第5話 心願の術
(しかしあいつ、おじい様のことをずいぶんよく覚えていたものだ)
軍平は実家の布団の中で長い体を丸めながら、今日の石田との会話をつらつら考え続けた。薄い布団がようやく暖まってきて、同時に心のこわばりも緩み、考えるのを避けていたことがじんわりと頭に浮かんでくる。
石田の知る宇藤木兵部の姿と、軍平のそれとは当然ながら違う。
祖父は忠臣だったのはまぎれもないが、忠義一徹という言葉から連想される単純な人柄では絶対になかった。必要と判断すればひきょうな謀略だってためらわずに駆使したであろうし、
「剣術もうまかったが、鬼道だって上手だったよ」
軍平は布団の中でつぶやいた。そうだ、鬼道だ。もし本気で石田を手伝うつもりなら、必要なのは剣術より、妖術なのだろう。
あのあと、日暮れに紛れて石田は姿をくらませることになった。
「そうだ。これ、持って帰るか」彼の祖父母の墓に備えたのを同じ菓子を軍平は石田に見せた。自宅に持ち帰ろうかと余分に買ったものだった。
「ちょっと、ゆがんでしまったが、あじに変わりはなかろう」
軍平にとってはなにげない行為だったのに、石田はふと横を向いてしばらくじっと黙っていた。
「どうかしたのか」
「いや」幼馴染は、似合わない真面目な顔をして、ぐいと手の甲で顔をぬぐった。そして、
「最後にこれだけ」と、ふたたび軍平に注意を促した。
「攘夷だとか徳川家に殉ずるとか吹いてたあいつらは、表向きはすっかり落ち着いた。その反対側もな。家茂公が亡くなられ、あたらしい大樹になって、なんやかんやで世間の風向きが変わったのは誰の目にも明らかだから、東西どっちらも大人しくしている。だけど油断はするな。表立って喧嘩していたのが、さっきみたいな下請けを使う喧嘩になっただけだ。結局、騒動そのものが好きなんだな」
「そんなものか。まるで別の国の話みたいだ。おれにはとんと縁が」
「だからだよ、軍平。くれぐれも気を付けろよ。おぬしは自ら思うより利用価値がある、どの陣営からもだぞ。知らぬ間に巻き込まれないようにな」
「ありがとう。しかしおまえこそ、気を付けろよ。いまどき金さえ出せば連発銃も手に入るって聞いた。江戸には仲のいい唐物商がいるんだろ、さっさと頼んどけ。俺より役に立つ」
石田はじっと友の顔をのぞきこんで、笑った。ひどく大人びた表情だった。
「おまえらしいな。夢見がちのくせに、妙に現実的で理に適った考え方をする」
「なんだよ、それ」
「連発銃だろ。あれなあ。見たことはあるが、自分を撃ちそうだがなあ」
「そのときはそのときだ。脅しにはなるぞ。おれも見てみたい」
「そうだよな。でも、江戸はなんとかなる。それより、一番油断ならないのは、こっちにいる桑田はじめ家老連中じゃないかと思うぞ。落ち目に違いないが権力はある。奴らが結束したら殿でもそうそうひっくり返せないし、だいいち、悪事を企んでいても、すぐには江戸まで伝わらないよ」
「そうだな。気をつけるよ。なにかあれば知らせるようにはする」
「けどな」石田は急に顔を引き締めた。「桑田は笊みたいな奴で穴だらけ隙だらけ。策謀をめぐらすには足りないものが多すぎる。これはおれひとりの考えだが、組頭とか奉行の中にあいつを指嗾してるほんとうの黒幕がいるんじゃないか。小物なだけに緻密で、ボロを出さず、よけいたちが悪い。突き止めたいんだが、今回はあきらめた。江戸からだとみんな忠臣づらして同じに見えるんだよ」
「ふーん、そんなものか。おれだって、口もきいたことのない相手ばかりだ」
「だろうな。お前に探ってもらいたいのはやまやまだが、これ以上関わらせて、家が取り潰しでもなったらことだから頼むのはやめておく。江戸行きを誘うのもな。しかし、桑田の影に誰が隠れているのかぐらいは見ておいてくれ。なにか起こるのは、そんな遠いことじゃないと思うぞ」
