犬姫さま
へらへらっ、とまでもいかなかった。
まるで小さな子どもが媚びるようにして、へらっ、とするのがせいいっぱいだった。
だって、だって。
あのね、あのね。
そもそも、そもそもがね。その、ペットのコロちゃんとか、いうやつ。かわいくて、素直で、従順で、無邪気な、牝犬だとかいう、その、それは。
……犬じゃ、ない。
このあと僕のなかでは感情も感想も膨張して爆発するんだろうなって、そんな予感はわかるけど、けど、あまりにも、あまりにも、だって、これって……。
僕が想像していた未来の部屋にふさわしい豪華でいて上品な部屋。入ったときには、わあすごいって感激した。王子さまが寝るのにふさわしい天蓋つきのベッドも、落ち着いたベージュのカーペットも。
入り口からベッドを挟んだところにはたしかに黒くつやつや光る檻があって、やけに大きいなあ、でも大型犬だって言ってたし、うん、でもこんなすてきな未来の部屋で飼われるなんていうのは、すごく幸せな犬んだろうなって思って、思って……大きな檻のなかを、覗き込んだら……。
人間の女の子がうつ伏せで寝ていた。
かろうじて服は着ている。ただ、表面積が男子中学生にとってはきわどい、たとえ僕であったってそのくらいはわかる。むしろ僕は積極的に女の子の服の研究もしてるし、一般人よりはわかるつもりだ。
ふりふりで薄くて真っ白なキャミソール……それがたぶん、この子の着ている唯一まともな服だ。ブラジャーはつけてるかどうかさすがにわかんないけど、胸が大きくてかたちもぷっくりしてるから、たぶんなにかしらはつけているんだと思う。パンツ、は……穿いているのかな。キャミソールのフリルでうまいこと隠されている。でもキャミソールを着ていてブラジャーもつけているなら、パンツも穿いているのだろうと思った。
歳はたぶん、僕や未来とおない歳くらい……上か同学年くらいだろうけど、下ってことはないと思う。かわいいと言うよりは、本気で美人だった。肢体も白くてしなやかで、無防備に伸ばしている脚なんかすらっとしてとても長い、そして胸もきれいで大きくて……。未来と似ているのは、まつ毛の長いところだった。
寝息を立てているだけでお姫さまって感じで……でも、お姫さまなんかじゃないって思わせる物も、たくさん身に着けていた。
即興で名づけるならば、犬姫さま。
まず目につくのは、その首輪。鮮やかなほど真っ赤だ。首の後ろには小さな輪っかがあって、リードが括りつけられている。リードのもうひとつの先端は、檻を出てベッドの脚につながっていた。
檻の扉もしっかりと閉まって、おもちゃみたいに大きな南京錠もがっしりついている。でもたぶん、おもちゃみたいでもおもちゃではないんだろうなって、思った。
頭には、茶色い犬の耳を模したカチューシャ。手にも足にも犬の茶色くて柔らかい肉球を模したグローブは、手首や足首にもごていねいに小さな鍵がついている。これでは自分で外すこともできないし、指を使うこともできないだろう。けど犬姫は、まるでその手がもともと自分のものであるかのように、顔の下に置いて頬っぺたをくっつけている。
首輪も、檻も、グローブもあれば、自由に動けるわけはない。三重の鍵なんて、過剰だと思った。
僕はぞわぞわとなにかを感じながら犬姫を見下ろしている。
これでもし、この子がすごく苦しそうに寝てたり眠りが浅かったり呻いていたりで、目が覚めたら必死で助けて助けてさらわれたんです、なんて僕に懇願するような、たぶんそうするんだろうなって、そう思えるような感じだったら、未来を裏切れるかどうかはともかくとして、僕はこんなにもぞわぞわとしないんだと思う。
だって。
この子は――あまりにも、無防備に無邪気に眠っている。
だから……わかってしまうんだ。僕は、わかるんだよ、そういうの。成金でも日陰者でも関係なくて、ああ、僕はそういう嗅覚だけは、ものすごく優れているんだから。
きっとこれが――日常、なんだろうなって。
「んぅ……」
なんとも切なそうな、寝言とも言えない声が漏れる。
「んー」
こんどは眠りながら微笑んで、寝返りを打つ。寝返りをいちど打つのでぎりぎりのスペースだ。それとも……それだけのスペースはある、って言うべきなのか。ガンッ、と檻に肉球のグローブの嵌まった手をぶつけるのに、手を引っ込めるだけであとはすやすやと眠り続ける。
僕はやっとのことで、いま僕は、学校の同級生で僕の友だちの未来と、いや、未来の部屋に来てるんだってことを、思い出した。
たぶんそう長くない時間のことだったんだろう……僕が犬姫さまに見入っていたのは。僕にとっては、こんなにも長い時間に思えても。
