第三章 ここが漫画の世界だとしたって
虚ろな目
ガラッと扉が開いて、教室に飛び込んでくる意地の悪いニュース。野次馬根性からはじまる僕たちの朝。
「速報、速報! 天王寺が彼女できたってよーっ!」
席について漫画を読んでいた僕の感情は、どくん、と跳ねた。夢中に読んでいたはずの漫画本は、かくもあっさりと、読書に集中していることを装うためだけのツールになってしまう。
ざわっ、とざわめきは一気に大きくなる。膨らんで熱を持つかのようで、だからそう、まるで気球みたいに。
男子校だから当然、男子しかいない。中学一年のころは声変わりをしていなかったやつも多かったが、中二にもなると、喧騒さえも野太くなる。
「うっそまじで? 天王寺かよ?」
「はええよなー、まだ一学期だぜ? やるな天王寺!」
「でも意外じゃね? そういうガラじゃないじゃんあいつ。勉強はできるけど彼女なんかいりませーんみたいなツラしてさあ」
「あっそれ俺も思った。ぶっちゃけホモかなーなんて。だいたい、斉藤とかさあ……」
びくっ、とする。視線も上がってしまって、眼鏡が鼻の上ですこしずれる。生温かい息のような笑い声。僕には関係ないなんて素朴に思えたのは、いったい小学校の何年生くらいまでだったのだろうか。
「おい、かわいそうだから言ってやんなって。びくってんじゃん」
「まあホモと違うんなら俺らにとっちゃいいじゃん、俺たちの貞操は安全ってわけだし」
「ってか相手って女? どこのだれ? 出会いどこよ? あいつ塾も部活もやってねーよなあ?」
「かわいいんかなあ。つか、やることやれんのあいつ? あんなさ、女みたいでさ」
「まーまーまーまー、みなさんっ」
情報屋気取りの情報提供者が、大げさな身振り手振りで場を静めようとする。
「そこらへんはねっ、ぜひとも天王寺くんご本人に訊いてもらって。もうすぐ来ると思いまーすっ、あっ! 噂をすればあーっ、天王寺くんのご登校ー!」
天王寺未来――未来は、いつもとまったくおなじ感じで教室に入ってきた。教室の入り口に立っていた情報屋を見ると、おはよう、と口もとで微笑もうとする。そいつと友だちなわけじゃないけど、未来は友だちじゃない相手にもきちんとあいさつをするやつなのだ。けれども未来はいつも通りでもクラスのやつらは違う。まあまあまあここはひとつ、なんてへらへら笑う情報屋に肩を抱かれ、教壇の前、つまりは教室の真んなかに引きずり出されてしまった。
拍手や歓声や口笛。未来はそこで、はじめてかすかに眉をひそめてみせる。男子中学生の野蛮なハイテンションが、ふだんであれば未来にぶつけられるということはありえないのだ。未来はべつに人気者でもないし、みんなときどき未来のことをホモだとか女だとかいって悪口を言うけど、この教室にいるやつならみんなわかってる、ボス猿だって情報屋だってだれだって僕だって、未来はからかわれはしても、けっしていじめの対象にはならないんだ。
情報屋がマイクみたいにさっと鉛筆を差し出す。
「天王寺くん! ご結婚おめでとうございますっ! いやー、電撃結婚でしたが、いまのお気持ちは?」
「……へ? 結婚?」
むしろきょとんとしている。けれどこの雰囲気で、頭のいい未来は察したのかもしれない。ああ、とうなずいて、いつもの通りちゃんと微笑んでみせていた。
「もしかして、彼女のこと?」
うおおっ、と盛り上がる教室はなんだか熱すぎて、焦げ臭い気もしてくる。ピーピーという口笛も、ヒューヒューなんてそのまま言葉で言ってしまうのも、なんというかオノマトペとしたって古すぎやしないか、というか、だっせ。
「彼女、だってよー!」
「慣れてるなー、なに、そうやって紹介すんの? 彼女ですとか言っちゃう系?」
「そこはさー、こいつは俺の女だぜ、くらい言おうぜ!」
「かわいいの? かわいんだろ?」
「ヤレそっすか?」
「ってかどこの子よ? まさかケージョの子だったりしねーよな?」
それそれそれーっ、と指を指してまで盛り上がり、さらに空気が焦げて臭いはじめた。
ケージョ。僕たちの通うこの男子校と対になる女子校の愛称だ。徒歩で行けるほど近所でもないけど、電車で行けないほど遠くでもない。賑やかなやつらは中学に入る時点でSNSやら先輩のコネやらですでにケージョとのつながりをつくっているらしいが、僕には、縁遠い話だと思ってた。……未来にも。
だから、こいつら未来のことなんもわかってないから馬鹿なことを訊くんだな、と。
未来が肯定するわけもないと、僕は疑ってもいなかったんだ。
未来は、照れたように笑った。わずかにうつむく。こうしてみてもほんとうに未来はまつ毛が長い……野蛮な猿どもは、けっして気づけないことだろうけれど。
