第6話 どうする、上意討ち
宇藤木軍平が黙々と薬草園で働いていたそのころ、旭町で最も見晴らしの良いとされる宿屋の二階から、男が数人集まって外を見ていた。
旭町とはこの小さな国では一番の、茶屋や料亭が軒を並べる地域であり、一日を通して人通りは絶えない。
立派な身なりの男たちは、外から自分たちが見えないよう苦労しながら、下の通りを眺めていた。さすがに酒を飲むのは我慢し、茶のおかわりを繰り返した。
「きました」男の一人が言った。「山中五十八にございます」
若く、精悍さを漂わせた武士が姿勢良く道を歩いていく。その動きを見ていた浪人風の男が、拍子を見計らって自らぶつかっていった。
「おおっ、危ねえじゃねえか。どこ見て歩いてやがる」
体当たりを仕掛けられた山中は、まじまじと浪人風の髭面をみた。髭は、六尺近い巨軀の持ち主だった。ひとしきり喚いて、彼が刀に手をかけそうになるや否や、山中はぷいと身を翻し何処かへ消え去った。
「なんじゃ逃げたぞ。あれで皆伝か」狸を思わせる顔をした年配の男が言った。
「はあ。正直なやつといえますな」
彼の横にいた痩せぎすの男が返事した。
「限度があろう。喧嘩を忌避するやつが上意討ちなどできるか」
「それも、そうでございます」
「正面切って選びにくいのはわかる。だが、あまりに無駄が多くはないか」
「無駄かもしれませぬ」
「おまえ、考えてものを言え。ただのおうむ返しではないか」狸は怒り出した。
「申し訳ございませぬ。この試みは隠れた名人達者を探すための試みではございますが」今度は向かい側にいた男が言った。「山中の場合は、無益な衝突を避けるのが流派の心得なのでしょう。ただし討ち手には向かぬかと」
「いやー、あれがそうかのう」相手をした男が気に入っているのか、狸は首をひねるだけになった。
「むざむざやられた馬廻の小畑も情けなかったが、逃げるとはな。それより、さっきのあの浪人者を使った方が早くはないか?」
「あれは、他国者をやとっておりますゆえ、上意討ちには……」
「笹子の帰国が迫っているのに、あまり悠長では間に合わぬぞ」
平伏した男が、「あ、御家老、お伝えするのを忘れておりました」
「しっ」家老と呼ばれた男は唇に指をあてた。「あまりそれを大声で言うな。いくらお主たちだけだといってもな」
ひとしきり謝ってから男は、「おもしろい報告が」あがったと言って、家老の耳元でなにごとかささやいた。
「なに、石田か。あの男はまったくもって……」家老が声をあげた。男がまたささやくと、「う、宇藤木」今度は声が裏返った。あわてて行われた追加説明に、「そうか、孫か。死んだ兵部さまは、どうにも苦手であった。えー、孫はたしか……」
「はい。御産品所におります。似たのは丈の高さだけかと思えば、案外やります」
「いまになって宇藤木の孫が石田とつるむとはな。風雲急を告げる世情に、やつも心動かされたか。しかし、石田はまた消えたのであろう」
「はい。逃げ足だけは一流で。それに戊亥衆どもは、いつも肝心のところで役に立たぬ気がします。あれは、わざとではありませぬか。我らの指示にも熱心に従うとは見えませぬし」
「その詮索は後だ。それで宇藤木は腕が立つのか。考えたら肝心の笹子に派手にやられたのではなかったか。四、五年前だったな」
「報告では、笹子一派に雇われたと見られる男が二人、路地に転がされておりました。うち一人はその筋では知られた男だそうで、何人も手にかけたともっぱらの噂だとか。石田には到底そんな真似はできませぬから、これは宇藤木としか」
「ふーむ」
「それに、負けが殿の御前であったために喧伝されてしまいましたが、考えればあの時の宇藤木は、まだ十六、七のはず」
「そういえば、そうだった」
「鍛錬も怠っておらず、前よりは遣えるかも知れません。そして恨みも、さらに強まっている」
「ふむふむ。笹子に勝てるかは知らぬが。柔よく剛を制すのを期待して、あの者を加えるのも、悪いことではないような気がしてきたぞ。一度早急に試してみてはどうだ」
「では早速。腕前さえ間違いなければ、家の落ちぶれぶりといい笹子への遺恨といい、条件は残りの二人にまさるほどです」
「その、理屈では割り切れぬ怨みが、死力を尽くさせるはず」
二人は顔を見合わせ、そろって口が裂けるような笑みを浮かべた。
翌日、昼近くになって急に産品所に使いがやってきた。
軍平は命ぜられるまま、生姜やら枸杞やら珍しくもない品を数種、旭町まで運んだ。行き先は国では知られた料理茶屋だった。
ただ、用は名を名乗って先方に荷を渡すだけですんだ。別に彼でなくても構わなかったろう気もするが、上からの指名とあらば仕方ない。
その帰途、軍平はまたいつもの猫背になって、川べりをゆっくりと歩いていた。夕暮れどきの街は、思ったより混んでいる。というより彼の日常が賑やかさに縁がないだけなのだ。