「未来……」
かろうじて僕は呼んだつもりだったが、未来は僕を見ていなかった。檻を見下ろしていて――その目は、僕がびくっとしてしまうほどに冷たかった。
「起きろ、コロ」
学校ではありえない命令形を用いると未来は、信じられないことに、檻を――強く蹴った。
ガシャン、と音がして、犬姫は薄く目を開けた。だが声を漏らすだけで、もういちど目を閉じようとする。未来は声をかけず、もういちど檻を蹴る。一回めよりも強い蹴りだった。
犬姫はゆっくりと、しかしこんどはちゃんと目を開けた。ふあぁ、とあくびをしながら、ごろんと仰向けになる。檻の格子越しに未来を見上げて、両手も広げて胸もお腹も晒してすっかり無防備で、眠そうでも嬉しそうに笑うのだ。
……嘘だろ、その反応。なんだよ、それ、それ、それって。
「おかえりなさーい、ご主人さまぁ……きょうはお出かけじゃなかったんですか、ふぁ……コロまだ眠いですぅー……」
「きょうはおまえを友だちに見せるって言っといただろ」
「あぁ。んぅ。そいえば、そうでしたねえ。でもコロは犬だから時間わかんないですよ? でもでも、珍しいんじゃないですかあ、ふあぁ、ご主人さまってあんまりコロのことお友だちに紹介してくれないのにー……」
「……やたらと自慢するもんでもないだろ。ペットなんて」
「うぅ、まぁそうですねえ、コロはしつけのなってない犬ですから……。コロがもっとちゃんとすればご主人さま、もーっと自慢ですか?」
未来は答えず、扉の前にしゃがみ込む。ポケットから鍵を出して、慣れた手つきで南京錠を開けた。犬姫はそのあいだ、両方の脚をぺたりと地面につけて肉球の手をそのあいだにまっすぐ置いて、まるで犬みたいな座りかたをしていた。なにかを期待するように見上げている。もし尻尾があったらぶんぶん振っているのだろう。
かちゃりとあっけないほどの音がして、扉が開いた。出て来やすいようにか、未来は扉を開けてやっている。二足歩行ではとても通れないサイズの扉。犬姫はもういっかいあくびをすると、平然と、四つん這いで扉をくぐった。……ほんと、ほんとに、いろいろ、男子中学生の目に悪い。
扉をくぐり終わると、四つん這いのまま僕を見上げる。つぶらな瞳、とでもいおうか。助けを求めるような色はまったくなかったし、僕と同年代の女子なんだろうけど、小学校のときクラスの女子が僕に向けてきたような目ともまったく違った。
僕はどうしていいものかわからない。こんなのって、だってこんなのってあるの、いや、ありなのかよ。
ぱっちりときれいで理性もある人間の目でありながら、その目は――犬の目、だった。
そう、近所のおばさんたちの犬が、よくこうやって僕を見上げてくる。知らないひとだけど、ご主人さまの知り合いならきっとだいじょぶだよねって、こっちに対してというよりは危ういまでの主人への信頼、隣にご主人さまもいるしね、みたいな、そんな目をして、ゆったりと尻尾を左右に振り続ける、けなげで愚かで、あくまで犬らしい犬……。
でも、あれは、犬だからそうなのだ。犬っていうのは、そういう生きものだから。主人の手から出るリードでつながれてその足もとで四つん這いで尻尾振ったり伏せることが、そういうことこそが、しあわせだっていうのは、わかるんだけど。
犬じゃ……ない、ないんでしょ、ねえ。
未来は平然と、ベッドの脚にくくりつけてあった鎖の持ち手そのきれいな手に巻きつけると、しゃがみ込んで、犬姫の頭をくしゃりと撫でた。
犬姫は四つん這いのまま、その場に伏せて、とても嬉しそうに笑ってた。とろけるような顔は、ばかっぽくもあって、だからなのかずいぶんとかわいくて――僕の欲望さえも煽るかのような、顔をする。
未来は頭を撫で続けながら、僕を見て言う。
「路成。うちのコロです」
「……うん」
えぇ……。やっぱり、そうなるんだ。
……なに。なんなの、これ。
そりゃ僕だって自分がそうとうな趣味の持ち主だとは、正直、思っていたけれど。待って待ってよ。僕にとってだってこんなのは――。
いくらなんでも上級者すぎるし……極まってるよ極まりすぎだよ、行き過ぎてるよって、思うよ。だって、これが日常なんでしょう? そんな、そんな、そんなことって、ある? 漫画ならさ、まだわかるけど、ここは日常だよ、――僕にとっても未来にとっても女の子にとっても、ここは、現実世界なわけなんだよ? ねえ、未来、そうでしょう、未来、ねえ、ねえ、……ねえ、ってば。
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