「……ケージョ、だよ。なんかそういうことになっちゃって」
ばさり。
かろうじて持っていた本が、机の木目の上にだらしなく落ちた音だった。
――うそだろ。未来。
うわあああっ、と。
喧騒は、熱は、焦げ臭さは、頂点に達する。熱狂ともいえるほどに。
手が震えるかと思ったけれど、そんなこともなかった。けれどもいつもいつも読んでいるはずの漫画の持ち方を忘れてしまったような気はした。どうにか持って、開いて、モブキャラの女の大きすぎる瞳の周辺ばかり睨みつけている。けどじっさいは耳ばかり大きくして、話にばかり集中していた。未来を中心に、がやがやとうるさい輪。……こんなのって、さ。
「そんなこと、って! 天王寺くんやっるぅー!」
「ごめんっ! 俺いままで天王寺くんのことかんっぜんに誤解してたわ!」
「えっ? 何年? タメ?」
「ああ、向こうも二年だからおない歳」
「向こう、だってーっ!」
「ってかふだんなんて呼んでるん?」
「その前にまず名前だろー、俺なにげケージョの知り合いいるし、話聴いてこれっと思うんだよね!」
「ああ、名前は、
「アヤネ、だって、うっわ呼び捨て!」
「うん。もう彼女になったんだしさ。苗字呼びも変かなって」
「まじかーっ、ひゅうーっ!」
「ってかどこで知り合ったん? 天王寺くん塾も部活もやってないじゃん」
「えっと、家族の知り合い、ってことになるのかな。うちのばあさまのお茶の教室の生徒さんのお孫さんがね、たまたま敬女で、僕と同学年だったんだ。まあそれが綾音なんだけど。それで、お友だちになったらどうかって言われて、会ってみたらどうかって言われた。僕は正直そんなに乗り気じゃなかったんだ。ほかのことで忙しいし……。でもね、うちのばあさま怖くて。あの生徒さんの子だったらいい子だろうし、あの気難しい生徒さんが猫っかわいがりしてるんじゃ間違いないって、まあそこまでしつこく言われたら行かないわけにもいかなくてさ。ばあさまもなんか楽しそうで」
無秩序な無駄話だったはずなのに、いつのまにやら未来はこの場を支配している。へええーっ、と感心する声は、人間並みの品とでもいうものをいくらか取り戻した。そのぶん、声のボリュームは控えめになっていた。……わずかに頬を撫でる程度の涼しさを感じた気がする。
未来は……ほんものなんだ。おまえらとか、僕とかの、まがいものとは違うんだ。
けれども、一瞬でも、ほくそ笑むようにしてそんなこと思ってしまったがばっかりに。
「会ってみたら、意外と気が合ってさ。お茶しただけなんだけど、話が合うんだ。相性がいいんだろうね、僕たち。……つきあうっていうのも、悪くないかなって。まあ、形式上なものだけどね、まずはお友だち。綾音もとても理性的で頭のよい女の子だからそこらへんはわかりあえるんだ」
……ああ、と。
僕の目は、漫画だったらいまきっとハイライトの光が入っていない。用語っぽく言うのであれば、レイプ目ってやつ。よくこの言葉の意味間違ってるやつネットで見るけど、まあたしかに最初はまんまの意味だったさ、だが、いまではレイプされるほどの衝撃を受けたって意味でも使うんだし、ああ、ああ、だからいまそんなことどうでもよくて、違うだろ、僕の、ばかやろう。
漫画のくったりとした紙が手に気持ち悪くて、大きな目をぎらぎらさせてるモブの女はもっと気持ち悪い。
僕は最後の助けを求めるかのように、未来に向けて、視線を当ててすがりついた。
未来はすぐに気がついてくれる。
そして――首をわずかに傾けるようなあの独特の仕草で、困ったように、ぎゅっと目を細くして笑った。
僕は、うつむいた。
言うまでもなく、敗北だった。
ねえ、未来、この学校で僕のたったひとりの友だちの、未来、先に謝っとくよ、未来みたいなほんもののお坊ちゃまにモノローグだけだってそういう気持ちをぶつけるなんて、僕が、僕が、僕がおかしいのは僕だってわかっているんだ。べつにそういうんじゃないそういうんじゃないそういうんじゃないってことも、わかってるけど、ねえ、未来、僕にとっては僕だけが僕の人生の主人公なんだからモノローグなんだから言わせてよ。レイプ目とか僕はそのくらいのこと軽く言っちゃうしそのたび未来はたしなめるけどさ。じゃあさ。
僕が未来をレイプでもしてたら違った未来があったのかな。
なんてね。冗談だよ。
「……ははっ」
泣かないようにするのが、せいいっぱい。
BLかよ。キモッ、って――それこそ漫画によくある、モノローグの灰色の四角形のなかだけでそう吐き捨てるのが、せいいっぱいだった。
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