第4話 親友からの警告
義母とわかれ、軍平は台所に向かった。あれこれ考える前に、まず腹を膨らませようと思ったのだ。だが台所はきれいに片付いてしまっていて、冷や飯など見当たらない。
仕方なく味噌を舐め、漬物を甕から取り出し、食べた。近くまで夜鳴きそばの屋台のくることもあるのだが、その手の商いを義母は病的に嫌った。
「ああ、腹がへった」
布団に長い体をすべりこませると、軍平は昼間の石田との会話を思い出した。
「あいつの警告は、ほんとうだった」
隣の内山が誰とつながっているかは知らないが、自宅すら油断はできない。
昼間、ヤクザ者を倒したあと、ほかに追手がいないのを確かめると、石田は腰の抜けたようにへたりこんだ。
「あー、助かった。実に乱暴なやつらだった。最初、用件はなんだって聞いたら『まず痛めつけるから、そのあとこっちの主張を飲めるどうかを決めろ』なんて無茶をぬかすんだぜ、ひどいもんだ」
「あいつらは、お主とは反対の立場の奴らってことだろ。と、いうことは、えーっ、いまごろになって攘夷?」
「ことはそう単純じゃない。と、いうか奴らもよくわかってはおらん」
「町方役人を、呼ぼうと思うんだが」
「待ってくれ。話がややこしくなるだけだ。番屋の連中だってだめだ」石田は慌てて軍平をとどめた。「とりあえず、なにもなかったことにして欲しいんだ」
「それは……」
「いや、ほかならぬお主に隠すつもりはない。真実は教える。だからよく聞いて、誰にもいわずに忘れてくれ」
軍平としても、役人にまさかさっきの、「あれ」を説明できはしない。うなずくと石田は説明をはじめた。
少し前、三穂野の藩士の中にやたら威勢のいい一派がいて、政治的な主張を熱心に行い、藩政にかなりの影響力を示した。いわゆる急進派であり、彼らの合言葉は当初、「攘夷」であった。家老をはじめとする執政たちもまた、急進派の過激な言動を嗜めるどころか、適当につまみ食いして自分たちの都合のいいように利用した。
しかし、藩主の代替わりをきっかけに、状況は変わりはじめた。新藩主は石田を重用するぐらいだから開明的なうえ、前の殿様のようにおだてにも乗ってこない。そして、徐々にではあるが従来の懐古的な姿勢をあらためる方針を打ち出しつつある。石田によると、急進派と家老たちにいいように利用される先代を、苦々しく思っていたようだ。
おだやかだが断固とした新藩主の態度に、急進派および彼らを利用してきた家老たち旧勢力はこのところめっきり大人しい。ただ、彼らが尻尾を巻いたかというと、ぜんぜんそんなことはない。
「人の肉を食った獣と同じでさ、いちど権力の味を覚えたら、ぜったいに忘れられないものさ」と、わけ知り顔の石田は言った。「方針がどうのこうのというより、思うままに藩政を牛耳りたい、ただそれだけのことだ」
表向きは若い藩主に従順な振りをしつつ、旧勢力は虎視淡々と失地回復の機会を窺っている。「だが、肝心のご時世が、やつらの思わくとは逆に向いている」
揺れ動いていた中央の政情はこのところ、藩内旧勢力によるかつての主張とは一気に反対側へと移りつつある。すなわち幕府側の劣勢が決定的になってきた。
そのせいか急進派の内部に亀裂が走り、先日は江戸藩邸内で軽いけが人の出る騒ぎまで起こった。
事態はこれも新任の江戸家老によってすばやく沈静化された。だがこの事件を重く見た藩主は、国元の重職それぞれの考えや急進派との関係を確認したうえ、早急に藩内の意見統一の必要ありと判断した。
「ありていにいえば、殿はそれぞれの腹の中を正確に掴んで、いざという時に罪を被せる相手の目処をつけておくおつもりなんだ。しかし、こんな仕事に以前からの近習役たちは使えない。とても信頼し切れぬと殿はおっしゃる。誰につながっているか分からないとな」
「それで、おぬしが」軍平がいうと石田はうなずいた。
「親にも知らせず、こっそり国元まで戻ったのはそのためだ。あらかじめ目星をつけておいた家老や奉行どもの側仕えをねらって、話を聞いてまわったんだ。つなぎをつけたり表向きの理由を考えるのが大変だったよ。半分は一緒にきた望月がやったが」
「そりゃあ、大変だったな。まるで隠密じゃないか。で、甲斐はあったか?」
「その答えがさっきの二人組だ」石田は首をがっくりと垂れた。「秘密はあっさりと漏れていたようだ」
「そういうことか」