別れる際には、空はすっかり暗く、風も冷たくなっていた。
舟を乗り継いで隣国まで行くと言う石田は、小舟の上から振り返り振り返りしながら去っていった。
最後に、思いだして須恵の一件を話した。すると、この手の頼み事にはいつも無責任に胸を叩く彼が、めずらしく慎重に返事した。
「知ってるかもな、その商人……」
「へえ、さすが顔が広い」
「いや、ある茶会でな、おれの国元を聞いて向こうから声をかけてきたんだ。調べてみるよ。じゃ、また。元気でな。江戸みやげでも送っておくからな」
別れ際に見えた丸っこい石田の背中は、いつものなにやら自信ありげな態度は消え、まるで子供のように弱々しく見えた。
剣技ぐらいで役に立つのであれば、呼び止めて「まかせてくれ、手伝うぞ」と言ってやればよかったのか。
(それとも……)
軍平は、巨漢相手にとっさにかけた技を、あらためて思い起こした。
いや、自分で技をかけたのではない。あの声、そして威力。どう考えても、祖父の残した「もう一つの術」がとっさに出たのだ。あれが常時使えれば……。
百戦百勝の武芸者も恐るるに足らず。祖父は伝えようとした術についてそう言った。しかし、その存在は必ず隠さねばならない。なぜなら、人から見ればその術は間違いなく妖術であり、うっかり人前で使えば即、人外と見なされる。
この不思議の術について祖父はのちに、「心術、あるいは心願術と呼べ」と孫に言った。武器ではなく心を使うからという。ただし、「しんは真でも信じるでも新しいでも良い、字はあまり意味がない」とも教えた。要するに術はこの世に間違いなく存在し、役立たせられればそれでいいではないかということだ。
しかし、軍平は心願術を使いこなすことはできない。
祖父は晩年になって伝えようとしたが、初伝のみ教えただけで世を去った
正しく言うなら、祖父は残りを軍平が自得せよと指示して亡くなったのだが、軍平が放置してしまったのだ。
たしかに今日は声が聞こえ、当身ではありえない威力で敵を倒した。と、いうことは祖父は心願術を孫の身に宿らせるのには成功していたわけだ。
祖父は生前、「お前の学んだ剣術と、心願術はなんら争わない」と言った。心願術を振るうために必要な肉体の鍛錬はそのまま未在願流が果たす。そして、その動きのまま心願術に移行できる。技が即、術となる。だから初伝は済んでいると考えてもよい。軍平が他流に鞍替えしなかったのも、これが頭にあったからでもある。実際、今日の昼間はそれができた。「危なくなると出てくるのか?」
前にも、似たようなことはあった。ただし、その時は御すのにしくじった。
心願術は、ものすごい暴れ馬なのだと軍平は感じていた。雷鳴を呼び千里を一日で走るかわり、手綱の取り方を誤れば、乗り手は即振り落とされて、死ぬ。あこがれが無いわけではない。しかし近づかなければ、頸骨を折らずにすむ。
彼は布団の上で長い足をあげ、ばたんと落とした。
考えていたのは、心願の修行をやめた理由だ。剣をある程度使いこなすには、ただひたすら鍛錬するのが結局は近道である。ところが、心願術は「まず術に己を捧げる」ことが必要だと祖父は言った。妖術に自分を食わせる覚悟がいると、少年の軍平は理解し、逃げたのだ。
「おれは、逃げた」
そう考えながら、こまかな経緯を思い出そうとすると、霧でもかかったようになにも考える気がなくなる。これまでもそうだった。それに、万事くよくよするたちの軍平が、心願を止めたことだけは後悔をしなかった。
–––– どうしてだったかな。
しかし軍平はぶるぶる首を振り、「やっぱり腹が減った」とだけ言った。
おさまらない空腹を抱えて目をつむっているうち、軍平は変な夢を見ていた。
