ペットを見せたい

 未来が教室で囲まれて取り巻かれて、僕たちが教室で話をしなくなってから、一週間後。

 日曜日。


 僕は待ち合わせの駅の改札前に着いた。腕時計を見ると、十二時四十分。来るのが早すぎたようだ。



 友だちと待ち合わせするなんて、小学生のころが最後だし。そういえば未来とだって休日に遊んだことだけはなかった。そのことを不安には思っていた。だからメールが来て、次の日曜日会えないかなんて、いまさらかよっていろんな意味で涙が出て、携帯電話を握りしめたまま涙が出そうになった。


 駅はいろんなひとが行きかって賑やかだ。帽子の下からきょろきょろと辺りを見渡す。そう大きな駅ではないのだが、なんというのかおとなっぽくておしゃれで、生活感がない。駅ビルの一階に入っているスーパーの外装にもずらりと果物の絵が並んでいる。スーパーさえもおしゃれ。……こういうところはよく漫画の舞台にもなるんだよな。


 未来の最寄り駅にはふさわしいんじゃないかなって、そう思って……なんで僕はまた未来に呼び出されてあっさりと来てるんだろうって、自分に呆れかえっていた。犬がどうとか、未来はときどき言うけど、それを言ったら僕だって犬みたいに尻尾振って未来のところに来てるってことだ。……自分を捨てようとした主人なのに。



 僕はけっきょく改札を出てすぐの柱にもたれかかって、そこに落ち着いた。駅特有の賑やかさを聴きながら、ブラウンとオリーブグリーンのタイルをじっと見つめる。



 考えても考えてもよくわからなかった。未来は彼女をつくるなんていう裏切り行為をした。それなのにどうして、未来がきょう僕を家に呼んだのか。


 ペットを見せたい、って言ってた。


 未来が犬を飼ってることは、前からなんとなく知ってた。犬にはあまり興味はないけど未来のペットなら興味はある、写真見せてよって言ったこともなんどかある。でも、そのたび困ったように笑うから、僕のほうがいつも困ってしまった。未来のほうから話してくるんだから、僕が縮こまることもなかったのに。


 写真は見せてくれないくせに、犬のことはよく自慢をした。名前は、コロで。牝で。人間の歳にすると未来や僕とおなじくらいの歳で。小さいころからいっしょに育ったから、家族みたいなもんなんだという。無邪気な性格で、遊んでやれば全身で喜ぶし、素直でひとの言うことをよく聞くという。ときどき反抗心を覗かせることもあるが、ちゃんと叱ってやればしゅんと反省して犬なりに学習する。家族全員に懐いているが、自分の主人だと認識してとくに懐いているのはやっぱり未来で、帰ると飛びついてくるほどの勢いだったりして。うっとうしいときもあるけどやっぱり、かわいいのだという。


 ひとのペットの話なんて、正直つまらない話だったけど、でもほかならない未来がなんどもしてくれた話だから、僕は聞いてた。未来がなんど話してきたって、うんうんと聞いてやってた。だから、こうやってすらすら思い返せる程度には、覚えることができていたのだ。



 未来が、ペットにかんしてだけは一気に凡庸になるのがふしぎだった。そのくせ、秘密なんだ、って言ってた。うちの犬はたぶん、俺の秘密なんだ、って。未来がああいうときだけはどことなく瞳をほんとうに揺らしていたような気がしたのはなぜだろう……。どうして……ペットが、そんなにも重大な問題になるんだろう。僕には、よくわからなかった。



 その秘密が、きょう、解かれるのかな……。


 もちろん……彼女とかいう女のことも、訊いとかなきゃなんだけど。無性にペットのことが気になるっていうのもなんだか、妙だ。



「よっ、路成。お待たせ」



 肩を叩かれた。視線を上げれば、すぐ目の前で未来が笑っていた。私服姿。はじめて見た。センスがいい……シンプルなんだけど、ところどころのデザインが、いい。オートクチュールなのかもしれない。漫画で言えば主人公級だ。僕も清潔でぱりっとしていちばん気に入ってる服を着てきたつもりではあるけれど、僕の服なんかこの瞬間すべてくすんだなって思った。