縁がないといえば、さっき訪ねた店もそうである。
–––– 料理茶屋など何年も上がったことがない。まるで違う国みたいだ。
いい香りのする店内に訪いを入れると、出てきたのは店主だという年配の夫婦だった。
とくに女将は、礼儀正しい無関心さを装いながらも、軍平のかおかたちに多大な興味を抱いているのがよくわかった。
どうせ祖父か、もしかすると父を知っていたのだろう。愛想だけはよくしておいたつもりだが、先方がどう感じたかはわからない。
それよりも気になったのは食べ物だった。
薄暗い店の中を移動していると、お香らしき芳香にまじって出汁みたいないいにおいがした。夜のための仕込みのにおいと思われた。
どんな料理が出るのだろう。上品に小さいのだろうか、豪勢かつ大胆なのだろうか。想像してはみたが、知識と経験に乏しすぎ具体性がないのが残念だった。
考えつつ、とぼとぼと道をいくうち、周囲を歩く商人や職人とは異なる足音が近づいてくるのに気がついた。
これは、剣術を学んだ人間の擦り足だ。軍平の意識に要注意信号が浮かんだ。
「おい、兄さん」かすれ声がかかった。「すまんが、道を教えてくれんか」
真向かいに浪人風の男が、歩きつつ顔を上げた軍平に向けニヤニヤ笑いを浮かべていた。
しかし相手は手を軽く刀にあて、すでに戦闘準備に入っている。害意も十分感じる。必ず、なにか仕掛けてくるつもりだ。
武芸の修行だけは真剣に積んだ軍平は、日ごろの優柔不断さなど忘れたかのように一瞬の停滞もなく異変に対応した。
攻撃のための距離を測っていた相手の機先を制し、そのまま身構えもせずに相手の間合いへと大胆に踏み込み、肩口から体当たりを食らわせた。
軍平の技をまともに受けて、浪人は見事にひっくり返った。とどめを刺そうと相手を見たら、悶絶している。
周りを確かめると、意識のない相手を放置して、軍平はそそくさとその場を逃げ出した。
「あー、けっこう遣えそうなやつだったな」彼は首を振った。「ついやってしまったじゃないか。この前のやくざ者の仲間かな」
そのまま背後の気配だけに注意しつつ、夕闇の中をカネの家の別宅へと帰っていった。ただ、あわてていたため、近くの建物の二階で中年男たちが、互いに驚愕した顔を見合わせていたのまでは、気づくことができなかった。
二日が過ぎた。
急に陣屋への出頭を命じられた軍平は、朝早くから張り切って出かけたが、夕方になって戻ってくるなり、カネの家のはなれに閉じこもった。
「若様、軍平さま」意を決したカネが戸を叩いた。
カネは、祖父の代に行儀見習いに上がって以来、宇藤木家と付き合いがある。結婚してからも、早く母を亡くした軍平に対し親身になって世話をしてくれた。彼女の娘もまた、軍平の家にいたことがある。
軍平が御産品所勤めに移って、喜んでくれたのは自宅の近いカネとその一家だけだった。彼女の夫は苗字帯刀も許されている裕福な百姓であり、カネ一家の生活水準は現在の軍平よりずっと上だった。
「なにかご入用のものはございませんか」
「いや、特にない」
出てきた軍平が、元気はなくても無事なのを見ると、カネは安心した顔になった。
孫の一太が彼女に軍平の異変を伝えたのだ。
なんでも、空に見たこともないほど大きな鳥が飛んでいるのを喜んだ一太が、ちょうど通りかかった軍平に報告した。ところが、いつもなら一緒になって喜んでくれるはずの彼が、こわばった表情のまま通り過ぎてしまった。
一太はそれをいたく気にしているそうだった。
「それは悪かった。役所で少し嫌なことがあっただけだ。また別の日に遊ぼうと伝えてくれ」そういってカネには帰ってもらったが、
(子供に心配されるほどの顔だったのか)と、よけいに情けない気分になった。
戸をしめてから、周りを見回し、やっと軍平は叫んで柱を殴った。
「上意討ちなんて、いつの時代の話だ」
大声で馬鹿にしてみると、少しだけ気が楽になった。
「若様、若様、夕餉を置きます。よろしければ御酒もご用意します」
外からまたカネの声がした。心臓が止まりそうになった。
「すまない。酒は、今宵は無用」と軍平は言い返した。
まさか、あの一家に相談するわけにもいかんしな……。
しかしほかに、彼を心配してくれそうな人間は誰もいない。
まさに四面楚歌だった。
早朝の呼び出しは、てっきり以前に提出した薬草園改築案への回答が出たのだろうと踏んでいた。あとは、二割ぐらいの確率で石田に絡んだ問題で呼び出されたのかもと思っていたが、それは思いっきりとぼけるつもりでいた。ただ、しゃべっただけであるのだから。
ところが通されたのは、これまで入ったことのない奥の部屋で、そこには郡奉行の佐野と一緒に家老の桑田が座っていた。南の御産品所は一応群方の管轄であり、佐野は軍平のずっと上の上司にあたる。それは理解できた。しかし家老だ。