久しぶりに祖父が現れた。彼は書斎で茶を美味しそうに飲み干し、孫に向かって言った。
「お前もこのごろはしっかりしてきた。そろそろ、いいかもしれないな」
「しっかりなぞ、していません」
「水は器にしたがう」
「なんでございますか、それは」
「おまえにも、わかっているはずだ。すでに術は帆をはり終わり、あとは大風が吹くのを待っているだけだ」
目が覚めた。
だが、軍平の平凡な日常に、なにも変わりはなかった。いまのところは。
翌日、軍平は夜明け前から家を出て、職場である南の御産品所へ直接向かった。
古い農家を改装した役宅に着いて朝の挨拶をしたとたん、高野と蓑田という歳上の同僚から、
「昨日はご活躍でございましたな」と声をかけられた。高野など、「ご栄転が待ち遠しいことで」などとつまらぬことまで言う。
息子のような年齢の相手に言葉だけは丁寧なのは、零落したとはいえ軍平の方が上の身分層の出身であるからだ。
一瞬、石田との一件を思い出し動揺した軍平だったが、冷静に考えてふたりが昨日の出来事をくわしく知るはずはない。彼らは産品所の主力取扱品である煙草の担当だが、役所での内勤に「熱心」なため外部との接点は限られているし、即日情報が伝わるほどの太いパイプを藩中枢に持つわけでもない。それなら御産品所で塩漬けになっていたりはしない。おそらく軍平の助手たちの会話を耳ざとく聞いただけだ。では、なぜそれほど軍平の行動にこだわるのか。
単に彼らは、自分たちの関わりのないところで若造が陣屋に行ったことが、ひたすら気になるのだろう。高野と蓑田は、誰かが陣屋に呼び出されたりしないかを常に監視している。それが軍平だったので我慢しきれなくなっただけなのだ。
「なんのことでしょう」
「ははあ、おとぼけを。陣屋に顔を出されたとか。聞きましたよ」
「ああ昨日のことですか。そうですね。いつもお気遣いいただいてありがとうございます」
軍平は嫌味も皮肉も理解できない間抜けづらをして頭を下げた。
顔を見合わせた二人は、仕事もせずに連れ立ってどこかに消えた。
きっとこれからさぼって、いまの態度をまた非難し合うのだろう。
軍平はさっさと外に出て、裏山にある薬草園に向かった。
産品所での仕事そのものは嫌ではない。むしろやりがいすら感じている。
だが、働いている人間たちについては疑問ばかりあった。
産品所につめている武士身分のうち、軍平以外はみな年配といってよい人間であり、さらに言えば覇気も熱意も感じられない。
実際のところ、仕事に覇気など必要としない。さっきの二人だって、実質的な業務は問屋衆にそっくり委託してあり、ほとんどが確認作業である。下手に口を出すと邪魔になるだけ、ともいえる。
傾斜を利用した薬草畑を登ってきた軍平を見つけ、三次という若者がほっかむりをとって頭を下げた。軍平も微笑み会釈する。
若くて身軽な働き手も、いるにはいる。
武士ではない。近隣の裕福な百姓の息子たちが特別に認められ扶持と身分を与えられて御産品所の中で働いていた。
年寄り侍の中には露骨に彼らを見下す者もいる。しかし正直なところ、知識も実務能力も農家のせがれたちにかなわない。
差を自覚している軍平は、常に彼らから教えを請う態度でいる。さっきの高野と蓑田は、それがますます神経にさわるようだった。
乾燥用の室の屋根が傷んでいたのは、三次たちが修理してくれていた。礼を言って本格的な修理について打ち合わせをする。
そういえば、先日提出した改築案にもこの部分の見直しは記してあった。しかし、せっかく陣屋まで行ったのに、昨日のあの雰囲気を考えると、改築案はそのまま埋没させられてもおかしくはない。
石田に手紙を送り、こっそり殿様に口添えを頼もうかとの考えが頭をよぎった。やってみたい。だが、実現すればおそらく不埒とか増上慢とののしる者が出るだろう。それも、上士ではなく同僚のなかに。想像するだけでおかしい。