「なんだよ、そんなまじまじと見て。待たせたか? でもいまだって待ち合わせ十分前だぜ。お互い優秀だな、社会じゃだいじなことだ」


 そんなことを言って、未来はおどけた。


 僕たち、もうずっと、言葉を交わしてもいなかったのに……それなのにどうしてこのひとは、こんなにも、いつも通りでいられるんだろう。


 なよっちいとかクラスのやつらは言うけれど、違う。未来は、礼儀正しいだけだ。

 未来はその気になればはっとするくらいに男らしくふるまう。

 いつもはあえて男らしさを消臭してるだけ……だから、その気になればやばいのだ。

 僕は、僕は、僕だけは……未来のそのやばさを、知っている。

 だから、僕は。未来のことが――。



「どうした? なんかあったか? もしかしてほんとになんか怒ってる?」



 怒ってるっていうか――と、言おうとしてやめた。

 未来が、ほんとうに心配そうな顔をしていたからだ。



「……ううん。違うけど。あんまり自然だからびっくりして」

「このところ話してなかったもんな。行こうぜ相棒」


 相棒、だなんて、ふざけて言うにしたってさ。ふつうのやつがやったら痛いだけだ、でも未来がやるならキマってる。冗談めかすようにそう言うのも、未来よりもずっと細くてなよくて小さな僕の肩を、強く、でも乱暴じゃなく、ほんの一種だけ抱くのも。いつも通りだった。……言葉を交わさなかった学校での長すぎた数日間なんてまるで未来は知らないみたいに。



 ふたりで並んで駅の階段を降りる。こっち、と未来が示した方向は、車の連なるロータリーだった。


「こっち? 歩いて行くんじゃないの?」

「歩いても行けないことはないけど、迎え来てくれてるからさ」

「……運転手さん? 召使い、っていうか……なんていうの、使用人、みたいなひとがいるってこと?」

「まあ、そうなるのかな。でも飯野さんはむかしから家のことをいろいろ取り仕切ってくれるから、家族のようなもんだよ」

「ほかにもいるの? 漫画みたいに……」

「や、漫画みたいな感じではない。あんな大げさな感じじゃないけど。でも家のことしてくれるひとは何人かいる。いちばんかかわりあるのは飯野さんだけど」


 お坊ちゃまだ、とまたしても思った。自慢している感じでもなく、ごく自然な感じで言うんだもんな。

 僕の家もすこし前に、ハウスキーパーを雇いたいとお母さんが言い出したことはあったけれど、その時期にはお父さんとお母さんがさんざん喧嘩して、けっきょくハウスキーパーさんもお手伝いさんも雇わなかった。お金がお金がと鋭い声が夜な夜な聞こえてきてたから、つまり僕の家はけっきょくそこ止まりってことなんだなって、僕はそのときそのことをもういっかい確認したんだったよな、なんてことを、口に出さずにぼんやり思い返していた。



 真っ白い車が、未来の家の車だった。運転席にいるのが飯野さん、だろうか。おばさん……いや、どっちかって言えばおばあさんなのかな。

 でもちょっと変わったおばあさん。車のエンジンはかかってないのに、背筋を伸ばしてハンドルを掴んで微動だにしないのも変だし。給食のおばさんみたいな白い服はまだわかるとしても、分厚くて茶色いレンズのサングラスをかけているのは、どう見ても異様だった。いやいや、変なんじゃなくって目でも悪いのかな、と思ってはみたけれど、目が悪かったら運転しちゃいけない気がする……だったら、やっぱりそういうセンスのひとだってことなのだろか。


