 だけど。


「い、生きてる……」


 恐ろしさなのか喜びなのか、自分でも分からない体の震えを実感しながら、僕は信じられない思いで呟いた。良かった。大家さんの『なんかやべー!ってときの対処法』を真面目に聞いててほんとに良かったっ!


「ありがとうございます、大家さん」


 あなたのおかげで僕は今生きています。全身がびりびりしてて、いまいち力が入りづらいけど、とりあえず生きてます。


「僕が普通の人間だったらどうなってたんだろ」


 想像してみる。うん、確実に骨は折れてただろうなぁ。


 やってるときは無我夢中だったけど、我ながらものすごく無茶をしたと思う。もう二度とやりたくない。


「はっ。あいつは!?」


 マキノフはどうなったんだ? 頭上を勢いよく振り仰ぐ。


「うわあっ!」


 窓から顔を突き出して、マキノフが僕を見下ろしていた。


 見てる。ものすごくこっち見てる! 諦めてないよあれ!


 目を逸らしたら負けな気がした僕は、固唾を呑んでマキノフの動向を見守った。まさか、飛び出してきたりしない、よね?


 ごくり。


 睨み合いが20秒ほど続いたあと、マキノフは静かに首を引っ込めた。穴が開いた風船みたいに、僕の全身から力が抜けていく。


 助かった。今度こそ諦めてくれたみたいだ。これでお弁当を――


「届けられ……?」


 右手、無し。左手にも、無し。そういえば僕、お弁当持ってないなぁ。


「#$%&*☆Ш(゜口゜)!?」


 言葉にならない驚きってこのことだろう、というくらいに驚いた僕は、頭が真っ白になった。


 あれ? 待って。僕はいつからお弁当を持ってなかったんだ?


 必死に記憶を手繰り寄せる僕。


 マキノフに追い詰められたとき。両手で抱えてた。


 飛び降りるとき。口に銜えてた。


 落ちたとき。……叫んでた。


「ってことは……」


 僕は自分が掴まり損ねた木を見上げた。よ~く目を凝らすと、枝に引っかかっている四角い物体が見える。


「あそこかぁ」


 地面に激突しなかっただけ幸運、だったのかな。不幸中の幸いと言っていいのかどうかは微妙なところだけど。


 僕は木の傍まで歩み寄り、思案する。蹴ったら振動で落ちてこないだろうか。試しにやってみよう。


「てい!」


 がっ。


「いたい!」


 足のダメージがまだ回復してなかった。僕の馬鹿……。


 思いっきり蹴ったのに、中庭の木は涼しい顔をしている。その頑丈さはさっき発揮して欲しかったよ、と僕は恨めしい思いに駆られた。


 そのとき。


 僕の周囲にさっと影がさした。まるで雲が隠れたときのように。


 こ、この巨大なシルエットは、まさか……。


 油の切れた機械のようなぎこちない動きで、僕は振り返った。当たって欲しくない予想ほどよく当たる、というのは真理なのかもしれない。


 僕の背後には予想通り、マキノフが立っていた。


「あばばばばばば……」


 がたがた震えながら後退りするも、今度は木の幹に背中がぶつかった。それでなくとも満身創痍だというのに、これでは逃げようにも逃げられない。


 お、終わった……。


 マキノフの手が近付いてくる。僕はそれを眺めている。


 父さん、母さん。どうやら僕は、これから本当に怪我人になるみたいです。


 他人事のような思考。大きな手が迫ってくる。目を瞑る気はしなかった。


 そして、力強く何かを掴む音と、誰かの声が耳に響き、


「何をしている? 牧野」


 藍色の髪が、僕の視界に割り込んだ。

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