ただな、と石田は言った。
「殴られるのはともかく、疑われたり、うまくいかないのは折り込みずみさ。国元の奴らが、江戸から戻りたての若造にそうやすやすと心を明かすはずがない。それより藪をつついて、なにがどう出てくるのかを見るのが真の目的なんだ」
「なるほど、そんなもんか。しかし無用心過ぎる気もするな。肝試しじゃないんだから、用心棒をつけるとか、もっと身を守る工夫をせんと」
「ああ、仰せの通り。ああまで遠慮なく襲ってくるとは思わなかった。お前がいて、ほんとうに助かったよ」頭をかく石田に軍平は続けた。
「さっきの二人は素人じゃない。慣れた様子からすると、あいつらはおそらく、借金の取り立てをなりわいとするやからだな。金額と遅れ具合に合わせて殴ったり、骨を折ったり、川に沈めたりする」
「よく知ってるな」
「まあな。それより、あんな危うい連中を雇うコネがあるというのが、不気味だよ。口入れ屋に頼んで呼ぶ相手ではないぞ」
「おおもとはどうせ攘夷かぶれの奴らだろうが、おそらく町方の内部にも仲間がいる。そいつが手引きをしたんだ。おかげでわかった」
石田は他人事のように言ってから、ニッと笑った。やっといつもの余裕が戻ってきたようだ。
「それで、連れ去られたというおぬしの連れはどうする、探すか?」軍平が聞くと、「望月か。もういいさ」石田はあっさり断った。
「義理もないし、実はあまり仲が良くない。逆の立場ならすすんでこっちを売るような男だよ。放っておこう。あいつがしゃべれば、相手は動く。むしろ好都合だ。それに殿は、あいつに肝心のところは教えておられないはずだ」
「なんだい、撒き餌か」軍平は呆れた。「また騒がしくなりそうだな」
「それが狙いだよ。どんな蛇が出てくるかはこれからわかる」
しかし、しばらく肩を並べて歩くうち石田はぽつりと言った。
「やはり武芸者とはたいしたものだ。おまえがそばにいたら、どれほど心強いか。おぬしが揉め事にはうんざりなのはわかっている。だから声はかけなかったのだが……」
「おれだって、おぬしがこれほど危なっかしい橋を渡っているとは、思わなかったよ」
「いや誤解してくれるな。おれはむしろ過激を戒める側だ。こんなに若いおれがだぞ。奇妙な話なのはわかっている。けど、人がおらず殿もお困りなのだ」
ひそかに藩主直々の命を受け、雑事に奔走するようになって半年になると石田は告白した。「それもなりゆきだ。たまたま、殿と書院で二人きりになることが多かったせいで、おれが望んだわけじゃない」
「しかし、昔と違うのはわかっているつもりだが、御用人の大井様はいったいなにをしておられるのだ」
祖父の時代なら、この種の仕事は用人とその部下が一手にひき受け、茂平のような専門家に命じた。藩主の手を汚させる真似だけはしなかったはずだ。
「ああ、大井か」現用人の名を聞いて石田は顔をしかめた。「ありゃだめだ。愚物というか血の巡りが悪すぎる。おれにお鉢が回ってきたのも、半分ぐらいはあれの無能のせいだ」
「ぼろくそだな」
「事実だからな。今の殿は朗らかで気難しいお方じゃない。それが大井にだけはすっかり苛立っておられる。おぬし、大井に姪がいたのは覚えてるな」
「えー、そうだったかな」軍平の人物相関情報は、長らく更新されていないし、遺漏だらけだった。
「飯を毎度毎度、ひとりで五合食らうという、あれだ。一度不縁になったあの化け物、いつの間にかまた片付いていた。相手はお蔵方の鈴木健吾。これが桑田家老の従兄弟にあたるのだとさ」
「へええ」桑田とは現在の国家老で、実質上政策運営のリーダーであり、旧勢力そのものといえる。藩にはもうひとり、代々家老をつとめる白浜というのがいるが、家柄以外取り柄はないと、置物呼ばわりされる人物だった。
「うまいことやったな、そいつ」
「しかしおぬし、本当になにも知らんなあ」石田は呆れた。
「殿と桑田の間には、このごろ秋風が吹っぱななしなんだ。主に桑田の無節操無定見ぶりがいかんのだが、そんな時に用人が桑田と縁組なんて、いくら姪と従兄弟でも駄目だろ」
「ふーむ。小さい国だし、人がおらんのと違うか」
「吉之助、おまえなあ……」軍平の感想に石田は首を振ると、「たしかに人はおらん。だからさ」
いま、ふたりは人目につかない神社の裏手を歩いている。誰もいないそこの周囲を石田はさらに見渡し、一段と声を潜めて言った。
