第7話 笹子という男

 軍平の因縁の相手、笹子彦次郎は、身分こそ決して高くはなかったが、若年のうちに剣術によって注目を集め、国費で江戸の大道場へ修行に出た。そして、竹刀の扱いよりも人の扇動方法を熱心に学んだ。彼は帰国すると会得した技術を小さな母国で発揮しはじめ、そのうちに三穂野にも伝わった中央の政治熱を利用し、広い年齢層から風雲児と祭り上げられ、二十代のうちに生きた伝説と化した。


 ただし、それは少し前までのこと。軍平のようなさらに若い世代の認識としては、もはや彼は「過去の人」である。実体のなかった攘夷熱が冷めてしまったせいもあるが、笹子をひいきし後ろ盾となった藩主 –––– 軍平の祖父が仕えた人物の息子 –––– は、もともと政治に情熱が乏しく、世情が複雑になるとはやばやとその座を子に譲り隠居してしまった。二年前になる。現在の藩主は、笹子たちよりさらに若いせいもあって彼らとは一線を画し、笹子のカリスマ性と彼を持ち上げた人々の発言力は大きく低下した。軍平だって、無視しようと思えばできる程度の存在となっている。


 しかし、あの男を思い出したくはなかった。二度にわたる因縁のせいだ。

「あやつに含むところはあろう。それは当然だ」重々しげに家老が言ったのはそれを指している。

 一度目は父の死に直接かかわっている。

 祖父の死後、酔うと人に絡む癖をこじらせた父は、よせばいいのに同僚と笹子とのつまらない口論にちょっかいをかけた。そして、双方から突き飛ばされて腰と頭をうち、恥をかいた。翌朝、父は布団の中で冷たくなっていた。

 しかし、これは自業自得だろうと軍平は思い、恨む気持ちは起きなかった。

 ただ笹子が、豪胆さは見せかけだけの、小心かつ嫌な種類の人間であるのはこの件により実証された。父の死後、見習いとしてどうにか出仕をはじめた軍平が、自分への敵意を隠していると笹子は思い込み、彼に嫌がらせを繰り返した。それも履物を隠したり弁当を食べたりといった幼稚な手段ばかりだったため、てっきり軍平は単なる先輩の意地悪と思い込んでいた。


 ところがある日、心配そうな顔の石田に、「おぬし、笹子から何かされていないか。おかしな噂を聞いたぞ」と尋ねられたことで事実がわかった。

 指示は笹子だが実行犯は取り巻き連中であり、酒席で成果を自慢していたという。十代だった軍平は、その幼稚さに怒るよりもあきれてしまった。

 腕力を使ったいじめがなかったのは、十五歳にして六尺を超えていた軍平の体格に加え、同年輩との剣術の対抗試合で褒賞されたりしていたからだ。


 因縁の第二幕目は、例の上覧試合である。

 ある年の暮れ、国元にいた藩主の臨席のもと剣術の対抗試合が行われることになった。

 当初は若い世代中心の顔見せ試合として企画されたはずだったのが、笹子一派の介入によって大幅に内容が変わった。ついには因縁の上覧試合として笹子と軍平の対決がお膳立てされ、軍平は、あえなく完敗した。

 笹子が強敵なのは疑いようのない事実だった。

 しょせん、体を痛めつけるばかりの古くさい稽古ばかり受けてきた軍平の試合技術では、洗練された江戸の大道場で、のべ数千人を相手に技を練り上げた笹子の相手は難しい。当然、笹子自身もそう読んで試合を望んだわけである。

 実際、目の前にした笹子から押し寄せる威圧感は想像以上にすごく、十七だった軍平は即座に遁走を検討したぐらいだった。


 しかし、脂汗を流しつつ対敵する軍平の耳に、ささやき声がした。それは、

「あれを強いと思うか?」と問いかけてきた。なにも答えられないでいると、「ちがうな。弱いものには強く、強いものには弱い。偽物だ」と、またささやいた。意味のはっきりした言葉だったのに驚いたが、それは軍平が胸の奥深くに押し込んでいた妖術からの誘い声だった。