–––– ほい、こりゃしまった。油断した。
あらためて、石田の警告が脳裏に浮かんだ。
桑田は城のある国なら城代と呼ばれる立場だ。つまり殿様についで偉い存在にあたる。いくら小さな国とはいえ軍平の身分では直に話したことなどない。あわてて軍平は床に頭をすりつけるように平伏し、ずるずる後ろにさがった。
家老はその顔を上げさせると、
「なかなか良い面構えだ。いくつになる」
「は、二十一になり申した」
「そうか、そうか。早く嫁をとらんとな」
家老と奉行は声を揃えて笑ったが、いかにも空々しかった。
桑田家老は軍平の祖父をよく知っていたと言い、
「立派な方とは知りつつ、若いわしには怖かった。家を継ぐ前、父の使いで屋敷にお尋ねしたが、ろくに目も合わせられなかったぞ」
宇藤木家が没落のあげく拝領屋敷を返却し、別邸だった家の、それも三分の一に小さくまとまっているのを思い出したのか、家老は口を閉じた。
しばしの沈黙の後、手を振って人払いすると、身体の割に大きな顔を軍平に接近させて、
「おぬしにだけは、隠し立てすまいぞ」といった。
やけに親しげな呼びかけに、首の後ろがチリチリした。家老の顔が巨大な狸に見えたのは、決して妄想とは思えない。
家老はさも大事そうに、つい先日江戸から書状が届いたとうちあけた。
「誰からとはここで口にできぬが、驚くべき内容であった」
(さっそく、隠しごとをしておられる)軍平は心の中で突っ込んだ。
ところが、家老の話はいったん本題からそれ、急変し続ける情勢にいかに藩主と力を合わせ立ち向かっているかについて語り、軍平に同意を求めた。
石田の言っていたような、二人の間の秋風など存在しないかのようだった。主従の心の通い合いを示すやりとりの例をいくつか挙げてくれたが、大仰な口調を我慢するうちに生前の祖父による桑田評が頭に浮かんだ。
「桑田の息子はまつりごとには向いていよう。嘘にまことを混ぜる塩梅がうまい。ただし、歳をとって嘘の量が増えたり大風呂敷を広げ出したら、危ないな」
軍平は心の中の祖父に呼びかけた。
(おじいさま。わたくし、今まさに危機に直面しておるのでしょうか)
彼の胸のうちには気づかず、桑田はさりげなさを装って聞いた。
「そのほう、石田とはまだ付き合いがあるのか」
(そら、きた)
「ついさきごろ、気になる報告があった」と、桑田は言った。
藩主直属の諜報集団である戊亥衆は現在、用人の大井から指示を受けていることは軍平も知っていた。祖父の在世中に戊亥衆の頭だった男、すなわちカネの実兄からの情報であり、間違いはないだろう。彼は執政たちの干渉により意中の人物を後継者とできず、元の世界からすっかり身を引いてしまい、熟練の密偵たちも多くは同じ道を選んだ。
そのため、戊亥衆の情報収集力は往時より格段に落ちたと思われるが、軍平はとっさに、ここは正直に話そうと判断した。
「実は先日、江戸にいるとばかり思っていた石田と、たまたま三穂神社の参道の近くで出くわしました。驚きましたが、それだけです。疎遠になったのは、拙者とやつはかなり、その……」
「禄に差がでたわな」桑田がそう言って笑った。「なに、当人の意見はともかく、あれとわしの考えにさほど差があるわけではない。驚くほど心が広い、というのが世間のわしにたいする評価ではあろうが、それは決して誤りではない」
ここで混ぜっ返すと切腹ものだろうか。
軍平が押し黙っていると、家老は一転して声を潜めた。
「ここ最近、世情がさわがしいのは知っておるな。そのせいなのか、我々の許しを得ないまま国元と江戸を行き来するのが流行っておる。困ったものだ」
家老によると石田もその一人であり、これまではなるべく穏便に済ませてきた。だが、ここまで頻繁だと見逃すのは難しい、と家老は言う。
歯にものが挟まったような口ぶりは、手形を与えているのが江戸にいる藩主そのひとなのだから仕方ない。現藩主は、祖父が用人として仕えた人物の孫にあたる。世代的には桑田よりさらに若く、なにより気質的に大きな違いがあった。
「知らぬこととはいえ石田を諌めず、申し訳ございません」
軍平がとりあえず謝っておくと、
「いや、石田についてはまあいい。それより気になる動きがある」
桑田は、軍平に知らせたかったのは、「笹子彦次郎も近々、非公式に江戸から戻る」ことだと言った。
わずかに赤みが軍平のほおにさした。むろん、笹子に好意を持っているわけではない。正反対だった。人付き合いの狭い軍平だが、聞きたくない名前の筆頭にあるのは、常に笹子だった。
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