 未来はさっさと後部座席に行ってしまう。同時に、飯野さんは運転席の窓を下げて片腕を乗せる。……うわあ。これ、センスの問題のひとかもしれない、なんて一転、僕は思う。


「はいはい、乗ってくださいな。お坊ちゃまのご学友ですね」


 抑揚がちゃんとあって愛想はいい声なのに、口もとがにこりとも笑っていない。サングラスの下の目だけが笑ってるってこともないだろう。

 僕は慌ててうなずくと、後ろのドアを気をつけて開けて、未来の右隣に座った。


 車が発進する。音がしなくてびっくりした。あまりにも滑らか。僕の家の車とは違う。



 未来は窓の外を見ている。その横顔はくつろいでいる。


「未来の家の車っていうから僕、黒くて長くて大きな車が来るのかと思った」


 ん、と未来はこちらを向くが、飯野さんのほうが早かった。


「そういった車もございますよ。ただ、ふだん使いはいたしません。かえって嫌味でございましょ。危険ですしね」


 声色こそていねいだが、ぴりりとした言葉が、なんだか突き刺さるように痛い。

 未来はそのへんにも慣れているのか、苦笑していた。だから僕も、へらりとでも笑えたのだけれど。


 静かなまま、だれも喋らない。僕は左を向いて、未来の斜めの顔越しにその景色を眺めていた。


 おしゃれな道の立ち並ぶ駅前はすぐに抜ける。緩やかな上り坂。山、というほどではないんだろうけれど、道路としてのぼっていく程度には、確実な高低差のあるところだった。未来と家の話になったとき、丘の上に住んでる、っていつだったか言ってたっけ。


 ゆるくゆるく、でも、確実にこの土地のてっぺんを目指していく。


 道路の幅も狭くなり走る車の数もあきらかに減ってきて、住宅街に入ったんだなってころ、僕はなんとなく萎縮しながらも、耐え切れずに言った。



「……きょうは、ペットを……見せてくれるんでしょ?」



 未来は窓の外を見たまま、こちらは振り返らない。



「そうだよ。路成にはいちど見てほしかったんだ」

「でも、なんで……」


 飯野さんが口を挟んできたら嫌だなと思ったけれど、お屋敷に着いてふたりきりになれるまで黙っているのもつらいと思った。


「……なんで、僕なの? 未来にはもう」


 きつい、でも、言わなくちゃいけない。

 僕はぎゅっと強く目をつむった。



「もう、か、彼女が……いるじゃん……」

「え?」


 未来は心底ふしぎそうに僕の顔を見た。

 そんな顔で僕を……僕を、見ないでほしい。僕の頬は、漫画のギャグっぽい描写みたいに、勝手に赤らんでしまうのだから。


「だ、だから! 未来には彼女がいるんだから、で、未来はペットのコロちゃんがとってもかわいいわけなんだから、そ、そのひとに、僕なんかじゃなくってっ、彼女に……見せればいいのになー、なーんて、そんなこと……」

「ああ、そういうことか」



 未来は腕を組んで、んー、と天井かどこかを見上げてなにかを考えている。



「……路成にはそのことちゃんと説明しなきゃなあって思ってた」

「……え?」



 こんどは、僕がきょとんとする番だった。



「というか。だから、っていうか。協力してほしかったんだ、まあ……こんなの、しょせんは俺のエゴなんだけどさ」

「えっ、ちょっと待って、未来。なんのこと?」

「たぶん見せたほうが早い。うちのコロを」


 未来はそう言うと、目を閉じて腕を真上に伸ばし、仰向けに寝転がるようにしてシートに沈み込んだ。


「……路成なら、わかるはずだ。俺ひとりじゃ、わかんないんだ。俺には、そんなの、家のだれも教えてくれないから。嘘も俺にもほんともわからない。俺の家のひとたちさ、みんな意地悪なんだよ、そういうの訊くと怒るしさ、当たり前のことを訊くんじゃない、ちっちゃな子どもじゃないんですからねって」

「お坊ちゃま。言葉が過ぎますよ」



 あーはいはい、と言ってつまらなそうに視線を斜め下に固定する未来は、なんだか、いつにもまして――男性的だと、男っぽいと、思った。それでいて、古代の白い彫刻にも似ていて……。




 ――ああ、未来。ほんとうに、きみってやつは。




 そうやって車のなかで拗ねているだけで、扉絵にでもなりそうなんだから。

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