 まだ少年に近く、正しい武芸の道、理想とすべき姿などの架空のお話にひかれ、信じたがった軍平は、このささやきから逃げていたのだ。

 声はこうも言った。

「遠慮するな。手伝ってやる。なんなら奴の命も奪おう。あとが楽だ」

 懸命に抵抗する軍平の姿と見て、はじめ怪訝な様子だった笹子は、次第に嬉しげな顔となり、ついに全力で彼を打った。わざと道具を外し絶息する部位を狙ったのは、笹子の性格のせいと思われた。その結果が御前でのすすげない恥だった。せっかく命を救ってやったのに、とまでは考えなくても、少し遠慮があってもしかるべきだったとは思わないでもない。あとで知ったが、笹子は軍平の剣を陰でかなり研究し、軍平が得意とする大技を仕掛けてくれば、それを利用して彼を不具にでもするつもりだった。

 だが、軍平が声に逆らう姿に隙を見いだし、つい嗜虐的な性質が先走って、結果的に気絶させたということらしかった。


 軍平の複雑な感情の動きには気づかず、家老は芝居掛かった口調で言った。

「のう宇藤木。時の勢いを背に受けると人は大きく見える。あやつもそうだ」

「へっ」

 思わず、家老の狸顔をまじまじと見てしまった。ふたりの仲介でもするつもりかと思ったら、悪口だった。

「おぬしは知らぬかもしれんが、このごろあの男の増上慢は目に余る」

「はあ」

 彼の記憶では二人は一時、かなりの蜜月にあった。攘夷熱の盛り上がったころ、笹子が直に殿様にお言葉を賜ったり、頻繁に国と江戸を行き来できるのは桑田家老の支援あってこそだったのは、家中の人間関係にうとい軍平でも知っていた。

 このごろは、あまり二人にまつわる噂を聞かないとは思っていたが、まさか敵認定したとまでは知らなかった。

 もっと頻繁に情報を更新しておけばよかった、と悔やんでも後の祭りだった。

 家老は重々しく言った。「世の中を渡る風は絶えず向きを変える。しかと読み舟を正しくあやつるのが我らのつとめ。だが、あれは風向きを読まず、あまつさえ舟を沈めようとする輩だ。なんとしてでも止めねばならぬ」


 なにを言いたいのか怪しむ軍平に、

「無罪願流の修行は、続けておるようだな」と家老は尋ねた。

 思わず、「み、ざ、い」と言い返しそうになるのをこらえた。

「なに、隠さずともよい」家老は得意げだった。「かつて君側にあって破邪顕正を助けた願流に、あらためて力を借りたい。むろん今の殿のおんためであり、民草のためでもある」

 家老の魂胆に気付き、急に汗が吹き出て来た。袂を分かった笹子を、軍平に討たせようというわけだ。

(その手できたか)

 石田の警告以来、いろいろと悪い可能性を考えてはいたが、これほどのがくるとは想像しなかった。甘かった。


 軍平の流派は、有名な伝承者も他流相手の華々しい戦績もない。祖父にしても、人前で斬り合いなどしていないはずだ。若いうちから威厳があったそうなので、勝手に周囲が想像しただけだろうと思っている。それに、軍平が笹子に敗北済みなのを知らないわけはあるまい。

「恐れながら拙者の腕前は祖父にも、笹子様にも遠く及びませぬ」軍平は懸命に抗弁した。

「そう己を卑下するな。日々修練を欠かしておらぬのは、わしの耳にもはいっておるぞ」

「しかし」軍平は食い下がった。

「笹子様に劣らぬ剣士はほかにもおいでのはず。なぜ拙者が」

 桑田が不機嫌そうな顔になると、横から郡奉行が答えた。国の有名な剣客はなにかしら笹子とつながりがあって信頼しきれない。それで党派に無縁な軍平の協力が必要なのだという。