「殿は大井を更迭したい。しかし色のついていない代わりがいない。ほかの側近どもはそろって昼行灯だ。だからおれが使われている。ここまではわかるな」
「ふむ。似合ってるぞ」
「ばかいえ。大事なのはこれからだ。ある日殿はつぶやかれた。宇藤木の孫を用人にするのはどうか」
「げえ」軍平はえづいた。「なんだそれは」
「もちろん、苦し紛れの譫言みたいなものとは、思っていたさ。しかしさっきの活躍を見たら、おれも同意しそうだ」
「やめてくれ。それより恐れながらとおぬしが進み出たらどうだ。用人ぐらいおまかせあれって」
「ばか、桑田が認めるかよ。それにわかってはいるんだ。おれは多少の目端はきくが、兵部様のような鉄の意思も神の如き英知もない」
「おれだって、ないよ」
「しかし、色もついていない。清廉かつ公平無私、おまけに江戸表に名が轟くほど有能だった兵部様の名は、いまでも偉い連中の頭から離れないんだ。おぬし、見た目はそっくりだからな。特にこのごろ」
軍平の祖父の兵部は、名君といわれた二代前の藩主がごく若いうちから側近として仕え、彼が家督を継ぐと三十年以上にわたって用人を務めた。
それも、単なる秘書役ではなく、理想家肌だがひよわな面もあったあるじを実務面において支え、絶対の信頼を得ていた。
戦国の時代から三百年近くが経過すると、多くの藩が経済に行き詰まり、膨大な借金を抱えていた例も珍しくはない。
ところが、目立った悪政や事件もなかったかわりにめぼしい産業にもとぼしかった小国、三穂野は二代前の藩主の治世に分不相応と思われた改革に挑み、まがりなりにも巨額の債務などない自立した財政を実現していた。その影の主役が兵部であるというのは衆目の一致するところである。
生前は足軽から家老まで、まさに国中から畏怖された。老境に達しても頭脳と判断力に微塵のゆるぎもなかったが、旧主が亡くなるや後を追うようにそそくさと世を去ってしまった。その消え方までが伝説に拍車をかけていた。
「やめてくれ」軍平は顔をしかめた。「表に出るのは金輪際ごめんだし、用人なんてとんでもない。どうせじいさんと比べられて馬鹿にされて終わりだよ。親父みたいに」
「ま、そりゃそうだ。父君がもう少し要領よく立ち回っていたら、おぬしが十薬を売り歩くこともなかった。でも、昔の話を聞くと、父君は決して今の近習どもみたいなボンクラじゃなかったようだぜ。話が上手で気が利いたって。兵部さまと比べるのが間違いのもとだ」
「親父をよく言ってくれるのは、おぬしだけだな。あとは親父の酒飲みともだち。いまじゃ皆さん酒毒がまわってよれよれだ」
しんみりした軍平に、石田は照れ臭そうに笑った。
「いや、実を言うと心細くてたまらんのだ。正直、江戸にずっといると国元の思惑なんかぜんぜんわからんし、戻ったら戻ったで怖いのにつけ狙われる。だからさ、ちっとも変わらぬおぬしに会えて、しんそこ安心したのさ。それにおれ、なんでも知ってるような顔してるけど、みんな人からの聞きかじりだ。実は知らないこと、わからないことだらけ」
「おれたちの歳じゃ、誰でもそんなものだよ」
「それより」ついに石田は深刻な顔になった。「言っちゃなんだが、今の殿をまるきり信じていいのかも、わからん。おれみたいな若造にすべて腹を明かすわけないし。さっき襲われたのだって、誰のしわざかは見当がついてる、ついてるがその実、殿や側近どもに思い込まされただけかもしれん。まるで霧の中にいるみたいだ。だから、決して裏切らない味方が欲しい」
「……」
石田はふっと力を抜いた。
「だけど兵部様は、俺たちぐらいの歳にはこれぐらいの修羅場は楽にこなしていたんだよな。なにせ、熾烈なお世継ぎ争いの勝ち残り組だからな。江戸にも国元にも目が届いてたのに、わざと知らんぷりしてたっていうじゃないか」
「いくらなんでも褒めすぎだ」
「いやいや、あの方がじろっと睨んだら、面従腹背どころか腹の中一切合切ぶちまけて、従ってしまったというだろ。やっぱり武芸を極めたらそうなるのかな。お前、できるんじゃないのか」
「できるわけない」さすがに例の「術」は石田にでも教えられはしない。軍平はとぼけた。「そんな技も真言もぜんぜん知らん。不肖の孫さ、あきらめろ」
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