2話

イマリの冒険①

「よ~し、今日も頑張るぞ~」


 エプロンの紐を結びながら、僕は呟いた。


 このアパートの大家さんに拾われ、居候するようになって一ヶ月と少し。家事があまり得意ではない恩人の代わりに、それらを担当するようになって早三週間。もはや見慣れた台所の前で、僕は朝食の準備を始めているところだった。


 とは言っても、作る料理は一人分だけでいい。部屋の主である大家さんは留守にしているからだ。


 コンロに火を入れ、フライパンを温め始める。その間に、冷蔵庫から卵を取り出し、殻を割って容器に中身を落とす。カカカカッと小気味良い音とともに卵を混ぜながら、僕は三日前のことを思い返した。


 ある日、起き抜けの僕に向かって大家さんは言った。


「ちょっくら修行してくるわ。わりぃけどあと頼むな」

「え?」

「三日かそこらで戻ってくるから。金はテーブルの上に置いといた」

「え? え?」

「二十万くらいあっから、なんかあってもどうにかなんだろ。んじゃな!」

「……………。えぇ~~~~~!?」


 あれからすでに三日が経っている。本当にどうにかなるものだ。考えてみれば、学校に通っていない僕がやらなきゃいけないことは少ししかない。


 前は生活すること自体が目標みたいなものだったから、余分なことをする余裕がなかっただけで。


 充分に温まったフライパンに溶いた味付け卵を半分流し込む。フライパンを傾けて均等に伸ばしつつ、なおも思い返す。


 常識では推し量れない行動を取る大家さん。だけど、それでも最低限の配慮はしてくれているようで、ギコさんやしぃさんには、何かあったら助けてやってくれと頼んでいたらしい。学校帰りに二人が様子を見に来てくれたりもした。


 突飛な部分が多々あるけれど、兄貴肌で基本的に面倒見は良い。というのはギコさんの談。それには僕も同意見だ。でなければ、身元もはっきりしない自分を拾って面倒を見る、なんて真似はしないだろう。


 大家さんに出会ったのは二月の初めごろのことだった。あのときのやりとりは今でもはっきりと思い出せる。


 あれは本当に――



『なんだ坊主。道路に寝っころがってると危ねぇぞ』

 ……。

『死んでんのか?』

 ぶんぶん。ぐ~きゅるるぅ~。

『腹減ってんのか?』

 こくこく。

『親は?』

 ぶんぶん。

『いねぇのか』

 こくこく。

『そうか。ならウチにくるか?』

 こくこく。



 本当に無駄のないやりとりだった。


 そうして連れてこられたアパートが、過去に不法侵入した物件だったのには驚いたが、これも縁というものなんだろう。


 薄く伸ばした卵をくるくると巻いてフライパンの端に寄せ、卵をもう半分流し込む。最初はぼろぼろにしてしまっていた卵焼きも、今は上手く作ることが出来るようになった。


 父さん、母さん。色々と大変なこともあったけど、僕は元気にやっています。






 電話が鳴った。


 朝食を食べ終えて食器を洗っていた僕は、水を止め、濡れた手をエプロンで拭う。居間にある電話の前まで移動した僕は、首を傾げた。


 誰だろう。この時間にかかってくる電話には心当たりがない。


「もしもし」


 不思議に思いながら受話器を取ると、聞きなれた声が耳に届いた。


「イマリ? ギコだけど。今いいか?」

「ああ、ギコさんでしたか。はい、大丈夫ですけど。どうしたんですか?」

「ちょっと頼みたいことがあってさ。イマリ、このあとなんか用事ある?」

「いえ、特にないですよ。頼みというのは?」

「ああ、弁当持ってくるの忘れちまって。わりぃんだけど、学校まで届けてくれないか?」

「お安い御用です。任せてください」

「ほんとゴメンな。今月ちっと出費が多くってさ。鍵の場所は分かるよな?」

「はい、覚えてます」

「学校の住所は分かるか?」

「大丈夫です。すぐに持っていきますね」

「ありがとう。急がなくていいから、くれぐれも気ぃつけてな」

「はいっ!」


 ちょうど買い物に出掛けようと思っていたところだ。お弁当を届けた帰りにスーパーへ寄っていこう。確か、今日は○○マートのネギが安かったはず。


 そんなことを頭の隅で考えた僕は、手早く洗い物を済ませてしまおうと、やや早足で台所へ戻っていった。






 冒険というには全然物足りないけれど、平凡な日々に比べれば充分に刺激的な体験。

 これが、その始まりなのだった。

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