「そうだ、さっき佐野に聞いたぞ」気を取り直したように家老が言った。「その方は昔、山岡の娘と因縁があったのだな。命まで助けたそうではないか。一剣を振るって野良犬の群を追い払うとは、なかなかどうして、ただ竹刀で叩き合うだけの連中にはできぬ技ではないのか」


 祖父の晩年、当時はまだ婚約者だった山岡家の娘が近くの山へ墓参りに行き、野犬に取り囲まれたのを軍平が救った。軍平の活躍はともかく、当時は山野を取り締まるべき郡方の怠慢であると一部で問題視されたため、資料に残っていたのだろう。

 救出劇は少年だった軍平の剣技のおかげではない。妖術の力だった。

 そこまで知っているのは彼と祖父だけ、というより軍平もはっきり覚えてはいなかった。しかし、これをきっかけに祖父は彼に技を伝えるのを決心したはずだった。

「のう、宇藤木。その腕で手柄を立てれば山岡の気も変わろう。お前、知っておるか。あそこの娘がまだ何処にも縁付いていないのを。津留とか言ったな」

 久しぶりに津留という名を聞くと、心の中に、なにかが溢れた。



 —— どうしよう。

 この言葉を繰り返しつつ軍平は帰途についた。

 笹子を相手に上意討ちなど、正気の沙汰ではない。そうは思ったが、津留の名を聞くと、いつの間にか了承している自分がいた。

 さすがに家老は狸にそっくりなだけあって狡猾だった。軍平は彼との勝負にも負けた。

 その後、回りくどいしゃべり方で狸家老はいろいろと言ったが、要するに三日ほど後の夜、密かに帰国して仲間と合流するはずの笹子を、待ち伏せて討てということだった。

 彼の罪科もさまざまに聞かされたが、死に相当するかまではよくわからない。熱心に異国および薩長の排斥を訴え、一時は国中を席巻した笹子一党の存在は、なるほど放置すればこの国にとっての命取りかもしれない。しかし漏れ聞いた彼らの「政談」と称する主張はとても首尾一貫しているとは思えず、その都度、勢いがあって格好のいい側に立つだけと思えた。それにあんな程度の低い奴、どこの国にでもわんさといるにちがいない。

 むしろ、幕府が長州との一戦に大敗して以来、おのれたちが負け組に転がり落ちる危険に気づいた重職たちが保身を図ったと考える方が、自然だった。

 ただ、若いが機転のきく現藩主はそのあたり、上手に立ち回っていると石田から聞いている。おそらく事態に追いつけず、じたばたしているのは執政たちの方である。彼らの側に笹子が生きているとまずいことがあるのか、罪を追っかぶせるつもりなのか。どうせ両方だろう。

 最後に家老は威儀を正し、「これは上意である」と唱え軍平の平伏を促したが、上意である証拠などは一切示されなかった。軍平も上意だと宣言されたのは生まれてはじめてだったので、とりあえず平伏してしまった。


 心をおちつかせるため、陣屋を出てから薬種問屋をのぞいたりしているうちに暗くなってきたので、とりあえず義母たちの住む自宅に帰った。祖父の遺品にでも触れたら、解決の手がかりを思いつくのではないかと思ったからだ。だが、冷静になって考えると、今回役に立ちそうなものといえば家にはない。たしか……と考えつつ小さな玄関に立った軍平は驚いた。

 義母の富久が外出でもするかのような、きちんとした格好をして迎えに出ていた。薄化粧までしている。

(なんなんだ、この冗談は)

「おかえりなさいませ」

「な、なにかありましたか、ははうえ」

「まあ、そんなに驚かれてどうしたのです。当たり前のことでございますよ。今日はさぞお疲れになられたでしょう」

 軍平が自室に逃げようとしてもつきまとってくる。そして最後に、聞き捨てならないことを富久は言った。

「このたびは大変なお役目に選ばれるとか、まことご苦労様に存じます」

「ふえっ」思わず声が出た。

 なぜ知っている。おれだって聞かされたばかりなのに。なにより上意討ちは、関係者以外は極秘のはずではないのか。どういうことだ。目の前が真っ暗とはこのことだった。


 

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