とりわけ、高野と蓑田など顔を真っ赤にして非難するだろう。
ふたりは軍平を見下すばかりか、なにかあると彼の以前の言動を引き合いに出して批判する。実によく覚えている。驚かされたのは、例の上覧試合どころか、軍平も忘れていた過去の剣の試合にひっかけた嫌味を言われたことだ。どうやら三穂神社やあちこちの道場に残る細かな戦歴まで調べたらしい。この熱意ばかりは、どうにも理解しがたい。
娘を嫁にくれるつもりでもなさそうだし、もしかすると生前の祖父あるい父と良からぬ因縁があったのかもしれないが、「そこまで責任が持てるか」としか言いようがない。
ただ、冷静になって考えると、軍平の置かれた状況も決して幸せではないが、高野だって蓑田だって、明るい未来などない。現在の国のしくみでは、たとえ彼らが精勤しても出世や増収の見込みは殆どなく、御産品所にはゴマをする相手すらいない。おそらく、百姓をけなし、同僚をけなし上司をけなし、さらに上士の階級からこぼれ落ちた若造をけなすと、ようやく少しは置かれた身の上にあきらめがつくのだろう。とりわけ、貶しても抵抗などしてこない相手は、彼らの妄想上の悪役としてうってつけなのだ。
(おれは、あいつらの生きがいなのか)とも思ってみたが、自分がネタにされるのには、閉口する。おかげで、せっかく忘れていた上覧試合をまた思い出してしまった。
試合の当時、軍平はまだ十七歳だった。その歳で名誉の試合に臨んだのは、父の重ねた失態によって縮小した家禄および地に落ちた家名を、多少なりとも回復させたかったからだった。結果、「欲にかられるとロクなことはない」との古典的警句が肌身にしみたわけだが、最も辛かったのは。祖父の生前に決まっていた婚約まで消えたことだ。
相手だった山岡家の禄高は百二十石。大藩ならともかく、千石取りの家臣などいない小さな所帯の藩としてはなかなかのものである。軍平だって現状の宇藤木家とつりあってないのは理解していたし、先方の親族に縁談の消滅を画策する動きがあるのも知っていた。もしかしたら試合の活躍によって加増されないかな、と子供っぽく夢想したのも悲しい記憶である。
それにしても負けてすぐというのは、あまりに露骨すぎる。その直前に祖父と仲の良かった先方の隠居が亡くなったのも、痛かった。
軍平の父が問題を起こした当座は黙っていて、いまになって破談はおかしいとする議論が先方の内部にもあったらしいのだが、結局声の大きい親族に引きずられたようだった。津留の父である山岡の当主は、美男として知られていたが、それ以外に目立った事績はない。破談の理由はいくつか挙げられたが忘れてしまった。さらに、許嫁だった津留の顔を思い浮かべるのも軍平はやめていた。
忘れたことにするのが一番、心が痛まない。
それに津留は、思い出の中であっても優しく微笑みかけてくれる女性ではない。いつもむっつり黙って感情をあまり表に出さず、笑みも最小限だった。
ときおり、じっとこちらを見ているのに気づくことはあった。そのたびに軍平の動悸は激しくなった。だがある日、尺取り虫の歩行を彼女が観察しているのを見かけ、どこかで見た表情であるのに気づき、いろいろ考えさせられた。彼女付きの老女によると、普段から人よりも鳥や虫への関心が高く、よくじっと眺めているそうであった。
生死にかかわる術のことを考えるべきなのに、どうしても離れてしまった許嫁のことに思いが行く。
(結局は、そっちかよ)軍平は、自分にうんざりしながら、薬草園の空を見上げた。青さが目に染みた。
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